◆テモテへの手紙二  説 教


「命の約束を宣べ伝える」  テモテ二1:1~2  2019.1.6
序.
 今日からテモテへの手紙二を読み始めます。パウロが記したパウロ書簡は、ローマ書から始まり、テモテ、テトス、フィレモンと続きますが、このⅡテモテは、パウロの最後の手紙と言われています。聖書の順番は時間系列ではありません。パウロは、ローマで殉教死を遂げますが、そを前にしてこの手紙を記しています。つまりⅡテモテは、パウロの遺言とも言える手紙であり、パウロが最後に伝えたい大切なことが幾つも語られています。

Ⅰ.宣べ伝えるとは…
 パウロは自己紹介をするにあたり、「使徒となった」とは語らず、「使徒とされた」と語ります。主なる神からの召しであり、パウロは受け身です。
 宣べ伝えること(伝道)も同じです。多くの人たちは、伝道とは人を滅びから救いへと導くこと、つまり私たちが積極的に他者に語り、説得し、信じていただくことをイメージします。確かに伝道は、人の前で「キリスト者である」ことを証しすることが求められます。しかし、他者を説得させる行為ではありません。なぜならば、パウロが宣べ伝えているのは「キリスト・イエスによって与えられている命の約束」です。救いの本質である命の約束も、キリストが提供されており、それを受け取ることが求められているに過ぎず、受動的なのです。つまり伝道は、人々に積極的に信じることを迫るのではなく、主により前もって救われ、命の約束が与えられたキリスト者が、救いの喜びに満たされ、押し出されるように証しすることです。

Ⅱ.恵みの契約
 「命の約束」とは、改革派教会の教理である「恵みの契約」と同義語と言ってよいでしょう。「約束」と「契約」では、「契約」の方が拘束力が強いです。そして私たち人間相互の約束であれば、約束を破棄することもありえます。しかし、ここで約束を結んで下さるのは主なる神です。主なる神が約束の当事者になって下さる時、私たちの考える「契約」と同じ効力を持つのです。命の約束とは、神の刻印が押されることです(参照:黙示録7章)。
 洗礼は、自らの口で信仰を告白する時に、キリストの教会により授けられます。キリスト者の子どもたちも、親の信仰により幼児洗礼が授けられます。この時、神の御国において、主なる神が、洗礼を授かるあなたとの間で契約を交わして下さいます。つまり洗礼を授かるとは、私たちが信仰を告白する行為において始まるようですが、私たちが救われ、神の子とされるのは、神の御業、神による決議が行われているからです。私たちは、その神の決議により、聖霊の働きにより、神の子に加えられています。
 この契約は、キリスト・イエスによって与えられます。私たちに命の約束が提示される時、キリスト・イエスと出会うことが徹底的に重要です。クリスマスに人としてお生まれになった御子は、罪がないにも関わらず罪人として裁かれ、十字架に架けられ、死を遂げて下さいました。そして死から三日目の朝に甦り、天において永遠に生きる者であることを示されました。キリストにこそ命があります。私たちは、このキリストが示され、キリストを救い主と信じる時に、神の救いに与り、命の約束に入れられます。つまり命の約束を宣べ伝えるとは、救いの契約書にサインしますかと勧めることです。

Ⅲ.命の約束を宣べ伝える
 この命の約束を、パウロは愛弟子であるテモテに示し、テモテがさらに多くの人々に宣べ伝えるように語り、そして現在に生きる私たちにも宣べ伝えられています。
 私たちが「伝道する」、「証しをする」と語る時、キリスト者個人が行うイメージがあります。もちろん、一人ひとりがその意識を持つことは大切です。しかし伝道は個人の業ではなく、その中心に教会がなければなりません(大教理35)。命の約束は、礼拝、つまり御言葉の説教と洗礼・主の晩餐という聖礼典の執行によって、もっとも鮮やかに提示されます。だからこそ神礼拝こそが最大の伝道の場です。
 同時に、主イエスが「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)とお語りになるように、一人ひとりがキリストを証しすることが求められています。そして必要ならば、牧師を用いて下さい。

Ⅳ.恵みと憐れみ、平和があるように
 最後にパウロは、「父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように」と語ります。命の約束を受け取った者に与えられる特権・祝福です。三位一体の神が、命の約束に導いて下さった私たち一人ひとりを見守って下さっています。だからこそ、私たちは喜び、希望に生きることが出来るのです。

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 「神に感謝する生活」  テモテ二1:3~4  2019.1.13
 
 Ⅰ.祈りについて
 この手紙は、パウロ個人から愛弟子であるテモテに宛てて記された私信です。しかし、本論の最初で感謝の祈りを献げ、頌栄をもって終わります。つまり、主なる神との交わりの内に記され、また教会において公的に読まれるために記されました。そのため、主が現在に生きる私たちに語りかけた神の御言葉として、私たちは聞かなければなりません。
 パウロは神に感謝の祈りを献げます。ウェストミンスター小教理問98が語るように、祈りは、①主の栄光を誉め称えること、②罪を告白し、悔い改めること、③神の憐れみに感謝すること、④そして願いを祈り求めること、の4つです。祈りとは「願い事」と思っている人たちが多いかと思います。しかし願い事は最後の4番目です。つまり、パウロがテモテのことを主に感謝する祈りを献げる時、主による救いに与ることにより、主の栄光を誉め称え、自らの罪の悔い改めに生きていることが前提に語られています(参照:1:1)。

Ⅱ.主への感謝の祈り
 パウロは、テモテの信仰がパウロの求めているキリスト者の姿であることを喜んでいますが、そのことをテモテ自身に語りかけるのではなく、主なる神へ感謝しています。
 パウロもテモテも、そして私たちも同じですが、罪を悔い改め、信仰を告白してキリスト者となります。この時に、救いの喜びに満たされて、礼拝に招かれます。そして教会における奉仕を行います。献金を献げます。そして愛の業を行います。こうした善き業、奉仕を行うことは、信仰者自身の信仰に伴う行動です。大宮教会も、神によって呼び集められた教会員一人ひとりの信仰と献身、奉仕に支えられていますことに感謝します。
 しかし同時に、背後にあって、主なる神が私たち一人ひとりを捉え、義と認め、神の子として数えて下さり、日々聖霊により聖化の歩みをお与え下さっていることを忘れてはなりません。私たちの心は、石の心であったわけで、自己中心に生きていました。石の心が砕かれ、主を信じ、主の栄光を求めて、教会に生きることは、まさに主の御業が事前に行われており、聖霊をとおして私たちに示されているからです。だからこそ、パウロはテモテ本人を褒めるのではなく、テモテに命を与え、救いの喜びに満たし、主の奉仕者として働いているテモテを遣わして下さっている主なる神に感謝して、祈りを献げます。

Ⅲ.恵みの契約の継承
 パウロは「先祖に倣い清い良心をもって仕えている神に、感謝しています」と語ります。キリスト教は、ユダヤ的なことを排除することによって始まりました。「先祖に倣っていてはダメではないか」と思ってしまいます。しかしパウロは、先祖の信仰に倣っていることを喜び、主に感謝します。この時私たちは、神の契約の全体像を顧みることが求められます。主イエスは、律法学者を初めとするユダヤ人たちが、律法や旧約聖書の福音の解釈をねじ曲げ、律法主義であったため、彼らを厳しく非難されたのであって、律法そのものを否定されたわけではありません。そのことが、主イエスの下記の言葉で表れています。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。…」(マタイ5:17)。
 旧約・新約聖書を読む時、全的に堕落した私たち人間に与えられた神の恵みが、全体を支配しています。つまり「信じなさい。そうすれば救われる」という恵みの契約です。旧約における神の恵みに生きる信仰者の姿は、ヘブライ書11章において確認することが出来ます。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」(1-3)。そして続けてヘブライ書では、ノア(7-8)、アブラハム(17-19)、モーセ(27)などを紹介します。さらにイザヤ書、エレミヤ書等において、真の信仰者を「残りの者」と語ります。イスラエルが罪に汚れ、主なる神から離れていった中、彼らは、恵みの契約に生き、信仰を継承して行きました。パウロは、こうした恵みの契約に基づく信仰をテモテの先祖たちが引き継いで来たことを喜び、主に感謝しています。

Ⅳ.再会の願い
 またパウロは、信仰を受け継ぐテモテとの再会を切実に願っています(4)。パウロはローマで囚われの身です。そうした中、同じ信仰を受け継ぐ者との交わりが与えられることを切に願っています。私たちも、救いを主に感謝して祈りの生活を送ると同時に、旧約の信仰者に倣い、また教会での聖徒の交わりを大切に毎日を歩むことが求められています。
 
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 「信仰の継承」  テモテ二1:5  2019.1.20
 
 序.
 パウロは、テモテが祖母ロイス、母エウニケの信仰を受け継いでいることを確信し、喜んでいます。今日は、私たち自身が受け継ぎ、また次の時代の人たちに受け継ぐ信仰とは、どのようなものであるかを、一緒に考えて行きたいと願っています。

Ⅰ.純真な信仰
 「純真」とは「偽りのない」とも訳されます。反対語は「偽善者」です。偽善を語るとは、立派なこと・素晴らしいことを語りつつ、その裏腹に自らの欲望、罪が隠されていることです。つまり偽善者は、相手によって語る言葉が違います。自分より権力がある者にはへつらい、自分より下の者には強い調子で語ります。奉仕者たちは二枚舌を用いてはなりません(テモテ一3:8)。偽りのない純真な信仰とは、第一に表裏のないこと、第二に表裏のない言動が神に向かう信仰的なものでければなりません。
 パウロは「わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです」(テモテ一1:5)と語っていました。「良心の自由」は、「キリスト者として自由に生きることが出来る」と思われがちですが、神の子として神の義を貫いて生きる自由が与えられています。それに反する為政者に従うことを拒否する自由です。そしてパウロは、テモテが清い良心をもって仕えていることを称賛します(1:3)。私たちは「信仰を継承しなければ」と語りますが、継承すべき信仰は、清い心・正しい良心・純真な心から生じる愛が伴います。

Ⅱ.信仰の継承
 「信仰は個人的なこと」、「心の問題である」と思われています。日本でキリスト教信仰が根付かないのは、キリスト者自身がこのような信仰感を持っているからだと私は思っています。つまり、仏教徒は「家の宗教だ」と語り、檀家制度が崩壊に向かってもなお心の奥底には「仏教徒」であることが染みついています。それが初詣に表れ、薄く広い日本的宗教を受け継いでいます。その一方、「クリスチャンになることは個人的なこと」と思い、キリスト者でも「子どもの信仰は子ども自身に委ねる」と語る人も少なくありません。
 しかしキリスト教信仰は、生活そのものです。子どもを教育するように信仰は受け継ぐものです。そして社会と世界に広がりを見せます。それは恵みの契約に表れています。
(1) ノアの時代、人々が罪に乱れていたため、主は洪水を起こすことによってすべてを滅ぼされましたが、ノアとその家族は箱舟に逃れることによって救われました(創世9:9-11)。
(2) 主がアブラハムを選ばれた時、「わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように」(12:2)とお語りになりました。また17章では割礼を制定され、後に続く子孫との間に永遠の契約を立ててくださいました(17:7)。
 まさに家族・民族・そしてすべての子孫に、主が恵みの契約を結んでくださり、救いに生きることを求めておられます。
(3) 割礼と幼児洗礼 旧約の時代、子どもに割礼を施したように、私たちはキリスト者の子に対して幼児洗礼を授け、契約の子であることを確認します(参照:信仰告白28:2)。子どもに幼児洗礼を授けることにより、親と教会は、その子どもが神の子として神さまを信じ、信仰告白ができるように教育していくことが求められています(申命6:5-9)。
 信仰が個人的になり信仰教育が疎かになる時、キリスト教会は衰退します。しかし私たちは、信仰継承の実例を潜伏切支丹(隠れキリシタン)により顧みることができます。江戸時代、禁教令が出され踏み絵が行われますが、彼らは約250年信仰を継承しました。そして1865年に大浦天主堂が完成した時、隠れていた人たちが現れ、信仰を告白し、カトリック教徒となります。彼らは迫害・殉教を恐れつつも、信仰を継承しました。

Ⅲ.純真な信仰を受け継ぐ
 日本の為政者は、「信仰とは心の問題である」と狭く解釈させ、戦前は「国民儀礼・宮城遙拝」を求め、現在は「日の丸・君が代」を強制します。彼らは「形だけで信仰を侵害することではない」と語ります。しかしこの行為は、私たちが純真な信仰を守って生きることを奪い、信仰と生活を二元論に導きます。キリスト者が真理を貫ぬき、自分たちの罪を暴くことを、彼らは恐れています。日本に生きるキリスト者は、こうした事柄に鈍感にさせられています。この鈍感さが、今の日本の教会の現実に表れているのです。
 私たちは今、「清い心」と「正しい良心」と「純真な信仰」とから生じる「愛」を取り戻し、次の時代に生きる人たちに継承していくことが求められています。
 
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 「神の力に支えられて」  テモテ二1:6~8  2019.2.10
  
Ⅰ.手を置く
 パウロはテモテに「手を置いた」と語ります。新約聖書で手を置くことは、大きく2つの場合に行われています。一つは神の祝福を与える行為です。主イエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福されました(マルコ10:13-16)。また病人の上に手を置いて癒やされました(マルコ5:23、6:5、7:32等)。もう一つ、按手を授ける時です(ステファノら 使徒6:6)。パウロがテモテに対して按手を行ったのです。現在のように牧師・長老・執事の働きが区別されていない時代、パウロと同じように宣教者としての按手であったと考えられます。
 どのような人たちが教会役員として按手されるのにふさわしいのでしょうか。牧師・長老・執事は教会員が選出することが求められます。選挙において、外的な召命・客観的にその働き人としてふさわしいことが明らかにされます。ここに主の霊的な働きがあります。そしてもう一つ本人の内的な召命が求められます。長老・執事の場合、選挙で選出されて初めてその意志を確認することになります。按手は、外的召命と共に内的召命が明らかになる時に行われます。主は按手した者に、そして様々な奉仕を行う者に、必要な賜物をお与え下さいます。だからこそ、主への奉仕は、会員の熱心により行われますが、なおも御霊が働く主の御業であります(参照:ウェストミンスター信仰告白16:2)。
 テモテの場合、祖母ロイスと母エウニケの信仰を継承していました(5)。福音宣教者としての内的な召命を受けていたと考えて良いかと思います。外的にはパウロが彼自身の賜物を認め、そして教会において承認を受けて、按手を行ったと考えられます。

Ⅱ.主は必要な賜物をお与え下さる!
 按手される時、神から必要な賜物が与えられます(6)。牧師もそうですが、長老も執事も、最初から素晴らしい賜物が与えられ、完成しているのではありません。按手されることにより、主が御霊によって必要な賜物をお与え下さり、働き人として成長するのです。パウロは「あなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように」語ります。テモテに神の霊が宿っています。だからこそ、テモテ自身もまた、自ら研鑽を積まなければなりませんが、同時に神の御言葉に聞き、主がお与え下さった賜物を顧みなければなりません。
 日本に生きる私たちキリスト者は、少数者であること、高齢化であることより、諦めムードがあります。テモテの時代も、少数者であり、迫害の時代でもありました。苦しみが伴い、怖じ気づきます。テモテも弱く、悩み、嘆き、苦しんでいたのではないでしょうか。
 しかし私たちは、主なる神を信じています。キリストは、十字架の死から三日目の朝に甦って下さり、死・罪・サタンに勝利を遂げて下さいました。迫害する者たちに勝利する力を持っておられます。主は、パウロ・テモテ、そして私たち一人ひとりのすべてをご存じであり、私たちの祈りを聞き届けて下さる愛を持っておられます(マタイ7:7~11)。主が私たちを忘れられることはありません。主が持っておられる力と愛と思慮分別が、聖霊の働きにより、私たちに与えられています(7)。自分の力で、迫害者と対置し、伝道し、証ししするのであれば、非常に苦しいです。しかし主が必要な賜物をお与え下さり、主が先頭に立って戦って下さいます(エフェソ6:11-17)。迫害者は、主の義が恐ろしく武力に頼るのです。主イエスは語られます。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)。

Ⅲ.主を信じて生きる強さ
 パウロはローマで信仰の故に捕らえられています(8)。主イエスが逮捕された時のペトロや使徒たちが恐れたように、テモテも恐怖を覚えていてもおかしくありません。キリスト者は、少数者であること、迫害・差別される立場となり、卑屈になってしまうこともあります。特に、クリスチャンホームの子どもたちは、周囲の人たちとの違いに悩み、卑屈になり、時として教会から離れることとなります。それがあって当然です。
 しかし、私たちはキリスト者であることを恥じることはありません。キリスト者は少数者です。迫害を受けます。しかしキリストは、死から甦り、勝利しました。キリストは再臨し、神の御国が完成し、主に逆らう者たちは例外なく裁きを受けます。私たちは、このキリストの勝利に与っています。地上において、一時的に苦しみがあったとしても、勝利し祝福をお与え下さる主が、私たちを神の御国へと招いて下さいます。主はテモテに手を置き、主の働き人として召し出して下さいました。主はいつでも共に働いて下さいます。主は、教会に集う皆に、祝福をお与え下さり、主の祝福で満たしてくださいます。
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 「神の計画と恵みによる救い」  テモテ二1:9~10  2019.2.17
  
序.
 パウロは「福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください」(8)と語ります。救いの喜びに生きるのは良いが、後ろ指さされ、迫害されるのは懲り懲りだと思ってしまいます。

Ⅰ.主は救いへと招いて下さる
 私たちは、目の前にある生活だけを見ていれば、神のご計画、救いの祝福を見失います。聖書・教理の全体像を顧みなければなりません。自己中心・人間中心ではなく、神中心に考えることです。主なる神は天地万物を創造し、私たち人間も神のかたち・神に似せて創造して下さいました。私たち人間は、神の恵みがなければ生きることすらできません。
 パウロは語ります。「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです」(9)。神は、罪の故に死と滅びに向っている私たち一人ひとりを悲しまれ、神の救いへを招いて下さっています。「神は、御自分が定めた、ふさわしいときに、かれの言葉と霊により、かれらが生まれながらにしてその中にある罪と死の状態から、イエス・キリストによる恵みと救いへと、有効に召命することをよしとされる」(ウェストミンスター信仰告白10:1)。「ふさわしいとき」です。主は私たち一人ひとりに、自らの姿を顧み、罪を悔い改め、主なる神の救いを理解し、求める時をお与え下さいます。それは、人から誘われる時・試練を迎えた時・恐怖を覚えた時であり、人それぞれ異なり、神が最もふさわしい時を選んで下さいます。
 その時、主は御言葉を語り、主の霊を注いで下さり、石の心を取り除き、肉の心をお与え下さいます(エゼキエル36:26)。「イエス・キリストによる恵みと救いへと、有効に召命することをよしとされる」(同信仰告白)。有効召命です。主神が私たちと約束・契約を結んで下さいます。この約束は常に有効であり続け、神の約束は絶対的です。神は私たちを必ず救い、神の国へと必ず招いて下さいます。これが聖徒の堅忍、必ず救われますよとなります。
 しかし、私たちは罪人であり弱さを持っています。信仰が弱まり、教会から離れる人もいます。それでも神の恵みに満たされ、私たちの信仰は守られ、再び教会に戻り、神を信じて生きる者へと招いて下さいます。私たちは神さまを信じること、奉仕することに一生懸命になる必要はありません。救いを提示して下さる神の御言葉に聞き、神に委ねれば良いのです。それが信仰です。救いの感謝と喜びが与えられる時、私たちは礼拝に出席し、奉仕し、献げることもまた喜びとなります。

Ⅱ.三位一体の神の働き
 「この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ」(9b)。神の御子キリストは2000年前に人としてお生まれになり活動を始められたのではなく、永遠の昔から父なる神と共に働いておられます。常に御父・御子・御霊なる三位一体の交わりを持っておられます。永遠のご計画も天地万物の創造も、主イエスの御業も、聖霊の時代と呼ばれる新約の今も、常に三位一体の神が働いておられます(ウェストミンスター信仰告白2:3)。
つまり、ここの御言葉を読む時、私たちは三位一体なる神を理解していなければ、キリスト・イエスが永遠の昔におられるとはどういうことかということになってしまいます。

Ⅲ.キリストによって罪の赦しが与えられた!
 続けて「今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです」(10)と語ります。御子が受肉し人となられました。御子は神そのものでありつつ、人となられました。二性一人格です。罪のない御子が人となられることにより、私たちの罪の贖いが初めて可能となります。キリストの贖い抜きに、私たちの救いはありえません。
 人となられたキリストは、私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架に架かり、十字架に死に、三日目の朝に甦えり下さいました。キリストが死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。だからこそ私たちは十字架に架かられたキリストを見上げます。キリストの十字架抜きに、私たちの救いはありません。十字架が私たちの負うべき刑罰だからです。しかし同時に、私たちはキリストの十字架で止まっていてはなりません。キリストは死から甦り、罪とサタンに勝利し、私たちに救いが与えられたのです。
 キリストは甦り、天に昇られ、今も天上で私たち一人ひとりを覚えて執り成しを行っていて下さいます。キリストが死から甦って下さったように、主なる神を信じ、キリストの十字架の贖いに入れられた私たちは、復活の体が与えられ、天における不滅の命が約束されています。私たちの生きる希望はここにあります。人々から後ろ指さされ、迫害されたとしても信仰を貫くのは、天国にこそ祝福があり、人間の生きる喜びがあるからです。
 
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 「主を知り委ねる生活」  テモテ二1:11~12  2019.3.3
 
Ⅰ.キリストとの出会いによる救いの確信
 パウロは、後ろ向きな言葉が繰り返して語ります。4「あなたの涙」、7「神は、おくびょうの霊ではない」、8「わたしが主の囚人であることも恥じてはならない」、「苦しみを忍んでください」。そして11節では「恥じていません」と語ります。キリスト者の少ない日本に生きる私たちは、パウロやテモテの気持がよく理解できるかと思います。生活の中の様々な習慣・慣習に、キリスト者の感覚とは違うことが多々あります。私たちは気が付かない間に、神の真理を問うことを忘れ、周囲の人たちに従っています。神を信じていても、無意識のうちに社会を恐れ、主なる神から離れた言動を行います。ここに、少数者として生きることの戸惑い、苦しみ、多数者として生きたいとの思いが潜んでいます。
 なぜ私たちはそれでもなおキリスト者として生きるのでしょうか? キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださったからです(10)。私たち人間は、神によって創造され、神の子として生きています。人間の最もふさわしい姿、人間らしい生き方は、造り主である主と共に生きることです。罪の故に神との交わりが断たれた私たちに、主は、キリストをこの世にお送り下さいました。キリストが十字架に架かり、死と復活を遂げられることにより、罪と死に勝利されました。キリストを信じる私たちには、肉の死を遂げても、甦りの不滅の生命が約束されています。ここに、私たちがキリスト者として生きる喜びと祝福があります(参照:ウェストミンスター信仰告白18:1)。

Ⅱ.教会に求められる伝道と教育
 そして主は、福音を宣べ伝え、キリスト者の信仰の確信を強めるために、私たち人間を用いられます(マタイ28:19-20)。牧師や教会役員(長老・執事)は、自分の意志ではなく、主による召しが必要です。牧師は、内的召命を受けて神学校に入学しますが、外的召命として信仰・知的能力が試験・試問され、認められる必要があります。長老・執事も、会員に選挙される外的召命と共に、自らの内に内的召命が求められます。これらの働きは主から与えられた職務であり、そのため教会は任職時に按手を行います。
 パウロは宣教者と共に教師として任命されました(11)。つまり福音を宣べ伝えるだけではなく、福音の真理を教えていくことが求められます。教会は、福音を宣べ伝える伝道と共に、教会員を教育して行くことにより、キリストの教会が立てられていきます。伝道ばかりではダメで、教育ばかりでもダメです。バランスが問われます。
 そのため牧師も、伝道する福音宣教者でありつつ、教会を形成し教育する教師であることが求められます。そしてキリスト者一人ひとりは、主がお語りになる御言葉である聖書に聞き続け、学び続け、主の真理を知ることにより、少数者である不安や周囲に流されることがなくなり、主への信仰が固くされていきます(参照:ウ信仰告白18:2)。信仰告白が語る「救いの約束についての神的真理」は、教会の教育によって培われます。

Ⅲ.残りの者として生きるキリスト者たれ!
 パウロは主の囚人であり(8)、投獄されています。またパウロは労苦を告白します(Ⅱコリント11:23-27)。パウロは数多くの迫害に遭いながらも、信仰の確信は失われず、福音を恥とは思いません(12)。このパウロの確信は、キリストと出会い、キリストの十字架の御業の故です。この信仰の確信は、キリストが再臨される時まで、教会は守り続けることが出来ます。主が教会に必要な働き人をお立て下さり、福音宣教を託して下さっているからです。
 今、日本ばかりか欧米・韓国でさえも、キリスト者が減少して、教会が小さくなっています。旧約の預言者は、イスラエルの罪の故に、主の裁きとしてイスラエルが滅ぼされ、バビロン捕囚とされていく民に悔い改めを迫ります。「残りの者」に与えられる救いをお示し下さいます。預言者は、同胞であるイスラエル人から罵声を浴びせられながら、悔い改めと主への信仰を新たにすることを語り続けました。今の日本の教会もこれと同じです。
 今、日本も世界も世俗化し、神から離れて行っています。教会もまた、社会に引きずられ、聖書の語る福音から離れて行っています。キリスト者の中にも、世俗化している人たちが少なくありません。そうした中にあっても私たちは、主がお語り下さった福音に耳を傾けなければなりません。ここにこそ救いがあり、ここにこそ不滅の命があります。神によって創造された人間の最もふさわしい姿が示されています。信仰・福音を恥じたり歪めたりしてはなりません。私たちは少数者であっても、福音を恥と思わず、救いの喜びと希望を持って、「残りの者」として生きていくことが求められています。
 
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 「信仰と愛をもって生きる」  テモテ二1:13~14  2019.3.10
  
 
序.
 教会は、宣教(伝道)と共に、教会員を教育することが、牧師に求められています(11-12)。そして牧師は、自分の意志でその努めに就くのではなく、主の招きにより職務に就き、主なる神、聖霊の働きに委ねて、伝道と教会形成を行うことが求められています。

Ⅰ.信仰の養い
 そして教会員は、キリスト者であることに恥じることなく信仰生活を送るために、牧師が語る御言葉に聞くことが求められます。そのため牧師の資質が問われます。牧師が何を語り、何を教えるかにより、教会が立ち・倒れます。牧師不足の時代ですが、主の召しを受け、主からの必要な賜物が与えられた者が牧師となっているのか問われています。
 しかし信徒としての成長は、牧師の説教ではなく、キリストによって与えられます(13)。キリスト者一人ひとりが、主の聖霊に委ね、キリストから御言葉を聞き続けることが必要です。キリスト者は主日礼拝厳守が求められますが、礼拝に出席さえしていれば良いのではなく、教会の祈祷会、中会等の諸集会もあります。毎日の家庭・個人礼拝も大切です。聖書を読み、祈り、主との交わりに与り続けることが大切です。そのためにリジョイスや諸文書を用いて頂きたいと思います。一人の牧師の説教を聴き続けると、偏りが生じます。「健全な言葉」を獲得するためにはバランス感覚が必要で、他の先生方の話し・文書に当たって頂きたいと思います。牧師が他の牧師を批判している教会に真の成長はありません。

Ⅱ.「信仰」と「愛」
 キリスト・イエスによる信仰の養いに与ることにより、信仰と愛が与えられます(13)。「信仰」は「人間が神について信じなければならないこと」であり、「愛」は「神が人間に求めている義務」に当たります(参照:小教理問3)。これがウェストミンスター大小教理が「信仰篇」と「生活篇」に分ける区分と一致します。生活篇としての義務が「愛」であることに少し飛躍を感じられるかも知れませんが、十戒の要約「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:39、レビ19:18)において、理解して頂けるかと思います。
 ここで、ウェストミンスター信仰規準の区分図を確認します。私が作成しましたが、教理の全体像を確認するのに分かりやすいかと思っています。縦を3つ「神の教理について」、「教会について」、「キリスト者の生について」に分けています。「生活篇」を、「教会」と「キリスト者の生」に分けています。「教会」に位置する「聖書」、礼拝を中心とする「教会形成」に関しては、神の側から私たちに与えられるもので、神と私たちをつなぐ役割があります。一方、「キリスト者の生」は、神の約束である救いの希望に向っての歩みです。

Ⅲ.教理の体系
 「信仰:神の教理」に関して。私たち人間の姿、つまり罪を確認することが第一に必要です。その上で三位一体の神を知ろうとする時、時間的・空間的・変化において、有限である人間が、永遠・無限・不変の霊である神を知ることは出来ません。そのため主からの啓示(御言葉)が必要です。主なる神は、御父のご計画、二性一人格である御子イエス・キリストの御業、そして聖霊の働きがあります。聖霊が私たちに信仰を働きかけると同時に、聖徒の堅忍であり、神のご計画に基づき私たちの信仰を最後まで守って下さいます。
 教会:主は御言葉である聖書と説教、聖礼典である洗礼と主の晩餐、そして祈りにより、私たちの信仰を養って下さいます。教会を立てるための教会政治に示して下さり、牧師・長老・執事の働き、教会員として求められていることが示されていきます。キリストによる救いに与ったキリスト者が、教会内外において愛の業を行う者とされていきます。
 生活:キリスト者の生。私たち自身の信仰告白と罪の悔い改めから始まり、恵みと救いの確信が語られます。主の恵みの契約と加護により私たちの信仰は最後まで守られます。律法としての十戒により、キリスト者にふさわしい訓練が与えられます。十戒は、私たちの生活の全分野に関係し、為政者や結婚と離婚に関しても信仰告白は語ります。そして終末的な事柄として、個人としての死と復活と、神の御業としての終末と最後の審判と神の国の完成が語られていきます。この時に、キリスト者として生きることの意義・喜びがはっきりと示されているかが問われてきます(小教理問1)。

Ⅳ.賜物による奉仕
 キリストは聖書を通して、私たちに健全な言葉としての信仰と愛に生きる姿をお教え下さいます。これがウェストミンスター信条が告白し、私たちの教会を立てていく上で基礎となります。そして私たちがこの信仰と愛に生きようとする時、主は聖霊をとおして私たちに様々な賜物をお与え下さり、多くの賜物が用いられることにより教会は成長します。
 
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 「信じる者・離れる者」  テモテ二1:15~18  2019.3.17
  
序.
 テモテは孤独を感じ、信仰を貫き宣教を続けることに不安を抱いています。私たちも、キリストにより罪が赦され神の子とされたのですが、地上の歩みを続ける中、信仰生活を続けていくことの困難を覚えます。孤独に感じ、信仰が薄れ、教会から離れる人もいます。

Ⅰ.離れ去った人々
 パウロの宣教したアジア州の人々の多くが、パウロから離れ、信仰を捨てました(15)。「離れ去りました」とは「背を向ける」とも訳されます(参照:テトス1:14)。「不従順な者、無益な話しをする者、人を惑わす者」(テトス1:10)とあり、教会に偽りの教えを持ち込み、教会ら出て行った偽教師について語られています。テモテ書も、第一の手紙で偽教師に注意するように繰り返し語られてきました。これがテモテの滞在しているエフェソ教会の現状です。
 私たちが考えなければならないことは、信仰を告白し洗礼を授かったキリスト者が教会から離れて行く事実です。キリスト者が少数者のため、信仰を捨てた者も少なくなかったでしょう。主なる神、私たち自身の罪、天国の祝福を、主の御言葉から理解し、救いの喜びに生きていなければ、周囲との人間関係において、信仰を捨てることも起こります。
 ここで一つの疑問が出て来ます。「彼らは神の予定にあって信仰を告白したのに、なぜ教会から離れたのか」と。しかし彼らは一時的な感情で信仰を告白したに過ぎず、聖霊の働きにより、神のご計画に基づいて洗礼を授かったのではありません(参照:ウェストミンスター信仰告白18:1前半)。一方、神により予定されている人たちは、一度教会から離れたとしても、最後には神の御前に戻ってきます(同信仰告白後半)。だからこそ私たちは、今、教会から離れ、信仰生活を送っていない人たちがいたとしても、決して諦めることなく、主の導きにより、教会の交わりを回復する日が来ることを、祈り続けるのです。

Ⅱ.信仰の希望に生きる者
 「この希望は、決してかれらを失望させることはない」ことを確信しつつ、信仰生活を続けているオネシフォロの家族をパウロは紹介します。沈む船から逃げ出すネズミの如くに、エフェソ教会の人々は皆、パウロの元から去って行った中、オネシフォロとその家族は、なおも信仰を保ち続けています。信仰の友がいることは励ましです。だからこそ私たちは、教会内留まることなく、中会・大会・教派を超えた交わりを行うのです。
 特に、パウロにとってのオネシフォロは特別でした。迫害され、パウロは投獄されている中、信仰を保ち続けるばかりか、彼はパウロを励まし続け、ローマで投獄されているパウロを探し出し、訪問しました。囚人を探すのは至難の業です。覚悟も必要です。こうしたオネシフォロの信仰に基づく熱心に、パウロは特別な思いを持ちました。「神の戒めに服従してなされるこのような善い行いは、真の、生きた信仰の実りであり、証拠である」(ウェストミンスター信仰告白16:2)。

Ⅲ.救いは命に関わること!
 周囲を見渡してしまうと、沈む船から逃げ出すネズミの如くに逃げ出し、教会から離れ去っていくこととなります。ここには真の生きた信仰はありません。教会における他の事柄に魅力を感じ、教会に来ていただけです。礼拝を気にせず休み、教会から離れても罪悪感がありません。信仰が命の問題と理解していません。私たちが働き稼ぐのは、稼がなければ生活ができず、生きていけないからです。そのため皆が金を儲ぐのに必死になります。それと同様に、信仰が命の問題であることが分かれば、必死になるのではないでしょうか。
 神の御子イエスは罪のないにも関わらず、逮捕され十字架に架かるためにエルサレムに旅立たれました。今年は4月21日が復活節ですので、3月6日からレントが始まります。レントの期間、キリストは十字架を覚えつつ、エルサレムへの旅を続けられます。その間の歩み、どれだけの苦しみを覚えたことでしょう。ゲツゼマネの祈り、主イエスは苦しみもだえいよいよ切に祈られ、そして汗が血の滴るように地面に落ちたのです(ルカ22:44)。キリストは十字架に苦しみ、死を遂げ、墓に葬られ、陰府に下られました。これこそ私たちの歩むべき道です。それをキリストが代わりに担って下さいました。キリストを信じる私たちは、この苦しみが取り除けられています。キリストを信じる者は、肉の死を遂げても、死んでも生きます。キリストが甦られたように、キリストの再臨の時、私たちに復活の生命が与えられ、天国における永遠が与えられます。地上の歩みはなおも苦しみが伴うかも知れませんが、キリストの御業により救いの希望が示されているからこそ、私たちは周囲の人々が離れ去ったとしても、なおも信仰を捨てることはしません。出来ないのです。
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 「キリスト者として生きる」  テモテ二2:1~6  2019.5.5
 
 
Ⅰ.キリストの恵みにより強くなる
 パウロは、「キリスト・イエスにおける恵みによって強くなる」ことを求めます。「キリスト・イエスにおける」とは、「キリスト・イエスにある」と訳した方が適切です。つまり、神の恵みは主イエスによって伝えられたのですが、主イエスにこそが恵みの源泉です。「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4:14)。
 私たちはキリストの恵みの内に生きているのであって、私たち自身が努力しなければならないことから解放されています。自分で解決するのではなく、主に委ねればよいのです。
 では私たちは強くなるために何が求められているのでしょうか? 恵みの源泉はキリストにあります。キリストと共にあり、キリストを知る以外に、強くなることはありません。つまり主を礼拝し、御言葉に聞きけばよいのです。自分で何かを求めるのではなく、主がお語り下さる言葉に耳を澄まして聞くことです。主は私たちに語りかけて下さいます。

Ⅱ.主の召しを受けて生きる
 テモテは、福音を多くの人々に伝える宣教者として召されています。ペトロは、主イエスから「人間をとる漁師にしよう」(マルコ1:17)と言われ、パウロは、「わたしが選んだ器である」(使徒9:15)と語られました。彼らは自分で「イエスを証しする」と出てきた人はいません。思ってもいなかった働きが主から託されました。旧約の預言者たちも同様です。
 現在の牧師にも言えることですが、福音宣教者は、自分の意志ではなく、主がその人を召されることから始まります。主が彼に信仰を与え、賜物が与えられ、信仰の実りとして福音宣教者とされていきます(参照:ウ信仰告白16:2)。ペトロも復活の主イエスと出会い、新たな召しを受け、賜物が与えられ、福音宣教者として働きます。
 主は、ペトロ、パウロやテモテに福音宣教者としての使命をお与え下さったように、私たち一人ひとりにも、神の民としての召しをお与え下さいます。テモテや牧師のように、直接、福音宣教者として召される者もあれば、一キリスト者として福音を証しする生活へと召される人たちもいます。福音が示され、何も反応がないことはありえません。福音を聞いた一人ひとりが主の御言葉に応答し、その中から主がお選び下さった人が、さらに福音宣教者として召されていきます。日本では、教会に来る人が減少傾向です。しかし、主は、そうした所からでも、新たな福音宣教者をお立て下さいます。

Ⅲ.三つの例
 そしてパウロは、キリスト者、特に福音宣教者に与えられている信仰がどのようなものであるかを3つ語ります(3-6節)。最初にパウロはキリスト者を兵士に例えて語ります(3-4、参照:ローマ5:10、7:23、Ⅰコリ9:7、Ⅱコリ6:7、エフェソ6:11-18)。第一に苦しみをも忍ぶことです。兵士は勝利という大きな目標を達成するために、時に死をも覚悟しなければなりません。信仰は、大きな目標である神の御国に入り、神の祝福が約束されています。その一方、信仰の戦いが強いられる時、信仰の武具を身に着け(エフェソ6:10~18)、キリスト者としての使命をまっとうすることが求められます。第二に、兵士は死をも覚悟しつつ、働きを遂行しなければなりません。そのために、為政者は兵士の待遇を良くします。私たちが神の民として生きる時、主は私たちのすべてを満たして下さいます。だからこそ私たちは、経済的なことも、不安に思う必要はなく、主に委ねて祈りつつ生きることが許されています。
 第二の例は競技者として規則に従うことが求められています(5)。自分勝手ではダメです。義・聖・真実である主の民として生きる時、主の御言葉に聞き、主の御前に遜ること、謙遜になること、人々にも愛をもって仕えることが求められます。「信じなさい。そうすれば、救われる」と語れることより、信仰を持ちながらも、あとは自分勝手な生き方をするような人たちがいます。それは誤りであることを、パウロは語っています。
 そして最後にパウロは労働にふさわしい収穫が与えられるべきであるとを語ります(6)。日本社会ではいま、働いても十分な報酬を得られない人々がいます。派遣労働者・ワーキングプアです。これは社会の歪みであり、一部の人々に富が集中しています。しかし、神の国においては、そうしたことはありません。労働にふさわしい対価が与えられ、貧しい者もまた、愛の交わりの中にあって満たされます。
 主は私たちを命の泉に満たしてくださり、罪の赦しと永遠の生命をお与え下さいます。このゴールがはっきりと示された時、私たちは、救いの感謝と喜びをもって主に仕えることが許され、またすべてを主に委ねつつ、信仰の戦いを行うことが出来ます。
 
 
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「死者の中から復活された方」  テモテ二2:7~8  2019.5.12 
 
 Ⅰ.キリスト者として生きるとは
 キリスト者である私たちは、キリスト・イエスにある恵みによって強くされています(1)。キリストこそが恵みの源泉であり、キリストと共に歩む時に私たちの内にも神の恵みが増し加えられます。神の恵みを受けた者は、福音を証し、苦しみをも忍びます。
 主なる神は、神の民として救いへと導く私たち一人ひとりを愛して下さっています。そのため、理由もなく私たちに苦役を強いることはしません。はっきりとした理由があります(7)。一つは私たち自身の信仰の養いのためですが、ここではそれを語りません。ここではもう一つのことを語ります。つまり私たちに罪の赦しと救いをお与え下さるイエス・キリストの姿を顧みることです。イエス・キリストの歩まれた道を顧みる時、私たちに与えられた救いとは何かが示され、私たちが歩むべき信仰生活が示されます。

Ⅱ.福音
 私たちは、「福音」という言葉を「神による救い」として用います。しかし聖書の記されたギリシャ語では「福音」は「良い知らせ」という一般の意味を持つ言葉でした。しかし旧約の時代から「良い知らせ」は、神によって与えられる救いについて語られていました。例えば詩編68:12、96:2、イザヤ40:9、41:27、ナホム2:1を挙げることが出来ます。つまり、私たちが日々の生活を送っている時、「良き知らせ、吉報、“good news”」が、いろいろあるかと思います。しかし、「最も良き知らせ」こそが、神による救い、つまり福音なんですよと、聖書は語っています。
 パウロはこの福音を宣べ伝えるために、主によって召され、そして異邦人に宣教しています。それがテモテに引き継がれ、テモテも次の世代に引き継いでいくよう求められています(2)。私たちは今、この福音、「最も良き知らせ」を受け取っています。この福音を受け取らずして、どこに生きる希望を置くことが出来るのかと、主は私たちに語りかけます。

Ⅲ.主の約束に基づいて来られた救い主
 パウロはここで福音とは何かを語ります。第一はイエス・キリストがダビデの子孫であることです。旧約の時代からダビデの子孫からメシア=救い主が現れることが約束されていました(サム下7:11~17、同22:51、イザヤ11:1~3)。そしてイエス・キリストこそが、旧約聖書において預言されていたメシア(救い主)であることを新約聖書は証しします(マルコ1:2~4、7~8)。つまり、いつの時代でも「自分が神だ」と称する偽メシアが後を絶たない中、イエス・キリストこそが、旧約の時代から預言されていた救い主であることをパウロは証しします。

Ⅳ.復活こそが福音だ!
 続けてパウロは、イエス・キリストが歩まれた道、つまり十字架の死と復活こそが福音であると語ります(参照:ウェストミンスター大教理52)。ダビデの子であるメシアが苦難を受けることもまた、旧約聖書において預言されていました(イザヤ53章)。
 旧約の時代に預言されていたメシアが、イエス・キリストとしてこの世に来られ、そして十字架の死と復活を成し遂げられました。復活されたということは、今も生きておられることを意味します。天に昇られ、キリストを信じる私たちを招き入れて下さるために、準備して下さっています。
 ウェストミンスター大教理問答52は、後半で「それによってキリストは、御自分が神の御子であること、神の義を満たしたこと、死と死の力をもつ者に勝利したこと、生者と死者の主であること、を宣言されたのです。これらすべてをキリストは、公人、すなわちかれの教会の頭として、かれらを義とし、恵みによって生かし、もろもろの敵から守るため、また、終わりの日にかれらが死者の中から復活することをかれらに確約するためになさいました」と告白します(松谷好明訳)
 つまり、旧約の時代に預言されていた救い主が、復活されたということは、キリストを信じる私たちもまた、復活し、永遠の生命があることを指し示しています。これこそが、私たちに示された「福音」“good news"です。そして、キリストに倣い、信仰の戦いが強いられる時、私たちもまた、神の恵みに生きることが許されます。
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「救いと永遠の栄光」  テモテ二2:9~10  2019.6.2  
 
Ⅰ.福音に伴う苦しみ
 パウロが語る福音とは、イエス・キリストのことです(8)。キリストは、旧約において約束された救い主であり、私たちの罪の身代わりとして十字架の死と復活を成し遂げてくださいました。そのため、キリストを信じる私たちにも、永遠の生命が与えられています。
 しかし手紙の著者パウロは福音のために投獄されています(9、参照:Ⅱコリ11:23-28)。「苦しんでまでクリスチャンになりたくない、教会には来ない」といった声が聞こえてきそうです。

Ⅱ.神に属するキリスト者と不義と忠誠をもとめる独裁者
 私たちの信じている主なる神は、義・聖・真実な方です。神には罪がありません。そしてキリスト者は、キリストの贖いの故に罪が赦され、神の義・聖・真実が与えられます。罪赦された罪人である私たちキリスト者は、罪の社会にある争いを好まず、神が求め和解と平和を実現するため、互いに赦し合い、苦しむ者を助ける社会を目指します。
 一方キリスト者を迫害する者たちは、神の義・聖・真実を受け入れることができません。そのため、自らを神格化したり崇拝の対象としたり、絶対服従を求めます。宗教の強制は人々に服従を強いて拒否する者たちを迫害します。聖書は多くの例を提示しますが、その代表として挙げられるのがダニエル書です(3章:金の子牛を拝まず燃える炉に投げ込まれる、6章:王の名によって祈らず獅子の洞窟に投げ込まれる)。
 また、キリスト者が神の義・聖・真実を証しして生きる時、不義・罪に対して指摘します。宗教改革に生きる私たちの教会を「プロテスタント教会」と呼びますが、「抗議者」です。直接的には、当時の腐敗したローマ教会に対しての抗議ですが、腐敗した社会があれば、為政者でも誰でも抗議するのです。教会が社会に対して抗議する思いを忘れる時、私たちは宗教改革の精神を失った教会となっていることを意味しています。
 アメリカの「ホロコースト記念館」では、政治学者ローレンス・ブリットの言葉として独裁者の定義が記されています。
 ①強大で執拗な国家主義の宣伝       ②人権の重要性の蔑視
 ③団結のための敵/スケープゴート作り  ④軍隊の優位性/熱烈な軍国主義
 ⑤性差別の蔓延                 ⑥マスメディアの統制
 ⑦国家の治安への執着            ⑧宗教と支配層エリートの癒着
 ⑨企業権力の保護               ⑩労働者の力の抑圧もしくは排除
 ⑪知性と芸術の軽視と抑圧          ⑫犯罪取り締まりと刑罰への執着
 ⑬縁故主義と汚職の蔓延           ⑭不正選挙
 このように、キリスト者は、為政者の絶対服従に従わず、失政を行う為政者に抗議するため、嫌われ、虐げられ、そして迫害の対象となります。

Ⅲ.主の勝利の約束
 パウロは「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」(9)と語ります。権力者、独裁者は、権力・武力により反対者を虐げます。しかしキリストは十字架の死から甦り、罪・サタンに勝利を遂げられました。そしてキリストの再臨と最後の審判で完成します。神が敗北することはありません。キリストは、「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(マタイ5:18)、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(同10:28)と語られます。
 つまりキリストは逮捕され十字架で死を遂げ、パウロや使徒たちも殉教の死を遂げました。しかしキリストは死から三日目の朝に甦り、神の御言葉もつながれることなく、受け継がれてきました。神の御言葉にある福音は、キリストが復活を遂げたように、キリストを救い主として信じる者は、誰一人滅びることなく救われ、天国における永遠の生命の栄光を約束して下さっています。たとえ私たちを捕らえ、肉の死へと送る者があったとしても、誰も私たちを神の救いと永遠の生命の祝福を私たちから取り除くことはできません。
 日本に生きるキリスト者は、生き辛さがあります。時として虐げもあります。これから教会がさらに小さくなるかもしれません。しかし私たちには救いと永遠の生命により栄光の包まれます。私たちが救いの希望をもって信仰を貫き、主を証しして生きることを主は喜んで下さいます。
 
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「キリストと共に生きる」  テモテ二2:11~13  2019.6.9 
 

序.
 手紙の著者パウロは、信仰の故に捕まり、牢屋に入れられています(9)。そしてパウロはこの後、ローマにおいて殉教の死を遂げたと言われています。肉の死まで信仰を貫いた例として、日本ではキリシタンが挙げられます。
 なぜクリスチャンは、逮捕されても、殺されても、信仰を貫くことが求められるのか?クリスチャンは、なんだか危ない集団なのでしょうか? 私たちも、このような苦しんでまで、クリスチャンであることが求められているのでしょうか?

Ⅰ.キリストと共に生きる
 イエス・キリストは、エルサレムにおいて逮捕され、十字架の死を遂げました。普通に考えるならば、逮捕・処刑は敗北です。しかし神の御子キリストは、死から甦られました。これは私たちに、死ですべてが終わりではない、死の先に命があることを語ります。神を信じ、救いを求めるとは、甦りの生命と天国における永遠の生命に与ることです。
 しかし復活を信じる私たちキリスト者は、この世の人生を疎かにすることはしません。神は、生きるために人をお創り下さいました。今に生きることにおいても、私たちはキリストから様々な恵みの賜物、つまり生命に伴う恵みが与えられています。この世の生命が無価値なものとして、天国さえ求めていれば良いのではありません。この世における生命こそ尊く、キリストを証しし、神の求める平和と和解を実現することが求められています。
 今日は聖霊降臨節(ペンテコステ)ですが、聖霊が働いて下さっているからこそ、私たちはキリストと出会い、神を信じて、委ねて、祈ることができます。つまり、迫害・殉教の死が強調するのではなく、キリストと共に、この世においても生き、復活の生命が与えられ永遠に生きることが語られてます。

Ⅱ.神の支配を実現するために生きるキリスト者
 私たちがキリストを否定するならば、キリストも私たちを拒否され、キリストとの交わりに生きることができなくなります(12)。このことは、信仰により与えられる復活と永遠の生命を私たちの側で拒絶することを意味しています。これは、この世の人生がすべてとなります。すると現状維持を求め、苦しんでまで信じようとは思いません。この時、世の中がおかしい、誤ったことが行われていると思っても、自分とは関わりがなく、良としてしまいます。目を付けられるような、目立った行動を行いません。
 一方、主なる神を信じて生きるならば、神の素晴らしさを証しし、神の義、神の求める世界(和解と平和)を求めて、人々に訴え、誤りを指摘し、抗議したりします。この時キリスト者は、権力者に相対するため、耐え忍ぶことも求められます。この時、「キリストと共に支配するようになる」、つまり、天国における祝福に入れられます。
 キリスト者は、愛において互いに結ばれています。これが聖徒の交わり(参照:ウ信仰告白26:1)ですが、これはキリストとの交わりから始まり、クリスチャン相互の交わりへと広がりを見せ、さらにこうした豊かな交わりが、社会へと広がりを見せるのです。ですから、クリスチャンが、為政者に抵抗して、死ぬことも恐れないことは、自分たち、あるいは日本という小さな中での平和ではなく、世界における平和と和解を考えるからです。これは、社会を乱すための反対ではなく、社会秩序を回復するための反対運動です。

Ⅲ.救いの信仰に生きるキリスト者
 今までのところでは、神の義、キリストの絶対的な義を貫くことが求められていましたが、「自分はそこまではできない」と思ってしまいます。しかし主なる神は、こうした私たちの弱さ、罪深さをもご存じです。神が私たちに求めておられることは、信仰であり、神が実現されようとしている平和・和解を理解し、行動を試みることです。不完全でもよいのです。私たちの行い・信仰が不完全でも、キリストが神の御子として、十字架の死と復活により神の義を貫かれました。つまりキリストは、私たちの負の遺産である罪を、十字架の死と復活によって償って下さったばかりか、私たちが神の御前に果たすべき命令として、律法をまっとうして下さいました。
 人間イエスは、逮捕され十字架に架かる前、ゲツセマネにおいて苦しみを顕わにされました(ルカ22:42)。しかし、主の御業をまっとうしてくださいました。私たちは、このキリストの十字架によって罪が赦され、復活の生命と天国の栄光が約束されています。だからこそ、キリスト者として生きる時、信仰の故に苦しい時もあるかと思いますが、なおもキリストによって与えられた救いの希望に生きていきたいものです。

 
  
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「適格者と認められる」  テモテ二2:14~15  2019.6.23 
 
序.
 パウロはテモテに対して、苦しみを受けても耐え忍ぶことを求めています。キリスト者の人口が非常に少ない日本において、私たちがキリスト者として在り続けるために、何が大切なのか、今日与えられた御言葉より聞いていきたいと願っています。

Ⅰ.キリストに属する者の生き方
 パウロは「これらのことを人々に思い起こさせ」(14)と語ります。これらのこととは、イエス・キリストこそが福音そのものであること(8)、私たちはキリストに属している者として、世のものに属して生きてはいけない(11-13)ことです。私たちは、どうしても周囲の人々の反応を確認します。しかし私たちにとって大切なことは、キリスト者として神の御前に生きることです。自己中心・人間中心ではなく、神中心の信仰です。私たちが生きることの規準は神にあり、相対的な周囲の人々が規準になってはなりません。相対的になると罪が入り込んでも、「否」を語り、修正することができなくなります。むしろ、信仰を貫き、神の義を貫くことが、神の恵みにかなった生活です。それが信仰の証しとなります。
 続けてパウロは「言葉をあげつらわないように」と語ります。「論争するな、言い争うな」ということです。実は新共同訳聖書は翻訳が悪く、つながりがわかりませんが、後ろの文、「そのようなことは、何の役にも立たず、聞く者を破滅させるのです」に続きます。私たちは弱く、自己弁護をする時、興奮して言い争います。すると感情的になり、論理的に語ることができなくなります。それを聞く人たちは、客観的に聞くことができず、語られた言葉がたとえ正しかったとしても、受け入れることはありません。
 福音を証しすることは、神の権威をもって語るわけで、「厳か」さをパウロは求めます。つまり、心を静め、論理的に、説得力をもって語ることです。

Ⅱ.適格者と認められるために
 その上で、目の前にいる相手が何を語るかではなく、あなたがキリスト者として神の御前にどのように生きるかが問われています。努力すれば、適格者となることができるのではなく、神にキリストの故に適格者と認められるのです。私たちは主の御前に、罪が許されたのですが、なおも罪赦された罪人なのです。
 この時に大切なことは真理の言葉を正しく伝えることです。牧師ばかりか、キリスト者一人ひとりも、家庭や世にあって福音を着飾り、福音を証しすることが求められます。そのために、キリスト者として恥じるところのない者となることが求められます(参照:ローマ12:1~2)。

Ⅲ.説教者:主の御言葉に生きよ!
 だからこそ、私たちが大切にしなければならないことは、説教者は御言葉をいかに正しく伝えるかであり、信徒の皆さまは、説教をいかに正しく聞くかということです。ここでウェストミンスター大教理問159を確認します。ここで大切なことは「健全な教理を……真摯に、説教しなければなりません」です。「教理」とは、教会における「信仰告白」と置き換えることができます。聖書はどのような立場で読むかで、解釈が異なります。そのために、ガイドラインとしての信仰告白が必要なのであり、改革派教会では、ウェストミンスター信条を信仰告白として採用しています。それは、「神は聖書により、何を教えているのか」と神から考えるのであって、「私たちが救われるために何が必要か」という私たちが中心に考えることはしません。
 私自身は、ウェストミンスター信条に従って聖書を読み、説教を語っています。この時、私自身大切にしていることは、教理の全体像を把握すること、そして聖書の全体像を確認し、どこに向かっているのかを確認することです。教理の全体像を把握することは、大教理の語る「〔第三に〕神の計らいの全体を知らせて、忠実に」に当たります。そして聖書の全体像を理解することは、大教理では「〔第六に〕ただ神の栄光と神の民の回心・教化・救いを目指して、真摯に」と告白しています。
 最後に他の部分も確認して置きます。「〔第一に〕折が良くても悪くても、熱心に、〔第二に〕人間の知恵の、心そそる言葉によらず、御霊と力との証明によって、わかりやすく、…〔第四に〕聞く人たちの必要と能力に合わせて、賢明に、〔第五に〕神と神の民の魂への燃え立つ愛をもって、熱烈に」
 説教者に求められているこうしたことをご理解いただくことにより、説教を聞く皆さまも、説教において何が語られ、何が求められているのかを理解して頂きたいと思います。
 
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「真理の道を踏み外す」  テモテ二2:16~18  2019.7.7 
 
序.フェイクが氾濫する社会
 インターネットが広まり、私たちは多くの情報に溢れた生活を行っています。有益な情報を得るには非常に素晴らしいことですが、しかし誤った情報・人を陥れようとする情報(フェイク)なども一緒にあります。そのため、情報を得ようとする時、私たちは、その情報の正確さを判断する能力が求められます。

Ⅰ.教会に忍び寄る俗悪な者たち
 フェイクによって人を陥れようとすることは、いつの時代でも、そして教会の中においても起こることです。パウロはこのことを「俗悪な無駄話」と語ります。「俗悪」とは「汚らわしい、世俗的な、神を畏れぬ」とも訳せます。彼らは、自分たちが語ることが真理であるかのごとくに語り、福音を歪め、真理を否定して、私たちを陥れようとします。
 パウロは「俗悪な無駄話を避けなさい」と語ります。彼らに相対してはなりません。彼らと相対することは、彼らの思う壺であり、教会が分裂や堕落に陥る罠だからです。牧師や熱心なキリスト者の中には、「時間をかけて話し合えば理解してもらえるだろう」と考える方もいます。しかし、彼らは聞く耳を持ちません。彼らが、教会内に不和をもたらし、亀裂を大きなものとします。そのためパウロは続けて、「そのような話をする者はますます不信心になっていき、その言葉は悪いはれ物のように広がります」と語ります。真理を学び伝え、教会を立て上げるのは時間がかかりますが、腐敗は一気に広がります。

Ⅱ.ヒメナイとフィレト
 パウロは、彼らの代表としてヒメナイとフィレトを挙げます。ヒメナイは神を冒涜するものでした(参照:テモテ一1:20)。そしてテモテも教会の人々も、ヒメナイとフィレトがどういった人物であったのか、はっきり知っていたと考えられます。「彼らは真理の道を踏み外し、復活はもう起こったと言って、ある人々の信仰を覆しています」。おそらく、キリストの再臨と最後の審判が行われ、自分たちはもう復活の体が与えられた、と語っていたのでしょう。これは当時のギリシャ思想グノーシスに基づいたものであり、彼らは死者の復活を受け入れることが出来ず、自分の都合の良いように福音を歪めたのです。

Ⅲ.教会に求められる対応
 この時に私たちが注意しなければなりません。つまり、この御言葉を根拠にして、自分とは考え方が違う、信頼がない、気が合わない人たちを教会から排除しようとしてはなりません。私たちキリスト者は、罪人の集まりです。国籍・民族・性別・身分が異なっても、性格が異なっていたとしても、互いに忍耐して赦し合い、交わりを持って行くことが大切です。時として問題行動を起こす人たちもいます。そうした人たちをも、教会は受け入れ、互いにキリストにある兄弟姉妹として愛の交わりをもち、一つの教会・キリスト者同士の交わりを行い、教会としての成長していかなければなりません。つまり、キリスト者は罪赦された罪人であり、互いに忍耐しつつ、教会形成に当たることが求められます。
 一方、彼らはサタンの虜・奴隷・教会を破滅させる者です。サタンの奴隷である彼らが教会に来ることにより、教会が分裂し、破壊されていきます。そして私たち一人ひとりの神の民としての信仰が壊されていくのです。
 教会では戒規を定めていますが、「訓戒」(口頭注意)、「停止」(陪餐停止・職務停止)、と共に「除名・免職」があります。訓戒は小会と罪を犯した本人の間で確認されれば良いことですが、停止・除名・免職となれば、教会全体において共有しなければなりません。そして停止は、本人の罪の悔い改めと共に、教会や被害者との和解が求められます。一方、除名・免職は、教会からの追放です。今日の御言葉はこのことを語っています。

Ⅳ.私たちに求められること
 教会は、こうした異端者から逃れ、信仰を保っていかなければなりません。サタンは巧妙に教会の中に入ってきます。牧師や長老であっても、騙されることが起こりえます。信徒の皆さまではなおさらです。そのために、私たちは教会において教理を持ち、信仰告白を告白する必要があります。「私たちは聖書の神を信じているのであり、聖書があれば良いのだ」と語る人たちもいます。しかし聖書を解釈するのは人間であり、理解が揺らぎます。そのために教会は、教理を確立してきました。処女降誕、十字架の死と復活、三位一体、偽一人格……。こうした信仰告白の積み重ねが信仰告白です。信仰告白を学ぶことにより、私たちは様々な誘惑から信仰が守られます。だからこそ、聖書を積み続けると同時に、信仰告白から学び続けなければならないのです。こうすることにより、私たちは、パウロの語る信仰の武具を身に着けることとなります(参照:エフェソ6:10~18)。 
 
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「神の据えられた堅固な基礎」  テモテ二2:19  2019.7.14 
 
序.
 日本に生きる私たちは地震に対して非常に敏感です。東日本大震災や阪神大震災により、大地であっても大地震で揺れ、都市が壊滅状態になることを知っています。そして、私たちが家や教会堂を建てることは、一生に一度あるかないかの重大な出来事です。そのため、固い岩盤の上に家や教会を建て、安心して生きることを追求します。
 ところで、皆さんは神を信じること、教会に来ることが、頑丈な家に住むのと同様に、人生の安心につながっているでしょうか? このことを今日は考えて行きたます。

Ⅰ.信仰の本質
 「神を信じなければならない」、「礼拝に出席しなければならない」と思っておられる方はいませんか? 神を信じること、毎主日に礼拝に出席することは非常に大切なことです。しかし、強制されて行うことではありません。もし、まだそのように思っておられる方がおられるならば、すぐさま、忘れて頂きたいと思います。
 救いとは、自分の力ですがりつかなければ、落ちてしまうようなものではありません。パウロは、「神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません」と語ります。第一テモテからずっと語られてきたことであり、特に直前の2:14~18に語られていることですが、クリスチャンを惑わす者たち・異端者が、教会に入り込んできます。そして、私たちの信仰を揺さぶり、救いから引き摺り下ろそうとします。そのために、私たちは御言葉の知恵に聞き、信仰告白を身に着けることが大切であることを、先週確認して来ました。確かに、サタンの働きに対しては、知恵を用いて、賢く対応することが求められます。
 しかし、今日の御言葉において私たちに問いかけていることは、その前の段階です。つまり、救いの本質は、私たちの行為を問うのではなく、私たちの信仰に伴う行為以前に、私たちの信仰に至る身分を考えなければなりません。主なる神は、「あなたは神の子である」と宣言して下さいます。パウロは、あなたは堅固の基礎の上にいるのであり、堅固の基礎から落とそうとするサタンから神が守って下さる、と語っています。

Ⅱ.旧約聖書の証言
 ここでパウロは、旧約聖書を2箇所引用いたします。民数記16:5、同16:26です。エジプトの国で奴隷状態であったイスラエルは、主がお立て下さった指導者モーセによって救い出されます。しかしイスラエルの民は、主の御言葉を信じることをしなかったため、荒れ野で40年間彷徨っていました。そうした中、コラ、ダタン、アビラムが反逆します。それでもなお主は「あなたたちは、主に属する者、聖とされる者、神に近づくことができる、主のお選びになられた主の民である」、「あなたたちは逆らう者たちに従ってはならない」と宣言して下さいます。あなたは滅び行く者ではなく、神に属する者として、神に従い、惑わす者たちから離れるように、主は語りかけて下さいます。
 信仰とは「あなたの行為」の問題ではなく、「あなたは神の子である」身分の問題です。神がお与え下さった神の子の身分を、誰もそこから引き摺り下ろすことはできません。

Ⅲ.予定の教理に基づく
 このことを、神の救いの教理から、改めて考えて見ます。神が、「あなたは聖なる者、神に属する者である」とお語り下さるのは、神の永遠のご計画、救いの予定に基づき、神が据えられた堅固な基礎です。そのため、キリストが再臨され、最後の審判が行われた時、神に予定されている者は、確実に天国へと行き、永遠の生命と祝福が与えられます。
 この神による救いへの御計画は、時を選び、私たちに働きかけ、有効召命し、義認・子とすること・聖化の御業を成し遂げて下さいます。この神の御業が、私たちに働いた時、私たちは、自らの罪を悔い改め、神への信仰を告白し、善き業を行います。信仰告白することは私たち自身の行為ですが、神のご計画に基づいて聖霊が働いて下さった結果です。
 「神を信じなければならない」、「礼拝に出席しなければならない」ではなく、神が私たちのために天国を備えて下さっています。そのため、信仰告白では「聖徒の堅忍」、「あなたは救いからもれることはない」と宣言します。
 私たち自身の信仰は揺らぎます。誘惑に惑わされます。時に神を疑い、時に神から離れることもあります。大震災や水害で家が奪われたり、命の危険性に陥ることもあります。しかし、神は私たちを離されることはありません。私たちが信仰から漏れることはありません。私たちは神の堅固な基礎の上に、信仰という家が備えられています。だからこそ、安心し、希望をもって、信仰生活を歩むことができるのです。 
 
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「貴いことに用いられる器」  テモテ二2:20~21  2019.7.21  
 
序.
 聖書の御言葉は、前後の文脈・聖書の全体を確認しなければ、解釈を間違います。今日の御言葉でも言えます。私たちは用途毎に器を使い分けます。通常は木や陶器の器を用いますが、特別な時には立派な器を用います。そのため、パウロが金や銀の器もあれば、木や土の器もあると語れば、「自分は普通で構わない。木の器タイプだ」と語る人たちもいます。確かに教会には、色々な個性をもった人たちが集まります。教会は一つの体であり、そこに足の働き、手の働き、耳の働き、目の働き、多くの部分があり、多彩な賜物、個性、能力の人がそろっているからこそ、調和の取れた体を形成できます(Ⅰコリント12:12-31)。

Ⅰ.あなたは神の子である!
 しかしここでパウロはそのことを語っているのではありません。テモテ書の文脈を確認しなければなりません。19節でヒメナイとフィレトが出てきますが、彼らは異端者であり、教会から追い出すべき人々です。パウロがここで木や土の器にあたる人たちと語るのは、彼らのことです。つまりここで語られているのは、賜物、個性、能力の違いではなく、神の子としての身分があるかないかということです。
 マタイ13:3-9では、主イエスによって種を蒔く人のたとえが語られています。ここだけを読み、「自分は今、道ばたに落ちて、鳥が来て食べてしまう程、信仰が弱っている」、「いや私は石だらけの所に落ちた種のような弱い信仰なんだ」と語る方がいます。しかし、主イエスは直前の12:49~50で「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、私の兄弟、姉妹、また母である」とお語りになります。主イエスを長子とする兄弟姉妹としての身分が、主イエスを信じる弟子たちに与えられています。私たちは主なる神によって神の子とされ、良い土地に蒔かれた種として、豊かな実りをもたらします。「自分は本当にそのような実を実らせているのだろうか?」と思われる人もいるかと思います。たとえ、誰一人、教会に誘うことが出来なくても、「あなたがキリスト者として、ここに在り続けること」こそが、主なる神にとっては、豊かな実りをもたらしている証拠です。
 さらに直後の13:24-30で毒麦のたとえが語られます。今の時代、良い麦と毒麦が混在しています。収穫の時、つまり最後の審判において、毒麦ははっきりと目に見える形で現れ、排除されます。つまり、神によって救いへと招かれる神の民と、サタンによって滅びに至る者とは違う種です。つまり神の子としての身分を持つ者か、否かは定まっています。

Ⅱ.神の招きを受け入れるキリスト者
 今日の御言葉(テモテ二2:20-21)は、ローマ9:21-23と共に読むことによって理解を深めることができます。器を作るのは主なる神です。主なる神の永遠の計画によって、救われる者は尊い器として作られます。このことをテモテ書では、金や銀の器として語ります。私たちに与えられているこの神としての身分は、神の永遠の御計画(予定)により定められ、私たちは、聖霊の働きにより神を信じる時、神のご計画に組み込まれるのです。
 予定の教理を語る時、躓く人が出てきます。「神が前もって滅びにいたる者を定めている。恐ろしい神だ」と。しかし主なる神は、救われる資格のある者を、滅びに落とされるのではありません。私たち人間は、全的に堕落し、罪の刑罰としての死・永遠の刑罰の裁きを逃れることが出来ない者でした。神の子となる身分は持っていませんでした。それにも関わらず、神は、愛する者たちを救いへとお招き下さいます。そして、御子であるイエス・キリストが十字架の苦しみを担ってくださいました(参照:ウェストミンスター信仰告白3:8)。

Ⅲ.周囲を見るのではなく、主なる神の恵みを見よ!
 神を信じている者たちは、神の子として、金や銀の器とされています。
 しかし、私たちが周囲の人たちを見て、「あの人は金の器だ」とか、「あのひとは土の器だ」と判断し裁判官になってはいけません。十字架の上で、主イエスによって「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と救いが宣言された極悪人のように、今、土の器のようであっても、神の選びの民としての金の器であり、後に教会につながる人たちもいるのです(参照:ローマ9:22-23、ルカ22:39-43)。
 だからこそ、私たちは、周囲の人たちが神の民かどうかを判断するのではなく、私たち自身が、神の御前に立ち、神によって救われた者として、金や銀の器にふさわしい信仰生活を送ることが求められています。「だから、今述べた諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとなるのです」(Ⅱテモテ2:21)。
 
 
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「正義と信仰と愛と平和」  テモテ二2:22~26  2019.8.4
 
  
Ⅰ.正義、信仰、愛
 今日の御言葉では、「正義」、「信仰」、「愛」、「平和」という4つの言葉が並びます。聖書には、このようなキーワードとなる言葉が出てきます(参照:ヨハネ14:6、Ⅰコリ13:13、エフェ6:14-16)。私たちは一つひとつの言葉の意味を確認し理解しなければなりません。しかし同時に、これらが並んでいることにも意味があると理解しなければなりません。
 「正義」、「信仰」、「愛」は、パウロはⅠテモテ6:11でも語ります。つまり、4つの言葉が並びますが、最初の3つと「平和」が、一つにまとめられています。「正義」は、「神の義」あるいは「真理」であり、神の義に従って生きる、キリストに倣う生活、良き生活を追い求めることです。「信仰」は、私たちの神との関係です。そして「愛」は、「神の愛」が語られますが、「隣人愛」であり、私たち人間相互の関係において語られています。
 つまり「正義・信仰・愛」が並んでいることは、神ご自身の真理に基づき、私たちの神との関係が正され、そして隣人との関連が正されていくことが示されています。それが十戒の要約にも表れています(マタイ22:37-40)。

Ⅱ.平和
 一方パウロはここでこれらの3つに加えて「平和」を加えています。私たちは「平和」を語る時、戦争のないことを思い浮かべるかと思います。私たち日本人は、8月を迎えると、6日・9日・15日と平和を顧みます。広島、長崎、敗戦記念日です。戦争の悲惨さを考えるならば、今日、憲法改正を行い、戦争を行える国にしようとしている日本において、戦争のない平和を訴えることは、非常に大切なことです。
 しかし、聖書が語る「平和」はこれに留まりません。「平和」のことをヘブライ語で「シャローム」と言います。イスラエル人にとって、シャロームは日常生活における代表的なあいさつであり、祝福の言葉です。イスラエル人にとって平和は神がつくるものでした(イザヤ45:7)。そして神こそ平和の根源です(ヨブ25:2-3)。そのためシャロームは、平安(創15:15、出18:23、詩4:9、イザ55:12)、繁栄(詩73:3)、健康(詩38:4)、和解(ヨシ9:15、Ⅰ列20:18)とも訳されます。つまり、平和は人間生活におけるすべての恵みを表し、神の御業・神の賜物です(レビ26:6、詩29:11、122:6-8、イザ26:12)。そして、平和は神との正しい契約関係において与えられるものであり、神との正しい関係が破れると平和も破れます(詩85:9-11、イザ26:3、エレ16:5、29:11、エゼ34:25、マラ2:5)。ですから真の意味での平和は、神との関係、信仰が取り戻されなければ、実現することはありません。
 そして、キリストの来臨は平和の君の到来であり、旧約の時代から待望されていた平和の実現であり、キリストは平和の福音です(ルカ1:79、使10:36、ロマ5:1、コロ3:15)。キリストは敵意を廃棄して、神と人との平和を確立させ、人と人との和解、国と国との平和を実現する根源です(エフェ2:14-22)。今日の国家間の対立や国際的緊張に対してもキリスト者は平和の使者、平和をつくる者(マタ5:9)であることが求められています。

Ⅲ.キリストを証しする教会を建てるには
 このようにして私たちキリスト者が、正義と信仰と愛に基づきキリスト教会を建て上げ、真の平和を築こうとする時、私たちに何が求められているのかパウロは23節以降で語ります。「無知」は何もない空っぽの状態です。神の義を携えたキリスト者が、「無」である人々に語ったても受け入れられず、争いが生じます。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」(マタイ13:11)。
 主イエスはどうでしたでしょうか? ヨハネ8章に、姦通の現場で捕らえられた女性をユダヤ人たちが連れて来た時、ユダヤ人たちが誰もいなくなり、この女一人が主イエスの前にいる時、「あなたは罪はこれだ! 認め、悔い改めよ」と迫ったでしょうか? 主イエスは女が自らの姿を顧み、悔い改める時をお与え下さいました。
 「『キリストの栄誉の擁護』のために、罪が明らかにされなければならない」と語られますが、確かに、つまずきは除去されなければなりませんし、教会の純潔が求められます。しかし、罪を明らかにすれば良いのではありません。パウロが語ろうとしているのは、罪を多い包むように柔和で接し、優しく教え導くことです。愛の交わりから、神の義を理解することができ、信仰が与えられます。信頼関係がなければ、人を悔い改めに導き、和解と平和を実現することはできません。真の悔い改めは、正義と信仰と愛が満ち溢れる教会の中に起こってくることであり、ここに対立ではなく、和解と平和が実現します。
  
 
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「真理の認識」  テモテ二3:1~9  2019.8.11 
 
序.
 今年も8月を迎え、戦後74年目を迎えます。私たちにとって「戦争がないこと」が当たり前の時代を生きています。しかしこれこそが、主の奇跡であり、恵みです。パウロは、「終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい」と語ります。主イエス・キリストの十字架の御業が完成し、再臨を待っている新約の時代は、終末の時代を迎えています。

Ⅰ.私たちは神を僕にしていないか!
 パウロは語ります。3:2~5「そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります」。現代社会を照らす御言葉です。そして私たちはこの御言葉に聞き、自らの信仰にズレが生じていないか確認しなければなりません。ここから、神を信じるとはどういうことかを、私たちは考えなければなりません。私たちが神を信じる時、私たちは、どのような神を、どのように信じるのかということが問われています。
 私たちの信じる神は、どのようなお方なのでしょうか? 天地万物の創造者であり、私たち人間の創造者です。そして今も世界を支配し、私たちの生命・生活を司られています。つまり私たちが今日も生きることは、神の恵みと許しがあるからこそ可能なのです。ルカ12:15~21には「愚かな金持ち」のたとえが記されています。また、使徒5:1~11には、アナニアとサフィラのことが記されています。現代、多くの人々は「神はいない」、「神には力がない」と思っています。しかし、主なる神はこれらの例が示すとおり、今すぐにでも私たちの生命を奪い取る力を持っておられます。そして主イエスは十字架の死から復活され天国に昇られる前に、トマスに対して語られました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:29)。
 別の言い方をすれば、私たちは、神を私たちの手助けをしてくれる存在、家来にしてはいないでしょうか? 宗教改革で「神の御前に生きる(コーラム・デオ)」、改革派教会の創立宣言では「有神的人生観世界観」と語られました。神は、インマヌエル「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)であり、私たちが必要な時だけ助けて下さる神ではなく、神が私たちに生命を与え、日々の生活の必要を満たし、恵みをお与え下さいます。私たちは一日24時間、神の御前に生きているのであり、教会に来ている時だけ、聖書を読み、祈っている時だけ、神の御前に生きているのではありません。

Ⅱ.真理の認識
 「決して真理の認識に達することができません」(7)。神の救いに招かれていない人たちに聖書を理解することは出来ません。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」(マタイ13:11)。神に救いへと招かれている神の民は、「天の国の秘密(奥義)」=「真理の認識」を理解できるようになります(参照:ウェストミンスター信仰告白1:7)。いくら頭が良く、出世し、多くの金をもうけることが出来る人であっても、主により信仰が与えられなければ、真理を認識し、神を信じることはできません。

Ⅲ.主の御前に生きるキリスト者
 終末の時代にキリスト者として生きる私たちは、改めて自らの信仰を顧みなければなりません。今の時代、一般常識が変化しています。今まで当たり前のことが当たり前でなくなっています。そのため、周囲を見ながら、自分は間違っていないと思って生きていたとしても、主の御前には、正しい道から離れ、さまよっていることになりかねません。だからこそ、私たちは今日の御言葉を改めて確認しなければなりません。
 また、主イエスは、山上の説教において語っておられます。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7:13-14)
 私たちが神を信じ、信仰生活を続けることは、今の時代、容易いことではありません。私たち自身がそのことを認識し、主がお語りになる御言葉に真剣に耳を傾けることが求められます。そしてすべてを支配しておられる神の御前に、遜りと謙遜、罪の赦しと救いに対する感謝と喜びを持って生きることが求められています。
 
 
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「キリストに結ばれて生きる」  テモテ二3:10~12  2019.8.18 
 
序.
 私たちの周囲には、神を知らない多くの人々がいます。そうした中、私たちが信仰生活を継続し、礼拝に出席することが、どういうことであり、どこに向かっているのか、その結果、私たちの生活はどのようになるのかを、御言葉より考えて行きたいと思います。

Ⅰ.9つの経験
 パウロは、10節であなたは、わたしの教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐に倣いなさいと語ります。さらに迫害と苦難と加え9つの言葉が連なっています。「教え」、「行動、意図」、「信仰」、「寛容、愛、忍耐」、「迫害、苦難」に分けることが出来ます。
 これらはすべては「わたしの」につながり、パウロの行ってきたこと体験してきたことです。しかしこれらのことは、主なる神(キリスト)がパウロをとおしてテモテに示されたことであり、私たちはパウロを神聖化してはなりません。
 私たちはまず、教えに従うように求められます。主なる神は自己啓示されるお方であり、私たちは主なる神の御言葉、教えに耳を傾けることから始まります。私たちは今日も、主の御前に集められ、聖書に基づく説教に耳を傾けています。この神の教えは、キリストの十字架により罪の赦しと救いを示し、私たちのゴールである神の御国(天国)における祝福と永遠の生命を指し示します。私たちは行くべき道がはっきりと示されているからこそ、私たちは人生の旅を、御言葉に従い、ガイドである信条に基づいて、歩み続けます。
 次に行動と意図です。意図は計画とも訳されます。信仰と行動という順番で記されず、行動、意図、信仰の順番で出てきます。しかしここで語られている行動と意図は、律法主義を求めているのではなく、救われている者が、救いの感謝と喜びを伴って行う信仰に基づく行動と意図であることを忘れてはなりません。さらにここでは行動と共に意図(計画)が付いています。これは私たちにとって慰めの言葉です。私たちは、多くのことを計画しますが、すべてを実行できるものではありません。パウロも、ローマからエスパニア(スペイン)に行って宣教することを願っていましたが、適いませんでした。私たちは、主の御言葉に従って計画することが大切なのであって、そのことで良とされているのではないでしょうか。大切なことは、私たちが主なる神に従って生きているかであって、行動が出来るか出来ないかで区別されることではありません。
 次に信仰です。キリストに結ばれ神との交わりに生きようとすれば、神礼拝に行きたいと願い、行動するのです。信仰とは呼吸であり、神との交わりによって呼吸することが出来るのです。だからこそ聖書を読み、祈り、そして礼拝に出席するのです。
 救いは私自身の問題ですが、神の救いに生きる人は、神との関係を回復し、隣人との交わりに生きるのです。そのため信仰に寛容・愛・忍耐が続きます。私たちがキリストに結ばれて真の意味で罪の悔い改めに生きる時、周囲にいる人々とも、相手の罪を赦し、和解し、寛容に生きる者とされていくのです。この時、常に祈りが伴います(参照:ウェストミンスター信仰告白21:3)。愛には忍耐が伴います。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ18:22)。

Ⅱ.迫害と苦難に生きるキリスト者
 そして最後に迫害と苦難について語ります。パウロは自らの体験を証しし(Ⅱコリント11:23~28)、迫害・苦難に耐えました。テモテもそれに続きました。キリスト者はなぜ、迫害に耐えなければならないのか? 現代日本社会では、日に日に自由が奪われ、大勢に逆らえない雰囲気が作られています。この世において生き続けることだけを考えれば、声を潜めておけば良いわけです。しかし私たちはキリストに結ばれ、神の御国を受け継ぐ者とされています。神の義が歪められ不正がはびこることを、主は許されません。キリスト者が声を挙げる時、ここに衝突があり、迫害と苦難を避けて通ることができないのです。
 主に逆らい続ける者たちは、滅びの道を歩んでいます。キリストに結ばれて、神の子とされ、天国における永遠の生命が約束されている私たちとは、歩む方向が異なります。ここに衝突が生じる原因があります。これが迫害と苦難です。キリスト者は、キリストの十字架の御業の故に、罪が赦され、神の御国での永遠の生命が約束されており、神の御国こそが本当の喜びに満ちた歩みであることを知っているからこそ、この世においての衝突をが差し迫ったとしても、悪に迎合することなく、主の真理を貫く道を歩むのです(マタイ10:28)。私たちはキリストに結ばれて生きることにこそ、生きる希望が与えられています。
 
 
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「聖書に親しむ」  テモテ二3:13~17  2019.9.1 
 
序.
 私たちは、神によって召され、キリスト者として歩み続けています。しかし、日本を初め世界中でキリスト者が減っています。そのため、私たちが今、キリスト者として生涯をまっとうするために何が求められているのか、御言葉から聞かなければなりません。

Ⅰ.キリスト者の生き方が問われる時代
 パウロは「悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます」と語ります。クリスチャンが減少することは、同時に神に逆らい続ける悪人・欺師が増えることを意味します。このことは同時に、昨日まで常識であったことが非常識となることを意味します。私たちキリスト者は、真剣に考えていなければ、キリスト者として聖書の御言葉に聞き従って生きているつもりでも、自然と周囲の雰囲気に呑み込まれ、相対的に世に流され、神が明確に禁じていることを受け入れてしまうことが起こるのです。

Ⅱ.パウロからの学び、そして家庭での教育
 この時にパウロは、「あなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません」と語ります。
 テモテは、パウロの愛弟子として手取り足取り学んできました。テモテはパウロの第二回宣教旅行に同行し(使徒16:1-3)、またマケドニヤ(使19:22)等の各地にパウロの代理・使者として派遣されます。またパウロの手紙で、テモテは共同執筆者としてその名が挙げられています(Ⅱコリント、フィリピ、コロサイ、Ⅰ・Ⅱテサロニケ、フィレモン)。テモテはパウロから信頼され、かつパウロが教えているイエス・キリストの福音の意味を十分に理解していたことの証しです。そのためパウロは、信仰の故に人々から虐げや迫害がある時、パウロから学んだ福音の本質を思い出し、福音から離れないように語ります。
 またテモテはクリスチャンホームに育ち(1:5)、祖母ロイス・母エウニケから信仰教育を受けてきました。家族と神の家族としての教会における教育ことが大切です。
 幼児洗礼を授ける時、親への勧めとして、次のように教えています。
 愛する兄弟姉妹、神はこの礼典をとおして、恵みと憐れみを約束し保証してくださいますから、あなたがたも神への服従と献身を誓わなければなりません。あなたがたは、神の契約の子を預かる親として、幼子に神の御言葉を語り聞かせ、契約の真理を教えなさい。また、幼子が成長するにつれて、わたしたちの教会の信条に従って聖書を理解させ、契約の義務を喜んで果たす者となるように教え導きなさい。そのために、絶えず幼子と共に祈り、また、幼子のために祈りなさい。あなた方自身の信仰と生活を清めて、幼子に良い模範を示し、主が備えてくださったすべての恵みの手段を忠実に用いて、幼子を神の家の一員として育てなさい。
 日本では信仰は個人的なものと解釈されがちですが、キリスト教会を弱体させるための策略です。キリスト教は家族の宗教であり、地域の人々に信仰が受け継がれ根付くことが求められています。これは、祈ること、聖書を読むこと、キリスト教の話しをすることが、生活の中でふつうに行われることを意味します。そうすることにより自然と信仰の継承が行われて行くのです。これは、クリスチャンホームと共に教会で取り組むべきことです。
 先週、母の葬儀のために神戸に帰らせていただきました。この時に気づいたことですが、私は母と共に神港教会で育ったことを実感しました。礼拝・説教・長老の働き・執事の働き・聖徒の交わり…、一つひとつを学んだというより、自然と身に付いているのです。これが私にとっての財産となっています。つまり、家庭における信仰教育も大切ですが、同時に、教会が教会として在り続けることの大切さを私たちは学ばなければなりません。

Ⅲ.旧新約聖書に基づく信仰の養い
 パウロはもう一つ、テモテが幼い日から聖書に親しんできたことを指摘します。「幼い日から」です。これは旧約聖書のことです。パウロが語り教えてきたことはイエス・キリストによる福音ですが、テモテが幼い日から聞いてきたことは旧約聖書です。
 つまり聖書は、旧約聖書とイエス・キリストの福音である新約聖書の両方が必要です。聖書は、イエス・キリストの十字架が中心ですが、旧約聖書が無ければ罪意識が希薄になり、契約概念が身に着きません。
 今の日本でキリスト教会が立ちまた伝道していくことは、旧新約聖書の語る福音に立ち、教会を立てていくこと以外にありません。私たちは、周囲がどのように変わっても、これから行われる主の晩餐において神の御国の民であることを確認しつつ、地道に御言葉と教会形成による信仰の継承を、積み上げていくことが求められています。
  
 
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「救いに導く聖書」  テモテ二3:13~17  2019.9.8 
 
Ⅰ.聖書は神の御言葉
 前回、旧・新両約の聖書が共にあることが大切であることを確認しました。その上でパウロは「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれている」と語ります。旧・新約のすべての聖書が必要であり、聖書の一部分、好きな聖句だけつまみ食いをしていてはダメです。福音の中心はキリストの御業ですが、そこから離れている個所も、神の御言葉であり大切にしなければなりません。だからこそ宗教改革では「聖書のみ」と共に「聖書全体」を語ったのです。聖書全体を考える時、神の救いの御業、予定と契約の全体像が見えてきます。
 旧・新約のすべての書簡は、名が特定できないものも含めてすべて人の手で記されています。四福音書は各々福音書記者が記し、パウロの手で記されたパウロ書簡があります。それでも「聖書は神の御言葉」と呼ばれ、パウロは「聖書は神の霊の導きの下に書かれた」と語ります。一言一句どのように記すべきかを、神が人に示して聖書が記された(逐語霊感)のではありません。聖書記者の一人ひとりは、自分の意思を持っています。その上で、神の召しに従い神に仕えています。パウロはファリサイ人であり律法学者として旧約聖書に長けていました。その上で、復活の主イエスと出会い、福音宣教者として召されました。パウロの知識は用い個性を生かしつつ、聖霊の働きにより書簡を記しました。つまり、書簡の全体的な内容は神の霊によって導かれつつ、同時に文体や一語一語の言葉はパウロの特長が生きた文書となっています。このことを「有機霊感」と語ります。

Ⅱ.神の教理
 その上でパウロは、「聖書は人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」と語ります。これはウェストミンスター小教理問3に対応しています。
 私たちは聖書全体と共に、教理の全体像を理解することが求められます。ウェストミンスター信仰規準で考えて見ましょう。縦軸は、①神の教理、②教会、③キリスト者の生、の3つに分けています。神の教えは、神とはどういうお方であるかということです。神は唯一でありつつ、かつ三位一体なる神です。ここではあわせて私たち人間の姿、つまり全的堕落が語られています。私たち人間は、罪を犯し、罪の結果、永遠の生命ではなく、死とその結果としての滅びを避けてとおることが出来ません。自らの死に行く姿、死と滅びが示されるからこそ、神による救いを受け入れることが求められています。
 小教理で語る「人間が行うべき義務」を、パウロは「戒め、誤りを正し、義に導く訓練である」と語ります。これは、方向違いの道を行ってはならず、正しい道から迷い出ることなく、天国という義と祝福が与えられる道を歩み続けるようにと言うことです。パウロは、神の示された道を歩み続けることの重要さを語りります。私たちは、教会では礼拝における御言葉・聖礼典・祈りが救いに導く恵みの手段として与えられており、それに加えて聖徒の交わりがあります。キリスト者の生では、特に十戒により私たちが神の道を歩むために必要なことが示されています。十戒を代表とする律法には3つの働き(用法)があります。①市民的用法:信仰の有無を超えて示される善悪の基準であり、国家・共同体における法律として成立する。②教育的用法:罪を悟らせ、罪に対する神の怒りを理解し、悔い改めと信仰へと導く。③倫理的用法:神の義、キリストの従順な生涯に倣って生きること。この時、律法は命令であると同時に、救いの感謝をもって従順に従うものとなります。

Ⅲ.私たちを救いへとお招き下さる神
 またパウロは「聖書は有益である」と語ります。神を知り信じるためには、聖書が必要ですが、それで十分ではありません。聖書を理解しても、聖霊が働かなければ、神を信じることは出来ません。この時私たちは主に委ねることが求められます。
 そして最後に17節の御言葉に聞きます。「こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです」。これは「ねばならない」ではありません。私たちは、なぜ神を信じているのか、なぜ聖書を読むのか、救いの目的がはっきりとしていればよいのです。ウェストミンスター小教理問答問1は語ります。
問1 人間の第一の目的は、何ですか。
 答 人間の第一の目的は、神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとすることです。
 私たちは罪人として滅び行く身でしたが、すでに神の恵みにより、救いへと招かれています。そのために私たちは、聖書により、救い主である神を知り、神の御旨・願いを私たちが知り、またその道を私たちは歩み続けていくことが許されています。
  
 
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「折りが良くても悪くても」  テモテ二4:1~2  2019.9.15 
序.
 3:14-17では、旧・新約の聖書全体を総合的に理解し、神の救いを救済史的にも信仰告白の枠組みにおいても理解する必要を確認しました。

Ⅰ.裁きを行われる主の御力の前に生きるキリスト者
 宗教改革者カルヴァンはキリスト教綱要において、私たちは神を知ること、そして私たち自身を知ることが必要であることを語ります。つまり私たちは、神の真の姿を顧みることを怠ると、神の存在が小さくなり、自己中心となっていきます。
 パウロは、「生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエス」を語ります。パウロにとって、キリストの十字架の死と復活は大前提です。パウロ自身、復活のキリストと出会うことにより、キリストを証しする宣教者として召されていたからです。
 キリストは再臨され、すべての人を主の御前に集め、最後の審判を行われます。そしてキリストは、神の民に無罪宣言を行い、神の御国を完成して下さいます。そしてキリスト者には永遠の生命が与えられています。キリストの十字架なしに、私たちが生きることはできません。キリストによる救いに与った私たちが存在することの理由は、私たちを救いへと招いて下さった主なる神を誉め称え、神を礼拝し、神を永遠に喜ぶことです(参照:ウェストミンスター小教理問1)。ここに私たちの生命があります。生きている証しがあります。
 その上でパウロは「厳かに命じます」と語ります。神礼拝に臨む私たちに、神の御前に立つ厳粛さを求めます。あなたは、主の絶対的な権威・御力、救いをお与え下さる愛をどれだけ感じていますか? 私たちが神を選ぶのではありません。主なる神が、あなたを救いへと招いて下さったのです。罪の故に有罪判決を下し、滅びの宣言を下すことの出来るお方が、私たちを救いへと招いて下さっています。その方を私たちは今、礼拝しています。

Ⅱ.折りが良くても悪くても、福音を証しをもって生きよ!
 私たちが救いと生命をお与え下さる主なる神を信じる時、私たちは生き方が問われます。それは御言葉を宣べ伝えること、つまり、信仰の証しをもって生きることです。最初に告白したウ大教理問159は、説教者に求められる義務を告白していますが、同時に私たちキリスト者一人ひとりが、どのような信仰により証しの生活を行うのかも、問われています。
 神が私たちを救いへとお招き下さり、罪を赦し、義と認め、子として下さいました。私たちは感情に左右されてはなりません。神が救いをお与え下さった恵みに私たちは生きており、パウロは「折りが良くても悪くても励みなさい」と私たちに語りかけます。私たちは、順調な時、周囲の人たちに受け入れられている時には、証しが出来ます。しかし主の命令はそうではありません。周囲の人々がどういう状況かなどまったく関係なく、主を証しすることを求めます。こうした信仰に立つために、私たちは聖書全体に記された救いを理解し、救いの教理体系を理解しなければなりません。もちろん、相手に合わせて対応を変えることが求められます(参照:Ⅰコリ9:19-23)。私たちと神との関係は変わりませんが、語る相手は変わります。そのため相手の理解できる言葉で語ることが求められます。

 ③日本に生きるキリスト者として
 今の日本の状況を考えなければなりません。社会が右傾化しています。かつて靖国神社国教化法案が提出された頃は、教会の中でも反対運動が行われ、社会的にも同調の動きもあり、結果として廃案になりました。しかし現在日本は、社会全体が戦前回帰しています。教会も社会の変化に鈍感になり、反対の声がほとんどありません。私たちキリスト者は、社会における過ちを正すために言葉を獲得していくことが求められています。ヤスクニ闘争と同じ言葉を語っても、教会外の人々ばかりか教会内のキリスト者さえ、心が揺さぶることはありません。社会の中でキリスト教会が埋没し、人々が教会に魅力を感じることなく、新しい人がなかなか集わないことと重なる問題です。これは、今の時代に生きる私たちキリスト者自身の信仰が問われています。私たちキリスト者が、地の塩・世の光として、真にキリストを証しし、社会における闇を闇として語って行くことが求められています。

Ⅲ.証しの生活
 「とがめ」、「戒める」、相手の誤りを正していくことが求められています。しかしこの時、感情的になってはなりません。相手を見下し上から目線で語ってもなりません。相手の立場に立ち、受け入れられるべき道を探らなければなりません。信仰を迫る回心は、生き方の方向転換を求めるものであり、一度語って、すぐに実行できるものではありません。
 そのためキリストを証しするために、忍耐と遜りが求められます。感情的にではなく、秩序立て、論理的に福音を証しすることが求められています。 
 
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「自分の都合に合わせるな!」  テモテ二4:3~5  2019.10.6  
Ⅰ.私たちの信仰
 私たちは神によって召され、キリストの十字架の贖いにより、罪赦され、神の子、キリスト者とされています。私たちは、周囲を見渡して嘆くことではなく、私たちを御国へとお招き下さる主なる神の御前に立ち、自らの信仰を確認することが求められています。「折りが良くても悪くても」(2)と語られるように、社会は刻々変化します。私たちが社会に合わせて生きていると、次第に判断規準がずれてきます。規準が相対的だからです。しかし主なる神は、聖書の御言葉に基づき、絶対的な規準として十戒をお与え下さいます。神は義・聖・真実だからです。すべての判断規準が神でなければなりません。そうであるならば、私たちは自己中心にではなく、神中心に生きることが求められます。
 しかしキリスト者が御言葉に従い、神の規準に生きていても、社会状況に左右されることがあります。例えば、奴隷、人種差別、性差別、障害者への配慮……、問題解決など無理と思われて来ました。しかし時代が進み、こうした問題の一つひとつが、何十年、何百年をかけて解決し、御言葉に従う社会が形成されていきます。LGBT等は現代的な課題です。そうした意味で私たちは、聖書中心、聖書の御言葉に従った信仰生活が求められています。
 第二に、私たちが生きている社会、私たちが福音を宣べ伝えるべき人々を知らなければなりません。社会全体が変化を遂げています。私たちは、社会を、神の規準において客観的に判断することが求められており、私たちが彼らに染まってはなりません。キリスト者は、社会の変化に敏感でなければなりません。教会が、「社会問題について語るべきではない」、「政治に首を突っ込むべきではない」と語られます。しかし社会が変化し、神の義・聖・真実から離れていれば、「それは違う」と声を挙げなければなりません。それがキリストを証しする神の民の姿です。それが社会問題に関わることです。社会問題・政治問題、それを特別なものと思い、私たちの信仰、私たちの生活から分離されたものとして、「語ってはならない」と語る方が、神の御言葉から離れた生活を送っているのです。
 改革派教会の創立宣言では「有神論的人生観・世界観に生きる」ことを告白しました。「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(Ⅰコリ10:31)と語られていますが、私たちの生活の小さな事柄においても、主なる神の恵みによって行われていることを忘れてはなりません。私たちが生きる時、すべての所において、主の御業が及んでいます。「社会、政治だけ別である、キリスト者が語るべきではない」と語ることは、主なる神の絶対的な支配を否定していることとなります。

Ⅱ.現代社会と社会に流されるキリスト者
 社会の変化は、教会の中でも表れます。教会の中にも、社会に流されて生きる人が少なからずいるからです。第二次大戦中の日本の教会において、戦争協力、植民地伝道、宮城遙拝等が行われたことは、その例です。
 社会に流される人々は、自分の生活の正しさを確認するために聖書を解釈します。そして聖書が語る自己否定・悔い改めを受け入れません。聖書を自分の都合の良いように解釈します。そして自分たちに快いことを語る牧師を求めます。主イエスは、律法学者たちを徹底的に非難します。彼らは偽善者であり、自分の都合のよいように聖書を解釈するからです(参照:マタイ23章)。キリスト者であるように装いつつ、自分の欲望に生きています。自己中心に生きることは、徹底的に排除されなければなりません。

Ⅲ.御国を求めて歩もう!
 問題は、こうした人たちが教会の中に入ってくることです。彼らは、神を冒涜し、聖霊を否定しています。私たちは信仰の戦いが求められます。私たちは、社会に合わせるのではなく、主なる神に合わせて生きることが求められます(5節)。私たちキリスト者は、主なる神がお語りになる御言葉に聞き、主なる神の支配の下、主に従って生きることが求められています。そうすることにより、世にある罪から守られることを知っているからです(参照:ウェストミンスター大教理問157)。
 この時、周囲の人たちと違う価値観で生きることとなり、生きづらさが生じます。虐げ、迫害が起こる可能性もあります。信仰ゆえに、神の規準、聖書に聞き従って生きようとすれば、こうした状況を享受しなければならない状況もあります。キリストの十字架の故に罪が赦され、死ぬ者ではなく、キリストのように甦り、神の御国における永遠の生命、神の栄光に包まれて生きることが約束されているからです。ここに私たちの喜びがあります。
 
  
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「信仰を守り抜く」  テモテ二4:6~8  2019.10.13  
 
序.
 パウロは愛弟子であるテモテに対して、宣教活動を行い、教会を立てていくためのアドバイスを語ってきましたが、第二の手紙もいよいよ終わりを迎えます。テモテに対して語るべきことをすべて語り終え、パウロは自らの終わりの時を覚えつつ、語り始めます。

Ⅰ.キリストと共に生きること
 この時パウロは、ローマにおいて捕らわれの身でしたが、処刑される日が差し迫っていたことを理解していました(6)。殉教の死です。パウロにとって肉の死は、天への凱旋の時でした(参照:ローマ14:8、フィリピ1:20~24)。
 パウロが、「いけにえとして献げられている」と語るのは、パウロ自身が、私たちの罪の贖いを成し遂げるということを語っているのではありません。パウロを崇拝してはなりません。パウロが死をも恐れることなく、主なる神への希望に生き続けようとしている姿は、私たちキリスト者がこの世の生活に固執することに対する警告です。私たちが肉の生命にすがるのは、滅びへの道です。私たちが信仰に生きる時、死んでも生きるのです。肉の死、地上の生涯の終わりの時を迎えるとき、天国への凱旋が待ち受けています。
 ウェストミンスター小教理問答問1 人間の第一の目的は、何ですか。
 答 人間の第一の目的は、神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとすることです。
 キリストの十字架の贖いに生きるキリスト者は、肉の死を迎えても、なおもキリストと共に生き続け、そして神を誉め称え続けることができます。だからこそ、神を喜ぶことは、今の時だけではなく、肉の死を迎えてもなお、神を喜び続けるのです。
 私たちキリスト者も、「殉教の死」を頭の片隅に置かなければなりません。キリスト教会が、殉教の死を考えなくなることは、独裁者に屈することを意味します。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)。神の民が、殉教の死を恐れることなく、主に生命を献げる時、教会は成長を遂げます。ローマの迫害下、使徒や初代教会の信徒たちは、迫害の中、信仰を貫き、ローマ帝国において国教にまで成長しました。キリシタン、島原の乱で37000人が殉教の死を遂げる中、隠れキリシタンとして信仰を継承し、約230年を経て開国して宣教が再開された時、多くのキリシタンが出て来ました。死を恐れることなく、信仰を守り抜く、ここに教会の本質、生命が植え付けられていきます。しかし戦時中の日本の教会は、迫害を恐れて政府に認められることを目指し、戦争に協力し、偶像である天皇崇拝の道を歩みました。世俗化して、神の福音が地の塩、世の光として輝きを失いました。私たちが今の時代の宣教の衰退を嘆く時、キリスト教会としての本質を取り戻す必要があります。それがパウロのように、殉教を恐れることなく信仰を貫く歩みです。

Ⅱ.聖徒の堅忍に生きるキリスト者
 パウロは信仰を守り抜くことが出来ました。それも私たちからすれば、考えられない迫害と苦難です(参照:Ⅱコリ11:21~28)。パウロが信仰を貫くことができたのは、正しい審判者である主なる神がお与え下さる義の栄冠を見据えているからです。パウロは、復活の主イエスと出会い(参照:使徒9:1~19)、キリストの十字架による罪からの贖い、救いをはっきりと示され、それを受け入れていたのです。
 パウロだから信仰を守ることができたのではなく、主なる神がパウロを召し出していたのです。そして主なる神がここに集う一人ひとりを、主なる神の民として召し出して下さっています。パウロが信仰の戦いを行ったのではなく、主なる神が戦って下さったのです。
 私たちは、「自分の力で何とか解決しなければならない」、「信仰の戦いを行わなければならない」と考えてしまうから、苦しくなるのです。しかし、主なる神が問題を解決する御力を持っておられます。そのため私たちは、主に苦しみを訴え、主に解決を委ねれば良いのです。主は私たちの信仰を最後までお守り下さいます(聖徒の堅忍:ウ信仰告白17:2)。
 主なる神が、パウロを召し出して下さったからこそ、パウロは最期の時まで、信仰を貫くことができ、守られました。そして、今日も礼拝に招かれている私たち一人ひとりに対しても、主なる神は、罪の赦しと信仰を与え、苦しい時の問題の解決を行って下さるお方です。自分の力で何とかしようと思うのではなく、主なる神を信じ、委ね、祈る生活が求められています。この時、主なる神は、私たちが地上の生涯を終える時まで、信仰を貫き、主を証しする者としてくださいます。
  
  
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「パウロの同労者」  テモテ二4:9~13  2019.10.20  
 
Ⅰ.宣教グループ
 パウロはテモテに至急、来ることを願います(9)。パウロは「世を去る時が近づきました」(6)と語っていましたが、パウロは死を迎える時まで、宣教のために働いております。
 日本の教会では、教会に牧師が一人であることが当たり前です。しかし聖書では二人づつ遣わされています(マルコ6:7、ルカ10:1)。パウロの宣教旅行においても、第1回宣教旅行はバルナバが同行します(使徒13:2)。第2回宣教旅行ではシラスが同行します(同15:40)。16:10以降は「わたしたち」と語り、著者ルカがパウロに同行しています。このように、新約の教会では、二人一組あるいは複数人のチームで宣教が行われていました。パウロの最後の宣教においても同様です。第二テモテが執筆されている当時、投獄されているパウロに対して、同労者たちは各地に遣わされていました(クレスケンス:ガラテヤ、テトス:ダルマティア、マルコ(福音書記者):テモテに同行、ティキコ:エフェソ)。そしてルカ(福音書記者)のみがパウロのところに留まっていました。パウロはこの時、ローマ教会の今後のことを考え、ルカと共に担う人として、テモテとマルコを呼び寄せようと思ったのです。
 二人一組で宣教を行うことの理由の一つは、熟練者が未熟な者を育てることです。改革派教会では、新任教師に対して一年間補助教師を付け、序言を得る制度を定めました。不十分ですが第一歩です。もう一つの理由は、複数の牧師により異なる個性があり、教会の幅が広がりを見せることです。一人の牧師だとどうしても教会に偏りが出てきます。牧師が交代することにより、教会がガラッと変わってしまうことも起こります。
 複数者による牧会を行うためにどうすれば良いのか? 日本の教会は、長老主義が十分に機能しているとは言えません。牧師任せ、牧師中心の教会運営となり、牧師が誤った考えを持つと、教会全体が歩むべき方向を見失い、時に分裂することもあります。
 そのため、牧師と共に長老が責任を担い共同牧会を行うことが大切です。これを十分に機能させなければなりません。そしてもう一つ、大会において丁寧に議論しなければなりませんが、現在は一人の牧師が定住の教会と共に無牧の教会の代理牧師となっていますが、複数の教師が複数の教会の責任を持つことを考えるべきです。つまり二人の牧師が三つ・四つの教会を共同責任を持つことで複数牧師による共同牧会が可能になるかと思います。

Ⅱ.教会をつくる聖徒の交わり
 次に、教会における交わり(聖徒の交わり)について考えます。パウロは個人的な願いを語ります(13)。この要求は、簡単に受け入れられるものではありません。エフェソにいたテモテにとって、トロアスに立ち寄り、パウロのいるローマに行くには、相当遠回りをしなければなりません。またパウロは、書物と羊皮紙を求めています。当時、汎用されていたパピルスに比べて、相当な高価ものの要求です。パウロは神の働きのために必要なものとして要求します。主の御業に必要なことを実現するのが、聖徒の交わりです。
 聖徒の交わりは、一般の人々の交わりと似て非なるものです。私たちキリスト者は、信徒同士の交わりの前に、キリストとの交わりが与えられています。キリストの十字架の御業による救いに与る者として、キリストとの交わり抜きに、聖徒の交わりは成立しません。また、信仰は個人化されるものではなく、信仰共同体(聖餐共同体)であり、互いに主から与えられた賜物を用いて助け合うのです(参照:ローマ12:4-5)、(参照:ウ信仰告白26:1)。

Ⅲ.社会へ広がる聖徒の交わり
 そして聖徒の交わりは、第一に神礼拝において、第二に相互の霊的奉仕(教会内の奉仕)が行われます。そして互いの交わり・奉仕は、霊的な事柄と物質的・物理的な事柄の両方にわたります。これが教会内ばかりか、いたる所、つまり教会外においても行われることが求められています。これがディアコニア(愛の業)であり、困窮者・被災者への援助、医療・福祉への教会的な展開となります(参照:ウ信仰告白26:2)。
 これらの働きは、世の人々の行って働きやボランティアとは似て非なるものです。神による救いに基づく見返りを求めない無償の愛から来ており、事業を成功させるため、名誉・権威を手に入れるためではありません。キリストによる救いを共有している者として、隣人の苦しみ・悲しみを共有し、そして分かち合う・助け合う、これが聖徒の交わりであり、教会に求められている働きです。台風で被災した川越キングス・ガーデンのこと、そして今日アピールに来られているギデオン協会のこと、さらには東北における継続的な働きを覚えて、私たちは祈り、献げ、そして協力していくことが求められています。  
  
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「罪とその報い」  テモテ二4:14~15  2019.11.3 
 
序.
 10月31日、宗教改革記念日を迎えました。宗教改革は、教会が最も大切にしなければならない神の御言葉である聖書を取り戻す運動でした。そのため宗教改革では、「聖書のみ」が語られ、聖書の説き証しである説教が大切にされました。

Ⅰ.宗教改革と連続講解説教
 そして宗教改革者の一人カルヴァンは、聖書を語るにあたって、連続講解説教を行いました。宗教改革のもう一つの旗印「聖書全体」です。聖書全体が神の御言葉であり、自分の好きな場所を選択して語ってはいけません。つまり、説教者は自分の思いを説教するのではなく、主なる神がお語りになる御言葉を説教者は解き明かすのです。つまり説教は、説教者が考えるものではなく、主が語られる御言葉に説教者が聞き、解き明かす行為です。
 連続講解説教を行うと、聞きたくない御言葉も避けられません。一言一句、すべてが神の御言葉であり、飛ばすことなく御言葉に聞き、聖書を読み続けなければなりません。
 聖書は罪について語ります。ウェストミンスター信仰告白6:6は告白します。「どの罪も、原罪も現実罪も共に、神の正しい律法への違反であり、それに反するものであるから、必然的に、罪人に罪責をもたらす。それによって罪人は、神の怒りと律法の呪いを言い渡され、かくして、霊的、現世的、永遠的なあらゆる悲慘ばかりでなく、死に服させられる」。 罪には大小ありますが、どの罪も主の御前には同じ罪であり、罪の刑罰は死です。誰も例外なく裁かれます。しかし罪を宣告できるのは主なる神お一人です。そして、主の赦しがなければ、私たちも罪人であり、主の裁きを逃れることができません。「あの人は罪人だから、神の裁きにあいますように」と語ることは、自分を神の位置に置くことです。
 また主なる神は、罪人の中から私たちを神の民として召し出して下さったように、今なお罪の中に生きる人々をも、神の御前に集めることを求められています。それが伝道です。私たちは、罪を犯す者に対して「神の裁きがあるように」祈るのではなく、「聖霊の働きがもたらされ、罪の悔い改めと信仰告白へと導かれるように」祈らなければなりません

Ⅱ.主に逆らう者
 現実には、教会を迫害しキリスト者を苦しめる者たちがいます。アレキサンドロは、ユダヤ人でありつつ、銅細工師であり、偶像を作っていた者です(参照:使徒19:23-33)。そして彼はパウロをひどく苦しめ、パウロの語ることに激しく反対する者、反キリスト、反パウロの先頭に立っていた者です。つまり彼の行っていることは、主なる神を否定し、聖霊の御業を否定している行為です。主イエスはお語りになります。「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(マルコ3:28~29)。アレクサンドロも、パウロが復活の主イエスに出会ったように、今後、聖霊の働きにより罪を悔い改め、信仰を言い表すことがあり得ますが、この時点では、聖霊を冒涜する罪を犯しており、主の裁きを避けて通ることが出来ないことを、パウロは「主は、その仕業に応じて彼にお報いになります」と語っています。

Ⅲ.日本に生きるキリスト者として…
 その上でパウロはテモテに、あなたも彼には用心しなさいと語ります。私たちは、キリスト者が1%にも満たない異教徒の国に生きています。この時、福音を証しし伝道しなければなりませんが、同時に、用心し警戒・監視を怠ってはなりません。相手を知らなければなりません。私たちの伝道の対象である人たちは、同時に、キリストに反発・拒絶し、時にキリスト者を迫害する者たちです。
 今日の日本では、天皇の代替わりに際して、国家神道行事が公的に行われています。また日本会議という神道色の色濃い団体が政権を牛耳っています。今、彼らは直接的に教会に攻撃を仕掛けてくることをありません。しかし江戸幕府以来、為政者が行うことは、何らかの形でキリスト教信仰が広まらないように、反キリストが働いています。政治や経済の問題について、信仰とは関わりが無いと思い、キリスト者が問題に立ち向かおうとしない時、そこに反キリストが迫ってきます(死の商人(武器産業)、原発(放射能汚染)、秘密保護法(自由を奪う)、福祉切り捨て(人権を奪う、自己責任論)……)。
 聖書は、神に逆らい続ける者たちの罪とその裁きを語ります。彼らに対してキリスト者は用心しなければなりません。その一方、彼らに福音を語り、神の民へと招き入れるように、主は私たちに伝道を求めています。だからこそ私たちは、用心することを忘れてはなりませんが、どのような人たちも、信仰を証しし、御言葉を伝えなければなりません。
 
  
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「神の加護と救い」  テモテ二4:16~18 2019.11.10 
 

Ⅰ.裁判を受けるパウロ
 パウロは、ローマで囚われの身、つまり、いつ処刑されるか分からない、そうした中で、生涯で最期の手紙を記しています。ローマにおいて、投獄・もしくは軟禁状態にありつつ、裁判にかけられました。この時、パウロの同労者は皆が逃げて行き、誰一人パウロと共に戦う者はいませんでした(16)。

Ⅱ.信仰の成長を見守る教会
 主イエスは、ゲツセマネにおいて、逮捕され十字架に架かることを覚えつつ、主なる神に祈りを献げていました。その間も主イエスは、繰り返し弟子たちの所に戻って、弟子たちに声をかけられました。「弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。『シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い』」(マルコ14:3738)。弟子たちは、主イエスの思いをまったく理解していませんでした。そして、主イエスが逮捕された時、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまいます(マルコ14:50)。テモテ書におけるパウロの思いは、主イエスが逮捕された時と同じです。共通しているのは権力に対する恐れです。
 弟子たちに信仰を与え、信仰を証しし宣教者としての賜物を与えるのは主なる神です。主イエスの弟子たちは、主イエスが十字架の死から甦られた時に信仰が強められ、主イエスが天に昇って行かれた後、聖霊降臨により力が与えられ、宣教者としての働きました。
 主なる神は、一人ひとりをお覚えくださり、時を定めてくださっています。主イエスの弟子たちにとっては、主イエスの死からの復活を待たなければなりませんでした。主イエスもパウロも、主の御業には時があることを知っており、弟子・同労者を責めたり戒めたりすることはせず、温かく見守ります。「彼らにその責めが負わされませんように」(16)。 教会では、教会に集う一人ひとり信仰の歩みが異なります。そうであるならば、教会、・礼拝に集う態度として、相応しくない人がいたとしても、一律に注意・戒めたりするのではなく、神の御前に集められていることを共に喜び、見守り励まして頂きたいのです。時間が必要です。神御自身が、聖霊により、教会員を用いて、一人のキリスト者の信仰の成長をお与え下さいます。主イエスが忍耐され、パウロが彼らに責めが及ぶことを求めなかったように、私たちも、忍耐し、一人ひとりが遜りと謙遜、信仰の歩みの遅い人たちを受け入れる大きな心を持つことが求められています。このことが、今年の標語「互いに柔和で寛容の心をもつ教会を目指す」ことであり、教会の成長にとって大切なことです。

Ⅲ.キリストと共に生きる人生
 パウロは裁判において弁明し、生き延びていることを率直に喜んでいます(17)。パウロは自分の命が助かったことを喜んでいるのではなく、この機会に福音を語り、一人でも多くの人々にキリストを証しすることが出来ることを喜んでいるのです(参照:フィリピ1:20~24)。
 パウロは死を恐れません。やはりパウロにも恐怖はあったと思います。主イエスですら、「この杯を私から取りのけてください」(マルコ14:36)と祈られたのです。しかしパウロは、肉の死の苦しみ以上に、キリストによる救い・天国における永遠の生命の大きな喜びを味わっているのです。「主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます」(19)。地上に生きることは素晴らしいことですが、それがすべてではなく、人生のごく一部です。罪から解放され、サタンから解放された神の御国の祝福こそが、大いなる喜びであることを、パウロは知っています。主イエスの弟子たち・パウロ・ローマの禁教令の中に生きたキリスト者たち・キリシタンたちが、肉の死に至るまで、信仰に従順であり、迫害者に対して戦い続けることが出来たのは、キリストの十字架の御業による救い、そして天国における祝福をはっきりと理解していたからです。

Ⅳ.頌栄
 殉教をも恐れず信仰を貫くキリスト者たちは、肉の死を超えて生命へとお招き下さる主なる神の支配を信じております。天地創造から始まって以来、すべての時代、すべての空間、ちいさなものから大きなものにいたるすべてのものを、治めておられる主なる神が、今も、私たちに生命をお与え下さっています。それがパウロの頌栄の言葉となります(18)。
 私たちが今、生きる喜びは、キリストによる罪の赦しが与えられ、永遠の天の生命が約束されているからです。十字架と復活の御業を成し遂げたキリストを救い主と信じる信仰にこそ、私たちの生きる喜びがあり、生きる価値があります。
 
  
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「あいさつ」  テモテ二4:19~22 2019.11.17  
 
序.
 テモテの手紙も今日で終わりを迎えます。私たちは、パウロが最後に記した手紙から、教会を立て上げ、牧会するとはどういうことかを、主の御言葉として聞き続けてきました。

Ⅰ.パウロと古代教会から学ぶべき教会のあり方
 週報に、吉田隆先生の著書「キリスト教の“はじまり”-古代教会史入門-」について梗概を記しました。日本のキリスト教会は、伝道が始まって160年に過ぎません。そして1%の壁を越えられず、現状維持すら難しい時代を迎えています。教会の基盤が十分に形成されておらず、教会形成と伝道が求められている国です。吉田先生が語られていますが、日本の教会は古代教会である意識を持つ必要があります。
 日本では信教の自由が認められ、福音を語り伝道することが妨げられることはありません。これは古代教会との違います。しかし、先日、大嘗祭が行われました。あれは偶像そのものです。偶像の祭司として天皇が在していることの宣言です。キリスト教会とキリスト者はそれを受け入れることはできません。しかし多くの日本国民は、伝統としての天皇と大嘗祭をも受け入れています。私たちがキリスト者として伝道を行うことは、天皇を純粋に受け入れいている人たちに対して行っているのだという意識を忘れてはなりません。
 パウロの宣教していた1世紀、キリスト教会としての会堂はなく、ユダヤ教の会堂があればそこで行い、なければ家庭集会でした。今でも、キリスト教が公認されていない地域での伝道は家の教会が中心です。パウロは、他の手紙同様テモテへの手紙でも、最後に個人的なあいさつを語りますが、一つの教会単独で維持することを考えるのではなく、一つひとつの家、集会は小さくても、キリスト者相互の交わり、地域を越えた交わりが与えられていることを、パウロは語り、さらに進めていくように求めています。

Ⅱ.プリスカとアキラ:パウロを援助した夫婦
 パウロは最初にプリスカとアキラの名を挙げます。彼らは夫婦です。プリスカが妻で、アキラが夫です。プリスカの方が教会において指導的な立場・影響力があったからだと思われます。当時は女性の名が書き残されること自体、稀でしたが、聖書はキリストの系図(マタイ1章)で5名の女性(タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤ、マリア)を記すように、女性の名を書き残しています。聖書は、女性の人権を男性同様に認めています。人類は2000年が経っても十分に問題を解消していないことを、顧みなければなりません。
 プリスカ(プリスキラ)とアキラについては使徒18章に詳細が語られています(18:1-3,18,24-26)。アキラとプリスカは、パウロと出会う前からキリスト者であり、パウロがコリントにいた約2年間、パウロと共に行動し、パウロがコリントを離れ、シリア州、エフェソに行く時にも同行しました。さらにアポロがエフェソに来た時、福音を正しく理解していなかったため、彼らがアポロの福音を正したことが記されています。つまり、彼らはパウロが信頼し、教会を支えていたパウロの協力者でした。彼らは、その後ローマに戻っていたようですが、この時には再度エフェソのテモテの所にいました。彼らのこうした働きがパウロにとって嬉しいことであり、こうしたキリスト者が教会にいることは牧師にとって喜びです。

Ⅲ.パウロを支えた人々
 次にオネシフォロの家の人々が挙げられています。これは家の教会を指しています。摘発され、迫害される覚悟した信仰がここにあります。パウロがローマに到着した当初も、迫害をを覚悟して、パウロを一生懸命支えました(参照:Ⅱテモテ1:16-18)。エラストもパウロの協力者の一人でした(参照:使徒19:21-22)。トロフィモに関しては、使徒言行録20章で語られています(20:1-4)。エウブロ、プデンス、リノス、クラウディアに関しては、他で言及されていませんが、パウロを支え、また各地の教会の指導的な立場で、テモテも良く知っていた人たちであったと考えることが出来ます。

Ⅳ.聖徒の交わりに生きる教会
 パウロの交わりは、近くの人、少数者に限ることなく、ローマ地域を越え、共に支え合う関係にありました。キリスト者相互の交わりに関しては、ウェストミンスター信仰告白26:2を御確認ください。「この交わりは、神が機会を提供してくださるままに、いたる所で、主イエスの名を呼んでいる、すべての人々に広げられるべきである」。
 私たちも、信仰を同じくします中会・大会の交わり、そして教派を超えた地域の教会の交わりを大切にしなければなりません。私たちは少数者ですが、孤独ではありません。同じ信仰をもった民が日本全国・世界に広がっています。キリスト者として生きづらい日本社会ですが、神の御国を目指し、希望と喜びをもって歩み続けて頂きたいと思います。
 
  
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