◆使徒言行録 連続講解説教 |
「先の書簡」 使徒言行録1章1~2節 |
Ⅰ.ルカ福音書と使徒言行録 ルカ福音書を読み終え使徒言行録に入ります。私たちはルカ福音書と使徒言行録が同じ作者であるルカによって記されました。両書簡が同じ作者が記したことは、それぞれの冒頭により確認することができます(ルカ1:3、使徒1:1-2)。両書簡は同じテオフィロに対して手紙を送っています。また使徒言行録では「わたしは先に第一巻を著して」と語っていることより明らかです。 テオフィロという名は一般的に用いられた「神の友」という意味ですが、聖書の中でこの2箇所にしか出てきません。そのため彼がどのような人物であったのか、はっきりしません。 しかしルカ福音書は「敬愛するテオフィロさま」と語ります。「敬愛する~さま」という敬称は、他の箇所で「フェリクス閣下」(23:26、24:2)、「フェストゥス閣下」(26:25)と訳され、ローマの総督に対して用いられるような敬称です。つまりテオフィロもローマの高官であったと考えて良いかと思います。 Ⅱ.ルカが記した書簡 しかし両書簡の執筆がルカであったことは、簡単には説明できません。なぜならば、両書簡は執筆者を記していないからです。ただし使徒言行録内では「わたしたち」と記されており(16:10-17,20:5-15,21:1-18,27:1-28:16)、両書簡の著者はパウロの宣教旅行の同行者であったことが理解できます。 パウロの同行者として、オネシモ、マルコ、ユストと呼ばれるイエス、エパフラス、ルカ、デマスの名を挙げられています(コロサイ4:9-14)。さらに、書簡の著者は異邦人であったため、ユダヤ人であるマルコ、ユストも除外することとなり、コロサイ書のリストから残るのはエパフラス、ルカ、デマスの3名です。 さらに2世紀の段階で、これらが使徒パウロの同労者であるルカによって記されたことが諸文書において明示されています。そのため両書簡はルカが執筆したと信じられています。 ルカはパウロの同行者・同労者であると共に医者であり、また歴史的なことに関して認識があり、書き記す能力がありました。そうしたところから、主イエスの生きた時代の時代背景と共に、主イエスの御業、ペトロやパウロによって進展した新約の教会を、私たちは知ることができます。 Ⅲ.神の民にする力を有している福音書 福音書では「敬愛するテオフィロさま」と語っていましたが、使徒言行録では敬称なしに「テオフィロさま」と語っています。ローマの高官に対して、このような呼びかけを行うことができるのは、すでに神を信じてキリスト者として兄弟姉妹の交わりに入れられているからです。つまりテオフィロは、福音書を読み、キリストについての証しを聞くことにより、主なる神を信じ、キリスト者になっていました。 復活の主イエスに出会い、使徒とされたパウロの同行者・同労者であったルカが記した福音書ですが、ここに主なる神の働きがあり、神の御言葉・聖書として権威・御力を持ったのです。 Ⅳ.御言葉と聖霊 ルカ福音書24章では、主なる神を信じるためには、聖霊により心の目が開かれる必要があることを語ってきました(24:31,45)。しかしなにもない状態で、聖霊が宿り、心の目が開かれたのではありません。その前提として、復活の主イエスご自身が御言葉が解き明かされたのです。 ルカは使徒言行録の冒頭で、福音書で記したことを確認します。それは主イエスの御業です。旧約聖書において約束されていたメシアが、聖霊によって宿り、マリアの子としてお生まれになったこと。洗礼者ヨハネより洗礼を受けることにより、御父・御子・御霊の豊かな交わりの中にある神そのものであることが示されたこと。そして何よりも十字架の死と死からの甦りにより、死に打ち勝ち、罪に打ち勝ち、サタンに打ち勝たれたこと。そのお方が、天に上られ、今も、天にあって聖霊と共に私たちに臨在されていることです。 このようにして与えられた御言葉である福音書は、聖霊の働きがあり、私たちの石の心を砕き、心の目を開いて下さることにより、信じることができるようにされます。 ウェストミンスター信仰告白1:5は、神の御言葉である聖書自身が、私たちに語りかけ、聖書自らが神の言葉であることを訴えますが、同時に、私たちに聖霊が働くことにより、私たちが主なる神を信じ、信仰を持つことができるようにされることを告白します。 |
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「復活のイエスと聖霊の約束」 使徒言行録1章3~5節 |
Ⅰ.主イエスの復活が示された人たち 主イエスの十字架の死から復活を遂げられました。キリスト教信仰の中心は、キリストの十字架と死からの復活の事実です。 しかしルカ福音書では、主イエスの十字架の死から復活された事実を伝え、同時に弟子たちの心の目が開かれ、十字架の御業を受け入れ、主イエスを救い主として信じることが記されています。 Ⅱ.御言葉による信仰の養い 死から甦られた主イエスは使徒たちに聖霊を通して目を開かれました(1-2)。そして「御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し」(3)ました。 主イエスは12使徒たちを選び、共に歩んできました。主イエスが使徒たちと共にいたとき、真の福音を語りました。旧約聖書において約束されたことが、主イエスご自身において実現することを語りました。そして主イエスご自身が神の御子であることを、力ある業・つまり病人の癒やしや奇跡によりお示しになりました。そして、十字架の死と復活を3度にわたり予告していました。しかし使徒たちは、主イエスの教えと十字架が結び着きませんでした。 しかし復活の主イエスは、主イエスが使徒たちに語ってきたこと・行ってきた御業が、ご自身の十字架の死と復活に結び付いていることを、使徒たちに伝えます。 ここに信仰に求められることが語られています。私たちが「主なる神さまを信じる・信仰を持つ」と語るとき、一つには、十字架の上に死に、復活された主イエスと出会うことが求められます。私たちは、使徒たちのように直接、復活の主イエスと出会うことはできませんが、主イエスはトマスに「見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:29)と語られたように、主イエスが十字架の死から三日目の朝に甦られたことを、信仰により信じています。 さらに、キリストの十字架の死と復活により、①旧約の時代に約束されたメシアとしての御業であること、②キリストの十字架こそがあなた自身の罪の贖いのために必要であったこと、③キリストが死から復活されたように、キリストを信じる私たちも、復活の生命が与えられ、神の御国での永遠の生命が約束されていることが示されます。 このように主の御言葉の教えと主イエスの十字架の御業が結び付くことにより、私たちの信仰は強められます。 Ⅲ.教育的伝道 多くの教会において、復活の主イエスが「伝道命令」を出されたことから(マタイ28:16-20)、伝道することを求めます。主イエスが命令されているから、出て行って伝道しなければならないことは確かです。しかしこれだけでは時に律法主義になります。 聖書は、御言葉の養い抜き・聖霊の招き抜きの伝道は求められていません。つまり伝道を行うにあたって、まず、御言葉により信仰の養いが求められています。旧約聖書で語られていることと、主イエスの御業、新約聖書で語られている福音が結び付きます。そして、キリストの再臨と神の国の完成により、私たちは、神の御国に入れられ、祝福に満たされます。私たちは今日も、主の晩餐の礼典に与りますが、信仰を告白した者は神の御国の祝福が約束されています。 旧約聖書・新約聖書において語られている福音の理解を深めることにより、キリストの十字架の御業により罪が贖われ、神の子とされている確信が深められます。 この結果、教会から日々の生活に戻っても、救いの喜びに生きることとされます。私たちがキリスト者として生きることにより、信仰の証しとなり、キリストご自身が人々に示されることとなります。そうすれば、必要な時に証しすることが求められ、御言葉を語る機会も出てきます。これこそが伝道であり、教育的伝道です。 Ⅳ.聖霊に委ねて生きる 主イエスは、40日間弟子たちと共におられ、教え続けられました。しかし弟子たちはエルサレムで聖霊降臨を待たなければなりません。主イエスが天に上られ、弟子たちの前からいなくなるからです。 このとき、使徒たちは、「自分たちは主イエスから教えられた。だから自分たちの力で出て行き、伝道するのだ」と、語った所で、そうした行為は、人間的な行為です。 今に生きる私たちに求められていることは ①復活の主イエスと出会うこと ②心の目が開かれ、信じること ③御言葉が教えられ、信仰の養いに与る ④聖霊に委ねる こうした信仰に生きることこそが、真のキリスト者としての伝道となります。 |
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「天に上られる主イエス」 使徒言行録1章6~11節 |
序. 主イエスは、十字架の死から復活の後、使徒たちの信仰の目を開かれ、そして教えておられました。 Ⅰ.時を支配する主なる神と今、私たちに求められていること 弟子たちは、復活されたイエスさまを救い主でと認めましたが、イエスさまがどのような救い主であるかは理解していませんでした(6)。つまり弟子たちにとって救い主とは、当時のユダヤ人たちが思っていたように、ローマの支配の下に置かれているイスラエルを解放し、イスラエルという国を再興する王であると思っていたのです。 このとき主イエスは「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」(7)と語り、弟子たちを叱責されます。神の国の完成の時は、主のご計画の内に隠され、奥義です。私たちが推測すべきことではありません。 私たちは今改めて、救いとは何かを考え、主が時を支配していることを覚えなければなりません。主イエスはマタイ福音書24章において終末の徴について語られます。私たちは惑わされてはなりません。そして25章では十人のおとめのたとえを語られ、その時はいつ来るか分からないため、常に備えを行うことを求めています。 つまり私たちは、神の国がいつか予想するのではなく、今、主なる神を信じ、その日のために備え、そして主に委ねた生活を送ることが求められています。 Ⅱ.聖霊の時代に求められていること 主イエスは、伝道命令を語られ、天に上って行かれました(8-9)。神の御子イエス・キリストは十字架の御業を成し遂げ、天に上られ、弟子たち・私たちの目の前からはいなくなりました。しかし、主は聖霊をお与えくださいます。今は終末の時代であることを認識することが大切です。 今の時代を認識し、忍耐して信仰を貫くことが求められています。信仰を貫いて生活するとき、それは主を証しすることとなり、結果として伝道となります。 主なる神を信じ、信仰を貫いて生きるとき、その事実を隠して生きるのではなく、キリスト者であることを表明することとなり、それが結果として伝道となります。キリスト者であるという光を露わにして生きるとき、それが伝道です。 ここで注意しなければならないことは、今の時代を認識し、今の時代にしっかり生きることを語るとき、過去のこと、聖書の歴史に無関心になって良いと言うことではありません。旧約聖書において語られ、新約聖書において主イエスが成し遂げてくださった十字架の御業を理解した上で、今キリスト者として生きることが求められます。 つまり人は罪を犯し、生命の契約を破棄しました。自らの力で神に近づき、救いを獲得することはできません。私たちの持っている罪の償いを、キリストの十字架に委ねなければなりません。聖書の歴史を理解した上で、今のとき、キリスト者として忍耐して生きることが求められています。 Ⅲ.主イエスが天に上られた理由 天に上られた主イエスは、再臨されます(10-11)。ウェストミンスター大教理問53は、主イエスが天に上られた理由を語ります。 「第一にそこで人々のために賜物を受けるため」です。証拠聖句としてエフェソ4:10が挙げられています。ここに「すべてのものを満たすため」とあります。罪人である者が神の国における永遠の生命を得るために、キリストによる罪の贖いが求められ、神により義と認められる必要があります。 こうしたことは神の永遠のご計画・恵みの契約において定められていますが、それらを確認し、正式な手続きを、主イエスは今、天において、行ってくださっています。 大教理は続けて、「第二にわたしたちの思いをそこへと引き上げるため」と告白します。「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」(参照:コロサイ3:1)。地上にある罪の誘惑から離れ、神の御国における祝福を求めて歩むことです。私たちは神の御国における永遠の主の晩餐に招かれています。 最後に「わたしたちのために場所を用意するため」と語ります(参照:ヨハネ14:1-3)。 弟子たちは主イエスこそ救い主であることが示されましたが、主がお与えくださる救いについてまだ理解していませんでした。しかし私たちは今、私たちに与えられる神の御国が示され、ここに私たちの救いがあることが示されました。 天におられるキリストが、いつ再臨されても良いように、忍耐しつつも信仰を貫き、神の御国を待ち続けたいと願います。 |
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「心を合わせて祈る」 使徒言行録1章12~14節 |
序.キリストの昇天と再臨の約束 主イエスは十字架の死から復活の後、使徒たちに教えを行い、十字架の前で語られていたことの意味を説明しました。そして復活から40日が経ち、主イエスは天に昇って行かれました。このとき使徒たちは、主イエスが再臨されることを聞きます(11)。 Ⅰ.11人しかいない使徒・危機のとき ①ペトロ、②ヨハネ、③ヤコブ、④アンデレ、⑤フィリポ、⑥トマス、⑦バルトロマイ、⑧マタイ、⑨アルファイの子ヤコブ、⑩熱心党のシモン、⑪ヤコブの子ユダ 13節には、11人の使徒たちの名が記されています。つまり12人である使徒の中、イスカリオテのユダがいません。主イエスを裏切り、自殺します(18)。 イスラエルと使徒は、12であることが大切です。イスラエルの12部族ということでは、ヤコブの12人の息子たちに始まります。 ①ルベン、②シメオン、③レビ、④ユダ、⑤イサカル、⑥ゼブルン、⑦ヨセフ(マナセ・エフライム)と⑧ベニヤミン、⑨ダンと⑩ナフタリ、⑪ガドと⑫アシェル しかし出エジプトを果たし、嗣業の土地が与えられるとき、ヨセフの息子たちマナセとエフライムにはそれぞれに土地が与えられましたが、その代わりレビには嗣業の土地は与えられませんでした。 またヨハネの黙示録7章では、ヨセフの代わりにマナセが記されています。そしてレビもありますが、ダンの名がありません。 つまり名前が入れ替わろうと、イスラエルは常に12部族です。ここにイスラエルとしての存在意義があります。主なる神により満たされた数が12です。 黙示録7章では、神の御国が完成するにあたり、12部族からそれぞれ12000人が選ばれ、神の御国が完成します。これは天国に入るのが144,000人だと語っているのではなく、神によって神の国に入ることが予定されているすべての民が、神の御国に凱旋することができるのです。そして、すべての神の民が教会に集められるまで、キリストの再臨と神の国の完成もまだ来ません。 そのため、使徒が11人であることは、新たな歩みを始める教会にとって、危機のときであることを指し示しています。 Ⅱ.心を一つにして祈る使徒たち 他の者も含め120名を超える人たちが心を合わせて祈ることは至難な業です(14,15)。最後の晩餐のとき、「使徒たちは、だれがいちばん偉いだろうか、という議論していた」のです(ルカ22:24)。また、頼りにしていた主イエスは天に昇られ、おられません。 こうしたとき、私たちも自分たちの力で解決しようと考えます。使徒たちは、主イエスの一番弟子としての誇りもあったことでしょう。しかし彼らはすべてを主なる神に明け渡し、心を無にして、すべてを主なる神に委ねて、祈り求めていました。 Ⅲ.心を一つにすることができた理由は…… なぜ彼らは心を合わせて、主なる神に熱心に祈ることができたのでしょうか? 第一に、主イエスがいないからこそ、自分たちではなく、主に委ねて祈りました。 主の御前に、私たちは、行い・言葉・心の中で思っていることにおいて罪人です。救いを得るためには、何の価値も持っていない罪人です。主イエスに委ねなければ、私たちは生きることができません。「わたしたちは、〔第一に〕神の尊厳に対する畏敬に満ちた認識をもち、自分自身の、無価値・困窮・罪、を深く覚えつつ、祈る」(参照:ウェストミンスター大教理問185)。 自らの無力さが示され、危機のときだからこそ、使徒たちは主なる神にすべてを委ねて、心を一つにして、心を合わせて祈ることができたのです。このことが、「〔第二に〕罪を悔いる、感謝に満ちた、開かれた心をもって祈る」ことに繋がります(同)。 「さらに〔第三に〕理解・信仰・誠実さ・熱意・愛・神の御心に謙虚に服従しつつ神を待ち望む堅忍、をもって、祈らなければなりません」(同)。使徒たちは、復活の主イエスと出会い心の目が開かれると同時に、今まで主イエスが語られてきたことの真意・目的・理由を確認しました。そのため、彼らはもう迷いも戸惑いもありません。 Ⅳ.神の民とされている希望をもって祈れ、生きよ! 聖霊と主イエスの再臨が約束されていたからです。聖霊は直に訪れます。主イエスの再臨も、確実に訪れます。 2000年経った今、まだ主イエスの再臨は訪れていません。それは、神の国で満たされる神の民が、まだ満たされていないからです。だからこそ私たちは、主なる神にすべてを委ねて祈りつつ、信仰を証しし、伝道を行うことが求められています。 私たちはこの後、聖餐の礼典に与ります。主なる神が約束してくださり、主イエスの十字架により、私たちの罪が贖われ、神の子としてくださったからこそ、私たちから誰も神の国を取り除くことはできません。 伝道の困難な時だからこそ、私たちは、自我を捨て、ただ主なる神にすべてを委ね、心を合わせて心を一つにして祈り続けることが求められています。 |
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「実現した聖書の言葉」 使徒言行録1章15~20節 |
序. イスカリオテのユダが欠けた11人の使徒は危機のときです。イスラエルの12部族が満たされた神聖な数であり、使徒も12人いることが求められます。 Ⅰ.12人の使徒とイスラエルの12部族 主イエスは、「新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。……しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」とお語りになります(マタイ19:28~30)。 「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」(ルカ22:28~30)ともお語りになります。 そしてイスラエルの12部族と12人の使徒が、黙示録では、「また、玉座の周りに二十四の座があって、それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていた」(黙示録4:4)と語られ、イスラエルが12部族+使徒12人で神の国の座が用意されています。そのため、使徒が一人欠けることは、重大なことでした。 Ⅱ.人間の罪をも用いられる主なる神の御業 主イエスが選ばれた12使徒ですが、「主イエスは、なぜ裏切り者のイスカリオテのユダを選んだのか?」、「主イエスの失敗ではないか」と言われることがあります。 しかし私たちは、ウェストミンスター信仰告白1:5の告白に聞かなければなりません。 そして聖書はこのように語ります。16 「この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです」。 20節で語られている言葉は、それぞれ 『その住まいは荒れ果てよ、 そこに住む者はいなくなれ。』 (参照:詩編69:26)。 『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』(参照:詩編109:8)。 主なる神の御計画と約束は、私たちにとってすべてを理解することはできません。なぜならば無限・永遠・不変の神を、形あり時間的に存在する私たち人間は、主が御言葉により啓示してくださったこと以上を理解することはできないからです。 Ⅲ.イスカリオテのユダの死 ユダの死に関して、ルカは次のように語ります。「ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました」(18:参照:マタイ27:3~5)。 ルカが使徒言行録が語るユダの死は、マタイとは異なる部分もありますが、私たちはそれぞれの著者の意図を理解することが求められます。ルカが語ることは、ユダは不正を働いて、主イエスを裏切りユダヤ人に売ったこと。そしてその結果、死に追い込まれたこと。そして12使徒から外れたこと、を理解すれば良いのです。 Ⅳ.いつでも主イエスの御前に戻って来い! ではなぜイスカリオテのユダだけが使徒から外されることとなったのでしょうか?ペトロは主イエスの弟子であることを否定しました。また他の使徒たちも、主イエスが逮捕され、逃げていきました。しかし、主イエスが復活したとき、ペトロは弟子たちの中心におり、ユダを除くすべての使徒たちもこの輪の中に加わっています。イスカリオテのユダだけは滅びの道を歩むこととなりました。 ユダと他の使徒たちとの違いは、他の使徒たちは、主イエスの復活の後、主イエスの前に戻ってきて、目が開かれ、罪を悔い改めました。しかしユダは後悔しましたが、主イエスの下に戻って来ることはありませんでした。そのためユダは裁かれ、使徒の名から除去されることとなりました。 全的に堕落した中に生きる私たちキリスト者も、主の御前に罪を犯します。このときに私たちは、自らの罪を悔い改めを行い、主の御前に立ち、罪の赦しを願うことが求められます。信仰が順調なときばかりか、罪を犯して、隠れたいときであっても、なおも主は私たちが主の御前に立ち、主を礼拝することを求めておられます。 だからこそ、罪を犯したとしても主の御前に帰って来て、主を礼拝して、自らの罪を悔い改めて頂きたいと願っています。 |
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「使徒として加えられる者」 使徒言行録1章21~26節 |
序. 主イエスは復活の後40日間、弟子たちに教えを語られましたが、その後天に昇られました。そして使徒たちを中心に120人ほどが一つになって祈っていました。 Ⅰ.12人目の使徒を選ぶ条件 ペテロは使徒が11人になったこと確認し、使徒の補充を提案します。使徒が12人でなければならないことは前回確認しました。 ここでペトロは、使徒の資格を2つ語ります。第一に、「主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者」であることです(21-22)。 第二に「主の復活の証人」であることです(22)。つまり、①主イエスが十字架において死を遂げられて墓に葬られたことを確認しつつ、復活の主イエスと出会い、その事実を受け入れたものであることであり、②使徒として、主イエスの復活の福音宣教者であることです。 Ⅱ.候補者を立てる 「そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てた」(23)。ここに集まっていた120人程が、まさに一つの教会として、ペトロが語る条件にあう者を二人選びました。 福音宣教者を選出するにあたって、教会が、その資格となる人たちを選出することは非常に大切なことです。教会において牧師を選出することにおいても、改革派教会では、会員総会において一人を選出します。 牧師としての働きは、主なる神から与えられる召しによって行われるわけで、牧師自身の個人的な召命だけではなく、主なる神が教会に働いてくださる教会員の同意という客観的な同意が求められます。 Ⅲ.くじにより主のご意志が明らかになる しかし使徒たちは、一人を選出するにあたって、自分たちの仲間内で、つまり教会において選出することをしませんでした。 なぜならば最初に選ばれた使徒は、主イエスによって任命されることが求められるからです。そして彼らは主に祈り、主にすべてを委ねてくじを引きます(24-26)。ここに主の御心が込められています。 ウェストミンスター大教理問112は、十戒の第三戒において求められることの中で、「くじ」を加えます。主はくじをもちいて、「神が御自身を知らせるのにお用いになる」と大教理は告白します。つまりここで用いられるくじは、主ご自身のご意志を知らせるものであり、みだりに用いてはならないことを教えています。くじにより主のご意志が明らかになることは、ザカリアの例でも明らかです(ルカ1:9)。 Ⅳ.使徒と教皇・使徒と牧師 このとき、マティアが選ばれました。彼がバルサバよりも優秀であったとか、善良であったとか、聖書はまったく語りません。主なる神の決定として定められました。 パウロは、12使徒とは別の使徒として立てられますが、「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」と語っています(ガラテヤ1:1)。 使徒は、主なる神からの任命であり、新約の教会に立てられる教職者・牧師とは徹底的に違います。先日、ローマ・カトリック教会の教皇フランシスコが召され、コンクラーベが行われ、次の教皇(レオ14世)が決まりました。ローマ教会において教皇は、使徒ペトロから天の国の鍵の権能を受け継いだ者とされています。しかし使徒とその後の教職者・牧師とは、主なる神が直接定めた僕であるか否かで決定的な違います。 その上で最後に、今の教会に立てられている牧師の務めについて確認します。先程、教会の牧師は、教会が選挙して選出することを確認しましたが、各個教会の牧師となる者は、改革派教会では、大会の試験を合格し、中会において任職された教師であることが求められます。牧師となるべく教師は、神の御言葉を語るために召された者であり、その能力・信仰・聖性が問われます。そのため試験にパスし、中会において試問した上で、中会は主から託された働き人として按手を授けます。 そのため、主からその働きが託された牧師は、己の願望を実現するためではなく、主の働き人として、教会に集う一人ひとりに福音を伝え、仕えることが求められています。今、主の御霊が満たされ、大宮教会に一人の牧師が遣わされていることに感謝しつつ、同時に定住の牧者を欠いている教会を覚え、また新たな主の働き人が立てられるようにお祈り頂ければと願っています。 |
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