◆シリーズ:神のご計画と恵みの契約

「天地万物の創造の目的」  創世記1章1節~2章4節
 
Ⅰ.学びの目的(神のご計画と恵み契約)
 今日から聖書全体の概略を、神の救いのご計画と恵みの契約という視点で学びを始めます。私たちは、聖書を丁寧に読み進めると共に、聖書全体の理解・神による救いの目的を理解することが必要です(参照:聖書全体を鳥観する神の永遠の計画)。
 また同時に、神による救い・恵みの契約を意識して、ウェストミンスター信仰規準において語られている告白を確認しながら、学びを進めていこうと願っています。

Ⅱ.神による天地創造の御業
 さて最初は、天地万物の創造です。まだ時間が動き出すことなく、何もない状態(無)であったと解釈されています。
 そして、主なる神が「光あれ」と語られることにより、時間が動き始め、世界が動き始まります。主なる神は、6日にわたり、天地万物を創造され、最後に私たち人間を創造されました。
 人間の発明がありますが、主なる神がすべてを創造されました。そして主は、ご自身が造られたものを見て「良しとされました」(4,12,21,25)。そして6日の最後に「それは極めて良かった」と語られます(31)(参照:ウェストミンスター信仰告白4:1)。主なる神は、単に思いつきで天地万物を創造されたのではなく、すばらしいものとして、また被造物、特に人が主の栄光を称えることにより、主ご自身が喜びに満たされるものとして、創造されました。

Ⅲ.主による創造と自然科学・進化論
 しかし今、世では神抜きで世界が成り立っていったと教えられています。ビッグバンにより宇宙が始まり進化論が教えられています。神の存在と創造は、受け入れられません。しかしビッグバンも進化論も、人がその時代に行き、確認したことではなく、推論・推測の域を出ることはありません。
 また主なる神は、聖書の御言葉を私たちにお与えくださいました。科学のない時代に記され、論証する価値すらないと思われていますが、主は私たちの信仰にとって必要なことを御言葉によりお教えくださいました。そのため創造は、キリストの処女降誕や復活同様に、信仰によらなければ、受け入れ・信じることができません。
 キリスト者であっても、解釈が異なることがあります。その一つは、6日間における創造の一日の期間に関してです。
 つまり創造の6日間は、現在の一日、つまり24時間であると解釈する牧師・神学者もいます。しかし私はそうは考えません。
 黙示録における数字はどれも象徴的な数字であり、時間の概念においても象徴的に解釈します。創造の6日間も同じだと、私は思います。
 一日・一年という期間は、私たちの生活に密着した時間ですが、一週間も同様です。主の日、主なる神と出会い、主を礼拝し、世に遣わされ、家庭・働きの場・学びの場に遣わされます。しかし7日後に、教会に戻ってきて主を礼拝します。7日毎に休息をとり、主を礼拝する。それが主の創造の秩序の中にあって、人間に求められています(2:2-3)。つまり、ここでの6日間は、一日24時間ではなく、ある程度の期間を示しているのだと思います。一日毎の順番・秩序が指し示されており、それを逆転することは、許されません。
 このように解釈することにより、進化論も、全面否定する必要もなくなり、自然科学における研究を一刀両断で切り捨てるようなこともする必要はないかと思います。

Ⅳ.創造の目的と方向性
 私たちは、主なる神が天地万物を創造された目的を確認する必要があります。主なる神は、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と語られています(26)。
 主は唯一の神ですが、「我々」と語られ、御父・御子・御霊の豊かな交わりにある三位一体の主なる神であると語られます。
 主なる神は、時間を創造し支配しておられます。永遠から永遠に生きておられます。この主なる神に似せて人を造られたのは、人は生きる者・死ぬことのない者として創造されたということです。
 ですから主が創造された目的は、人により、天地万物が治められ、主との交わりを持ち、主を礼拝するためです(ウ小教理問1)。
 問1 人間の主要な目的は何ですか。
 答  人間の主要な目的は、神の栄光をたたえ、永遠に神を喜ぶことです。
 ですから天地万物の創造の御言葉を読むとき、単に過去の出来事として読むのではなく、聖書の全体、そして神の国の完成を覚えつつ、創造の目的を意識して読むことが求められています。
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「人間の創造と神との交わり」  創世記1章26節~2章25節、
  ウェストミンスター信仰告白4:2、7:1,2

 
Ⅰ.神による人間の創造
 創世記は人間の創造を1章と2章で語ります。1章では人間は神の被造物であること、同時に被造物として特別な存在として人間が創造されたことが語られています。
 それに対して、2章では、「その鼻に命の息を吹き入れられた」(7)が語られ、人間が神と共に、永遠に生きる者として創造されたことが記されています。
 またウェストミンスター信仰告白は、人間の創造に関して、「神は……理性ある、不死の魂をもち、御自身のかたちに従って、知識と義と真の聖性を授けられた」と告白します。人間は、主なる神の知識・義・聖が与えられ善悪を正当に判断し、秩序を保つことができるものでした。つまり、罪を拒絶する能力を持つ者でした(参照:ウェストミンスター信仰告白4:2後半)。

Ⅱ.生命の契約
 またウェストミンスター信仰告白 第7章 人間との神の契約についてでは、「1.神と被造物との間の隔たりは非常に大きいので、理性ある被造物は、かれらの創造者としての神に当然従順であるべきではあるが、神の側での何らかの自発的なへりくだりによるのでなければ、自分たちの幸いと報いの源として神を喜びとすることは決してできない」と告白します。
 人は、何不自由なく、生きることができる条件に置かれていました(8-9)。そうした中、主なる神は人に命令されました。生命の契約とも呼ばれる行いの契約(同信仰告白7:2)です(15-17)。「善悪の知識の木の実から取って食べてはならない」との命令です。
 人が罪を犯すことができるように人を創造された主なる神に対する批判が語られることがあります。しかし人間は神からの知識・義・聖が与えられていたわけで、人間が自由に罪を選び取ったことに対する批判がおこなわれるべきであり、主なる神に対して批判が行われてはなりません。

Ⅲ.人の被造物の統治と結婚
 そして、主なる神は、最初の人に対して助け手をお与えくださろうとします。しかし人は、主がお造りになられたすべてのものに名前を付け、統治しますが、助け手を見つけることができませんでした(18-20)。
 つまり、主が人に与えられたすべてのものは、神のかたちに創造された人間にとって、同等に助け合うことができる存在ではありませんでした。支配・統治の関係にあります。
 そうした中、主がお与えくださったのが女です(21-23)。
 これは男性が上で、女性が仕える者ということで長年理解され、また男尊女卑の原因でもあったと言って良いかも知れません。
 しかし、これは賜物の違いであり、互いに持っている能力に違いがあります。そのため互いに助け合うことが求められているのです。ある程度、男性に特有の能力、女性に特有の能力がありますが、しかしオーバーラップもあり、一律に「男性だから」・「女性だから」と語ることには注意しなければなりません。
 ここで、近年叫ばれているLGBTQ(性的少数者)に関しても、少し言及しなければなりません。
  L:レズビアン(女性同性愛者)、  G:ゲイ(男性同性愛者)、
  B:バイセクシャル:両性愛者、   T:トランスジェンダー
 教会はどのように対応すべきか、考えなければなりません。今までキリスト教会では、こうした人たちは、異常者である、あるいは罪深い者であるとされてきました。
 しかし、近年、こうした人たちも病気において発生していることも研究されてきており、無視することはできません。
 つまり、主なる神によって創造された男と女においては、極めて良かったのです。しかし人が罪を犯し、罪が混入してきました。その結果、病気・身体障害者・精神障害者、そして性的な障害者が生じているのです。キリスト教会は、差別を是正し、少数者を受け入れることを行ってきています。
 ですから慎重でなければなりませんが、こうした性的少数者を、身体・精神障害者を受け入れてきたように、教会は受け入れなければなりません。その上で、実際的な事柄に対処することが求められます。
 最初の人、男と女が主なる神によって創造されたのは、「極めて良いもの」として創造されたのであり、男女の関係・性的少数者・差別等は、人間に罪が混入した後に生じた出来事であり、神による人間の創造の所に、こうした問題を持ち込んではなりません。そして主なる神による救いが示された私たちは、この創造の秩序を回復することを、日々行っていくことが求められているのだと思います。
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「最初の罪と堕落、そして神の救いの契約」
  創世記2章15節~17節、3章1~19節
  ウェストミンスター信仰告白6:1-3、7:3

序.極めて良い者として造られた人間
 主なる神の御計画に基づいて、天地万物が極めて良いものとして創造され、そして人間も、神をかたどり、神に似せて、命の息吹が吹き入れられることにより造られました。それは神と共に交わり生きる者であり、被造物を治めることが目的とされました。ウェストミンスター小教理問1です。
 このことは、人間においても、永遠に生きる者として、神の義・聖・真実を受け継ぐ者として造られていました。

Ⅰ.罪を犯した人間
 そのため、主なる神は人を信頼し、一つの約束を結ばれました。生命の契約です(創世記2:16-17)。人は、主との約束を守ることは可能でした。
 しかし蛇の誘惑により、最初に女が、そして男も罪を犯します(6)。その結果、二人の目は開け(7)、「かれらは、かれらの原義と、神との交わりから堕落し、かくして罪のうちに死に、魂と肉体のすべての機能と部分が、全面的に汚れたものとな」りました(ウェストミンスター信仰告白6:2)。
 つまり素晴らしい者として主なる神によって創造された人が、不完全な者として生まれるのは、この最初の罪が原因です。病気も、肉体的・精神的な障害も、性的少数者も、主が創造された状態にはなく、人が罪を犯した結果、生じています。
 そして人は、肉の死を免れることができなくなりました。そして、この罪に汚れた目は、主なる神によって、新たに開かれなければ、罪の世界に生き、死にゆく者とされました(ウェストミンスター信仰告白6:3)。

Ⅱ.罪に目が開かれた人間
 罪の目が開かれた人間は、主により信仰の目が開かれなければ、主と共に生きることはできません(ルカ24:31、24:45)。

Ⅲ.神の愛としての原福音
 そしてこの堕落の直後に、主の愛が示されます。主は、人を罪の故に死にゆく者、滅び行くままにしておくことはありません。生命の契約は人の罪により破棄されましたが、新たな契約を結んでくださいます。それが原福音(3:15)であり、恵みの契約です。
「お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
 わたしは敵意を置く。
 彼はお前の頭を砕き
 お前は彼のかかとを砕く。」(3:15)

 ここで突然「彼」が出てきます(参照:49:9)。旧約聖書において、突然「彼」が出てきたとき、キリストを指し示すことがあります。
 サタンの使いであるユダヤ人は、キリストを十字架に架け、処刑します。しかし、キリストにとっては「かかとが砕かれた」程度の軽傷です。しかしキリストは死から甦り、再臨されるとき、サタンである蛇を滅ぼします。それが蛇の頭を砕くということです。
 主なる神は、人間を愛しておられます。そのため人間が主との約束を破り、罪を犯したにもかかわらず、罪を赦し、救いへと導いて下さいました。それが、この原福音において語られています。

Ⅳ.恵みの契約は現在にまで継がれている
 ここで与えられた原福音は、生命の契約に代わる恵みの契約として、ノア・アブラハム・モーセ・ダビデにより更新され、キリストにより完成されます。そして今に生きる私たちも、この恵みの契約の下、神の民として生きることが良しとされています。
 主なる神はキリストにより、罪の贖いを成し遂げ、キリストが死から勝利を遂げて復活されることにより、キリストにつながるあなたも罪が贖われ、救われることを約束してくださいました。
 つまり、主が提示してくださった救いを受け入れ、信じるとき、主はキリストの十字架により罪を贖い、神の子として、永遠の生命を約束してくださいます。
 ですから今に生きる私たちは、主が御言葉によりお示し下さった罪の贖いと救いを受け入れ、信じることです。
 しかし私たちは今、地上の歩みの中、なおも罪の中に生き、罪赦された罪人として、苦しみを享受しています。それは「女は産みの苦しみを負い、人は労働の苦しみを負うこととなった」結果です(16-19)。
 これらは死にゆく者にとっては空しいものですが、主により救いへと招かれている者にとっては、苦しみから解放された神の国が約束されています。
 だからこそ、私たちは今なお様々な苦しみを担って生きていますが、なおも主により恵みの契約に入れられている者として、感謝と喜びをもって、主を信じ、主の御声に聴き従ってゆく者でありたいものです。
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 「ノアの洪水による滅びと神の恵み」  創世記6章~9章
  ウェストミンスター信仰告白6:6、3:4、7:4
序.
 主なる神は、天地創造の最後に、神にかたどり、神に似せて命の息吹を入れることで人を造られました(1:26-27、2:7)。
 しかし人は主との約束を破り罪を犯しました(2:17-18 命の契約、3:6 全的堕落)。罪の結果は死であり、彼らから生まれ来るすべての人が、生まれながらにして、そして日々、主の御前に罪を犯す者となりました。
 それでも主なる神は人を愛され、キリストにあってサタンを滅ぼし、罪を贖い、救う約束をお与えくださいました(3:15:原福音)。

Ⅰ.主の御支配と御力
 主の恵みにより罪が贖われ、神の子とされることが約束された人でしたが、なおも罪の中に生き、すべての者が罪を繰り返します。主は、「地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められました」(6:6)。そのため、主はすべてを滅ぼすことを決断されます。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も」(7)。主は、義と聖において御支配され、すべてを滅ぼす御力をもっておられます。主の裁きには例外がありません。
 旧約のイスラエルの民も、そして新約に生きる私たちキリスト者も、ここで、自らの罪を顧みることが求められます。私たちは、生まれながらにして持っている罪責をもって生まれ、日々、行いにおいて・言葉において・心の中で、罪を犯しています。

Ⅱ.主を信じる者
 「しかし、ノアは主の好意を得た」(8)。なぜノアなのか聖書は語りません。主から与えられる一方的な恵みです(ウェストミンスター信仰告白3:4)。
 しかし同時にノアは主を信じ、主からの命令に服従します(信仰義認)。ノアは主の命じられたとおり忠実に箱舟を造りました。
 一方周囲の人たちは、ノアが箱舟を造っているにも関わらず、関心を示すことなく、今まで通りの生活を続け、丘の上で大きな舟を造るノアをあざけったりしていました。つまり彼らの死は、主の命令に聴き従わなかった彼ら自身の責任です(参照:ウェストミンスター信仰告白6:6)。

Ⅲ.恵みの契約の更新
 「神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる」(9:1-2)。主なる神が天地創造のとき語られたこと(1:28)を再び語られます。すべての人と被造物は、ここから再興されます。
 そして主は契約を結んでくださいます。「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる……」(9:9-10)。恵みの契約(3:15)が更新されました。
 つまり、生命の契約(2:16-17)は、人が罪を犯すことにより破棄されましたが、恵みの契約は更新され、アブラハム・モーセ・ダビデにおいて更新され、継続され、約束のメシアであるイエス・キリストの来臨と十字架の御業により、有効とされます。
 そしてこの恵みの契約は、現在に生きる私たちにも受け継がれ、御言葉により示されるイエス・キリストの十字架の御業を受け入れ、信じることが求められています。

Ⅳ.戦争・疫病・飢饉・自然災害と契約のしるしとしての虹
 そして、私たちはもう一つ注目しなければなりません。「わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」(9:11)。
 主なる神は、人が罪を繰り返すことに対して、地上に人を造ったことを後悔し心を痛められたように(6:6)、すべてを滅ぼし尽くしたい思いもあるかと思います。しかし、主なる神は、もう、そうしたことはしないと、宣言してくださいました。主がお与えくださった恵みあり、主は忍耐して、人が悔い改めるときを待っていてくださいます。
 そして、それでもなお罪を繰り返す人に対して、戦争・疫病・飢饉・自然災害により主の御力を示して主による裁きを警告し、主の御前に罪を悔い改めて、主なる御言葉に聴くように求めておられます。特に地震や台風・自然災害に関しては、地球科学・気象学が発達し、メカニズムが分かってきましたが、それでもなお主なる神がすべてを支配しておられ、裁きを行う御力をもっておられることを警告として発しておられることを、私たちは忘れてはなりません。
 同時に主は契約のしるしとして虹を与え、主の恵みが私たちに示されていることをお示しくださっています(9:12-16)。
 
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 「バベルの塔と大バビロン」  創世記11章1~9節
  ウェストミンスター信仰告白6:3、33:2
 
Ⅰ.原罪と罪の継承
 最初の人アダムとエバが罪を犯すことにより、彼らから生まれるすべての人が、生まれながらに、そして日々の生活の中で、主なる神の御前に罪を犯す者となりました。主はアダムに対して、罪を悔い改め神を信じて生きることによる救いを約束してくださいました(原福音・創世記3:15)。
 しかし罪がなくなることはなく、主なる神は、ノアの時代にすべてを滅ぼすために洪水を起こします。このときノアに対しては、箱舟を作るように命じ、ノアとその家族は、主の御声に聴き従い、箱舟を作り、洪水の中にあっても、助けられました。

Ⅱ.神の存在を否定するために用いられる科学技術
 その後も、人間は神の御前に罪を繰り返します。罪の極みとして語られるのがバベルの塔の建設です。
 「彼らは、『れんがを作り、それをよく焼こう』と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた」(3)。これは、彼ら自身が発明した産業の発展です。それらを神から与えられたものとして、感謝して用いることは、すばらしいことです。
 しかしここに問題が生じます。高く・大きく建てることにより、自らの力を誇示したくなるのが人間の罪です。しかしそれだけに留まることはありません。「彼らは、『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう』と言った」(4)。
この思いは、自らが神に代わる存在になる思いが潜んでいます。
 そもそも人間は、神にかたどり、神に似せて造られた存在です(創世記1:26)。人間が、神に代わり、創造主になることは不可能であり、すべてを支配することもできません。従って、人間が神に代わろうとした瞬間、人は死ばかりか、神からの裁きを避けて通ることができない存在となったのです。
 主イエスは「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と語られました(マルコ3:28-29)。この聖霊を冒涜することこそが、神の存在を無視し、自らが神に成り代わろうとすることです。

Ⅲ.人間の罪とバベル
 「主は降って」来られます(5)。
 主なる神と人間の違い、空間的に無限・時間的に永遠・不変の神に対して、人間は、有限・時間的・変化する存在です。
 神のこの憤りが、言葉の混乱によって示されます(6,7)。これは人間に対する神による大いなる警告です。
 ノアの洪水によっても人の罪が代わらなかったように、このような神の御業があっても、人の罪は代わりません。言葉が混乱し、散らされることにより、国と国を分かつこととなり、国の中で民を支配する独裁者が出現します。さらに世界征服を行うために戦争を行う者たちが出現します。こうした人間の罪は、変わることはありません。全的に堕落しているからです。

Ⅳ.バビロンに勝利される主なる神
 日本語では「バベル」と「バビロン」と区別されています。しかしヘブライ語では「バベル」と「バビロン」は同じ言葉です。
 バビロンと言えば、南ユダ王国を滅ぼし、イスラエルを捕囚の民としたバビロン帝国のことを思い浮かべますが、聖書全体では、人が神に代わろうとした罪を犯し、神の裁きがもたらされるものの代表であり、バビロンはサタンそのものを指し示しています。
 イザヤ書では、13~21章で周辺諸国に対して罪を指摘し、罪を悔い改めて、主なる神を信じるように語り続けます。このとき、13章においてバビロンについて語り、改めて最後の21章においてバビロンの陥落が語られています。21章はバビロン帝国のことですが、最初の13章で語るバビロンはサタンの象徴としての、創世記で語られているバベルとしてのバビロンです。ですからイザヤは、バビロンの滅びに対して、続く14章で神の民イスラエルの回復を預言します。
 そしてヨハネの黙示録を見ると、18章で大バビロンが倒れ、滅亡することが語られていきます。このバビロンが滅びることにより、神の国で小羊の婚宴が行われ、神の御国の完成が語られていきます(19章以降)。
 つまりバベルの塔の建設は、人間がサタンの支配の下、神に代わろうとする大きな罪が語られています。このことの影響・混乱が今の世界にも引き継がれています。キリストが再臨し、最後の審判が行われてバビロンが滅びなければ、この混乱が収束し、神の御国が完成することはありません。
 
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 「アブラハムへの召しと恵みの契約」  創世記12章1~9節、15章
  ウェストミンスター信仰告白10:1,2
 
 序.
 人がバベルの塔を建て、神に近づこう、神に成り代わろうとする思いが潜み始めることにより、主は彼らをさばき、互いに言葉の交流ができなくなりました。その結果、民族に分かれ、国が生じ、国内において権力争い、外国との間で戦争が起こります。これらが解決するためには大バビロンが滅びる最後の審判を待たなければなりません。

Ⅰ.祝福=救いが与えられるアブラハム
 主なる神は、そうした中にあっても、人間を救うために動いてくださいます。それがアブラハムへの召しです。
 主なる神はノアの時同様にアブラハムに直接、声をかけられます。「御自分が命に予定している者たちすべてを、そしてかれらだけを、神は、御自分が定めた、ふさわしいときに、かれの言葉と霊により、かれらが生まれながらにしてその中にある罪と死の状態から、イエス・キリストによる恵みと救いへと、有効に召命することをよしとされる」(ウェストミンスター信仰告白10:1)。
 主はアブラムに声をかけられます(12:1,2)。アブラハムは主の言葉に従って旅立ち(4)、主を礼拝します(7,8)。「すなわち、神は、〔第一に〕御自身に関する事柄を霊的に、かつ、救いに役立つように理解できるよう、かれらの知性を照らし、また〔第二に〕かれらの石の心を取り去って、かれらに肉の心を与え、さらに〔第三に〕かれらの意志を新たにし、その全能の力によって、かれらを善なることへと向かわせ、かくしてかれらをイエス・キリストへと有効に引き寄せられる」(信仰告白10:1)。

Ⅱ.祝福の約束
 このとき、主なる神はアブラハムに対して、祝福を約束してくださいました。ここでは具体的なことはなく、アブラハムを大いなる国民にすること(①子孫の繁栄、②約束の地が与えられる)が約束されただけでした。
 主は改めて声をかけてくださいます(15:1)。
このときアブラハムはロトとも別れ(13章)、
家を継ぐ者がいませんでした(15:2)。アブラハムは、自らに子どもが生まれることなど予想ができませんでした。
 しかし主はアブラハムに「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」(4)と語り、あなたの子孫は星のように増えることを約束してくださいました(5)。アブラハムは具体的なことは分からないけれども、主なる神を信じ、主の御声に聴き従う者とされました(6)。
 このことは100歳のアブラハムにイサクが与えられることにより実現します。
 信仰とは、具体的なことが示されて理解することにより信じるのではなく、むしろ、具体的なことが示されていない中、主がお語りくださる御言葉を受け入れ、信じて行動することです。
 主はアブラハムに嗣業の地を約束してくださいます(15:12-16)。しかしこのことは、ヤコブの時代にエジプトに下ってから400年間、エジプトで寄留し、奴隷として仕えた後、モーセにより開放されて出エジプトを果たし、ヨシュアにより約束の地に帰還することによりようやく実現します。

Ⅲ.恵みの契約における信仰の位置づけ
 アブラハムにより恵みの契約が更新され、主からの祝福が約束されるのですが、大切なことは、主が賜る御言葉を信じる信仰にあります。
 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」(ヘブライ11:1,2)。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」(同11:6)。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。…ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです」(同11:13-16)。
 恵みの契約は神から与えられる恵みを受け取る信仰で、一方通行です。神との取引として、人間の側で条件を出し成立するものではありません。「イエス・キリストに対する信仰とは、それによってわたしたちが、救いのために、福音において私たちに提供されているままに、キリストのみを受け入れ、彼にのみ依り頼む、そのような救いに導く恵みの賜物です」(ウ小教理問86)。
 信仰とは、主から与えられる救い・祝福を信じ・受け入れること、それが実現するまですべてを主に委ねて生きることです。

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「恵みの契約と割礼」  創世記17章
  ウェストミンスター信仰告白27:1,5
 
 
序.
 主なる神は、アブラハムを召し出してくださり、祝福をお与えくださいましたが、最初に主から召しを受けたとき(75歳、12:4)から、すでに24年が経ち、アブラハムは99歳となっています(1)。その間にアブラハムはハガルによりイシュマエルが生まれ、すでに13歳となっています(25)。

Ⅰ.主が人と結んでくださる恵みの契約
 主の約束は、時に実現するために時間を要し、約束を待つ者にとって忍耐が求められます。
 主なる神は改めてアブラハムに現れ、お語りになります(1~2)。ここで主は、この約束は契約であることを繰り返し語ります。
 通常、契約は双方の同意で締結されます。しかし聖書が語る契約は、主なる神が私たち人間に対して一方的にお与えくださる恵みです。改革派教会では、「恵みの契約」と語っています。そしてこの恵みの契約は、私たち人間の側で拒否しない限り、主からの恵みがて与えられます。
 そして主なる神がお与えくださる契約は、永遠の契約です(7)。つまり、契約を結んでくださる主なる神は、この契約を変更することも破棄することもありません。

Ⅱ.信仰の父アブラハム
 また主なる神は、アブラムに「アブラハム」という名をお与えくださいます(5)。「アブラム」は「私の父は高められる」という名でしたが、「アブラハム」は、「多くの国民の父」のことであり(5)、「信仰の父」とも呼ばれています(参照:ローマ4章)。
 さらに主なる神はアブラハムに対して、「王となる者たちがあなたから出る」とお語りくださいます(6)。ユダヤの王としてのダビデ、と共に王の王としての御子イエス・キリストが約束されています。
 また主なる神は、この主の約束は、妻サラにより実現することをお語りくださいます(15-16)。アブラハムは、ハガルから生まれたイシュマエルが跡を継ぐと思っていました(18)。しかし主なる神は、「そうではないんだ」と語られます。100歳になるアブラハム、90歳になるサラから、約束の子が与えられ、その子孫により、祝福が実現していくことを約束してくださいます(19)。アブラハムは、この約束を信じ、受け入れたことから、信仰の父と呼ばれるようになるのです。
 「主なる神を信じる」と語るとき、それは主なる神が全知全能の神であり、不可能なことは何もないお方であることを受け入れることです。つまり私たちが主なる神を、人間の常識の中に主なる入れてしまうと、神の奇跡を疑うこととなります。つまり私たちは、主イエスの処女降誕や十字架の死からの復活、主イエスの奇跡・癒やしの御業を受け入れることが求められています。

Ⅲ.永遠の契約のしるしとしての割礼
 このとき主なる神は、アブラハムとイスラエルに対して、永遠の契約のしるしとして、割礼をお与えくださいます(9-14)。
 割礼は、出エジプト時に与えられる過越と共に、旧約における聖礼典であり、それが新約において、洗礼と主の晩餐へと引き継がれます(ウェストミンスター信仰告白27:5)。
 つまり割礼は、主がお与えくださった恵みの契約のしるしであり、この契約は、主なる神の側から破棄されることはないことの証しです(同27:1)。
 主なる神を信じている間、主なる神の御言葉に聴き従っている間は、恵みの契約は有効なわけで、黙示録で語られている額に神の刻印が押されているのであり、確実に神の国に入る祝福や約束されています。
 これは、旧約においては割礼を受けない、つまり無割礼において、主なる神の命令に従わないことでは破棄されます(14)。つまり主なる神を信じ、主の御言葉に聴き従うかぎり契約は有効であり、契約が破棄され、滅びに定められることはありません。

Ⅳ.恵みの契約と信仰
 イスラエルの民は、肉においてイスラエルであること、アブラハムの子孫であることを誇っています。しかし主は、家で生まれた奴隷・外国人から買い取った奴隷も、割礼を受けることを求められ、神の民として受け入れてくださいます(12~13)。
 そしてこれらの礼典は、新約の時代になり、洗礼と主の晩餐に引き継がれます。
 主なる神は、旧約のイスラエルの民も、そして新約に生きる私たちキリスト者も、主なる神を信じて信仰に生きるとき、御言葉の約束に生きるとき、恵みの契約を確実に実行し、私たちの罪を贖い、神の御国の祝福をお与えくださいます。

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 「イサクの誕生と信仰」  創世記21:1~8、22:1~19
  ウェストミンスター信仰告白3:5、14:1
 
 序.
 主なる神は、アブラハムを召し出してくださり、祝福をお与えくださいました。そして主はアブラハムから生まれる子に祝福が継承し、大いなる国民にすることを約束してくださいました。

Ⅰ.神の一つの約束が実現した:イサクの誕生
 そして主なる神は、100歳のアブラハムと90歳のサラから息子イサクをお与えくださいました。人間的にいえば不可能なことであっても、主なる神は、主を信じる者に対して実現してくださいます(21:6,7、参照:ウェストミンスター信仰告白3:5)。
 主なる神は、アブラハムに対して最初に語りかけてから25年かけて、ようやく一つの約束を現実にしてくださいました。しかし主なる神は、一つの約束の実現に対して、信じて行動すればそれで良しとされるお方ではなく、次の試練・約束を命じられます。イサクを生贄として献げることです(22:2)。

Ⅱ.相反する二つの約束・命令
 アブラハムにとっては、主なる神から二つの命令が語られたこととなります。一つはサラから生まれる子が、祝福を受け継ぎ、大いなる国民になることです。そして今回、そのイサクを、主なる神に焼き尽くす献げ物として献げろという命令です。
 人間的に考えるならば、どちらを優先すれば正しいのか、と考えます。
 しかし信仰とは、私たちが神を信じることであると思われていますが、主なる神が恵みの賜物としてお与えくださるものです(参照:ウェストミンスター信仰告白14:1)。
 ですから神さまがお語りになった御言葉に対して、自分で判断してはなりません。つまり主なる神が行えと言われたことを信じて行うことが求められます。結果は、主なる神が答え、つまり解決方法を準備してくださいます。

Ⅲ.主の御心ならば、道は備えられる!
 アブラハムは、主の命じられたこと、つまりイサクを生贄として献げるために、イサクを連れて山に登りました(22:3-6)。
 イサクが 「焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」(7)と問うたことに対して、アブラハムは「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と答え、二人は一緒に歩いて行きました(8)。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとしました(10)。
 つまりアブラハムは、主なる神が命じられたことを忠実に実行したのです。
 このときもアブラハムは、結果がどのようになるかなど、予想することもできなかったことでしょう。それは最初の時に主から約束が与えられたこと、またサラから男の子が生まれると語られたことも、同じだったのではないでしょうか。
 信仰とは、約束された結果がどのようになるのかを予想して行動することではありません。まったく主の約束の答えが分からないときにも、アブラハムは主を信じて、行動し続けました。
 その結果、主なる神はアブラハムに、イサクに代わる生贄としての雄羊を用意してくださいました(11-13)。
 このときのことをヘブライ書では、「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です」(ヘブライ11:17-18)と語ります。
 私たちが神の民として生きるとき、主イエスとニコデモとの会話により、再生することが求めておられます(ヨハネ3:1-6)。
 信仰とは、肉において生きることを捨て、神の霊によって生きること、神の御言葉に従って生きることが求められます。
 ただ信仰に生きるときに一つ注意しなければならないことがあります。つまり、主なる神によって示された道だからと言って自分の思いを貫き通して、無謀を行ってはなりません。アブラハムに対して、主なる神は、イサクに代わる羊を備えてくださいました。本当に主のご計画に基づく道が備えられているならば、道が開かれ、必要が満たされていくのです。そうしたことなしに主の御心として自らの思いを計画し、それを押し通すことは、自我であり不信仰と言わざるを得ません。
 私たちは、この違いをわきまえた上で、主の御心を求め続け、信仰に大胆に生きていくことが求められているのだと思います。
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