◆シリーズ:神のご計画と恵みの契約 |
「天地万物の創造の目的」 創世記1章1節~2章4節 |
Ⅰ.学びの目的(神のご計画と恵み契約) 今日から聖書全体の概略を、神の救いのご計画と恵みの契約という視点で学びを始めます。私たちは、聖書を丁寧に読み進めると共に、聖書全体の理解・神による救いの目的を理解することが必要です(参照:聖書全体を鳥観する神の永遠の計画)。 また同時に、神による救い・恵みの契約を意識して、ウェストミンスター信仰規準において語られている告白を確認しながら、学びを進めていこうと願っています。 Ⅱ.神による天地創造の御業 さて最初は、天地万物の創造です。まだ時間が動き出すことなく、何もない状態(無)であったと解釈されています。 そして、主なる神が「光あれ」と語られることにより、時間が動き始め、世界が動き始まります。主なる神は、6日にわたり、天地万物を創造され、最後に私たち人間を創造されました。 人間の発明がありますが、主なる神がすべてを創造されました。そして主は、ご自身が造られたものを見て「良しとされました」(4,12,21,25)。そして6日の最後に「それは極めて良かった」と語られます(31)(参照:ウェストミンスター信仰告白4:1)。主なる神は、単に思いつきで天地万物を創造されたのではなく、すばらしいものとして、また被造物、特に人が主の栄光を称えることにより、主ご自身が喜びに満たされるものとして、創造されました。 Ⅲ.主による創造と自然科学・進化論 しかし今、世では神抜きで世界が成り立っていったと教えられています。ビッグバンにより宇宙が始まり進化論が教えられています。神の存在と創造は、受け入れられません。しかしビッグバンも進化論も、人がその時代に行き、確認したことではなく、推論・推測の域を出ることはありません。 また主なる神は、聖書の御言葉を私たちにお与えくださいました。科学のない時代に記され、論証する価値すらないと思われていますが、主は私たちの信仰にとって必要なことを御言葉によりお教えくださいました。そのため創造は、キリストの処女降誕や復活同様に、信仰によらなければ、受け入れ・信じることができません。 キリスト者であっても、解釈が異なることがあります。その一つは、6日間における創造の一日の期間に関してです。 つまり創造の6日間は、現在の一日、つまり24時間であると解釈する牧師・神学者もいます。しかし私はそうは考えません。 黙示録における数字はどれも象徴的な数字であり、時間の概念においても象徴的に解釈します。創造の6日間も同じだと、私は思います。 一日・一年という期間は、私たちの生活に密着した時間ですが、一週間も同様です。主の日、主なる神と出会い、主を礼拝し、世に遣わされ、家庭・働きの場・学びの場に遣わされます。しかし7日後に、教会に戻ってきて主を礼拝します。7日毎に休息をとり、主を礼拝する。それが主の創造の秩序の中にあって、人間に求められています(2:2-3)。つまり、ここでの6日間は、一日24時間ではなく、ある程度の期間を示しているのだと思います。一日毎の順番・秩序が指し示されており、それを逆転することは、許されません。 このように解釈することにより、進化論も、全面否定する必要もなくなり、自然科学における研究を一刀両断で切り捨てるようなこともする必要はないかと思います。 Ⅳ.創造の目的と方向性 私たちは、主なる神が天地万物を創造された目的を確認する必要があります。主なる神は、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と語られています(26)。 主は唯一の神ですが、「我々」と語られ、御父・御子・御霊の豊かな交わりにある三位一体の主なる神であると語られます。 主なる神は、時間を創造し支配しておられます。永遠から永遠に生きておられます。この主なる神に似せて人を造られたのは、人は生きる者・死ぬことのない者として創造されたということです。 ですから主が創造された目的は、人により、天地万物が治められ、主との交わりを持ち、主を礼拝するためです(ウ小教理問1)。 問1 人間の主要な目的は何ですか。 答 人間の主要な目的は、神の栄光をたたえ、永遠に神を喜ぶことです。 ですから天地万物の創造の御言葉を読むとき、単に過去の出来事として読むのではなく、聖書の全体、そして神の国の完成を覚えつつ、創造の目的を意識して読むことが求められています。 |
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「人間の創造と神との交わり」 創世記1章26節~2章25節、 ウェストミンスター信仰告白4:2、7:1,2 |
Ⅰ.神による人間の創造 創世記は人間の創造を1章と2章で語ります。1章では人間は神の被造物であること、同時に被造物として特別な存在として人間が創造されたことが語られています。 それに対して、2章では、「その鼻に命の息を吹き入れられた」(7)が語られ、人間が神と共に、永遠に生きる者として創造されたことが記されています。 またウェストミンスター信仰告白は、人間の創造に関して、「神は……理性ある、不死の魂をもち、御自身のかたちに従って、知識と義と真の聖性を授けられた」と告白します。人間は、主なる神の知識・義・聖が与えられ善悪を正当に判断し、秩序を保つことができるものでした。つまり、罪を拒絶する能力を持つ者でした(参照:ウェストミンスター信仰告白4:2後半)。 Ⅱ.生命の契約 またウェストミンスター信仰告白 第7章 人間との神の契約についてでは、「1.神と被造物との間の隔たりは非常に大きいので、理性ある被造物は、かれらの創造者としての神に当然従順であるべきではあるが、神の側での何らかの自発的なへりくだりによるのでなければ、自分たちの幸いと報いの源として神を喜びとすることは決してできない」と告白します。 人は、何不自由なく、生きることができる条件に置かれていました(8-9)。そうした中、主なる神は人に命令されました。生命の契約とも呼ばれる行いの契約(同信仰告白7:2)です(15-17)。「善悪の知識の木の実から取って食べてはならない」との命令です。 人が罪を犯すことができるように人を創造された主なる神に対する批判が語られることがあります。しかし人間は神からの知識・義・聖が与えられていたわけで、人間が自由に罪を選び取ったことに対する批判がおこなわれるべきであり、主なる神に対して批判が行われてはなりません。 Ⅲ.人の被造物の統治と結婚 そして、主なる神は、最初の人に対して助け手をお与えくださろうとします。しかし人は、主がお造りになられたすべてのものに名前を付け、統治しますが、助け手を見つけることができませんでした(18-20)。 つまり、主が人に与えられたすべてのものは、神のかたちに創造された人間にとって、同等に助け合うことができる存在ではありませんでした。支配・統治の関係にあります。 そうした中、主がお与えくださったのが女です(21-23)。 これは男性が上で、女性が仕える者ということで長年理解され、また男尊女卑の原因でもあったと言って良いかも知れません。 しかし、これは賜物の違いであり、互いに持っている能力に違いがあります。そのため互いに助け合うことが求められているのです。ある程度、男性に特有の能力、女性に特有の能力がありますが、しかしオーバーラップもあり、一律に「男性だから」・「女性だから」と語ることには注意しなければなりません。 ここで、近年叫ばれているLGBTQ(性的少数者)に関しても、少し言及しなければなりません。 L:レズビアン(女性同性愛者)、 G:ゲイ(男性同性愛者)、 B:バイセクシャル:両性愛者、 T:トランスジェンダー 教会はどのように対応すべきか、考えなければなりません。今までキリスト教会では、こうした人たちは、異常者である、あるいは罪深い者であるとされてきました。 しかし、近年、こうした人たちも病気において発生していることも研究されてきており、無視することはできません。 つまり、主なる神によって創造された男と女においては、極めて良かったのです。しかし人が罪を犯し、罪が混入してきました。その結果、病気・身体障害者・精神障害者、そして性的な障害者が生じているのです。キリスト教会は、差別を是正し、少数者を受け入れることを行ってきています。 ですから慎重でなければなりませんが、こうした性的少数者を、身体・精神障害者を受け入れてきたように、教会は受け入れなければなりません。その上で、実際的な事柄に対処することが求められます。 最初の人、男と女が主なる神によって創造されたのは、「極めて良いもの」として創造されたのであり、男女の関係・性的少数者・差別等は、人間に罪が混入した後に生じた出来事であり、神による人間の創造の所に、こうした問題を持ち込んではなりません。そして主なる神による救いが示された私たちは、この創造の秩序を回復することを、日々行っていくことが求められているのだと思います。 |
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「最初の罪と堕落、そして神の救いの契約」 創世記2章15節~17節、3章1~19節 ウェストミンスター信仰告白6:1-3、7:3 |
序.極めて良い者として造られた人間 主なる神の御計画に基づいて、天地万物が極めて良いものとして創造され、そして人間も、神をかたどり、神に似せて、命の息吹が吹き入れられることにより造られました。それは神と共に交わり生きる者であり、被造物を治めることが目的とされました。ウェストミンスター小教理問1です。 このことは、人間においても、永遠に生きる者として、神の義・聖・真実を受け継ぐ者として造られていました。 Ⅰ.罪を犯した人間 そのため、主なる神は人を信頼し、一つの約束を結ばれました。生命の契約です(創世記2:16-17)。人は、主との約束を守ることは可能でした。 しかし蛇の誘惑により、最初に女が、そして男も罪を犯します(6)。その結果、二人の目は開け(7)、「かれらは、かれらの原義と、神との交わりから堕落し、かくして罪のうちに死に、魂と肉体のすべての機能と部分が、全面的に汚れたものとな」りました(ウェストミンスター信仰告白6:2)。 つまり素晴らしい者として主なる神によって創造された人が、不完全な者として生まれるのは、この最初の罪が原因です。病気も、肉体的・精神的な障害も、性的少数者も、主が創造された状態にはなく、人が罪を犯した結果、生じています。 そして人は、肉の死を免れることができなくなりました。そして、この罪に汚れた目は、主なる神によって、新たに開かれなければ、罪の世界に生き、死にゆく者とされました(ウェストミンスター信仰告白6:3)。 Ⅱ.罪に目が開かれた人間 罪の目が開かれた人間は、主により信仰の目が開かれなければ、主と共に生きることはできません(ルカ24:31、24:45)。 Ⅲ.神の愛としての原福音 そしてこの堕落の直後に、主の愛が示されます。主は、人を罪の故に死にゆく者、滅び行くままにしておくことはありません。生命の契約は人の罪により破棄されましたが、新たな契約を結んでくださいます。それが原福音(3:15)であり、恵みの契約です。 「お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に わたしは敵意を置く。 彼はお前の頭を砕き お前は彼のかかとを砕く。」(3:15) ここで突然「彼」が出てきます(参照:49:9)。旧約聖書において、突然「彼」が出てきたとき、キリストを指し示すことがあります。 サタンの使いであるユダヤ人は、キリストを十字架に架け、処刑します。しかし、キリストにとっては「かかとが砕かれた」程度の軽傷です。しかしキリストは死から甦り、再臨されるとき、サタンである蛇を滅ぼします。それが蛇の頭を砕くということです。 主なる神は、人間を愛しておられます。そのため人間が主との約束を破り、罪を犯したにもかかわらず、罪を赦し、救いへと導いて下さいました。それが、この原福音において語られています。 Ⅳ.恵みの契約は現在にまで継がれている ここで与えられた原福音は、生命の契約に代わる恵みの契約として、ノア・アブラハム・モーセ・ダビデにより更新され、キリストにより完成されます。そして今に生きる私たちも、この恵みの契約の下、神の民として生きることが良しとされています。 主なる神はキリストにより、罪の贖いを成し遂げ、キリストが死から勝利を遂げて復活されることにより、キリストにつながるあなたも罪が贖われ、救われることを約束してくださいました。 つまり、主が提示してくださった救いを受け入れ、信じるとき、主はキリストの十字架により罪を贖い、神の子として、永遠の生命を約束してくださいます。 ですから今に生きる私たちは、主が御言葉によりお示し下さった罪の贖いと救いを受け入れ、信じることです。 しかし私たちは今、地上の歩みの中、なおも罪の中に生き、罪赦された罪人として、苦しみを享受しています。それは「女は産みの苦しみを負い、人は労働の苦しみを負うこととなった」結果です(16-19)。 これらは死にゆく者にとっては空しいものですが、主により救いへと招かれている者にとっては、苦しみから解放された神の国が約束されています。 だからこそ、私たちは今なお様々な苦しみを担って生きていますが、なおも主により恵みの契約に入れられている者として、感謝と喜びをもって、主を信じ、主の御声に聴き従ってゆく者でありたいものです。 |
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「ノアの洪水による滅びと神の恵み」 創世記6章~9章 ウェストミンスター信仰告白6:6、3:4、7:4 |
序. 主なる神は、天地創造の最後に、神にかたどり、神に似せて命の息吹を入れることで人を造られました(1:26-27、2:7)。 しかし人は主との約束を破り罪を犯しました(2:17-18 命の契約、3:6 全的堕落)。罪の結果は死であり、彼らから生まれ来るすべての人が、生まれながらにして、そして日々、主の御前に罪を犯す者となりました。 それでも主なる神は人を愛され、キリストにあってサタンを滅ぼし、罪を贖い、救う約束をお与えくださいました(3:15:原福音)。 Ⅰ.主の御支配と御力 主の恵みにより罪が贖われ、神の子とされることが約束された人でしたが、なおも罪の中に生き、すべての者が罪を繰り返します。主は、「地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められました」(6:6)。そのため、主はすべてを滅ぼすことを決断されます。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も」(7)。主は、義と聖において御支配され、すべてを滅ぼす御力をもっておられます。主の裁きには例外がありません。 旧約のイスラエルの民も、そして新約に生きる私たちキリスト者も、ここで、自らの罪を顧みることが求められます。私たちは、生まれながらにして持っている罪責をもって生まれ、日々、行いにおいて・言葉において・心の中で、罪を犯しています。 Ⅱ.主を信じる者 「しかし、ノアは主の好意を得た」(8)。なぜノアなのか聖書は語りません。主から与えられる一方的な恵みです(ウェストミンスター信仰告白3:4)。 しかし同時にノアは主を信じ、主からの命令に服従します(信仰義認)。ノアは主の命じられたとおり忠実に箱舟を造りました。 一方周囲の人たちは、ノアが箱舟を造っているにも関わらず、関心を示すことなく、今まで通りの生活を続け、丘の上で大きな舟を造るノアをあざけったりしていました。つまり彼らの死は、主の命令に聴き従わなかった彼ら自身の責任です(参照:ウェストミンスター信仰告白6:6)。 Ⅲ.恵みの契約の更新 「神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる」(9:1-2)。主なる神が天地創造のとき語られたこと(1:28)を再び語られます。すべての人と被造物は、ここから再興されます。 そして主は契約を結んでくださいます。「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる……」(9:9-10)。恵みの契約(3:15)が更新されました。 つまり、生命の契約(2:16-17)は、人が罪を犯すことにより破棄されましたが、恵みの契約は更新され、アブラハム・モーセ・ダビデにおいて更新され、継続され、約束のメシアであるイエス・キリストの来臨と十字架の御業により、有効とされます。 そしてこの恵みの契約は、現在に生きる私たちにも受け継がれ、御言葉により示されるイエス・キリストの十字架の御業を受け入れ、信じることが求められています。 Ⅳ.戦争・疫病・飢饉・自然災害と契約のしるしとしての虹 そして、私たちはもう一つ注目しなければなりません。「わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」(9:11)。 主なる神は、人が罪を繰り返すことに対して、地上に人を造ったことを後悔し心を痛められたように(6:6)、すべてを滅ぼし尽くしたい思いもあるかと思います。しかし、主なる神は、もう、そうしたことはしないと、宣言してくださいました。主がお与えくださった恵みあり、主は忍耐して、人が悔い改めるときを待っていてくださいます。 そして、それでもなお罪を繰り返す人に対して、戦争・疫病・飢饉・自然災害により主の御力を示して主による裁きを警告し、主の御前に罪を悔い改めて、主なる御言葉に聴くように求めておられます。特に地震や台風・自然災害に関しては、地球科学・気象学が発達し、メカニズムが分かってきましたが、それでもなお主なる神がすべてを支配しておられ、裁きを行う御力をもっておられることを警告として発しておられることを、私たちは忘れてはなりません。 同時に主は契約のしるしとして虹を与え、主の恵みが私たちに示されていることをお示しくださっています(9:12-16)。 |
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「バベルの塔と大バビロン」 創世記11章1~9節 ウェストミンスター信仰告白6:3、33:2 |
Ⅰ.原罪と罪の継承 最初の人アダムとエバが罪を犯すことにより、彼らから生まれるすべての人が、生まれながらに、そして日々の生活の中で、主なる神の御前に罪を犯す者となりました。主はアダムに対して、罪を悔い改め神を信じて生きることによる救いを約束してくださいました(原福音・創世記3:15)。 しかし罪がなくなることはなく、主なる神は、ノアの時代にすべてを滅ぼすために洪水を起こします。このときノアに対しては、箱舟を作るように命じ、ノアとその家族は、主の御声に聴き従い、箱舟を作り、洪水の中にあっても、助けられました。 Ⅱ.神の存在を否定するために用いられる科学技術 その後も、人間は神の御前に罪を繰り返します。罪の極みとして語られるのがバベルの塔の建設です。 「彼らは、『れんがを作り、それをよく焼こう』と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた」(3)。これは、彼ら自身が発明した産業の発展です。それらを神から与えられたものとして、感謝して用いることは、すばらしいことです。 しかしここに問題が生じます。高く・大きく建てることにより、自らの力を誇示したくなるのが人間の罪です。しかしそれだけに留まることはありません。「彼らは、『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう』と言った」(4)。 この思いは、自らが神に代わる存在になる思いが潜んでいます。 そもそも人間は、神にかたどり、神に似せて造られた存在です(創世記1:26)。人間が、神に代わり、創造主になることは不可能であり、すべてを支配することもできません。従って、人間が神に代わろうとした瞬間、人は死ばかりか、神からの裁きを避けて通ることができない存在となったのです。 主イエスは「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と語られました(マルコ3:28-29)。この聖霊を冒涜することこそが、神の存在を無視し、自らが神に成り代わろうとすることです。 Ⅲ.人間の罪とバベル 「主は降って」来られます(5)。 主なる神と人間の違い、空間的に無限・時間的に永遠・不変の神に対して、人間は、有限・時間的・変化する存在です。 神のこの憤りが、言葉の混乱によって示されます(6,7)。これは人間に対する神による大いなる警告です。 ノアの洪水によっても人の罪が代わらなかったように、このような神の御業があっても、人の罪は代わりません。言葉が混乱し、散らされることにより、国と国を分かつこととなり、国の中で民を支配する独裁者が出現します。さらに世界征服を行うために戦争を行う者たちが出現します。こうした人間の罪は、変わることはありません。全的に堕落しているからです。 Ⅳ.バビロンに勝利される主なる神 日本語では「バベル」と「バビロン」と区別されています。しかしヘブライ語では「バベル」と「バビロン」は同じ言葉です。 バビロンと言えば、南ユダ王国を滅ぼし、イスラエルを捕囚の民としたバビロン帝国のことを思い浮かべますが、聖書全体では、人が神に代わろうとした罪を犯し、神の裁きがもたらされるものの代表であり、バビロンはサタンそのものを指し示しています。 イザヤ書では、13~21章で周辺諸国に対して罪を指摘し、罪を悔い改めて、主なる神を信じるように語り続けます。このとき、13章においてバビロンについて語り、改めて最後の21章においてバビロンの陥落が語られています。21章はバビロン帝国のことですが、最初の13章で語るバビロンはサタンの象徴としての、創世記で語られているバベルとしてのバビロンです。ですからイザヤは、バビロンの滅びに対して、続く14章で神の民イスラエルの回復を預言します。 そしてヨハネの黙示録を見ると、18章で大バビロンが倒れ、滅亡することが語られていきます。このバビロンが滅びることにより、神の国で小羊の婚宴が行われ、神の御国の完成が語られていきます(19章以降)。 つまりバベルの塔の建設は、人間がサタンの支配の下、神に代わろうとする大きな罪が語られています。このことの影響・混乱が今の世界にも引き継がれています。キリストが再臨し、最後の審判が行われてバビロンが滅びなければ、この混乱が収束し、神の御国が完成することはありません。 |
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「アブラハムへの召しと恵みの契約」 創世記12章1~9節、15章 ウェストミンスター信仰告白10:1,2 |
序. 人がバベルの塔を建て、神に近づこう、神に成り代わろうとする思いが潜み始めることにより、主は彼らをさばき、互いに言葉の交流ができなくなりました。その結果、民族に分かれ、国が生じ、国内において権力争い、外国との間で戦争が起こります。これらが解決するためには大バビロンが滅びる最後の審判を待たなければなりません。 Ⅰ.祝福=救いが与えられるアブラハム 主なる神は、そうした中にあっても、人間を救うために動いてくださいます。それがアブラハムへの召しです。 主なる神はノアの時同様にアブラハムに直接、声をかけられます。「御自分が命に予定している者たちすべてを、そしてかれらだけを、神は、御自分が定めた、ふさわしいときに、かれの言葉と霊により、かれらが生まれながらにしてその中にある罪と死の状態から、イエス・キリストによる恵みと救いへと、有効に召命することをよしとされる」(ウェストミンスター信仰告白10:1)。 主はアブラムに声をかけられます(12:1,2)。アブラハムは主の言葉に従って旅立ち(4)、主を礼拝します(7,8)。「すなわち、神は、〔第一に〕御自身に関する事柄を霊的に、かつ、救いに役立つように理解できるよう、かれらの知性を照らし、また〔第二に〕かれらの石の心を取り去って、かれらに肉の心を与え、さらに〔第三に〕かれらの意志を新たにし、その全能の力によって、かれらを善なることへと向かわせ、かくしてかれらをイエス・キリストへと有効に引き寄せられる」(信仰告白10:1)。 Ⅱ.祝福の約束 このとき、主なる神はアブラハムに対して、祝福を約束してくださいました。ここでは具体的なことはなく、アブラハムを大いなる国民にすること(①子孫の繁栄、②約束の地が与えられる)が約束されただけでした。 主は改めて声をかけてくださいます(15:1)。 このときアブラハムはロトとも別れ(13章)、 家を継ぐ者がいませんでした(15:2)。アブラハムは、自らに子どもが生まれることなど予想ができませんでした。 しかし主はアブラハムに「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」(4)と語り、あなたの子孫は星のように増えることを約束してくださいました(5)。アブラハムは具体的なことは分からないけれども、主なる神を信じ、主の御声に聴き従う者とされました(6)。 このことは100歳のアブラハムにイサクが与えられることにより実現します。 信仰とは、具体的なことが示されて理解することにより信じるのではなく、むしろ、具体的なことが示されていない中、主がお語りくださる御言葉を受け入れ、信じて行動することです。 主はアブラハムに嗣業の地を約束してくださいます(15:12-16)。しかしこのことは、ヤコブの時代にエジプトに下ってから400年間、エジプトで寄留し、奴隷として仕えた後、モーセにより開放されて出エジプトを果たし、ヨシュアにより約束の地に帰還することによりようやく実現します。 Ⅲ.恵みの契約における信仰の位置づけ アブラハムにより恵みの契約が更新され、主からの祝福が約束されるのですが、大切なことは、主が賜る御言葉を信じる信仰にあります。 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」(ヘブライ11:1,2)。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」(同11:6)。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。…ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです」(同11:13-16)。 恵みの契約は神から与えられる恵みを受け取る信仰で、一方通行です。神との取引として、人間の側で条件を出し成立するものではありません。「イエス・キリストに対する信仰とは、それによってわたしたちが、救いのために、福音において私たちに提供されているままに、キリストのみを受け入れ、彼にのみ依り頼む、そのような救いに導く恵みの賜物です」(ウ小教理問86)。 信仰とは、主から与えられる救い・祝福を信じ・受け入れること、それが実現するまですべてを主に委ねて生きることです。 |
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「恵みの契約と割礼」 創世記17章 ウェストミンスター信仰告白27:1,5 |
序. 主なる神は、アブラハムを召し出してくださり、祝福をお与えくださいましたが、最初に主から召しを受けたとき(75歳、12:4)から、すでに24年が経ち、アブラハムは99歳となっています(1)。その間にアブラハムはハガルによりイシュマエルが生まれ、すでに13歳となっています(25)。 Ⅰ.主が人と結んでくださる恵みの契約 主の約束は、時に実現するために時間を要し、約束を待つ者にとって忍耐が求められます。 主なる神は改めてアブラハムに現れ、お語りになります(1~2)。ここで主は、この約束は契約であることを繰り返し語ります。 通常、契約は双方の同意で締結されます。しかし聖書が語る契約は、主なる神が私たち人間に対して一方的にお与えくださる恵みです。改革派教会では、「恵みの契約」と語っています。そしてこの恵みの契約は、私たち人間の側で拒否しない限り、主からの恵みがて与えられます。 そして主なる神がお与えくださる契約は、永遠の契約です(7)。つまり、契約を結んでくださる主なる神は、この契約を変更することも破棄することもありません。 Ⅱ.信仰の父アブラハム また主なる神は、アブラムに「アブラハム」という名をお与えくださいます(5)。「アブラム」は「私の父は高められる」という名でしたが、「アブラハム」は、「多くの国民の父」のことであり(5)、「信仰の父」とも呼ばれています(参照:ローマ4章)。 さらに主なる神はアブラハムに対して、「王となる者たちがあなたから出る」とお語りくださいます(6)。ユダヤの王としてのダビデ、と共に王の王としての御子イエス・キリストが約束されています。 また主なる神は、この主の約束は、妻サラにより実現することをお語りくださいます(15-16)。アブラハムは、ハガルから生まれたイシュマエルが跡を継ぐと思っていました(18)。しかし主なる神は、「そうではないんだ」と語られます。100歳になるアブラハム、90歳になるサラから、約束の子が与えられ、その子孫により、祝福が実現していくことを約束してくださいます(19)。アブラハムは、この約束を信じ、受け入れたことから、信仰の父と呼ばれるようになるのです。 「主なる神を信じる」と語るとき、それは主なる神が全知全能の神であり、不可能なことは何もないお方であることを受け入れることです。つまり私たちが主なる神を、人間の常識の中に主なる入れてしまうと、神の奇跡を疑うこととなります。つまり私たちは、主イエスの処女降誕や十字架の死からの復活、主イエスの奇跡・癒やしの御業を受け入れることが求められています。 Ⅲ.永遠の契約のしるしとしての割礼 このとき主なる神は、アブラハムとイスラエルに対して、永遠の契約のしるしとして、割礼をお与えくださいます(9-14)。 割礼は、出エジプト時に与えられる過越と共に、旧約における聖礼典であり、それが新約において、洗礼と主の晩餐へと引き継がれます(ウェストミンスター信仰告白27:5)。 つまり割礼は、主がお与えくださった恵みの契約のしるしであり、この契約は、主なる神の側から破棄されることはないことの証しです(同27:1)。 主なる神を信じている間、主なる神の御言葉に聴き従っている間は、恵みの契約は有効なわけで、黙示録で語られている額に神の刻印が押されているのであり、確実に神の国に入る祝福や約束されています。 これは、旧約においては割礼を受けない、つまり無割礼において、主なる神の命令に従わないことでは破棄されます(14)。つまり主なる神を信じ、主の御言葉に聴き従うかぎり契約は有効であり、契約が破棄され、滅びに定められることはありません。 Ⅳ.恵みの契約と信仰 イスラエルの民は、肉においてイスラエルであること、アブラハムの子孫であることを誇っています。しかし主は、家で生まれた奴隷・外国人から買い取った奴隷も、割礼を受けることを求められ、神の民として受け入れてくださいます(12~13)。 そしてこれらの礼典は、新約の時代になり、洗礼と主の晩餐に引き継がれます。 主なる神は、旧約のイスラエルの民も、そして新約に生きる私たちキリスト者も、主なる神を信じて信仰に生きるとき、御言葉の約束に生きるとき、恵みの契約を確実に実行し、私たちの罪を贖い、神の御国の祝福をお与えくださいます。 |
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「イサクの誕生と信仰」 創世記21:1~8、22:1~19 ウェストミンスター信仰告白3:5、14:1 |
序. 主なる神は、アブラハムを召し出してくださり、祝福をお与えくださいました。そして主はアブラハムから生まれる子に祝福が継承し、大いなる国民にすることを約束してくださいました。 Ⅰ.神の一つの約束が実現した:イサクの誕生 そして主なる神は、100歳のアブラハムと90歳のサラから息子イサクをお与えくださいました。人間的にいえば不可能なことであっても、主なる神は、主を信じる者に対して実現してくださいます(21:6,7、参照:ウェストミンスター信仰告白3:5)。 主なる神は、アブラハムに対して最初に語りかけてから25年かけて、ようやく一つの約束を現実にしてくださいました。しかし主なる神は、一つの約束の実現に対して、信じて行動すればそれで良しとされるお方ではなく、次の試練・約束を命じられます。イサクを生贄として献げることです(22:2)。 Ⅱ.相反する二つの約束・命令 アブラハムにとっては、主なる神から二つの命令が語られたこととなります。一つはサラから生まれる子が、祝福を受け継ぎ、大いなる国民になることです。そして今回、そのイサクを、主なる神に焼き尽くす献げ物として献げろという命令です。 人間的に考えるならば、どちらを優先すれば正しいのか、と考えます。 しかし信仰とは、私たちが神を信じることであると思われていますが、主なる神が恵みの賜物としてお与えくださるものです(参照:ウェストミンスター信仰告白14:1)。 ですから神さまがお語りになった御言葉に対して、自分で判断してはなりません。つまり主なる神が行えと言われたことを信じて行うことが求められます。結果は、主なる神が答え、つまり解決方法を準備してくださいます。 Ⅲ.主の御心ならば、道は備えられる! アブラハムは、主の命じられたこと、つまりイサクを生贄として献げるために、イサクを連れて山に登りました(22:3-6)。 イサクが 「焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」(7)と問うたことに対して、アブラハムは「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と答え、二人は一緒に歩いて行きました(8)。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとしました(10)。 つまりアブラハムは、主なる神が命じられたことを忠実に実行したのです。 このときもアブラハムは、結果がどのようになるかなど、予想することもできなかったことでしょう。それは最初の時に主から約束が与えられたこと、またサラから男の子が生まれると語られたことも、同じだったのではないでしょうか。 信仰とは、約束された結果がどのようになるのかを予想して行動することではありません。まったく主の約束の答えが分からないときにも、アブラハムは主を信じて、行動し続けました。 その結果、主なる神はアブラハムに、イサクに代わる生贄としての雄羊を用意してくださいました(11-13)。 このときのことをヘブライ書では、「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です」(ヘブライ11:17-18)と語ります。 私たちが神の民として生きるとき、主イエスとニコデモとの会話により、再生することが求めておられます(ヨハネ3:1-6)。 信仰とは、肉において生きることを捨て、神の霊によって生きること、神の御言葉に従って生きることが求められます。 ただ信仰に生きるときに一つ注意しなければならないことがあります。つまり、主なる神によって示された道だからと言って自分の思いを貫き通して、無謀を行ってはなりません。アブラハムに対して、主なる神は、イサクに代わる羊を備えてくださいました。本当に主のご計画に基づく道が備えられているならば、道が開かれ、必要が満たされていくのです。そうしたことなしに主の御心として自らの思いを計画し、それを押し通すことは、自我であり不信仰と言わざるを得ません。 私たちは、この違いをわきまえた上で、主の御心を求め続け、信仰に大胆に生きていくことが求められているのだと思います。 |
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「ヤコブの息子たち:イスラエル」 創世記29:31~30:24 ウェストミンスター信仰告白3:5、14:1 |
序. 主がアブラハムに祝福し大いなる国民になることを約束してくださったことは、ヤコブに12人の息子たちが生まれたことにより、大きく前進します。しかし、12人の子どもが生まれることは、非常に人間的であり人間の罪と欲望が露わになった結果です。そのことを確認して行きます。 Ⅰ.ヤコブに継がれた長子の権利・祝福とヤコブの実態 ヤコブは、兄エサウから長子の特権を譲り受け(創世記25:27-34)、父イサクからの祝福を奪い取りました(27章)。その結果ヤコブは兄エサウから逃亡することが強いられました。これは主がリベカに「兄が弟につかえるようになる」(25:23)と約束していたが実現するためでしたが、ヤコブ自身の罪・人間性が表れる行為でした。 そしてヤコブはエサウから逃げるため、伯父ラバンの所に身を寄せることとなります(29章)。ここでヤコブはラバンの娘ラケルを愛し、妻としようとしますが(29:15-30)、伯父ラバンは姉レアを妻に差し出します。そしてヤコブは、二人と結婚するために、14年間、ラバンに仕えることとなります。 Ⅱ.ヤコブの妻レアとラケル そうした最中、ヤコブと結婚をしたレアとラケルが互いに妬み合い、それぞれの女奴隷ジルパ(レア)、ビルハ(ラケル)も含めて、子どもを求める競争のようになります。 ①ルベン(レア)「主はわたしの苦しみを顧みて(ラア)くださった。これからは夫もわたしを愛してくれるにちがいない」(29:32)。 ②シメオン(レア)「主はわたしが疎んじられていることに耳にされ(シャマ)、またこの子をも授けてくださった」(29:33)。 ③レビ(レア)「これからはきっと、夫はわたしに結び付いて(ラベ)くれるだろう。夫のために三人も男の子を産んだのだから」(29:34)。 ④ユダ(レア)「今度こそ主をほめたたえ(ヤダ)よう」(29:35)。 「ラケルは、ヤコブとの間に子供ができないことが分かると、姉をねたむようになり」(30:1)…「わたしの召し使いのビルハがいます。彼女のところに入ってください。彼女が子供を産み、わたしがその子を膝の上に迎えれば、彼女によってわたしも子供を持つことができます」と言った(3)。 ⑤ダン(ビルハ:ラケル)「わたしの訴えを神は正しくお裁き(ディン)になり、わたしの願いを聞き入れ男の子を与えてくださった」と言った(6)。 ⑥ナフタリ(ビルハ)「姉と死に物狂いの争いをして(ニフタル)、ついに勝った」(8)。 ⑦ガド(ジルパ:レア) レアも自分に子供ができなくなったのを知ると(9)、…レアの召し使いジルパはヤコブとの間に男の子を産んだ。「なんと幸運な(ガド)」(11)。 ⑧アシェル(ジルパ)「なんと幸せなこと(アシェル)か。娘たちはわたしを幸せ者と言うにちがいない」(13)。 ⑨イサカル(レア)「あなたはわたしのところに来なければなりません。わたしは、息子の恋なすびであなたを雇ったのですから。」その夜、ヤコブはレアと寝た。「わたしが召し使いを夫に与えたので、神はその報酬(サカル)をくださった」(16-18)。 ⑩ゼブルン(レア)「神がすばらしい贈り物をわたしにくださった。今度こそ、夫はわたしを尊敬してくれる(ザバル)でしょう」(20)。 ⑪ヨセフ(ラケル)「神がわたしの恥をすすいでくださった」、「主がわたしにもう一人男の子を加えてくださいますように(ヨセフ)」(24)。 ⑫ベニヤミン(ラケル)ラケルが最後の息を引き取ろうとするとき、その子をベン・オニ(わたしの苦しみの子)と名付けたが、父はこれをベニヤミン(幸いの子)と呼んだ。ラケルは死んで、エフラタに葬られた(35:18-19)。 Ⅲ.主からの一方的な恵みが与えられる レアとラケルには罪人の持つ執着心があり、主を信じ、主からの祝福に感謝をもって子どもが与えられたことを喜ぶ姿はここにはありません。しかし主なる神は、この12人を用いて、約束の民イスラエルを形成すること良しとしてくださいます。 そして主はヤコブに対して、アブラハムにお与えくださった祝福の約束を、改めてヤコブと結び、ヤコブにイスラエルという名をお与えくださいました(35:10-12)。 「神の全能の力と測り知れない知恵、かぎりない慈しみは、神の摂理の中に非常によく現れるので、…すべての罪にまで及んでいる。しかもそれは、単なる許容によるのではなく、許容すると同時に神が、罪を、御自身の清い目的に役立つように、種々の方法で、最も賢く、力強く制限し、さもなければ、秩序づけ、統治することによる。……」(ウェストミンスター信仰告白6:4)。 主がお与えくださる恵みと祝福は、ヤコブ自身によるものではなく、主なる神からの一方的な恵みであることが示されました。こうした神の恵みは、今に生きる私たちにも与えられています。主は約束を実現してくださいます。感謝と喜びを顧みつつ、同時に主の約束を信じて、日々、歩み続けることが求められています。 |
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「ヨセフとエジプトに下るイスラエル」 創世記37:18~20、45:1~13、46:1~7 ウェストミンスター信仰告白5:1、2 |
序.アブラハムへのもう一つの約束 主なる神は、アブラハムを召し出し、そしてイスラエルに祝福を約束してくださいました。そのことは、ヤコブに12人の子どもが与えられることにより、実現に一歩前進しますが、主はアブラハムにもう一つの約束を語っておられました(創世記15:13~21) 。イスラエルがエジプトに下ること、400年後に解放され、約束の地が与えられることでした。この約束の実現のために、イスラエルがエジプトに下ることとなりますが、ここに主なる神の大いなる御業があることを考えて行きたいと思います。 Ⅰ.ヨセフのエジプト下り ヨセフは兄弟たちに嫌われ、殺されそうになり、結果としてエジプトに売られることとなりました(37:18~20,28)。これは主の御計画であり、イスラエルがエジプトで受け入れられるための下備えでした。ヨセフはファラオに継ぐ首相に任じられ、これからやってくる7年間の大飢饉に備えるために、これからの7年間、食料を蓄えることが求められました(創世記41章)。 ヤコブ率いるイスラエルもまた、この大飢饉により、餓えの苦しみが強いられます。そのためにエジプトに下り、食料を施して頂こうとしたのです。ヨセフは、兄弟たちを見つけましたが、身分を明かすことなく、気が付かれることもありませんでした。 しかしいよいよヨセフ自身が抑えることができず、自らの身分を明らかにするときがきました(45章)。ヨセフは兄弟たちに自分のことを打ち明けます(45:3~8)。ヨセフは、「神がエジプトに遣わされた」ことを繰り返し語ります。ヨセフとしても、最初から、神がこのように導かれることを予想して、歩んできたとは言えないでしょう。兄弟たちに殺されそうになり、エジプトに売られました。ようやく主人に信頼を勝ち取って重用されだした途端に、主人の妻からの誘惑により囚われの身となりました。 しかし最後は、主がお与えくださった知恵である夢を解き明かすことにより、エジプト王ファラオに認められ、ファラオに継ぐ地位が与えられます。そしてこれからやってくる飢饉に対するすべての指示を与える立場に立ちました。ヨセフは、主による導きを次第に理解するようになってきたのではないでしょうか。 主の大いなるご計画が実現するとき、私たちにとって偶然と思われるようなことも主の導きとして現れます(ウ信仰告白5:1,2)。 私たちの日々の生活も、主なる神の貴いご計画の中にあります。今に生きる私たちにとって、「なぜ」と思われることの連続です。それでもなお、過去のことを振り返ると、たしかに主の導きがあったことを受け入れることがあるかと思います。私たちの日々の生活も、主なる神の御計画と無関係に進むことはありません。だからこそ私たちは、どのようなときにも、主なる神が共におられ導いてくださっていること、主なる神の御業が明らかになることを信じ、主に委ねて祈る生活が求められています。 Ⅱ.エジプトに下るイスラエル ヨセフと再会した兄弟たちは、カナンに帰り、父ヤコブに報告します(45:25~28)。父ヤコブにとっては、考えてもみたことのない報告を受けました。息子ヨセフが生きていること、ヨセフがエジプトでファラオの右腕として、飢饉の対応のために統治していることです。ヤコブは、なんとか事実を受け入れようとします。 しかし現実には、ヤコブがすぐにエジプトに下ることができるかと言えば、なかなか決断を下すことはできなかったはずです。心が揺れ、そしてカナンから離れることに躊躇もあったかと思います。しかしヤコブもまたエジプトに下る決断をしなければなりません。ヤコブたちが旅立ちベエル・シェバに着いたとき、主がヤコブに現れ、声をかけてくださいました(46:2-4)。その結果ヤコブは、主なる神のご計画が現れたことであることを理解し、納得してエジプトに下ることができました。 エジプトに下ったイスラエルは総勢70名でした(46:8-27)。その後イスラエルはエジプトに留まることとなり、虐げを受けることとなりました。しかし400年後に、主なる神はモーセをお立てくださり、イスラエルはエジプトを脱出することとなります。このとき壮年男子だけでおよそ60万人でした(出エジプト12:37)。 主なる神は、約束されたことを成し遂げてくださいます。それと共に、主なる神は常にイスラエルと共におられ、今、私たちと共にいて働き続けてくださっています。 |
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「エジプトにおけるイスラエルとモーセの召命」 出エジプト記3章 ウェストミンスター信仰告白5:5、7 |
序. イスラエルは、ヤコブの時代に一家70名をもってエジプトに下りました(1:1-5)。そしてイスラエルの人々はおびただしく数を増します(6-7)。主がアブラハムにお語りくださった約束が実現したのです(創世記15:5)。 Ⅰ.エジプトにおけるイスラエル しかしこのことは同時に、エジプトにおけるイスラエルの地位を揺らすこととなります。エジプトにおいても、ファラオにおいてもイスラエルが恐怖の対象となったからです(8-10)。そのためイスラエルの民は、エジプトにおいて奴隷と化せられます。 このことは同時に、イスラエルがエジプトが定住の場所ではなく、主の約束の地カナンに帰還するきっかけともなります。つまりエジプト王ファラオがいらだちを持ち、イスラエルを奴隷化し、さらに重労働を強いた結果、イスラエルの民も我慢の限界が来て、主がお立てくださるモーセの指導の下、一致してエジプトを脱出する行動に出ることができたのです。 Ⅱ.モーセの誕生とミディアン移住 このときファラオはもう一つの大きな罪を犯します。助産師に対して、男の子が生まれたならば殺すように命じ(16)、すべての民に男の子は一人残らずナイル川に投げ込んで殺すことを命じたのです(22)。 そうした中レビの家において、一人の男の子モーセが誕生します(2::1~3)。モーセの家族はモーセが生きながらえるために手を尽くします。その結果ファラオの王女に助けられ、王子として育てられました(4-10)。このことは主なる神の大いなるご計画の中にモーセが置かれ、帝王学を学ぶことにより、イスラエルの指導者としての教育を身につけることができたのです。 その後、成長してイスラエルであることを自覚したモーセは、同胞であるヘブライ人の一人が打たれているのを見て、そのエジプト人を殺します(11-13)。しかしそのことが知れ渡り、モーセはファラオからも逃げなければならなくなり、ミディアンにたどり着きます(15)。 Ⅲ.モーセに現れてくださる主なる神 ミディアンの程近くに神の山ホレブ(「乾いた地」の意味)がありました(3:1)。聖書では後に出てくる「シナイ山」と同義語として用いられています。シナイ山では、後に十戒が授けられるのであり、主がモーセをミディアンに遣わされた意図は、こうしたところにあると考えられます。 モーセは燃える柴を見つけます。「そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。『道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう』」(3:2-3)。 モーセが見つけたのですが、主なる神が共にいてくださり、モーセがそれを見つけることができるようにして下さったのです。このことは、私たちの信仰・日々の生活においても起こることです。私たちが教会に行くことは、私たちの自発的な行為です。しかしここに主の聖霊の働きがあり、私たちがそうした思いになるように主が導いて下さっているのです。 そして主なる神が、モーセに声をかけて下さいます(4-6)。すべてをご計画されている主なる神が、モーセに会って下さいます。 Ⅳ.主なる神の御計画とモーセ 主は、神の御計画をモーセに説明します(7-10)。このときモーセは「わたしは何者でしょう」(11)と答えます。「なぜ私なの?」との率直な問いかけです。主はモーセを主の働き人として用いるために、エジプトにおける教育を受けさせ、また神の山ホレブにお招きくださいました。 主はモーセに語られます。「わたしは必ずあなたと共にいる」(12)。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(14)。「ある」とは現在形です。つまり主なる神は、過去においておられ、今おられ、未来においてもおられるということです。つまり、主なる神は不変なお方として永遠から永遠に存在されるお方です。 私たちが主なる神を信じるように導かれるときも同様です。主の働き人として召しを受ける時も同様です。主なる神がどのようなお方であるか示されます。キリストの十字架の御業は完成しました。そして私たちに神の御国が約束されています。 主なる神が、どのようなお方であるかを、私たちが知るとき、私たちの信仰は確かなものとなり、揺るぎない主なる神への信頼をもって、日々、信仰生活を歩むことができるようにされていきます。 |
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「主による奇跡」 出エジプト記6~11章 ウェストミンスター大教理問7、信仰告白33:2 |
序. この祈祷会では、神のご計画に基づく恵みにより、神の民の救いの約束が実現していくことを、学び続けています。しかしこのことは同時に、結果として神による救いに与ることのない者たちの裁きが示されることでもあります。今日は、主なる神の奇跡の御業をとおして、エジプト王ファラオの罪が明らかにされていくことを、共に確認していこうと思います。 Ⅰ.モーセの使命を与える主なる神 主なる神は、アブラハムに約束されたように(創世記15:13-14)、イスラエルを400年にわたって捕らわれ人、奴隷としてエジプトで虐げを受けるようにされました。そしてこの虐げからイスラエルを救う者として主はモーセをお立てくださいました。 主はモーセに対して使命を語られます(出エジプト6:1-13)。 「わたしはある。わたしはあるという者だ」(3:14)と語られたお方が、主なる神、アブラハム・イサク・ヤコブの神、全能の神であることをお示しくださいました。イスラエルの民は、主なる神を知っていましたが、400年にわたり苦しみ、主が共にいて助けてくださる神であることを信じることができなくなっていたため、永遠から永遠に生きておられ、イスラエルを救いに導く神であることを、お語りになったのです。 また主なる神は、主がイスラエルに契約を立て、救い出すことを約束されていたことを再確認し、主なる神がイスラエルを奴隷の状態から救い出し、約束の地へと導くことを約束してくださいます。 Ⅱ.かたくな、頑迷なファラオ 主なる神はイスラエルを救うために、エジプト王ファラオを用いられます。主は、イスラエルの民を主の恵みにより救ってくださいますが、その結果、主に従わない民が裁かれることを明らかにされます。 神を知らない人々は、彼らの裁きについて、「神の責任」にしようとします。しかし聖書は、神を信じない人々の裁きは、彼ら自身の行いの結果であることを明らかにします。それがファラオにおいて顕著に語られていきます。 主は、モーセにエジプトにおいてファラオと対面するにあたり、ファラオがかたくなになることを語られます(7:1-5)。つまり、ファラオが主による裁きを免れ得ないのは、この「かたくなさ」のゆえです。そして聖書はファラオがかたくなであり・心を頑迷にしていることを繰り返し語ります (7:13、①7:22、②8:11、③8:15、④8:23、⑤9:7、⑥9:11-12、⑦9:34-35、⑧10:1-2、10:20、⑨10:27、⑩11:10)。 つまり、イスラエルの民の救いは、主なる神の一方的な恵みが示されるのですが、ファラオの裁きは、主の奇跡が示され、主の御力が示されても、主なる神を受け入れることをせず、主なる神を信じようとしなかったファラオ自身の罪の結果であることを、聖書は語ります。 このことは、イスラエルの人たちが、主イエスの十字架の死からの復活を認めないこと、聖霊降臨のとき、主イエスの弟子たちに力が与えられ福音を伝えているにもかかわらず、あざける者たちがいたことと、同じです。 Ⅲ.罪人の悔い改めを待っていてくださる主なる神 旧約聖書では主による裁きが語られています。また聖戦として、イスラエルが戦い、異邦人を滅ぼすことが求められています。 これは新約に生きる現代ではあり得ないことです。つまり旧約聖書において、主によりファラオが裁かれたり、イスラエルに異邦人を滅ぼすことが命令されたりするのは、主ご自身が行っている行為です。主は彼らが悔い改めないことをご存じであり、結果として最後の審判においても罪に定められ、滅びることを知っておられます。つまり旧約聖書で語られる主による裁きやイスラエルの聖戦は、最後の審判で行われる審判が前もって行われていることを理解しなければなりません。 しかし新約の現代、主の直接的な裁きは行われません。私たちは最後の審判に委ねることが求められています。なぜならば、主なる神は、罪を犯し続ける者・まだ教会に集められていない一人ひとりに、罪を悔い改め、主なる神を信じるようにと、忍耐して待っていてくださるからです。 主により救いが与えられたキリスト者は、この自我の内にあるかたくなさ、頑迷さを主により打ち砕いて頂き、肉の心が与えられて主なる神を信じ、主の御前に遜りと謙遜に生きることが求められています。 |
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「主の過越」 出エジプト記12章 ウェストミンスター大教理問162、172 |
序. 主によって立てられたモーセは、ファラオの前で奇跡を行って来ましたが、ファラオは頑ななままでした。そしていよいよ最後の災い、つまりエジプトにおけるすべての初子が殺されることとなります。 Ⅰ.過越の食事によって始まること 主はこの最後の奇跡を行う前に、イスラエルに大きく二つのことを語られます。一つ目は主の裁きがイスラエルに及ばないようにするために、小羊を屠り、その血を家の入り口の二本の柱と鴨居に塗ることです。これは、イスラエルの罪が贖われ、罪の刑罰が及ばないようにするために必要なことでした。 このとき屠った小羊を家族ですべて食べ、酵母を取り除いたパンを食べることが求められます。これらはエジプトを脱出する準備であったとも言えます。 イスラエルの人たちの苦しみ・祈りを、黙ったまま何もしない神ではありません。主は生きておられ、苦しみの中にあるイスラエルの人たちを思いやり、奴隷から解放して下さいます。 そして400年前にアブラハムに語られた約束を実行してくださいました。このことは、現在に生きる私たちにとっても慰めです。主イエスの十字架の死と復活から2000年が経ちました。キリストは再臨され、キリスト者を神の国へと導く約束をお与えくださいました。私たちキリスト者は、疑うことなく、希望をもって日々歩み続けることが求められています。 Ⅱ.過越祭の規程 また主なる神は、出エジプトの出来事をイスラエルの人たちが語り続け、覚え続けるように求めて、過越祭を規程されました(12:24-27)。人は安住の地が与えられることにより、主からの恵みを忘れてしまいます。 イスラエルの民は、カナンに定住することにより、主から与えられた救いの恵みを忘れ、主なる神そのものを忘れ、偶像崇拝と生活の乱れ、武力に頼る生活をします。 イスラエルが過越祭を守ることが重要なのは、主がエジプトを彼らの罪・頑なさ故に裁かれたのに対して、イスラエルは罪が贖われ、救い出されたことを覚えることでした。新約に生きる私たちはこの事実を理解し、受け入れることが求められています。 Ⅲ.聖礼典を覚えて つまり主なる神は、すでに与えられていた割礼の規程(創世記17章)と共に過越を定めて、守るように命じておられます。旧約の時代における割礼と過越は、新約の時代になり洗礼と主の晩餐に引き継がれ、主から定められた聖礼典として、私たちは覚えています。 ウェストミンスター大教理問答 問162 聖礼典とは、何ですか。 答 聖礼典とは、以下の目的のために、キリストによってかれの教会の中に制定された聖なる規定です。すなわち、〔第一に〕恵みの契約の中にある人々に対して、キリストの仲介によるさまざまな益を意味し、証印し、提供するため、〔第二に〕かれらの信仰、および他のすべての恵みの賜物を強め、増し加えるため、〔第三に〕かれらを従順にいたらせるため、〔第四に〕かれら相互の愛と交わりを証しし、はぐくむため、そして〔第五に〕かれらを外部の人々から区別するため、です。 主なる神は、私たちに救いの契約書を準備してくださいます。この契約書に、主が証書を張り、割印を押してサインをする、それが契約書が有効となる洗礼です。この契約書は、主なる神が私たちにお与えくださった恵みであり、最後の審判が到来し、神の国が完成するまで有効です。 Ⅳ.今に生きる私たちへの語りかけ 主を礼拝し、主の晩餐に与ることが形式化・儀式化することによりマンネリとなり、本質が失われます。そのために御言葉の解き証しである説教が十分に行われ、理解された上で主の晩餐に臨むことが必要です。 今、教会が弱体化しています。それは主の恵みである礼拝・主の晩餐に与ることが感謝なことであり、喜びであることが十分に伝えられることなく、受ける側が律法主義的に聞いてきた結果ではないでしょうか。 繰り返し教えることは大切なことです。しかし、ここにある恵みがはっきりと示され、覚えられなければ、受け取る側には律法主義と捉えられます。 主がお与えくださった恵みがどれだけ私たちにとって喜びに満ちたものであるかを一人ひとりが顧み、感謝と喜びをもって、信仰生活を送ることが求められています(参照:ウェストミンスター大教理問171)。 |
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「マナ ー 主にすべてを委ねて歩む」 出エジプト記16章 ウェストミンスター小教理問104、60 |
Ⅰ.過去の恵みを忘れ、不平を語るイスラエル 主なる神は、モーセにより、イスラエルをエジプトから解放してくださいました。 エジプトを脱出したイスラエルの民は、エジプトにおいて、主がモーセをとおして奇跡を行うことにより、エジプト王ファラオが裁かれ、イスラエルの民が救い出されてきたことをつぶさに見てきました。またエジプトを出発したイスラエルの民は、昼間は雲の柱、夜は火の柱をもって主が導いてくださいました(13:21-22)。さらに葦の海における奇跡も体験してきました(14章)。 そうした中、イスラエルの民は、エジプトを脱出して、約束の地に向かっています。 しかしエジプトを出発してわずか一ヶ月で(16:1,12:2,18)、不平を語り始めます(16:3)。 人間の本質がここに表れています。イスラエルは奴隷から解放されました。そして今、神が奇跡を行うことにより、御力を持っておられることが示されました。にもかかわらず、イスラエルの民は目の前の苦難に脅え、そして不平を語り始めます。目の前の不満に対して不平を語り、忍耐することを知りません。彼らはマナが与えられた直後も飲み水に対して不平を語ることとなります(17章)。 人間は、神から与えられた恵みはすぐに忘れてしまいます。にもかかわらず、目の前にある不満に対して不平を語る存在です。目の前に与えられている恵みを数え上げることができません。たとえ周囲の人々から羨ましがられる生活を行っていたとしても、満足することはありません。地位が与えられていたとしても、権力が与えられていたとしても、同様です。一国の元首となっても、隣の国が欲しくなり、戦争をします。 私たちは、自分に欠けていることを嘆き、不平を語るのではなく、与えられている恵みに感謝して、喜びをもって生きることが求められているのではないでしょうか。 Ⅱ.毎日、養ってくださる主なる神 不平を語るイスラエルの民に対して、主なる神は、イスラエルの民を養うために、夕方にはうずらを、そして朝にはマナをお与えくださいます(13,14)。主なる神は、イスラエルの民一人ひとりに対して、必要な量を、毎日お与えくださいます。そして「イスラエルの人々は、人の住んでいる土地に着くまで四十年にわたってこのマナを食べた。すなわち、カナン地方の境に到着するまで彼らはこのマナを食べ」ます(35)。 誰でも、先のことには不安があります。しかし、主なる神は生きて働いてくださいます。そしていつでも私たちの必要を満たしてくださいます。そして主なる神は、私たちをいつでも養い導いてくださいます。だからこそ、このお方を信じること、すべてを委ねることが大切です。 だからこそ私たちは、日々の糧を主に委ねて主の祈りを祈ります。そして与えられた恵みに、感謝をもって生きるのです。 問104 第四の祈願でわたしたちは、何を祈り求めるのですか。 答 第四の祈願、すなわち「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」でわたしたちは、神の無償の賜物の中からわたしたちが、この世の良きものをふさわしい分だけ受け、それらをもって神の祝福を喜ぶことができるように、と祈ります(ウェストミンスター小教理問104)。 Ⅲ.主を信じて生きる このことは、明日のことを思い悩むことなく、主の恵みに生きるようにと語る主イエスの言葉につながります(マタイ6:25-34)。 またパウロは次のように語ります。「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(Ⅰコリント10:31)。 今ある食べるもの、飲むものは、神さまがお与えくださった恵みです。だからこそ、そのことに感謝しつつ、主の栄光を称えて、証しの生活を送ることとなるのです。 Ⅳ.主の恵みを数え上げて、主を礼拝する 最後に安息日に付いて確認したいと思います。週の第七日目、安息日には、マナを集める必要はなく、前日に二日分を集めれば良いとお語りくださいます。「これは、主が仰せられたことである。明日は休息の日、主の聖なる安息日である」(23)。 安息日、主イエスの十字架以降は、週の最初の日である日曜日に移行しましたが、週に一度、主なる神を覚えて、休息する日、安息日として備えられています。主なる神を覚え、神の恵みを確認して、救いの喜びに入れられていることを確認することが求められています。週に一度、神さまの御前に集まらなければ、主の恵みを忘れるからです(ウェストミンスター小教理問60)。 主なる神が、私たちを養い、導いてくださいます。主を信じ、主にすべてを委ねて、祈りの生活を続けることが求められています。 |
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「十戒 ー 救いへの感謝な生活」 出エジプト記20章 ウェストミンスター大教理問102、152 |
Ⅰ.恵みの契約の民に与えられた律法 十戒を、恵みの契約の中における位置づけを考えつつ確認します。つまり、アブラハムに対する恵みの契約があり、主はイスラエルの民を大いなる国民にすると同時に、奴隷から救い出してくださいました。このときに、主は律法としての十戒をお授けくださいました。そのため十戒を学ぶにあたって序文(20:2)を確認することが何よりも大切です。序文を確認しなければ「~ねばならない」ことから律法主義に陥ってしまいます(ウェストミンスター大教理問101)。 主なる神が主権を持っておられ、イスラエルを奴隷から救い出してくださいました。その神が、イスラエルに律法を守るように求めておられるのです。ですから主はイスラエルを救うための条件として律法としての十戒を授けられたのではなく、律法を律法主義として解釈してはなりません。 Ⅱ.律法の用法 つまりここで語られる律法としての十戒を、イスラエルの民が守ることなどできないことを、主なる神は十分に承知の上で、十戒を授けられました(参照:ウェストミンスター大教理152)。そして十戒を代表とする律法がイスラエルに授けられた意図は、下記の3つの働き(用法)を覚えるためです。 第一用法(市民的用法)すべての人に与えられている善悪の基準です。人間は罪を犯したため、自己中心の規準となりましたが、何が悪であるかを知っています。殺人・強盗・姦淫等です。これらが各国における法律として定められています。しかしこれらは罪の故に自己中心となり相対的です。 第二用法(教育的用法)律法に照らしたとき、主なる神の御前に、私たちが罪人であることを気付きます。殺人・傷害ばかりか、口で「殺してやる」と語る脅迫も、心の中で「死ねば良いのに」と思うことも、主の御前では、同じように罪です。これら人に罪の自覚をさせ、主なる神への信仰に導くことが、律法の第二用法です。 第三用法(倫理的用法)自らの口で罪を告白し、悔い改め、主なる神への信仰を言い表したキリスト者は、主なる神、キリストに倣った生活を始めます。このときに、手引きとなるのが、十戒(道徳律法)です。 Ⅲ.律法に生きるキリスト者 マタイ福音書19章に、金持ちの青年のたとえが語られています(19:16-22)。つまり十戒を型どおり実行しても、神の御前には義と認められることではありません。神の思いを汲み取ること、隣人の思いを汲み取ることではないでしょうか。隣人が貧しく、苦しんでいるのであれば、援助すること、助けることが求められます。主イエスは、このことを語っておられます。 そのため、律法としての十戒を学ぼうとするとき、十戒の序文と共に、十戒の要約を覚えることも非常に大切になってきます。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:37-40、参照:申命記6:5、レビ19:18等)。 すでに語りましたが、十戒は罪人でありながらも、罪が赦され、主なる神により救い出されたイスラエルの民に与えられました。つまり主なる神は、イスラエルが律法を完全に守ることができないことを知っておられます。しかし、十戒が与えられることにより、イスラエルにとって何が罪であり、行ってはいけないことかが示されます。 つまり罪を犯しても、十戒に戻るならば、罪を犯したことを理解し、悔い改めることができます。そのため主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)と語られています。しかし神の御言葉から離れ、十戒を忘れたとき、人は罪を犯し、偶像崇拝を行います。ここに罪の本質があります。 新約に生きる私たちキリスト者も十戒を覚えるのは、私たちが主の御前には罪人であり、同時に主によって罪が贖われ、救われた神の民であるからです。 そのため改革派教会では、創立宣言において、「私たちは律法主義者ではなく、また同時に律法廃棄論者でもない」と告白します。主により愛され、罪赦された罪人として、神を愛し礼拝する者、隣人を愛する者として、生きることが求められています。 |
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「金の子牛 - 偶像崇拝」 出エジプト記32章 ウェストミンスター小教理問49~52 |
序. 主なる神は、イスラエルをエジプトから救い出して下さり、その後、律法としての十戒をお授け下さいました。 Ⅰ.モーセが戻ってこない! モーセはイスラエルの民に十戒を語った後、十戒に付随する律法を受け取り、さらに幕屋建設のための指示を受けていました。 そしてモーセがイスラエルの民を離れて40日が経ちました(24:15-18)。40日が長いか、短いか、意見が異なることかと思います。しかし、いつまでか期間が示されていない中、イスラエルの民にとって試練でした。 しかし主なる神は「あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(出エ3:15,4:5,6:3)であり、さらに主はモーセを遣わされるまで400年をお待ちくださいました(創世記15:13、出エジプト12:40,41)。そして、モーセは奇跡を行う度に、主が奇跡を行うことを繰り返し語られてきたのではないでしょうか。永遠から永遠に生きておられる主なる神がおられ、その神が、出エジプトを実現してくださり、今も働きかけてくださいます。 しかしイスラエルの民は、モーセの背後に働く主なる神を理解せず、目の前にいるモーセを神のごとくに考え、モーセのみを見ていました。このことが、モーセが戻ってこないことに対する不安へと繋がります。 Ⅱ.神々の偶像をつくるイスラエル イスラエルの民は、アロンに神々を造ることを求めます(1)。問題は二つです。第一に「神々」を求めたことです(第一戒違反)。 第二に、「神々を造る」ことを求めたこと、つまり偶像です(第二戒違反)。 このときアロンは、イスラエルの民の要求に応えたことも問題です(2,4,5)。 イスラエルの民はさらに罪を犯します。この偶像を見て、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と語り(4)、主なる神を偶像に閉じ込め、さらに焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えたことです。主なる神と他の神々の区別がなく、偶像を主なる神にしました。 ローマ教会では、聖画像やマリア像が置かれ、聖人・福者も信仰の対象です。ローマ教会やルーテル教会は、私たちが第一戒・第二戒に分けているところを第一戒にしています。これらを一つにすると偶像に対して曖昧になり、寛容になってしまいます。 宗教改革では偶像を排除しました。神は唯一、無限・永遠・不変の霊です。同時に、形あるものを教会の中に置くことは、偶像に対する思いを曖昧にすることであり、主なる神が非常に嫌われる罪です。時間的にも空間的にもすべてを超越して働いておられる神を見上げることが求められています。 Ⅲ.主なる神の憤りとモーセの執り成し 主なる神は、このイスラエルの行為をつぶざにご覧になっておられます。そして不問にされることはありません(7-10)。主は、ノアの洪水を繰り返すごとく、モーセのみを救い、他のすべての民を滅ぼし尽くすと語られます。これは義・聖・真実である主なる神ご自身の姿です。 このとき、モーセは主に執り成しの祈りを献げます(11-13)。主なる神は、モーセの執り成しを聞き届けてくださいます(14)。イスラエルの民に、悔い改めの猶予をお与えくださいます。これは主なる神の愛です。 つまり主なる神は、義・聖・真実の神ですが、同時に、私たちの弱さ・罪を知っておられ、悔い改めて主なる神への信仰を持つことを、常に待っていてくださいます。 Ⅳ.イスラエルの民に語りかけるモーセ このときモーセは、イスラエルの民のところに行き、主の憤りを民に示し、偶像を砕き、そして悔い改めを迫ります(25-26)。 このときアロンを初めとするレビの子が集まり、罪を悔い改めます(26b)。 モーセは主なる神に、イスラエルの民の罪の贖いを願い求めます(30-32)。 罪を犯しても、罪を悔い改め、主への信仰を表す者の罪を赦し、神の子として導いてくださいます。主はモーセの執り成しを聞き届け、忍耐強く、人々の悔い改めを待ってくださいます(34a)。 しかし、罪を悔い改めることなく、主に逆らい続ける者に対しては、必ず裁きをもたらします(33,34b)。 新約の時代にあって、主なる神は、まだ教会に集められていない民が、罪を悔い改め、主なる神を信じることを、忍耐強く待っていてくださいます。神の民が教会に満たされたとき、キリストが再臨し、神の国が完成します。だからこそ私たちは今、人々に対して福音を宣べ伝えることが求められています。 |
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「幕屋 - 旧約における神礼拝」 出エジプト記25章1~9節、40章 ウェストミンスター大教理問33~35 |
序. 主なる神は、アブラハムを救い、イスラエルを大いなる民とすること、そしてイスラエルをエジプトから救い出すことを約束して下さいました。これらのことは、モーセが立てられ、エジプトで奴隷であったイスラエルの民を救い出すことにより、一つの到達点を迎えました。 そして神はイスラエルの民に、神の民として歩むために、前文を付した十戒をお与えくださいました。前文が語るとおり、イスラエルの救いは主の恵みによるものであり、イスラエルは罪赦された罪人です。 その表れが、イスラエルは金の子牛を主なる神として崇る偶像崇拝を行うことです。 Ⅰ.幕屋において神礼拝が行われる! こうしたイスラエルの民に、主は幕屋建設を指示されます。幕屋の目的は、「わたしは彼らの中に住み」(25:8)、イスラエルが主なる神を忘れないためです。その象徴が至聖所に置かれる契約の箱です。大祭司が年に一度だけ入ることが許される非常に畏れ敬うべき神の御前に(レビ16:32-34)、イスラエルは置かれているのです。 旧約のイスラエルの民は、契約の箱が供えられている主の御前で、常に主の導きにより生命が与えられ、日々養われていることを、顧みることが求められたのです。 幕屋における神礼拝は、ソロモンにおける神殿建設により、神殿での礼拝に移ります(列王上6-8章)。その後、バビロン捕囚により神殿での礼拝が行うことができなくなることにより、次第にシナゴーグと呼ばれる会堂における礼拝となります。その後イスラエルはエルサレムに帰還し、神殿を再建します。メシアである主イエスの到来と十字架の御業の完成により、シナゴーグで行われていた礼拝が引き継がれ、現在私たちが行う神礼拝へと繋がっていきます。 Ⅱ.神礼拝の場としての幕屋 幕屋における神礼拝の中心は、いけにえです(参照:レビ1-7章)。形だけを見ると旧約の時代と新約の時代との断絶を感じます。しかし割礼・過越祭が、新約になり洗礼と主の晩餐に移ったように、罪人の罪の赦しが割礼・洗礼により行われ、過越・主の晩餐により罪の赦しを確認することでは、旧約も新約もまったく同じ契約の中に生きていることは、礼拝でも同じです(参照:ウェストミンスター大教理問33)。 約束・預言・いけにえにより、来たるべきキリストが指し示されており、キリストの十字架の贖いが礼拝の中心に位置するということでは、変わりありません(参照:ウェストミンスター大教理問34,35)。つまりいけにえにより動物の血が流されます。そして肉の死を遂げた動物があります。血による代償、命における贖いがメシアにおいて行われることを、旧約の民は、動物のいけにえより、繰り返し繰り返し確認したのです。 旧約において行われていた神礼拝(約束・預言・いけにえ)が、新約の礼拝において御言葉の説教に集約されました。旧約におけるいけにえの行為は、キリストの十字架において成し遂げられたのであり、それは1回限りです。ですから、新約の礼拝の中心は、旧約聖書の約束が、キリストによる十字架で完成したことを、主の御言葉である聖書から聞く説教が中心となります。 つまり旧約のイスラエルの民に、主なる神が「わたしは彼らの中に住むであろう」と語られ、主の御前に救われた喜びをもって礼拝を献げたように、新約に生きる私たちも、主の御前に神による救いが与えられたことを覚えつつ、主を礼拝するのです。 Ⅲ.新約に生きる私たちの礼拝 旧約の時代、アブラハムによりイスラエルが神の民として選ばれ、メシアが約束されました。イスラエルの目的は、アブラハム・ダビデの子として、メシアであるイエス・キリストが到来することでした。そのため、肉におけるイスラエルの働きは、イエス・キリストの到来により、その働きを終えたのです(参照:ローマ9:6-8)。そのため、新約の時代を迎えた今、未だにカナンを約束の地として獲得し、パレスティナを絶滅しようとしている人たちを、聖書は認めていません。 神の住まいである幕屋(聖所)は、詳細に定められ、作成されました。それらが結び付き、主なる神の恵みに生きることを旧約のイスラエルの民は覚えることが求められました。 新約の時代になり、神礼拝を行う聖所である礼拝堂に、こうした細々した規定は定められていません。宗教改革におけるプロテスタント教会、特に改革派教会は、それらを取っ払い、ただ御言葉をもって礼拝に臨むことが求められています。それはキリストによる十字架の贖いが、御言葉によって示されているためであり、キリストこそが教会の要石です(参照:エフェソ2:20-22)。そのため新約の時代に生きる私たちは、教会堂にこだわるのではなく、二人三人が集う場所にあって、主の御言葉が語られるところにこそ、主が共にいてくださり、礼拝が成立するのです(参照:マタイ18:20)。 |
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「荒れ野の40年へ - 主の約束を信じないイスラエル」 民数記13,14章 ウェストミンスター大教理問151、192 |
Ⅰ.約束を守られる主なる神 主なる神は、アブラハムへ約束してくださり(創世記15:13-18)、さらにモーセにも約束して下さいました(出エジプト3:7~10)。そして主は、アブラハムとモーセに約束されたとおりエジプトからイスラエルを救い出して下さいました。そして主はもう一つの約束をお語りくださっていました。アブラハムに示された約束の地に戻って来ること、つまりカナンに戻って来ることでした。 つまり、モーセが12人をカナンに偵察に送ろうとするとき、彼らは主からの約束をモーセから繰り返し聴いてきたはずです。 (出エジプト3:17、13:5、23:23、23:38、33:2、34:11)。 Ⅱ.偵察の意味を理解していないイスラエルの民 カナンに偵察隊として遣わされた10人は、40日にわたりカナンを偵察した結果をモーセに報告します(13:27~29)。第一に、良い果物ができ、乳と蜜の流れる豊かな場所であること(27)。第二に、土地の住民は強く、城壁に囲まれていて、大層大きいことです。彼らは、見てきたことをそのまま報告します。偵察に行くということでは、これで任務を果たしたと言えるでしょう。 しかし彼らは、イスラエルがカナンに入ることに反対し(13:31-33)、イスラエルの共同体を扇動します(14:1-4)。彼らの問題は第一に主なる神の存在を忘れていることです。また第二に、主がアブラハムと共にモーセに約束してくださったことを忘れ、自分たちが見てきた場所こそが主がお与えくださる場所であることを忘れていました。 ここで私たちは、主なる神がなぜ偵察隊を遣わしたのか顧みることが求められます。目の前に現れることに右往左往することではなく、主なる神を信じ、主の約束に聴き従って歩むことを求められています。 ウェストミンスター大教理問151は、かれらの罪が、非常に重いものであることを語ります。主の約束に逆らい、そして人々を強引に罪に招き入れているからです。 主が偵察隊を送られたのは、約束の地に入るにあたり、彼らを知った上で、主が求めておられる命令を確認して、一つになって進んで行くためでした。 今に生きる私たちは、教会と共に社会を見ています。教会の縮小・信仰の弱体化を避けて通ることができません。そうした中、ただ、主なる神を信じていれば良いと言うことではありません。今、主によって召されてキリスト者とされた私たち、とくにこれから信仰を継承していこうとしている若い人たちが、どのようにすれば教会と信仰を継承していくことができるかを、共に考え、意見の一致をもって教会形成を行っていくことが求められています。現状を知った上で、今の教会に何が求められているかを互いに話し合い、知恵を出し合ってこれからの教会について語り合っていくことが求められています。 Ⅲ.神を信じて生きよ! 一方、同じように偵察に行ったカレブとヨシュアは他の10人とは意見を異にしました(13:30、14:6~9)。他のイスラエルの民との違いは、カレブとヨシュアは、主なる神と共に歩んでいたことです。そして、主の約束を信じていました。私たちは、目の前に起こっていることだけを見ていては正しい判断をすることができません。主の約束を見据えて、今を生きることが必要です。 今に生きるキリスト者は、社会にあって少数者です。しかしキリスト者であれば良いのではありません。主の民とされたイスラエルであっても、主なる神を忘れ、主の約束を忘れて生きるとき、主の裁きがもたらされます。 今も、イスラエルにおける戦争に対する考えでも明らかなように、私たちと明らかに意見を異にする人たちがいます。私たちは、世の人たちに訴えることが求められていると同時に、キリスト者の中でも意見を異にする人たちに語り続けていくことが求められています。 Ⅳ.過去を顧みて悔い改めつつ、神の約束を信じて歩め! 主は主に逆らう民を裁く一方、主を信じる神の民の罪を赦し、神の御国へと導いてくださいます。それと同時に、モーセの執り成しを受け入れて下さいます(14:13-20)。 そして主はイスラエルを懲らしめるため、荒れ野の40年を課せられます(14:33-35)。イスラエルは、過去を顧み、罪を悔い改めて、信仰に生きることが求められました。 私たちも、今の教会の姿を顧みるとき、過去を見つめ直すことが求められています。戦時中の偶像崇拝・戦争協力、戦後も現世的になっていなかったか等……。主は今も私たちと共におられ、そしてキリストが再臨し神の国が完成することを私たちに約束してくださっています。 |
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「約束の地を前にして-主がお与えくださる戒め・掟・法」申命記4:1~14、6章 ウェストミンスター信仰告白21:5、大教理160 |
序.荒れ野での40年 イスラエルの民は、主なる神がお立て下さったモーセに率いられ、奴隷であったエジプトから解放され、約束の地に向かいました。そして40年の荒れ野を経て、今、約束の地を前にしています。 罪を繰り返すイスラエルに対して、主なる神は、40年間、主が導いてくださっていることを知り、罪を悔い改め、主を信じて、主に従って生きることが求められました。 Ⅰ.約束の地に入ることの意味するところ 約束の地に入ると、モーセはいなくなります。そして、マナもなくなり、自ら収穫したものにより生活することとなります。それは主なる神の存在がイスラエルから遠くなることを意味しています。 さらに約束の地は、バアル宗教など偶像に満ちており、イスラエルの民が意識していなければ偶像崇拝を行ってしまいます。事実、イスラエルの民は度々偶像崇拝の罪を繰り返しました。 そうした中、主はモーセをとおして戒め・掟・法をお与えくださろうとしています。 これらは言い換えると十戒を代表とする律法であり、救いの契約です(申命記4:13-14)。 Ⅱ.救いの民イスラエルに与えられる律法である! 「わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい」(4:2)と語られるとき、イスラエルは主の律法に従って生きていれば、救われると解釈する人も出てくることも納得できるかと思います。 しかし主なる神は、イスラエルが律法を守った結果、イスラエルを救うのではありません。主が救い出してくださった民に、神の民として生きるために律法をお与えくださいます(6:20-25)。これを簡略化して語られているのが十戒の前文です。つまり十戒の前文は非常に大切であり、前文を省いて十戒を唱え続けると律法主義に陥ります。 Ⅲ.契約と恵みこそが、律法の前提である! 主なる神は、「イスラエルよ、あなたはよく聞いて、忠実に行いなさい」(6:3、参照:6:6-9)と語られます。主がイスラエルを救い出してくださった恵みを忘れ、ただこの言葉を繰り返していれば、これらは呪文になってしまいます。そうなると、戒め・掟・法を良く知っていたとしても、そこに信仰はなく、覚えていることを形において従うだけになってしまいます。これが律法主義に変化していくのです。 聖書を理解しようとするとき、主がお与えくださった戒め・掟・法、とくに十戒を学ぶことは大切です。これらの学びにより、神の民に相応しい者となっていきます。 しかし、ここで忘れてはならないことは、主がイスラエルを救い出してくださった神であること、今に生きる私たちも罪の奴隷から救い出し、神の国、永遠の祝福をお与えくださる方であることです(6:10-15)。神の契約、そして救いの恵みの歴史を忘れてはなりません。この上に律法・十戒があるのであって、それらが忘れられたところで律法を学んでも意味はありません。 Ⅳ.次の世代に信仰を受け継ぐために イスラエルが約束の地に入ると、繰り返し主なる神を忘れ、偶像崇拝を行ったのは、主がお与えくださった律法を一生懸命に勉強し覚えていたけれども、そこで主が語っておられる真意、神の愛、神からの恵みを理解していなかったからです。 今に生きる人たち、若い人たちも同じではないでしょうか。 日曜日に教会に行かなければならない。 聖書を読み、学ばなければならない。 いずれも正しいことです。教えられなければなりません。しかし神の愛、神の恵みが感じられなければ、子どもたちにとって律法主義です。これが今の教会の問題です。 若い人たち・新しい人たちが、神さまを信じて、喜んで教会に来ることができるようになるには時間がかかります。強制であってはなりません。失敗が繰り返されます。教会はそれを受け止める忍耐が必要です。 主なる神はイスラエルの民が罪を繰り返しますが、忍耐して悔い改めを求め、救いをお与えくださいました。主は、今もまだ教会に来ていない神の民が教会に来ることを忍耐して待っていてくださっています。 私たちも信仰を継承し、教会を継続させていくために、愛をもって、そして忍耐をもって歩み続けることが求められています。正しいことを語ることは必要です。それは、愛を持って、寛容な心をもって行うことが求められています。 主は私たち一人ひとりを、恵みの契約において罪の赦しを与え、神の御国における永遠の生命をお与えくださいました。そして救われた私たちが神の民として歩むために必要な十戒をお与えくださっています。 |
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「約束の地と聖なる戦争」申命記7章 ウェストミンスター信仰告白33:2、14:2、23:2 |
Ⅰ.神の約束から聖絶を見よ! 主なる神は、イスラエルの民に対して、カナンの原住民を滅ぼし尽くすよう命令されます(1-2)。 私たちが旧約聖書における戦争・聖絶を考えるとき、主なる神がイスラエルを選んでくださった目的を顧みる必要があります。それは神の民の救いと神の国の完成にあります。このとき同時に、主に逆らい罪を犯し続ける者に対する主の裁きが行われます。 旧約の時代にメシアが約束されることも、新約においてキリストの再臨と最後の審判が約束されることも、神の国が完成し、神の子とされる神の民が救われるためです。 Ⅱ.旧約における救いと裁き カナンの原住民は、偶像の誘惑を行いイスラエルに罪を犯させようとします。そのために主は偶像を倒すことを求めます(4-5)。それは彼らが偶像崇拝を止めることなく、主に逆らい続けるからで、主は彼らが罪を悔い改めて、主を信じることはないことをご存じだからです。そのために本来ならば最後の審判において行われるべき裁きを、主はイスラエルの民に命じて行わせるのです(参照:ウェストミンスター信仰告白33:2)。 一方イスラエルが主により救われるのは、彼らが優れているからではなく、ただ主の愛に基づくのであり、罪の赦しと感謝が主の戒めを守る者へとかき立てます(6-9)。 しかし肉におけるイスラエルならば救われるわけではありません。イスラエルであっても、金の子牛の偶像を作り・拝んだ者たち、主の約束を信じることなくカナンの原住民を恐れ、尻込みした人たちを、主は裁かれました(ローマ9:6b-7)。 一方ルツはモアブ人であり、預言者イザヤは、イスラエルに悔い改めを求めるばかりか、周辺諸国民に対しても悔い改めを迫りました。それは、預言者の声に耳を傾け、主なる神を信じるならば、異邦人であっても救ってくださるということを物語っています(参照:ウェストミンスター信仰告白14:2)。 Ⅲ.新約におけるイスラエルと約束の地エルサレム 一方、主イエス・キリストが来臨され、十字架の御業を成し遂げることにより新約の時代が始まりますが、主イエスは繰り返し、隣人を愛することを語られます。山上の説教では、マタイ5章の八福において、 「義に飢え乾く人々は、幸いである」、 「平和を実現する人々は、幸いである」と語り、「復讐してはならない」(5:38~42)、「敵を愛しなさい」(5:43~48)と語られます。 そしてエフェソ6:10~18では、神の武具を身に着けることを求め、人を殺すための武器を持つべきではないことを語られます。 新約の時代、主は平和を実現することを求めておられます。それは神の国において完成するものですが、私たちキリスト者は、地上において神の国を実現するための働きを担うことが求められています。 旧約の時代と新約の時代と、主は異なったことを私たちに教えているのでしょうか? 肉におけるイスラエルが主の約束の民であると語られるのは、主による祝福がメシアである主イエスの来臨と十字架の御業により完成しました。そのため、肉におけるイスラエルの働きは、キリストが指し示されることにあり、新約においてはその働きは終わっていると言わなければなりません。 そのため復活の主イエスは地の果てまで福音を宣べ伝えることを求めます(マタイ28:16~20)。ですから霊によるイスラエルは、信仰によって義とされたキリスト者のことを指し示しています(参照:ローマ9-11章)。 一方、神の都エルサレムが約束の地とされたのは、キリストの十字架が成し遂げられることが指し示されていました。つまり約束の地エルサレムの役割は、キリストの十字架により、その働きを終えました。 新天新地が示されるヨハネ黙示録において、約束の地エルサレムは、カナンにおいて祝福を得るのではなく、天から与えられる新しいエルサレム、「神の国」そのものを指し示しています(3:12, 21:2,10)。 Ⅳ.神の御国の完成に向けて語られる聖書 主なる神が求めておられることは、神の民が救われ、キリストが再臨して、最後の審判と神の民を神の国へと導いてくださることにより、平和が実現し、神の民が主を讃美して、喜びのうちに生きることです。 神に逆らい、偶像崇拝を繰り返す民に主の裁きがもたらされますが、旧約聖書が語る聖絶は、最後の裁きが前もって示されているのであって、新約の時代、主は人が殺されていくことを悲しんでおられます。そして、それでもなお罪を繰り返す者たちに対して、罪を顧みて悔い改め、神への信仰を表すことを待っておられます。 |
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「契約の成就と約束の地」ヨシュア5・6章 ウェストミンスター信仰告白27:1,5 |
序. 主なる神はアブラハムへの約束のとおりモーセにより出エジプトを成し遂げさせ、イスラエルの民を約束の地に導いてくださいます。そして約束の地に入るに際して、モーセの次の指導者ヨシュアに対して、主は語られます(ヨシュア1:5-9)。最後に「あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」とお語りくださいます。そしてヨシュア率いるイスラエルは、ヨルダン川を渡り(3章)、約束の地に入ります。 Ⅰ.割礼を施されるイスラエルの民 このとき主なる神はヨシュアにイスラエルの民に割礼を施すように命じます(5:2-3)。イスラエルの民は、出エジプト以来無割礼だったからです(4-7)。割礼を施されることにより、イスラエルは主なる神の民であることを確認することが求められます(参照:ウェストミンスター信仰告白27:5,1)。「1.聖礼典は、直接神によって制定された、恵みの契約の清いしるし(サイン)、また証印(シール)であって、〔第一に〕キリストとかれが与える益を表し、〔第二に〕わたしたちがキリストにあずかることを確証し、さらに〔第三に〕教会に属する者とこの世の他の者との間に目に見える区別をつけ、〔第四に〕神の言葉に従ってかれらを、キリストにおける神奉仕に厳粛につかせるためのものである」。 イスラエルの民は、神による恵みの契約に入れられています。「しるし」と「証印」において神の契約書が有効とされており、この契約書は永遠に有効です。旧約に生きるイスラエルの民ですが、彼らの救いも、イエス・キリストの十字架の贖いにより、罪の赦しが宣言され、救いが与えられます。 約束の地に入るにさしあたり、イスラエルの民が割礼を施されたのは、彼らが主なる神による救い、恵みの契約に入れられていることを覚え、自覚させるためでした。 続けてイスラエルの民は過越に与ります。過越により、イスラエルの罪を過越てくださり、罪の赦しと救いが与えられたことを、確認することが求められたのです。 Ⅱ.主の御言葉に聴き従い、主の民として生きる 次に主の軍の将軍が登場します(13-15)。主の軍はここにしか出てきません。しかし彼はヨシュアに「あなたの足から履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である」と語ります。燃える柴において主がモーセに語られた言葉です(出エジ3:3-6)。 つまりヨシュア率いるイスラエルの民が約束の地に入ることは、主なる神の戦いであり、イスラエルの民は、主の命令に従うことが求められているのです。 そしてイスラエルの民はエリコの街に入場します(6章)。一日にエリコの街を一周まわります。角笛を吹き流しながら、契約の箱が先頭を練り歩きます。一日一周すれば、宿営地に戻ります。それを六日間続けます。そして七日目は、七度回り、鬨の声をあげて、街に侵入します。これは主なる神の御業・主の勝利であり、イスラエルの力は何もありません。 遊女ラハブと一緒にいる者たち以外は、すべて滅ぼし尽くすことが求められます。ラハブは(2章)、二人の斥候がエリコを訪れたとき、斥候たちはラハブにかくまわれ、生命が守られたため、主がラハブの家を守ることを約束して下さっていました。 主なる神は、肉においてイスラエルだから彼らを救うのではなく、異邦人であっても主なる神の御言葉に聴き従う者に対して救いをお与えくださいます。 一方、肉においてイスラエルであっても、主の御言葉に聴き従うことなく、罪を犯す者に対して、主は裁きを行われます。それが荒れ野の40年において表れています。 Ⅲ.主なる神にのみ依り頼んで生きよ! 今日の御言葉は、主なる神により救いへと招かれている神の民は、いかに生きるのかということが指し示されています。旧約における割礼、それは新約になり洗礼となりますが、そのしるしにより、神の民であること、主の所有であることを確認します。 主は神の民を出エジプトとキリストの十字架により救い出してくださいました。この主による救いを、過越・主の晩餐において繰り返し確認するのです。 このとき主の民は、人間的な知恵や力に頼ることなく、主なる神がお与えくださる御言葉に聴き従うことが求められます。主の御言葉に聴き従うとき、主はイスラエルに勝利をお与えくださいます。 教会の力が弱体化している今だからこそ人間的な知恵・手段を用いて将来を模索するのではなく、私たち自身が主の民であることを礼拝により顧み、主の御言葉に聴き従って行くことが求められています。 |
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「契約を忘れ、主に逆らうイスラエル」士師記2:1~3:8 ウェストミンスター信仰告白7:3,4,5 |
序. 最初の人アダムとエバの犯した罪は、それ以後のすべての人に引き継がれます。このとき主は原福音と呼ばれる恵みの契約をお与えくださり、御子による罪の赦しと救いを約束してくださいました(創世記3:15)。 この恵みの契約は、ノア・アブラハムにより更新されました。アブラハム契約は、①アブラハムから生まれる子孫を大いなる国民にすること、②囚われの身となるが、400年後に解放され、約束の地に帰還することでした。主はモーセを立て、奴隷であったエジプトから解放してくださり、40年の荒れ野がありましたが、ヨシュアの時代に約束の地に帰還することが許されました。 この間も、イスラエルの民は罪を繰り返し主の裁きに遭いますが、主は恵みの契約を破棄されることはありませんでした。 Ⅰ.主なる神のみを、神として生きよ! そして主は「わたしの契約を、決して破棄しない」(2:1)と宣言してくださいます。主はキリストの十字架の御業と再臨・最後の審判により、契約を貫いてくださいます。 人間に対する主の愛が、ここに込められています。 同時に主はイスラエルに偶像を取り壊すように命じます(2-3)。祭壇は偶像であり、主以外のものを神とすることです。そして偶像があること自体が罠・誘惑であり、主から離れる原因となります。偶像に囲まれて生きている私たちも、常に警戒することが求められています。 Ⅱ.主なる神を見失うイスラエル ヨシュアの死後のイスラエルについて語られていきます(11-14)。「主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代」です(10)。彼らは生まれたときに割礼を受け、また毎年過越を祝っていたはずです。意味・本質を理解せずに、神を礼拝したり、儀式をおこなっていると、主なる神を忘れることとなります。 一方、周囲の国の神々には祭壇があり、偶像崇拝をしています。カナン人は拝んでいます。最初は形だけのつもりで偶像を拝んでいても、次第にそれが主体となります。それは、唯一の主なる神を裏切ることを意味し、主の怒りがもたらされます。 主なる神のみを信じて生きているとき、主がお語りになった御言葉に聞き、主がお与えくださった律法(十戒)に聞くものとなります。このとき主を愛し、主を礼拝する者となると同時に、主がお与えくださった隣人を愛し、罪を避けて生きる者となります。 しかし偶像を崇拝するようになると、礼拝は形式的になり、律法で示されていた隣人を愛して生きることからも離れ、姦淫を初め、淫らな生活を行うものとなります。 Ⅲ.苦しい時の神頼みで良いの? 主から離れたイスラエルは、主の目に悪とされることを行いバアルに仕えます(11)。その結果神の怒りを買い、主の裁きとしてイスラエルの民は略奪者に略奪されるままとなり、苦境に落とされます(12-15)。人は苦しくなると藁にも縋る思いで祈ります(15)。この祈りが純粋に主への祈りかどうか疑問です。それでもなお主はその叫びをお聴きくださいます。そしてイスラエルを助けるために士師を立ててくださいます(16)。 このとき主は、イスラエルの民が主の助けに感謝し、自らの罪を悔い改め、主への信仰を告白することを願っておられます。 しかしイスラエルにとっては、喉元過ぎれば熱さを忘れます(17,19)。困ったときの神頼みでも良いのです。しかしこのとき、ここに主が働いてくださり、助けてくださったことを受け入れ、感謝して、信仰に立ち帰えることが求められています。それがないため、罪が繰り返されるのです。 こうして、背信―さばき―叫び―士師による救いが繰り返されていきます。 主はイスラエルの民と契約を結び、「決して破棄しない」(1)と宣言してくださいました。しかしイスラエルの側が、契約を破り破棄したのです。このとき恵みの契約はイスラエルの故に破棄され、彼らは主の裁きを逃れることができなくなります(20)。 Ⅳ.主なる神のみを神として生きよ! 割礼を受けたイスラエルであれば救われるのではありません。彼らの罪の故に契約は破棄され、彼らも主の裁きから逃れることができません(3:1,4)。しかし、主なる神の御言葉に聴き従う者は、主による救いに入れられ、恵みの契約が履行されます(イザヤ・エレミヤ書では「残りの者」と語られる)。 今に生きる私たちも、主により信仰が試されています。主なる神のみを神とし、主の御言葉に聴き従って生きようとするとき、信仰の故に主は恵みの契約を履行し、キリストの十字架の贖いにより、神の民として受け入れてくださいます。 |
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「預言者サムエル」サムエル記1:9~20、3章 ウェストミンスター大教理問42、43、185 |
序. モーセとヨシュアの後、イスラエルには士師が立てられましたが、明確な指導者は不在でした。そうした中、約束のメシアが与えられるための道備えとしてのダビデ王へつなぐ橋渡しとなるのが、士師の時代の最後に位置し、祭司であり、最初の預言者と言われ、サウルとダビデに王としての油を注ぐ働きを行うのがサムエルです。 Ⅰ.心が開かれ、疑わずに祈る サムエルの母ハンナは祈りの人でした(1:10-11,15)。ウェストミンスター大教理問185には、祈りについて記されています。ここでは「開かれた心をもって」祈ることが求められています。すべてを主に委ねて祈ることであり、主イエスも語られています。 「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、……この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」(マタイ21:21-22)。 ハンナの祈りに対して祭司エリは、「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と答えます(17)。 そして、ハンナの祈りは聞き届けられ、サムエルが誕生します(19b-20)。開かれた心を持って、すべてを主に委ね、信じて祈るとき、主は祈りを適えてくださいます。 祈りが聞き届けられたとき、主の恵みに感謝することが求められます。特に主の御前に誓約して祈るとき、誓約を誠実に実行することが求められます。 ハンナは生まれてくる子どもをナジル人として献げることを誓っていました(1:11)。ナジル人ではサムソンが有名ですが、ぶどう酒を断つこと・頭にカミソリをあてないこと等が求められ、それらを守っている間、主からの特別な祝福が与えられます(民数6章)。 ハンナは祈りが聴かれたことに感謝して、「わたしはこの子を主にゆだねます。この子は生涯、主に委ねられた者です」と語り、主を礼拝します。サムエルの働きの背後にあるハンナの祈りを忘れてはなりません。 Ⅱ.祈りに対する主の応え 3章では、少年サムエルが主から召しを受けることが語られています。寝ていた少年サムエルは、主なる神から直接声をかけられます。サムエルは、祭司エリが呼ばれたのかと思い、エリの所に行きますが、そうではありませんでした。真に主なる神が声をかけてくださるとき、あるいは私たちの身に、祈りの応え・新しいことを始める主の御心が与えられようとするとき、主は2度・3度と同じことを繰り返し、それが主の導きであると示してくださいます。 祭司エリは、サムエルに起こったことが主の御業であることを悟り、サムエルに語ります(9)。本当に主からの呼びかけであれば、そのことを確信してから、改めて同じ呼びかけがあると言って良いかと思います。 主がサムエルに語りかけた言葉は、エリの家の裁きであり、サムエルがエリに伝えられないような事柄でした。しかしこのときエリはサムエルに語られた主の言葉を受け入れるように示されていました(17-18)。 主の御心が示されるとき、別の方法においてもそれが真実であることが示されます。実際に、主なる神がサムエルに語られた約束は、成就していきます(19-20)。 Ⅲ.預言者としての働き キリストの御業 旧約聖書には、預言者としての働き人がでてきます。旧約聖書では、アロン(出エジプト7:1)、「ミリアム」(同17:20)、「デボラ」(士師記4:4)が、預言者であると語られていますが、主からの召しを受け、主の働き人として預言者の働きが語られていくのは、サムエルが最初であり、通常「サムエルが最初の預言者である」と語られています。 旧約聖書では、祭司・預言者・王が立てられていきます。旧約聖書と新約聖書、まったく異なるように思われますが、主の御前に立つ働き人として、預言者・祭司・王があることをお覚えいただきたいと思います。最初に告白したウェストミンスター大教理問答でも確認できるように、キリストは預言者・祭司・王としてのすべての働きを成し遂げられました。 そして旧約の預言者・祭司・王のシステムは、新約になり、形を変えて、今の教会に受け継がれています。それぞれが牧師・執事・長老に該当します。牧師が説教により神の御言葉の取り次ぎを行い、執事が民の執り成し・愛の業を行い、長老が教会を治めます。新約になり形は変わりますが、その本質はまったく変わりないことをお覚えいただきたいと思います。 |
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