◆テモテへの手紙一  説 教

「信仰によるまことの子」  テモテ一1:1~2  2018.4.8
Ⅰ.新約聖書の中のテモテ書の位置付け
 新約聖書は、最初に4つの福音書、ルカが記した使徒言行録、パウロ書簡、ヘブライ書、公同書簡(ヤコブ、ペトロ、ヨハネ、ユダ)、最後に黙示録があります。旧約聖書についても言えますが、聖書全体の中でのテモテ書の歴史的位置づけを考えなければなりません。パウロ書簡は福音書簡(ローマ、コリント一・二、ガラテヤ)にパウロ神学の神髄が語られており、続くエフェソ・フィリピ・コロサイ・フィレモンは獄中書簡です。そして残りのテモテ一・二、テトスは牧会書簡です。牧会書簡の特徴は、パウロが愛弟子であるテモテやテトスに対して、牧会上の伝えておかなければならないことが記されています。そしてこれらの手紙はパウロの最晩年に記されており、パウロの遺言と言ってもよいものです。
 ではなぜ個人宛に記された手紙が、神の御言葉として正典とされているのか? ウェストミンスター信仰告白は1章2節で、聖書66巻(旧約39巻、新約27巻)のリストを記した後、「これらすべて、神の霊感によって与えられており、信仰と生活の規範である」と語り、4節では「聖書が信じられ、従われねばならない、聖書の権威は、いかなる人間や教会の証言にも依拠せず、その著者である神(真理そのものである)に全く依拠する」と語ります。

Ⅱ.キリスト・イエスの使徒パウロ
 パウロは自分自身のことを「キリスト・イエスの使徒となった」と語ります。通常、使徒とは12弟子を指します。しかしパウロは、主イエスが宣教している頃、主イエスの弟子ではなく、むしろキリスト者を迫害していました。パウロの使徒性は、使徒言行録9章に語られている召しに起因します。復活の主イエスがパウロに現れ「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかけ、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と語られたのです。そしてアナニアには、「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」と語られました。
 パウロはここで「イエス・キリスト」ではなく、「キリスト・イエス」とします。「キリスト=メシア、救い主」を強調し、神の御子からの直接の命令であることを強調します。さらに「私たちの救い主である神」と語ります。これは、御父・御子・御霊なる三位一体を意識しています。つまりパウロが使徒として三位一体の神としての御業であって、パウロが個人的に語っていることではないことをパウロは語っています。

Ⅲ.信仰によるまことの子テモテ
 そして手紙のあて先はパウロの愛弟子テモテです。テモテは、パウロの第二回伝道旅行(使徒16:1~)以降、同労者、パウロの使者として、パウロと共に宣教にあたりました。また書簡の共同執筆者として多くの手紙で名前を残しています。パウロはテモテに「信仰によるまことの子」と語りかけます。この言葉は、一つにはテモテがパウロの期待に応える働きを行い、それに応じた信仰を持っていたからです。しかしそれだけではありません。この手紙は「いわばパウロの遺言です」。テモテに語る言葉は、教会に対しても語られています。そして時代を超えた私たちに対しても、主は語りかけておられます。だからこそ、私たちもまた、神の御言葉として、この書簡から聞かなければならないのです。

Ⅳ.恵み・憐れみ・平和
 そしてパウロは、「父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように」と語ります。ここでも再び、御父・御子・御霊の三位一体を意識しつつ、「恵み」、「憐れみ」、「平和(平安)」を語ります。
 神さまは私たちに、食べるもの、飲むもの、住まい、仕事、特技、趣味等、これらすべてを備えて下さいます。これが神の恵みです。そして足りないものがあれば、主に求め、委ねるのです。主がすべてを満たして下さるからこそ、私たちは主に感謝するのです。
 神の憐れみは、私たち自身の罪の赦しと神の忍耐によります。私たちは他者を見て裁きます。しかし主の憐れみを顧みて、自らの姿を顧みなければなりません。自らの罪の赦しが示される時、他者の罪・弱さもまた、許すことが求められるのです。
 神は私たちに平和を約束して下さいます。最終的には神の国(天国)で与えられますが、地上・教会において実現しており、また私たちがその中に命が与えられているのです。他人を裁く者ではなく、赦し・和解し・平和が実現する教会となることが求められています。
 つまり、今主からの恵みに生き、過去の苦しみと罪に対して主からの憐れみが与えられ、そして未来に主により平安に入れられる希望を持って生きるのです。神さまはいつも私たちに恵みと慰めと平和をお与え下さっています。前を向いて歩み続けていきましょう。
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信仰から生じる愛に生きる」  テモテ一1:3~11  2018.4.22
Ⅰ.教会に腐敗が持ち込まれる!
 教会が腐敗することもあります。宗教改革前夜のローマ・カトリックがその例です。主なる神さまは義・聖・真実でありますが、教会を形成している聖職者である神父や牧師は、神ではなく、罪赦された罪人であり、罪が混入することがあるからです。旧約のイスラエルの民によっても、私たちはこの事実を確認することができます。パウロは、テモテに対してエフェソ教会においても、腐敗に注意するように促します。現在の私たちの教会に対しても、サタンによって腐敗が持ち込まれる危険はいつもあるのです。
 ではどのようにして教会に腐敗が持ち込まれるか? ①異なる教えを説くこと。②作り話を行うこと。③切りのない系図に心を奪われることです(3-4)。すべては神の御言葉である聖書に聴こうとしないことから生じます。律法主義、異端は聖書から離れることから生じるのであり、「聖書のみ」を忘れてはなりません。「系図」に関して、旧約の時代、メシアがアブラハムの子として与えられることが預言されるために系図は繰り返し語られてましたが、肉におけるイスラエルではなく、霊によるイスラエル、つまりメシアであるイエス・キリストによる罪の赦しと救いを信じることこそが大切です。

Ⅱ.神の救いの計画が実現するとは…
 私たちは、主の御言葉から離れた時、無意味な詮索を引き起こし、無益な議論の中に迷い込みます。そして救いのゴールである神の御国から離れ、信仰の目的を見失います。目の前のことに一喜一憂していてはなりません。聖書の全体を理解することが必要です。救済史における大きな方向を常に確認しておかなければなりません。元来、人は神のかたちに作られた神の民であり、永遠の生命が与えられていたのです。しかし罪を犯し滅びる者となったのです。この罪人である私たちが罪赦され救われたのです(4)。
 そして、この主の救いの計画が実現するために、私たちは、①清い心、②正しい良心、③純真な信仰の3つが求められています。清い心とは、神の御前に生きることです。神の御前に立ち、自らの罪を悔い改める時、神の恵みを求めて生きる者となるのです。キリスト者は、罪の世/サタン/罪の支配/様々な災いとしての悪/死の遂げ/永遠の裁きから救い出され、自由とされています。この時、私たちキリスト者は、罪を犯すこと以外は国家や世間のしがらみからも自由に生きることが許されています。正しい良心を求めるとは、罪から離れ神の栄光を求め生きることです。そして3つめが純真な信仰です。「自分の信仰は純真ではない」と思われるかも知れません。教会であっても、異なる教えや作り話など無意味な詮索、無益な議論に巻き込まれます。教会を腐敗させることが教会に持ち込まれようとした時、直感的・論理的にそれを受け止め、自己防御することです。神さまの御前に立つ自らの立ち位置を確認することにより、純真な信仰を持つことが出来るのです。
 そして清い心と正しい良心と純真な信仰から生じる愛を目指すのです。「目指す・最終的に目標」であり、罪赦された罪人である私たちがこれらを完全に行うことは出来ません。キリストの十字架の贖いによる神の無償の愛に生きる私たちは、神を愛し、隣人を愛する者として、最も重要な掟としての律法、律法の代表としての十戒に従う者となるのです。

Ⅲ.愛に生きるとは…
 律法は、罪赦されたキリスト者が、罪の誘惑から守られるために与えられています。訓練規定に「戒規」という規定があります。戒規は「罪を犯した人の懲罰」と思っておられる方も少なくはないかと思います。しかし「戒規」=「訓練」です。そして戒規の目的は、①キリストの栄誉の擁護、②違反者の霊的利益、③違反の譴責、④つまづきの除去、⑤教会の純潔および霊的豊かさの増進のためです。罪が教会の中に蔓延しないために、また罪を犯した者が、罪を悔い改め、キリスト者として立ち直るために必要なのです。
 そしてパウロは9~10節で、罪を十戒に従って紹介します。第十戒については直接的には語りませんが、十戒を総括する上で理解することが大切です。「第十戒で求められている義務は、自分自身の境遇に十分に満足し、また隣人に対して心底から思いやりをもち、かくして、隣人についてのわたしたちのうちなる欲求と感情とが、隣人に属するすべての良いものに心を配り、それを促進するようになることです」(大教理147)。教会に腐敗が持ち込まれないためには、教会役員(牧師・長老・執事)の働きは大切です。同時に、教会に集う一人ひとりが、主の御前に立ち、キリストの十字架によって罪赦され神の子とされた喜びに生き、清い心・正しい良心・純真な信仰によって歩み続けることも大切です。

 
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 罪人を救うキリスト・イエス」  テモテ一1:12~17  2018.5.6
序.
 「信仰を持つ」と、神さまを信じることは私たちが主体であるように思っています。しかし同時に、「救われる」と語り、神さまの不思議な導きでキリスト者とされたとも語ります。私たちの信仰とはどういうことかを、パウロの回心から考えます。

Ⅰ.パウロと復活のキリストとの出会い
 テモテ書の著者パウロは、「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています」(12)と語ります。パウロは、新約聖書の中でも最大の伝道者です。そのパウロが、自分の意思ではなく、キリストによってその働きに就いたと語ります。
 パウロは、神を冒涜する者、迫害者でした(13)。キリスト教会最初の殉教者ステファノの殺害にも、パウロは賛成していました(使徒8:1)。また、家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていました(同8:3)。ダマスコにもキリスト者を迫害するために向かっていました(同9:1-2)。ところがそのパウロに復活の主イエスが現れて、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかけて下さったのです(同9:4)。普通人は他人に罪を認めさせ、罪の償いを求めます。しかし復活の主は、パウロが迫害していた事実を指摘しつつも、パウロに罪の償いを求めることはなく、神の愛に包まれます。自らの罪の姿が明らかにされたにも関わらず、咎められることもなく、神の愛に包まれる時、パウロは何も言えなくなりました。そしてパウロは、今まで自分が信じて行ってきていたキリスト者への迫害が、まったく無意味なものであり、本来神が求めていた愛に生きることとは正反対なことであったかことが示されたのです。パウロは神さまを受け入れた時、同時に自らの罪が示され、悔い改めに導かれたのです。そしてこの時、視力を失っていたパウロは、目からうろこが落ち、目が見えるようになりました(同9:18)。
 つまり、私が神さまを信じるのではなく、神さまは神さまを受け入れるように整えて下さり、愛をもって受け入れてくださるのです。理由を付けて「神さまを信じない」と語っている人に対しても、神さまは環境を整えてくださり、石の心を砕くことにより、神さまを受け入れるように導いてくださいます。

Ⅱ.キリストの贖いに生きるキリスト者
 この時、パウロの救い、そして私たちの救いに欠かすことが出来ないのが、イエス・キリストです。この方抜きに、私たちの救いはありません。パウロは「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」と語ります(15)。罪人が救われるためには、罪人の罪の刑罰が支払われる必要があります。この刑罰としての死を、代わりに背負う人が無ければ、私たちは救われることはないのです。この私たちの背負うべき死の刑罰を、神の御子であるキリストが人となることにより、そして御自身が十字架の死を担うことにより、成し遂げて下さったのです。キリストの十字架こそが、私たちの罪の贖いです。
 私たちは、主の晩餐の礼典において、差し出されるパンとワインにより、キリストの十字架を顧みます。キリストの十字架の苦しみと死こそが、罪人である私たち一人ひとりが担わなければならなかった刑罰であり、キリストを信じるが故に、私たちは解放されたのです。そしてキリストは肉の死を遂げたばかりか、死から三日目の朝に甦り、死にも打ち勝ってくださいました。だからこそキリスト者は、肉の死を迎えても、キリストの再臨を待って、キリストと同じように復活の体が与えられ、神の国に生きるのです。つまり、私たちが神さまを信じるのは、ただただ神さまの一方的な恵みにより、救いが提示されたばかりか、私たちの罪の赦しのために、御子の御業が成し遂げられたのです。そして、主は「もうあなたの罪はキリストの十字架によって贖われたのだ、無罪となり、神の子として天国に行くことが出来る」と、宣言して下さったのです。
 この時、私たちは、神の愛に包まれ、キリストの十字架の贖いにより罪が赦され、神の子どもとされていることを受け入れ、感謝して、救いの喜びに生きれば良いのです。私たちは、死と永遠の刑罰から解放されたのです。救いの感謝と喜びの生活こそが、キリスト者とされた私たちの歩む道です。主が備え下さった恵みを用いて、主を証しすれば良いのです。私たちには主から与えられた賜物があります。パウロはファリサイ派としての聖書の知識であり、迫害者として培った行動力です。それが大伝道者として用いられます。大宮教会に集う一人ひとりも、豊かな賜物を持っておられます。それらを用いて救いの喜びに生きることを主は喜んでくださいます。
 
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 信仰と良心によって生きる」  テモテ一1:18~20  2018.5.13
序.
 日本ではクリスチャン人口は1%に届かないマイノリティー(少数者)です。皆さまも、キリスト者として生きるために労苦されているかと思います。日本は、クリスチャンが神さまを信じ、クリスチャンとして生きるには、非常に生きずらい社会です。

Ⅰ.新約の教会における迫害
 しかしこのことは使徒の時代の教会も同じです。エルサレムではユダヤ人による迫害が起こり、使徒たちは拠点をアンティオケアに移しました。また回心したパウロが宣教旅行を始め各地に教会が立てられていきますが、どこもローマ帝国の支配下にあり、キリスト者は、ローマ皇帝の支配とユダヤ人たちからの迫害の中、信仰を守っていました。
 そのため、信仰を持った人たちの中にも「なぜこんなに労苦して神さまを信じなければならないのか」と、教会から離れていく人たちもいるのです。聖書の解釈を自分の都合のよいように変更する人たちもいます。虐げに対して恐れが生じるからです。
 私たちは、目の前にある現実だけを見ていればひるみ、おじけづきます。「神さまがいるから大丈夫だ」といった精神論において戦うことが求められても、苦しいばかりです。

Ⅱ.信仰と正しい良心を持とう!
 神さまは、罪により滅び行く私たちをお覚え下さり、キリストの十字架により罪の赦しと救いをお与え下さいました。そして私たちは、神の子どもとして、天国に行くことが約束されています。キリストは、十字架により死に打ち勝ち、罪・サタンに勝利されました。今、世を支配している権力者・迫害者も、キリストが再臨され最後の審判の時、彼らは討ち滅ぼされます。この時、キリスト者は天国へと凱旋するのです。今の世の中を見れば、逃げ出したくもなります。しかし私たちが目を向けるべきは天国における永遠の生命です。また主イエスは「インマヌエル(神は我々と共におられる)」お方です。イエスさまはいつでも聖霊をとおして私たちと共にいて下さいます。そして私たちに絶えられないような試練はありません。逃れの道が備えられいます(一コリント11:13)。私たちは、広い道ではなく、天国に通じる狭い道を歩むのです(マタイ7:13-14、ヨハネ14:6)。
 しかし教会の中にもヒメナイやアレクサンドロのような者もいます(20)。しかし私たちは、この中の誰が毒麦なのだろうかと詮索する必要はありません(参照:マタイ13:24-30)。主がお集め下さった民であり、キリストにある兄弟姉妹としての交わりを持てば良いのです。その中に万が一にも毒麦が混じっていれば、いずれは抜き取られるのです。
 私たちは、まず私自身が主の御前に立ち、救いの喜びに生きていればよいのです。これが雄々しくある信仰です。これは信仰の武具を身に着けることです(エフェソ6:10-18)。

Ⅲ.良心によって生きる
 私たちは信仰を貫くと同時に、良心を持って生きるようにと、パウロは語ります。「神のみが良心の主であり、神は、いかなることにおいても、その御言葉に反する、……そのような人間の教説と戒めから、良心を自由にされた。したがって、良心のゆえにそのような教説を信じたり、そのような戒めに従うことは、良心の真の自由に背くことである。また、理解抜きの信仰や絶対的で無批判的な従順を要求することは、良心の自由と、さらには理性をも破壊することである」(ウェストミンスター信仰告白20:2)。
 つまり私たちは信仰を持つだけではなく、キリスト者としてどのように生きるべきかが問われるのです。神は私たちに神の義・聖・真実を貫くことを求められます。しかし、権力により真実を歪めるように求められることがあるのです。そうしなければ、働きの場を失ったり、不利益を被るかも知れません。しかし、真実を歪める時、私たちはキリスト者として、正しい良心を捨てて生きることとなるのです。聖書は、上に立つ権威・為政者に従って生きるように求めます。しかし良心に反することは、キリスト者としてそれに「否」を唱えるのです。信仰告白が語るように、無批判的な従順を要求することは、良心の自由、理性をも破壊することです。おかしいことは「おかしい」と語る勇気が必要です。
 つまり、パウロが、雄々しく戦いなさい、信仰と正しい良心を持って生きなさいと語る時、決して簡単なことをではありません。しかし、私たちが神さまの御前に立ち、神さまが私たちを滅びから救い出して、永遠の生命をお与え下さったことを覚える時、たとえ信仰の戦いが強いられたとしても、なおもキリスト者として信仰を証しする生活へと導かれます。そして神さまが、私たちの歩むべき道を示し、守り導いて下さいます。そして、天国にいたる道を歩み続ける時、主なる神さまは私たち一人ひとりを喜んで下さいます。
 
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祈りの生活」  テモテ一2:1~3  2018.5.20 
Ⅰ.祈りとは
 パウロは、1章で異なる教えを説く者・正しい良心を捨てて背教した者たちがいることを紹介しつつ、主なる神さまを信じる恵みと感謝を語ってきました。そして2章に入り、具体的にキリスト者として生きるために、何が求められているのかを語り始めます。
 その第一が祈りです。祈りについて、パウロは、願い・祈り・執り成し・感謝の4つあると語ります。小教理98では、罪の告白、感謝、願いの3つを挙げます。改革派教会の式文では牧会祈祷の例として、頌栄、感謝、告白、赦罪、嘆願・執り成し、祈願を挙げます。
 私たちは、祈りにおける多様性を理解しなければなりません。

Ⅱ.何を祈る
 そして祈りは、私たちの信仰がそのままあらわれます。例えば、「困った時の神頼み」という言葉があります。しかし自分の願いばかりを祈るのは神を自分のしもべとしており、祈れば自分の好きなようになると思っているのです。そのため、祈りが聞かれなければ「神はいない」となり、神から離れたり、他の神々を求めることとなります。
 私たちは、神さまをどのようなお方として祈っているのかが問われます。つまり主なる神さまは、天地万物を創造し、私たち一人ひとりに命を与えて下さる神さまです。私たちはこのことを理解する時、主の栄光を称え、讃美するのです。すると、その後に続く私たちの願いも、自分の思いばかりの自分勝手な祈りとなるのではなく、主にとって何がもっとも良いこと、喜ばれることであるかを確認しつつ祈るのです。主イエスのゲツセマネの祈りが良い例です。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22:42)。
 私たちが祈り求めるお方は、創造主でありつつ、同時に御子により私たちに罪の赦しと救いをお与え下さった神さまです。神の御前に罪を犯し滅びる存在であったパウロや私たちを、神さまはお覚えくださり、神の恵み・救いへと招いてくださったのです。そして神さまは私たちに、神さまご自身のことを幼子が父親を慕うように「アッバ、父よ」と呼ぶことをお許しくださっています(ローマ8:15)。そして主イエスは「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。…あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(マタイ7:7~11)とお語り下さいます。この時私たちは、滅び行く私自身に対する罪の悔い改めがあり、さらに神による救いと恵みの感謝を行うのです。その上で、自分自身の願い・嘆願が続きます。

Ⅲ.誰のために祈る
 そして誰のために祈るのかです。パウロは「すべての人々のためにささげなさい」と語ります。家族、親しい人、同胞だけではありません(参照:サマリア人への譬え(ルカ10:25~37)。文字通り、全世界の人々が念頭になければなりません。この時、私たちは世界を知ることが求められます。実際に病人のため、艱難のために苦しんでいる人たち、社会から忘れられている人たち、重労働に苦しむ人たち、原発事故のため放射能に脅えている人たち、東北で生活に苦しんでいる人たち、沖縄の米軍基地の周辺に生きる人たち…。世界に目を向ければ、信仰の故に迫害されている人たち、今なお戦渦の中逃げ惑っている人たち、飢えの苦しみにある人たち…。それぞれに執り成しの祈りが求められます。
 パウロはさらに「王たちやすべての高官のためにもささげなさい」と語ります(参照:ローマ13:1)。為政者も主によって、国民である私たちの生活と平和を司る者として立てられています。そうであれば、彼らを批判するのではなく、彼らが悔い改め、主の御前に立って、与えられた働きをまっとうすることが出来るように祈らなければなりません。
 私たちは、神さまを信じるキリスト者として、祈りを通して、主なる神さまとの交わりに入れられています。聖霊が私たちと共にあるからこそ、私たちは、主なる神さまに祈り、その祈りが聞き届けられる確信を持つことが出来るのです。祈りの生活、それは私たちの信仰生活にとって第一に大切なことであることを、聖書は私たちに教えます。
 
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仲保者キリスト」  テモテ一2:4~6   2018.6.3  
【礼拝説教】「仲保者キリスト」 テモテ一2章4~6節 (6/3)

Ⅰ.神との交わりを取り戻す仲保者
 「仲保者」を新共同訳聖書は「仲介者」と訳しています。「仲保者」は口語訳聖書の訳です。聖書翻訳を溯ると、明治元訳・文語訳聖書では「中保者」と記し、「なかだち」とルビが振られています。「中保者」は、おそらく中国語において用いられていた言葉です。それをヘボンは日本語においても用いたのだと思います。ただ「仲保者」はキリスト教用語であり、現在では、一般的な言葉である「仲介者」が用いるようになってきています。
 私たち人間は、仲保者がいなければ、神さまを知り、神さまと出会う機会がありません。神さまと私たちの間には断絶があるのです。神さまが人を造られたのは、神と人との間に、交わりを持ち、生きるためでした。神と人との交わる時、私たちは神さまを礼拝し、讃美を奏でるのです。しかし現代では、神さまとの間に断絶があるのです。この断絶は、私たちが生きて働く主なる神さまと出会う機会が失われていることを意味します。神さまは現実に存在しています。しかし、雨の日に太陽が隠れ太陽のないかのように思う様に、私たちは罪という雲に遮られ、神さまを知ることが出来なくなっているのです。
 それでもなお、人は生きるために神を求めます。そのために偶像を作り、拝むのです。主なる神さまを知らなくても、神さまによって救われることを知っているからです。そして救いがなければ、滅びへの道を歩むことをも無意識的に知っているのです。
 滅びは、私たち自身の罪の結果です。私たちは生まれながらにして原罪を引き継ぎ、毎日、神の御前に罪を犯します。すべての人が、行い・言葉ばかりか心においても罪を犯します。そしてその罪の刑罰は死であり、神と私たちとの間に断絶をもたらしているのです。
 だからこそ、私たちは神さまを知り神さまとの交わりを回復するために、仲保者に頼らなければならないのです。そして仲保者はキリスト・イエスおひとりです(5)。自分で神を捜し、自分で神を造ったとしても、そこには救い主はいません。主イエスも語られます。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ」(ヨハネ8:19)。神の御子であるキリスト・イエスは、主なる神が私たちと出会い、神との和解をするために、人としてお生まれ下さったのです。
 
Ⅱ.キリストの十字架による贖い
 次に「仲保者」という言葉をギリシャ語本文で確認すると、「仲介者」以外には「保証人」と訳されています。つまりキリストというお方は、神さまと私たちとの間を仲介して下さるばかりか、私たちが神の子であることの保証人にもなってくださいます。
 つまり神と人との間には断絶があります。原因は私たち人間の側の罪です。私たちが罪人のままでは、聖・義・真実である神さまは和解することが出来ません。私たち人間が、罪の刑罰を償う必要があります。しかし私たち人間は、自分でその刑罰の償いを行うことが出来ません。そのため、主は御子であるイエス・キリストをこの世にお送り下さり、私たちが負わなければならない刑罰を十字架に負ってくださったのです(6)。
 私たち人間の罪の償いは、人間でなければなりません。しかし、私たち人間にはそれが出来ません。そのため神の御子が、人として遜って下さり、私たちの罪を十字架で贖って下さいました。ですから、キリストが神と人との仲保者であると語る時、それはキリストが神の御子でありつつ、人となられたこと、つまりキリストの二性一人格を受け入れることを同時に信じることです(参照:ウェストミンスター小教理問21)。
 
Ⅲ.私たちが神の民であることの保証人としてのキリスト
 キリストが人に対する神の保証人であることを考える時、キリストの贖いが、私たちの罪の赦しのためであり、さらに永遠に有効な契約が反故にされないことを意味しています。
 この契約のしるしを私たちは洗礼で確認します。神さまの恵みの契約を私たちが受け入れ信じる時、私たちは信仰を告白し洗礼を授かります。洗礼は、地上の教会における儀式ですが、同時に天上において、神さまと私たちとの間で契約書が結ばれるのです。この契約書には、「あなたは神の民で、天国における永遠の生命を約束する」と記されています。この契約書に神さまがサインして下さり、神の王としての印を押します。この契約書は、破棄されることはなく、永遠に有効です。これが聖徒の堅忍です。しかし、私たちは弱く神の救いを忘れてしまいます。そのために主の晩餐が備えられているのです。
 仲保者キリストは、私たちの罪を贖い、神と和解して交わりを回復してくださり、そして恵みの契約としての救いの永遠の保証人でもあります。
  
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主による任命」  テモテ一2:7   2018.6.10  
 
Ⅰ.テモテ書の前半を顧みつつ
 私たちが聖書を読む時、前後の文脈、そして書簡全体を見渡して、テキストが何を語ろうとしているのかを確認しなければなりません。つまりパウロは愛弟子であるテモテに手紙を送っているのですが、1章では、周囲には異端者がおり、キリストの福音から離れている人々がいるために注意するように語りかけていました。そして2章以降、間違った教えに流されることなく、キリストの教会を立て上げるために何が求められているかを語っています。その第一に大切なことが祈りです(2:1)。
 そして前回は、仲保者(仲介者)はキリストだけであり、他にはいないことを確認しました。実はこれも祈りと密接に関連しており、聖霊をとおして仲保者キリストによらなければ祈りが父なる神さまに届けられることはなく、祈りが聞き届けられることもないのです。カトリックのように聖人やマリアに頼ることはないのです。
 そうした文脈の中、パウロが主によって任命された働き人であることを確認します(7)。つまり、私たちは仲保者キリストとをとおして主なる神さまに祈るのですが、私たちがキリストと出会い、主なる神さまを信じて祈ることが出来るようにするために、パウロがその働き人として召されたのだと語っています。
 
Ⅱ.神からの召命
 パウロが異邦人伝道のために召された使徒であることは、1章で確認しました。改めて確認すると、パウロが使徒として認められた理由は、復活のキリストとの出会いです。そしてパウロは、御父・御子・御霊なる三位一体なる神の御業に組み入れられたのです。
 パウロが使徒として召しを受けた時、神さまからの働きかけ、つまり外的な働き(外的召命)がありました。しかし同時に求められるのが内的召命、つまりパウロの意思です。パウロはいわば無理矢理、復活の主イエスと出会い、受け入れざるを得ない状況なのですが、それでもなお、パウロは復活の主イエスと出会うことにより、キリスト者を迫害する行為したことを悔い改め、キリストこそが救い主であることを信仰告白したのです。
 使徒のみならず、旧約のアブラハムに始まる族長、モーセやヨシュア、そして預言者たち、新約におけるキリスト教会の牧師や長老・執事においても、神さまからの召し、あるいは教会における選挙という形での外的な召しが与えられると同時に、本人の意思、内的召命が与えられることが、主の働き人として仕える者に求められています。
 
Ⅲ.パウロの働き
 またパウロは使徒と同時に、宣教者・教師であると語ります。パウロは使徒・キリスト者として生きること自体が、ユダヤ人の社会とローマ帝国の諸国において、キリストを証しする者・伝道者です。さらにパウロは教師であると語ります。ユダヤ人は幼少期から旧約聖書を学んできました。しかし異邦人である私たちは、聖書を学び、聖書を知ることは大切なことです。そのために教師としての働きもまた重要です。
 
Ⅳ.牧師の仕事
 このようにパウロが宣教者であり教師であると語る時、現在の牧師も同様に、宣教者・伝道者でありつつ、聖書の全体、神の教理・信仰生活について教える教師でなければなりません。伝道は大切です。しかし伝道ばかりでは教会は成り立ちません。学びばかりでも教会の広がりはありません。教育的伝道と言いますが、バランスが大切です。
 ここで特に説教について考えます。ウェストミンスター大教理問答問158は、次のように答えます。「神の言葉は、賜物が十分に与えられ、また、その職務に就くことを正規に承認され、召された人々によってのみ、説教されなければなりません」。牧師ならびに信徒説教者は、神からの召命の証しとして知識を筆記試験で確認します。主によって与えられた賜物を用いて、主のお語り下さる御言葉を取り次ぐことが求められています。
 また問159では「御言葉の宣教に労するように召された人々は、健全な教理を、[第一に]折が良くても悪くても、熱心に、[第二に]人間の知恵の、心そそる言葉によらず、御霊と力との証明によって、わかりやすく、[第三に]神の計らいの全体を知らせて、忠実に、[第四に]聞く人たちの必要と能力に合わせて、賢明に、[第五に]神と神の民の魂への燃え立つ愛をもって、熱烈に、[第六に]ただ神の栄光と神の民の回心・教化・救いをめざして、真摯に、説教しなければなりません」と答えます。パウロは使徒として召され、肉の死をも恐れず(フィリ1:21)、主の働き人として仕えました。主による召しを受け、牧師として働く私自身、主から託された使命を確認して、その働きに仕えることが求められています。
  
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 男性・女性として生きる」  テモテ一2:8~15   2018.7.1  
 序.
 私たちの教会は、聖書こそが神の御言葉であり、聖書に聞き従った教会を立て、キリスト者である私たちは、聖書に聞き従う生活を目指しています。しかし注意しなければならないことは、新約聖書でも約2000年前のイスラエルに語られた御言葉です。つまり時代・文化的な違いを理解せずに読むと誤った理解をします。
そして今日の御言葉は、改革派教会が女性教師・長老を認める時に、一番問題とされたテキストです。女性教職・長老を認めていない教会は、この御言葉を拠り所としているのです。

Ⅰ.創造の秩序から考える男性と女性
 男性・女性について考える時、最初に創世記2章を確認します。最初の人は、主によって命の息を吹き入れられることにより生きる者となりました(2:7)。次に男に合う助ける者として女が造られました(2:18~24)。男が先であり、女が後に造られたことは確かです。このことで男性が女性よりも上位にあると考えてはなりません。男女平等です。神さまは、互いが互いを助ける者として男性と女性を創造されたのです。主から与えられた役割に違いをを考えなければなりません。しかし同時に、性差をなくすこと、性の区別すら無くそうとする、ジェンダーフリーは行き過ぎです。

Ⅱ.男性として
「だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこでも祈ることです」(8)。「だから」は、祈りが必要なことを語ってきましたが(1-3節)、このことを受けています。4-7節は、仲介者キリスト、そしてパウロの召命に関する挿入です。
 「怒らず争わず」とは、男性に与えられた特性と共に、それが罪によるところによる権力欲、暴力に訴えることに対して語っています。キリストは、私たちに罪の赦しと救い、そして神との和解を行うために、十字架の御業を成し遂げて下さいました。キリスト者は、自己中心・権力を持つことを欲するのではなく、和解と平和、そして弱い者に対する配慮して祈ることが求められています。
 「清い手を上げて」とあります。旧約聖書においても両手を挙げて祈る姿が語られていますし、また礼拝の最後に祝福の祈り(祝祷)において、両手を挙げて祈ります。戦いの時、両手を挙げて降参しますが、両手を挙げることにより攻撃は出来ず、服従の姿勢です。祈りも同じであり、すべてを神さまに明け渡し、委ねて祈るのです。

Ⅲ.女性として
 続けてパウロは女性に対して語ります。「同じように、婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。」(9)。ここで「髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません」とあるのは、女性に与えられた特性と共に、それが罪によるところです。ここで注意しなければならないのは、着飾ることがすべていけないと禁止されている訳ではなく、つつましい身なりをし、慎みと貞淑を持ってです。
 問題は11~12節です。ここで当時の時代背景を無視して読むと、「女性が教えてはならない、指導者として人の上に立つべきではない」と解釈することとなります。しかし明らかに女性に対する人権が確立されていない時代です。当時は、学ぶ機会が無かったことを考慮しなければなりません。そのことはルカ福音書10章のマルタとマリアのテキストで明らかになります。つまりマリアは主イエスの御言葉を聞いていたのですが、マルタは主イエスや弟子たちの食事の準備をしていました。当時であれば、当然、女性が給仕を行うことが前提であり、福音を聞くことは優先されることはありませんでした。そのことをマルタは語ったのですが、主イエスは福音を聞くことこそが第一であるとお語りになりました。
 そしてパウロは最初の罪を語ります。エバはだまされたのですが、前提として主がアダムに語られた命の契約のことを知らなかったことを語っているのです。エバは聞いてはいても、十分に理解していなかったため、騙されたのです。パウロが「婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです」(11)と語るのは、まさにこのことを語っています。知識として知ることと、理解した上でその知識を用いて生きていくこととは違います。人の上に立ち教えるためには、聞くだけではダメであり、その目的や意図を理解しなければなりません。
 そして最後に、改革派教会において、女性教師・女性長老の議論をしていたことを確認します。最終的には、「女性が教えることを、聖書は閉ざしていない(禁じていない)」、との結論となり、決議しました。つまり牧師であれ長老であれ、学び教えるための資質が求められ、全体像・本質を理解した上で、教えたり治めたりすることが出来る人であることが求められるのです。この点では、男性と女性に違いはありません。
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 上に立つ者に求められること」  テモテ一3:1~7   2018.7.8
 序.
 聖書では「監督の職」と記されていますが説教題は「上に立つ者」としました。聖書は直接的には教会の監督としての牧師・長老について語りますが、一般社会にあって上に立つ人々もまた、神さまからその働きに召された人たちであり、主が求めておられる資質を一緒に考えて頂きたいと思います。

Ⅰ.人の上に立つとは…
 ある人たちは、為政者や人の上に立つことが権威と考え、他者を支配しようとします。「権力争い」は上に立つ者が権威を振りかざすとき、それに逆らい、争いが生じるのです。そのため、権力を持つ者は、自らの権威を守るために、高圧的な支配を行います。
 一方、た私たちキリスト者は神さまの支配の下、キリストのしもべとして生きることが求められています。この時にすべてのベースとしてあるのが、神さまへの信仰であり、信仰から生じる隣人への愛です(参照:サマリア人への譬え:ルカ10:25-37)。神さまの御前にすべての人が貴いのです。隣人が困っていれば、助け・施し、共に苦しみ祈るのです。
 人の上に立つ者も、主の御前に一人の罪赦された罪人に過ぎません。人の上に立つことが出来るのは神さまが賜物を授け、使命が与えられた故です。主から託された働きを顧みて、その場に集う一人ひとりを思いやり・寄り添いつつ、一つの目標に向かって協力して仕えていくのです。この時、支配ではなく、職務における責任が求められるのです。
 牧師は教会で任職され按手されます。神さまが牧師としての働きを委ねて下さったのであり、権威は主にあります。ですから牧師は主から託された職務の故に敬われるのです。

Ⅱ.上に立つ者に求められる資質1
 監督に求められる資質・信仰についてパウロは語ります。「よく教えること」(2)については先週の説教において確認しました(参照:ウェストミンスター大教理158)。
 また「信仰に入って間もない人ではいけません」(6)と語ります。改革派教会では、牧師になるために神学校に行くことも含めて最低5年要します。その間に、本人の内的召命と共に、能力・資質が外的召命として教会において試験・試問により繰り返し問われます。そしてこの間に、賜物・能力を整える準備の時が与えられているのです。
 次に「家庭を持っている者である」ことについて確認します(2,4,5)。現在では、結婚する・しないことを尋ねることにも配慮が求められる時代です。それでも聖書において家庭の大切さを語っていることから目を背けてはなりません。家族は社会の中心にあり、最小単位です(創世2:24)。家庭を築くことは楽しみもありますが、忍耐も必要です。配偶者とは互いに理解すること忍耐が求められ、子どもに関してはなおさらです。上に立つ者は、こうした労苦を享受することができなければなりません。主イエスは、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」(ルカ16:10)ともお語りになられています。

Ⅲ.上に立つ者に求められる資質2
 上に立つ者の資質として、「非のうちどころがない」ことが語られています。最初に記すのは大切だからです。信用・信頼され、不信感を持たれないことが、上に立つ者に求められます。しかし私たちは、罪赦された罪人であり、今なお罪がありあります。弱さ・罪深さが表面に出ると、たとえ立派な説教を語っても、他人は神の御言葉として受け止めることができなくなり、説得力に欠けたものとなります。そのために注意が必要です。
 続けて、「節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、…酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず」(2,3)と語られます。これらはいずれも信仰者としてというより、一人の人間として大切なことが記されていると言ってもよいでしょう。
 次の「金銭に執着せず」とあります。商売をされている人たちは、金銭においてシビアであることが求められます。しかしキリスト者として神と富の二人の主人に仕えることはできません。(マタイ6:24)。第一のものを第一とすべきです(同6:33)。金銭的なことは必要を満たして下さる主に委ね、福音に生きることが求められています。
 最後に「教会以外の人々からも良い評判を得ている人でなければなりません」と語ります(7)。聖書の時代は迫害が伴います。それでもなお、キリスト者としてキリストを証ししつつ、権力者に忖度することもなく、なおも良い評判を得ることは、簡単なことではありません。しかし、上に立つ者がキリスト者としての証しを行う時、福音が福音として伝えられ、神の救いの喜びが、人々に伝えられていく力が与えられます。
     
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 奉仕を行うとは」  テモテ一3:8~13   2018.7.15
序.
 パウロは、愛弟子であるテモテにこれからの教会を託すにあたり、異なる教えを説いたり、無益な議論を行い惑わす者たちに注意するように語りかけました(1章)。そして信仰を貫き福音を伝えるために、まずは祈りが大切であることを語ります(2章)。そして3章では、キリストの教会を立てる時に、教会役員・奉仕者が大切であることを語っています。

Ⅰ.教会の土台を据える教会役員、執事
 異教社会で、信仰を貫きキリストの教会を立て上げるために、監督である牧師・長老の信仰・生活が揺るぎないものでなければ、教会に集う信徒が揺るぎない信仰を持つことなどできません。牧師・長老によって、教会は立ち、また倒れることもあるのです。
 同様に大切なのが奉仕者です。口語訳・新改訳では「執事」と訳されています。「ディアコニア」に通じる言葉です。任職される者(10)であり「執事」の方が分かりやすいです。4章の初めの標題は「背教の予告」です。教会がしっかりした信仰に立っていなければ、異教宗教や世俗社会の影響、そして教会内における躓きにおいて、背教者が出てくることが避けることができません。そのために、教会の信仰、特に監督である牧師・長老と共に、執事がしっかりとした信仰者が立てられていくことが求められているのです。

Ⅱ.執事に求められる資質
 執事は「品位のある人」が求められています。監督は信仰的に的確な判断能力が求められますが、執事は主に愛の業に仕えます。「信仰から生じる人当たりの良さ」と言ってよいでしょうか、愛の交わりに相応しさが求められています。
 次に「二枚舌を使わない」ことが大切です。人によって語ることが異なる、つまり人に話しを合わせようとする人がいますが、時として第三者を傷つける発言であり、そのことが後に本人に知られることもあります。あるいは「うわさ話」が好きな人、「悪口を言いふらす」人もいます。「人から出てくるものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出てくるからである」(マルコ7:20,21)。
 続けて「清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている人でなければなりません」(9)と語ります。第一に清い良心です。異教社会に生きている私たちは少なからず信仰に反する行為が求められることがあるかと思います。しかし私たちキリスト者は、キリストの十字架の贖いにより罪が赦されました。そして神の御国における永遠の生命が約束されています。私たちは神のしもべであり、生きる基準は神です。そのため清い良心を持って生きる時、この世の人々と信仰の戦いが生じるのです。キリスト者として、上に立てられた者に従うことが求められていますが、その前に第一のこととして神に従い、キリスト者の良心を貫くことが求められています(参照:神の武具 エフェソ6:10~18)。
 続けて「信仰の秘められた真理を持つ」ように求められます。「奥義(おくぎ)」(口語訳、新改訳)です。キリストと出会い、罪が赦され、救いが与えられた者として、キリスト者として生きることは、必然的に生き方、価値観が変わります。「恥ずべき利益をむさぼらない」(8)とは、自分の利益のために生きるのを止めることを意味します。 つまり、以前は自分が規準であり自己中心に生きていましたが、キリストの十字架と死からの甦りに出会う時、私たちはキリストのしもべ(奴隷)として生きる者とされるのです。この時、キリストが私たちにお与え下さった和解と平和に生きる者とされ、神によって与えられた隣人を愛する者となり、聖徒の交わりに生きるキリスト者とされるのです(ウ信仰告白26:1)。

Ⅲ.奉仕により祝福される教会を目指して
 「奉仕者の仕事を立派に果たした人々は、良い地位を得、キリスト・イエスへの信仰によって大きな確信を得るようになるからです」(13)。ここは解釈を間違えると、信仰の方向性が違ってくる個所です。立派な奉仕を行った者が、教会における地位が上がり監督になるとか、影響力が大きくなるのではありません。すぐ後に、「キリスト・イエスへの信仰によって大きな確信を得るようになる」と語られていることより、信仰が強められ、そして主による喜びに溢れる、祝福に満たされることです。
 教会における執事の働きは、牧師・長老と共に大切です。そのため、牧師・長老と共に、執事として立てられている方々には、改めて主から与えられた召しを確認しつつ、信仰を着飾って頂きたいと願っています。しかし教会役員が頑張ればそれで良いのではなく、教会役員が各々信仰の訓練と養いに与ることにより、教会に集う教会員一人ひとり・教会全体が、主による救いの喜びに満たされ、信仰の養いに与る時、教会は成長していくのです。
      
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 神の家としての教会」  テモテ一3:14~16   2018.7.22
 序.
 パウロは、3章にはいり教会における働き人としての監督(牧師・長老)、そして執事の働きの重要性を語ってきました。パウロはここで立ち止まり、キリストの教会の姿を確認します。本当ならば、直接会って確認すべき信仰の核心的な事柄です。しかしパウロは自分が行くのが遅れる可能性もあることから、ここで信仰の核心を語り始めるのです。

Ⅰ.教会は霊的な場所である!
 監督である牧師・長老、そして執事を中心にキリストの教会が立てられていきます。しかしそれだけでは、自分たちの手で立てた人間の教会になってしまうことがあります。これは、キリストの教会ではなく、○○という一人の監督の個人商店になってしまいます。教会はそうであってはなりません。教会は、キリストの教会であり、神の家です。
 礼拝の最後に祝福の祈りがありますが、祝福の祈りにおいて、皆さんは家庭や社会に遣わされて行くのです。そして神の家へと帰ってきて、礼拝の最初の招きの言葉において主の交わりに入れられるのです。つまり生活の中心は神の家であって、私たちはそれぞれの家庭や社会に主によって遣わされて行くのです。これを理解していなければ、キリスト者としての生活が歪んでくるのです。つまり自分や社会の都合が第一となり、主の御言葉、主の救いへの招きの言葉が二の次、三の次となるのです。

Ⅱ.真理の柱である土台である生ける教会
 パウロは、神の家は「真理の柱であり土台である生ける神の教会です」と語ります。パウロの語る神の家は、教会堂がある組織された教会ではありません。教会は霊的であり、教会の永遠性を語ります。使徒たちによって作られたエルサレム教会も、パウロの伝道した諸教会も継続している教会はありません。地上にある教会は時代と共に姿を消します。しかし私たちキリスト者のすべてが集められる天国である天の教会、見えない教会、完成された教会は永遠です。天にある教会は霊的な存在であり、アダムとエバから始まる旧約のイスラエルの民、そして使徒たち、全世界の時代と空間を超えたすべてのキリスト者が集められます。ここに私たちの柱である土台があります。
 そして、大宮教会に生きる私たち一人ひとりも、この天にある神の教会に属しています。地上にある各々の教会では、罪赦された罪人によって立てられるため、様々な矛盾が生じます。そして牧師も長老、執事も、キリストの十字架によって罪赦された罪人であり、自分たちの力で教会を立て上げようとすると、人間の罪が前面に出て、教会も人間的な教会となります。この大宮教会を立て上げる時も、主体は主なる神さまでなければなりません。教会を立てるために、主は監督である牧師・長老、そして執事をお立て下さり、按手して、任職して下さいます。この時、牧師も長老も執事も、主なる神さまから必要な賜物、働きが備えられています。教会役員は、主の御前に悔い改め、遜り、主に委ね、主から与えられた賜物を用いて、教会を立て上げていくのです。そこに、教会に集う一人ひとりの神の民としての皆さんもまた加えられているのであり、主から信仰が与えられた者として、主に委ね、主に仕え、主から与えられた賜物を用いて、奉仕を行うのです。

Ⅲ.奥義は明らかにされている
 この時、「信心の秘められた真理(神の奥義)は確かに偉大です」。つまり、私たちがキリストの教会を立て上げようとする時に、この奥義が、一人ひとりの内で明確になっていなければ、教会を立て上げることの大切さ、強いては、神さまを信じることの大切さを理解することはできません。秘められた真理は、秘められたままであってはならず、私たちは主がお語り下さる啓示の書である聖書の御言葉に聞くことが求められるのです(参照:ウェストミンスター信仰告白8:8)。

Ⅳ.福音を伝える教会
 私たちに明らかにされた奥義とは何か? ここに当時の讃美歌が告白文書として語られています。第一にキリストは肉において現れ、神の御子の受肉です。続く「“霊”において義とされ」るとは、キリストの十字架による罪の赦しを指し示しています。「天使たちに見られ」はキリストの死からの復活を指し示しています。そして復活されたキリストが地上で福音宣教を行われ、昇天されました。これが明らかにされた奥義・福音の中心です。
 私たちはキリストの十字架の贖いと復活によって私たちに罪の赦しが与えられたこと、天の教会に属する者とされていること、この福音に生きることこそが、私たちキリスト者の本当の姿、喜びです。私たちは繰り返し福音の原点に立ち帰り、救いを喜び、キリストの教会を立て上げることが求められています。
       
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 偽善者の出現」  テモテ一4:1~5      2018.8.5
 Ⅰ.サタンの誘惑の中に生きるキリスト者
 パウロは改めて教会を惑わす者たちがいるため、注意を促します。「終わりの時」とはキリストの十字架の死と復活が成し遂げられた後の新約の時代のことです。ですから、黙示録が語るような「終末の時代は、まだ先にあるのだ」、「自分たちには関係ない」と他人事であってはなりません。現代に生きる私たちにも、教会を惑わす者がいるのです。
 そしてパウロは信仰から脱落する者がいることを語ります。信仰が揺さぶられ、教会から離れる者、また教会の中に留まりつつも教会の中にあっても真理から離れ偽善を語り、キリスト者を惑わす者たちが現れてくるのです。ここで注目すべきことは、「彼らの教えに心を奪われること」、「信仰から脱落する」ことです。彼らは惑わす霊であり、彼らの語ることが正しいと思えるのです。しっかりとした信仰、聖書の体系としての教理を身に着けておかなければ根こそぎ心奪われるのです。私たちは誤った教えに敏感に察知する感覚、心を研ぎ澄ませておくことが求められています。そのために聖書に聞き続けるのです。
 また教理としてウェストミンスター信条を学びます。聖書を漠然と読んでいても、神さまの救いの全体像、そこに込められている神さまの愛の神髄については、やはり教理を学び、教理の枠組みを理解しなければなりません。こうして信仰の土台がしっかりすることにより、心が揺さぶられることが語られたとしても、惑わされることなく、信仰を貫くことができるようになるのです。こうした信仰の養いのために、監督としての牧師・長老、そして執事が立てられることが求められ、彼らの信仰が問われるのです。

Ⅱ.偽善者の本質
 続けて偽りを語る者たちが、どのような人々であるかが警告されています(2~3)。彼らには、サタンによって焼き印が押され、嘘つきの偽善者であります。
 つまり、彼らが語ることの本質は、神の愛、神の求める平和から離れており、嘘であり、何の確証もないことです。つまり彼らの語ることの本質は、突き詰めれば、教会に対して混乱をもたらすこと、自分たちの利益を求めることを語っているのです。

Ⅲ.結婚について
 3節には、彼らが語ることの主な2つのことが記され注意を促されています。一つ目が結婚を禁じることです。結婚に関しては、創世記2章における女の誕生から、結婚制度を考えることができます。結婚や性の歩みに関しては、現代的な問題がいろいろ考えられます。しかしここでは、信仰の故に結婚をしないことだけを考え、他のことは言及しません。
 ここで、カトリック教会における聖職者の独身性について言及しなければなりません。宗教改革の時、ルターは、カトリックの主張が真理ではないということで、自分自身が結婚し、聖職者の独身が主張されてはならないことを訴えました。しかしカトリック教会では現在においても聖職者の独身が貫かれています。その根拠は、マタイ19:10~12、ならびにⅠコリント7章におけるパウロの主張です。「結婚しない者もいる」と語られ、これが絶対的なものであってはなりません。つまりパウロのように結婚しない者もあるが、それはそのように召されている人たちであって、聖職者になるから、あるいは何か苦行を受け入れるように独身を貫くことなどを聖書は求めおらず、独身が強制されてはなりません。

Ⅳ.食物について
 続けて偽善者の求めとして、ある種の食物を断つことを命じることが言及されます。ここで私たちは旧約の時代と、新約の時代の違いを理解しておかなければなりません。つまり旧約聖書においては、様々な食べ物について食べることが禁じられていました。しかし新約の時代に生きる私たちとしては、こうした儀式律法から解放されているのです。
 この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。いうのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです(参照:小教理104、使徒10:11-15)。
 旧約の時代に、食べてはならない食物について規定されていたことに関して、衛生上であるとか、生け贄に伴うことであるとか、いろいろ推測されています。しかし、私たちは旧約で語られていたことが、新約の時代になり除外されているのは、キリストの十字架によって罪が赦され、神の救いの内に生きているからであること以上に詮索すべきではありません。今の時代、偽善者のみならず、私たちから神さまを遠ざけようとする様々なものが世に氾濫しています。その中、私たちが信仰を守り、主の恵みに生きようとする時、旧新約聖書に記された御言葉に聞きつつ、しっかりとした教理に立ち続けることが大切です。
        
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 来たるべき世の命を約束する信心」  テモテ一4:6~10    2018.8.12
 序.
 今週8月15日、敗戦の日を迎えます。73年前、日本は戦争を行い、近隣諸国を占領し、植民地化しました。国・自由・言葉・文化・土地等を奪ったのです。当時のキリスト教会は戦争に反対ぜず協力しました。しかし神さまの求めは、戦うことではなく、武具を鋤に持ち代え和解すること、平和を保つことです。武器を持ったまま、握手はできません。主イエスは「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたに右の頬を打つなら、左の頬も向けなさい。……」(マタイ5:39~40)とお語りになります。

Ⅰ.「神の平和の実現」と「教会を乱す者たち」
 しかし私たちが平和を求めても、教会で誤ったことを語り、誘惑し、混乱を招く人たちがいます。そうした人たちが教会にいる時、彼らを追い出し、除名することも求められます。時として、実力行使も必要となることもあるかも知れません。つまり神が求める平和は、秩序が整えられ、その範囲での自由が許されのであり、権力・力による支配ではなく、霊的・秩序による支配です。
 だからこそ教会では、訓練規定を持ち、「戒規=訓練」は次のように定義します。「訓練とは、教会の会員を教え、導き、教会の純潔と霊的豊かさとを増進するために、主イエス・キリストによって教会に与えられた権能の行使である。…キリストが教会に与えられた権能は、建てあげるためであって、破壊のためではなく、またあわれみをもって行使すべきであって、怒りをもってすべきではない。教会は、母がその子どもをかれらの益のために矯正するように、かれらがみなキリストの日に咎なきものとして御前に立ちうるように行為すべきである」(訓練規定第1、4条)。また、ウェストミンスター信仰告白第20章「キリスト者の自由、良心の自由について」の第1節を参照していただきたいと思います。

Ⅱ.信仰を貫くキリスト者を育てるために
 パウロはキリストの教会を建てるために、祈ること、監督(牧師・長老)、奉仕者(執事)がしっかりとした信仰を持つ必要があることを語ってきました(2~3章)。これらのことが教会で行われることにより、「信仰の言葉」と「善い行いの言葉」に養われるのであり、それが、「神の教理」と「キリスト者の生き方」と言い換えることができるかと思います。つまり教会を建て上げる時、聖書に基づく教理が理解されなければなりません。そして、聖書と教理を身に着けることにより、キリスト・イエスの立派な奉仕者を育てていくことができるのです。

Ⅲ.我らの国籍は天に在り!
 サタンは巧みに私たちに語りかけ、騙そうとします。そのため私たちは、敏感にならなければならないのであり、そのために御言葉の養いと教理の学びが求められているのです。ここで「体を鍛練すること」と語られますが、武器をもって戦うための準備です。キリストの教会を建てようとする時、異なった教えを語り、時として迫害してくる人たちに対して、時として戦うことが求められるかも知れませんが、それは本質ではありません。
 しかし私たちは良心の主である神さまに従って生きる時、御言葉に反すること、盲目的な服従が求められる時、私たちは信仰の故に、それらに抗い、時として武器を持つこともあるかも知れません。しかしあくまで慎重であるべきであり、それが優先されてはなりません。そのため、為政者に従うことが求められていますが、良心の自由が侵害される時には、主なる神に従うことが、第一に行われなければなりません。
 「わたしたちが労苦し、奮闘する」と語るように、時として信仰の故に迫害に遭い、時には虐げがあります。日本においてキリスト者として生きる時、良心の自由を貫き、信仰を貫こうとする時、様々な不利益が被る可能性もあります。それでもなお、信仰を貫くことができるのはなぜか? 私たちを救いに導いて下さった救い主イエス・キリストがおられるからであり、イエス・キリストの十字架により、罪の赦しと救いが完成しているからです。そしてイエス・キリストは、今も、天にあって生きておられ,私たちのために日々、執り成し続けて下さっているのです。私たちは自分の力で生きているのではありません。永遠から永遠におられる主なる神さまが共におられ、私たちと共に歩んで下さっているのです。私たちが、肉に死んでも、復活の体が与えられ、天国における永遠の生命が約束されているのです。ここにこそ、希望があり、喜びがあります。だからこそ、私たちは信仰を貫き通すことができるのです。 問1 人間の第一の目的は、何ですか。
  答 人間の第一の目的は、神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとするとです。
         
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 信じる者の模範として生きる」  テモテ一4:11~16    2018.9.2
 
序.
 パウロは愛弟子であるテモテに、「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません」と語りました。私自身、神学生時代、そして最初の任地で奉仕している頃は、この御言葉を強く意識していたことを思い出します。今では、それ程でもありませんが、私よりも年長者が少なからずいる大宮教会においても、この思いを忘れることなく、奉仕させていただいています。
 つまりこの御言葉は、直接的には、パウロが愛弟子であるテモテに語りかける言葉であり、今日の説教者に語りかけられている御言葉でます。しかしこの時、教会に集う皆さまにとって、この御言葉から何を聞くのかということが問われてきます。

Ⅰ.キリスト者として生きるとは…
 「だれからも軽んじられてはならない」とパウロは語ります。日本同様、当時はキリスト者が非常に少ない時代です。そしてキリスト者である故の迫害もあります。そうした中、どれだけ若造であっても、非キリスト者にも、人間として一目置かれる者であることが求められています。ですから、クリスチャンとしては熱心で尊敬されたとしても、一人の人間として、受け入れられないような生活を送っていれば、その人の信仰が問われます。
 パウロは続けて語ります。「むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい」。言葉・行動とは、私たちの生活におけることであり、愛・信仰・純潔とは、信仰的なことであると言って良いかと思います。つまり、信仰において、生活においても、教会の内外問わず、人々の模範となる行動することが求められます。

Ⅱ.御言葉に生きるキリスト者
 パウロは13節で「聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい」と語ります。言葉、そして行動は、積み重ねることにより他人を励まし、勇気づけることも出来ます。しかし、罪の故に躓きを与えることもあります(マタイ15:18,19)。神の民とされたキリスト者であっても、口から発する言葉により、人を傷つけることがあるのです。キリスト者は罪赦された罪人であり、自己中心に口において人を傷つけることが少なくありません。私たちがこうした罪に対して客観的に向き合うために、主がお語りになる御言葉としての聖書に耳を傾けなければなりません。その御言葉の中心が、律法(十戒)です。神さまは最初に私たちを罪から救い出して下さったのであり、その上で、私たちが罪から守られ、神の民として生きていくために、律法をお与え下さったのです。だからこそ説教者は、キリスト者が主を証し、模範的な歩みを行うことが出来るように、主がお語りになられた聖書の御言葉を人々に伝え、勧め、教えることに専念することが求められるのです(参照:ウェストミンスター大教理159)。
 その上で、信者は御言葉に聞き従うことが求められます。この時、神の御心に従う言葉が発せられ、行動、愛、信仰、純潔とすべての点で、変えられて行くのです。ですから御言葉に聞き、言葉を発することがすべての要です。

Ⅲ.行動に表れる恵みの賜物
 続けてパウロは、「あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません」と語ります。直接的には、テモテの監督・牧師としての賜物が、神から与えられたことです。牧師・長老・執事は、主から直接その働きが与えられ、教会が確認し、手を置く(按手)ことにより、その働きに就きます。教会役員は主から必要な賜物が与えられるのです。
 同様に、教会に集う一人ひとり個性があり、優れたところがあります。こうした優れた能力、賜物の一つひとつもまた、主なる神さまから与えられた恵みです。つまり、神さまから与えられた生命・能力・賜物を用いて私たちが生きる時、すべてをお与え下さる神さまへの感謝と喜びをもって生きることが出来るのです。大切なことは、すべてをお与え下さる神さまの恵みによって生きること、すべてを神さまに委ねること、神のご支配を受け入れ、神中心に生きることです。
 神の御言葉に聞き、神さまから与えられた賜物を感謝して用いて、喜んで生きる時、聖霊をとおして、主の証し人として立てられるのです。それがキリスト者として模範として生きることです。「言葉、行動に注意しなさい」と語られると、「ねばならない」律法主義、と思うのですが、神さまにより生命が与えられ、生きるために必要な恵み、賜物が与えられていることの感謝と喜びをもって生きることこそが、今の私たちに求められていることです。主はキリストの十字架の御業により、私たちの救いを完成して下さっているのです。
          
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 年代を超えた交わり」  テモテ一5:1~2    2018.9.9

序.教会に求められる一致
 テモテ書は5章に入り、聖徒の交わりについてパウロは語り始めます。これは新しいことを語っているのではなく、今までの話しの延長線上です。今までパウロは教会を乱す異端者等に注意するように語ってきました。サタンは、キリスト者に対して攻撃を仕掛けてきます。教会の中において分派が起きれば、その隙にサタンはつけ込みます。だからこそ教会が一つになることが大切なのです(参照:ヨハネ15章:ぶどうの木の譬え、ローマ12章:教会は一つの体)。教会が一つになるために聖徒の交わりの必要をパウロは語ります。

Ⅰ.聖徒の交わり
 教会における交わりは非常に大切です。使徒言行録2:42では、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」と語ります。説教、礼典、祈りが礼拝の大切な要素です。その中に聖徒の交わりが入っているのです。このことをウェストミンスター信仰告白も語ります。第25章「教会について、第26章「聖徒の交わりについて」、第27章「聖礼典について」、第28章「洗礼について」、第29章「主の晩餐について」。
 またウェストミンスター信仰告白26:2では、聖徒の交わりは、神礼拝、つまり御言葉に基づき、互いに建て上げるための霊的奉仕であると語ります。それは外的・実質的な助け合いが伴います。つまり交わり(コイノニア)は、愛の奉仕としてのディアコニアを伴います。実質的な助け合いを行うことにより一つの共同体を形成するのが教会の交わりです。

Ⅱ.主イエスが教会に集められた人々
 そして教会における交わりの特徴は、色々な年代、多種・多様な人たちが集うことです。人種・言葉・文化・障碍の壁もあってはなりません。
 このことは、主イエスが弟子とされた十二使徒で確認できます(参照:マタイ10:1~4)。ペトロらは無学な漁師でした。マタイは徴税人です。搾取し、罪人として人々からひどく嫌われていました。シモンは熱心党員、武力行使をも良しとした武装集団・過激派です。
 また主イエスの所に来た人々も教会の多様です。東方の博士たち(マタイ2章)は、異邦人であり占い師でしたが、主イエスの誕生の証人となりました。重い皮膚病を患っている人や悪霊に取りつかれた人(同8章)は、隔離され、墓場に住んでいました。盲人も癒やされます。マグダラのマリアは7つの悪霊を追い出していただいた婦人です(ルカ8:2)。38年病気で苦しんでいた人(ヨハネ5章)、姦通の現場で捕らえられた女(同8章)の罪も赦されました。パウロのようなファリサイ人、ローマの百人隊長、奴隷もいます。ルカは医者でした。社会的に認められ権力・財力のある人から、人々から嫌われた人々、邪魔者扱いされた人々、社会的弱者も含まれます。こうした人たちを受け入れるのが教会です。

Ⅲ.教会に集う人たち
 「老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい」と語ります。頑固親父もおれば偏屈者もいます。できれば関わりたくない人もいます。時になだめ、時に諭しながら、理解を求め、その場を取り繕うのです。面倒臭いこともあります。しかし、教会の交わりは、彼自身も罪赦された神の民として受け入れ、接することです。
 「若い男は兄弟と思いなさい」と語ります。若さ故の無鉄砲さ、世間知らず、未熟さもあります。彼らとの交わりには忍耐が必要です。彼らとの違いを確認した上で、受け入れることが大切です。押しつけたり、型にはめようと思うと、彼らは教会から出て行きます。
 「年老いた婦人は母親と思いなさい」。一般的に、若い男性が年長者の婦人と話すとき、言葉においては適いません。諭され、丸め込まれます。それでも、時には必要なことは語ることが求められます。「若い女性」に関しては注意が求められます。テモテに語られており男性としての対応です。性的な関係が疑われることに注意しなければなりません。
 ここでは子どもたちについては語られていませんが、主イエスは語られています(マルコ10:13-16)。子どもたちが受け入れられていることを実感できること、彼らの居場所があることを実感することが必要です。忍耐も求められますが、見守る思いが大切です。
 ウェストミンスター小教理問答問24は、聖徒の交わりが第五戒に関わることとして語ります。色んな年代の人たち、多彩な賜物、人種・言葉・文化の違い・障碍の有無を超えた互いの罪を受け入れ、赦し合い、聖徒の交わりが行われ、愛の交わりが行われる時、キリストにあって一つとなり、キリストを証しする共同体が形成されます。そのために、自分自身がキリストの十字架によって罪が赦された者として、誰であっても、赦し合い、和解をもって一つとなることが、私たちの教会に今求められています。
           
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 独り暮らしの婦人について」  テモテ一5:3~16    2018.9.16
 
序.
 パウロは5章に入り、聖徒の交わり(コイノニア)の大切さを語り始めます。前回は、教会にはいろんな人たちが集い、それぞれに対応することが必要であることを語ってきました。3節以降は具体的に考えて行きます。身寄りのないやもめ(婦人)について、長老たちについて、罪を犯しても隠し通しているずる賢い人に対して語ります。そして6章では、奴隷に関して語ります。身寄りのない婦人や奴隷は、当時の社会では一番の社会的弱者です。社会的な弱者に、教会はどうあるべきかを、主は私たちに考えるように求めています。

Ⅰ.家族の働き
 パウロは「身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい」(3)と語ります。私たちは、現代との違いを理解しなければなりません。現在の日本では、十分ではありませんが年金や保健の制度が整っており、最低限の生活はできます。しかし、当時はそうした制度は、いっさいありませんでした。社会的に最貧困者であったといえます。
 ルツ記では、ナオミやルツにより、その生活が少し明らかになります。彼女たちは家族や親戚に頼るしか生きる術がなかったのです。だからこそ家族が大切であり、第五戒で「父母を敬いなさい」と語るのは切実な問題です。そのことが4節で語られています。そして8節では、自分の親族・家族の世話をしない者は、信者でない人にも劣っていることを語ります。実際、日本でも介護が問題です。介護放棄・虐待・殺人も起こっています。介護は、体力と忍耐を要するからです。つまり「父母を敬う」ことは、人の生命に関わることでもあるからこそ、「殺してはならない」に優先して、第二の板の最初に来るのです。
 その上で、子どもが親を、そして年少者が年長者を敬うことについて、ウェストミンスター大教理問答問127は語っています。自分が第一の現代的な社会の風潮では、成り立たちません。主によって命が与えられた者として、命の大切さを知り、信仰に伴う愛、「自分を愛するように、隣人をも愛する」ことがなければ、出来ないのです。だからこそ、私たちは改めて救いによって生きる信仰の大切さを、受け入れることが求められています。

Ⅱ.身寄りのない婦人について
 その上でパウロは身寄りがなく独り暮らしのやもめについて語ります。やもめが独りで生きていくのに、放縦な生活をする人は少なくありません。そうせざるを得ないのです(6)。
 そうした中、やもめには「神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続ける」ことを、主は求めます。自分の力で生きることはできません。そうした時に、神さまに委ねるように、聖書は語り、私たちにも迫ってきます。他人事ではありません。私たちも、ひとたび事故や自然災害に遭うと、自分の力では何も出来ない状態に置かれるのです。こうした時、すべてを主に委ねるしか、生きていく方法はありません。このことを実践している例として、やもめの献金(ルカ21:1~4)です。神さまを信じるとは、すべてを支配しておられる神さまにすべてを委ねて生きることです。現在に生きる私たちは、明日の生活が見えるから、すべてを主に委ね祈ることが出来ないのです。裕福さ故に、信仰の弱さが生じるのです。
 パウロは、教会において施しを行うやもめとして登録することに慎重であることを求めます。これは、教会に養ってもらうことを目的にやもめになる人もいるからです。「登録」と語られているとおり、通常は、取り消しなどは考えられず、生涯再婚をすることなく、やもめとして生活することが求められます。それが12節の前にした約束を破ったという非難を受けることになるからですに表れます。「やもめ」が、教会の役職であったのかは議論されるところですが、執事のような位置づけ、つまり信仰の先輩としての尊敬・敬いを受けるのに相応しい人であることが求められたのだと思います(9-10節)。ですから、やもめを登録することは、教会における愛の業(ディアコニア)に関係することですが、同時にすべてを主に委ねた模範的な信仰生活を送る人が与えられることは、教会にとって大きな恵みです。そうしたことを踏まえて、やもめを登録することが求められています。

Ⅲ.教会における「やもめ」
 パウロは11節以降、年若いやもめは登録しないように語ります。若さ故の誘惑もあり、主はできる限りの再婚を求めます。もちろん、独身を貫くことを聖書は否定しませんので、やもめになったからといって再婚しなければならないとまではいえません。しかし、サタンからの誘惑が多く、信仰の道を踏み外すことも少なからずあるのです。やもめになることは、神への誓願であります。果たすことの出来ない誓願は、主の御前に罪であり、誓願をする時に主の御前に慎重でなければなりません。
 「やもめ」について、御言葉から聞いてきました。第一に、新約の教会においては、やもめを登録することにおいて、生活の糧を失った身寄りのない婦人に対して継続的な施しを行い、愛の業(ディアコニア)を実行することができました。そして第二に、主から与えられた彼女の信仰を通して、教会は主からの大きな恵みに与っていたのです。年配者の方々が礼拝に出席することは、そこにいて下さることにより、年若い者にとっては、信仰の訓練を受け、養いに与ることが出来るのです。だからこそ、当時の社会環境は、現代の私たちとはまったく異なりますが、それでもなお私たちは、やもめに求められた信仰をとおして、私たちの自身の信仰を顧みることが求められ、さらに教会として愛の業(ディアコニア)が大切な働きであることを、今日の御言葉から考えることが出来るのです。
            
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 長老の働きとその評価」  テモテ一5:17~22    2018.9.23
 
Ⅰ.2つの疑問
 パウロは長老について語ります。ここで2つの疑問が生じます。3章で「監督」について語り、そしてここで改めて言葉を換えて「長老」について語ります。第二に、5章では聖徒の交わりについて語っており、老人、身寄りのないやもめについて語られてきました。6章では奴隷について語ります。なぜここで「長老」について語るのでしょうか?
 ギリシャ語聖書、英語聖書では、「老人」は「長老」が同じ言葉が用いられています。「年長者、老人、長老」と訳する言葉です。そして役職としての「長老」は「監督」と同義語で用いられています。つまりここでの長老は、聖徒の交わりにおいて会員が配慮すべき者として語られているのです。

Ⅱ.教える長老の働き
 教会の職務として「長老」と語る時、通常は「治会(治める)長老」を「長老」と呼ぶのですが、牧師もまた「教える長老」です。ですから、小会などの会議のことを「長老会」と呼ぶこともあります。そしてパウロは、御言葉と教える長老は、二倍の報酬を受けるにふさわしいと語ります。聖書は、牧師への報酬の正当性を、旧約・新約の聖書から説明します。最初は申命記25:4の引用です。これは農作業に用いている牛について語ります。くつこをはめた方が、牛を思い通りに働かせることができます。しかし牛にとってみれば、苦痛が伴います。労働を行う牛に配慮して、それ以上に付加がかかることは止めなさいと、語られているのです。後者はマタイ10:10の引用です。主イエスは12人の弟子たちを宣教に派遣された時、宣教の働きを行う者が食べ物を受けるのは当然であると語られました。
 牧師の立場からすれば、教会員の貴い献金により教会から謝儀を受け取ることに心より感謝しています。しかし「貧しい生活が美徳である」かの如くに語られることがあります。確かに貧しい生活でも、主に祈りすべてを委ねる信仰生活は素晴らしいことです。また神と富とに仕えることはできず(マタイ6:24)、牧師が収入を増やすことが主になれば、本末転倒です。一般の働きを行われている人々も同じことですが、働きに対しては正当な報酬は与えられるべきであり、またそうした人たちは教会においても用いられるのです。

Ⅲ.教会戒規について
 次に長老に反対する訴えは、二人あるいは三人の証人により行うように語ります(19)。牧師・長老もまた、一キリスト者、罪赦された罪人です。サタンが様々な形で教会に誘惑をしかけ、牧師・長老も過ちや罪を犯すこともありえます。そのため、誰であろうと罪を犯せば明らかにされるひつようがあります。ただ安易に訴えが受理されれば、自分の意見が合わない人を訴え、失脚させることが起こりかねません。そのため慎重さを求めます。
 特に教会員にとって、牧師の過ちは指摘しずらいかと思います。しかし、教会において過ちを正せない雰囲気をつくってはなりません。だからこそ、特に長老たちは聖書や教会政治を知っておく必要があります。牧師の言動に無思慮に聴従する長老であってはなりません。そして牧師を独裁者にしてはなりません。
 牧師であろうと罪を犯せば悔い改めが求められます。そのために教会では、戒規の制度が整えられているのです(参照:ウェストミンスター信仰告白30:3)。戒規、譴責といえば、裁きのためと思われがちですが、訓練の一貫です。罪を悔い改め、キリスト者として再出発することが目的です。もちろん戒規が行われないにこしたことはありません。しかし教会に問題があるにも関わらず、戒規が行われないことの方が、問題は大きいのです。つまり教会における聖徒の交わりが豊かであれば、信頼関係があれば、事実関係を確認した上で、罪の忠告が行われ、戒規を執行することが出来るのです。しかし信頼関係がなければ、問題が起こっても、腫れ物を扱う如く問題は後々に残るのです。これこそ問題です。

Ⅳ.罪に荷担するな!
 22節で長老の任職について語られます。新たな牧師を招聘すること、新たな長老を任職することは、教会の責任で行われ、教会員一人ひとりに判断が求められます。信仰に基づく職務に相応しい人であるかの判断をせず、人間的な思いで選出される時、教会に罪が入ってくる可能性が高くなるのです。常に主の御前にあって正しいことが行われているか考えながら、一つひとつの事柄を、信仰的に慎重に判断することが求められるのです。
 教会にとって、牧師・長老は、それぞれ非常に大切な働きが求められています。だからこそ、役職の故に敬うことが求められます。同時に、牧師・長老が問題を犯した時、その事実が明らかにされ、悔い改めが行わることも、教会にとって大切なことです。
             
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 禁欲主義は美徳ではない」  テモテ一5:23    2018.10.7
  
序.
 今日は5:23一節の御言葉です。聖書を読んでいて理解が難しいテキストです。口語訳聖書では、この節を括弧の中に入れて、後代の挿入ではないかとの解釈に立っています。

Ⅰ.5章23節の位置付け
 パウロは5章~6章の前半で聖徒の交わりを語っている中、この一節のみ健康管理のことを語ります。純粋に、テモテの体のことを配慮しているのだと解釈されることもあります。実際にそうであったとしても、なぜこの箇所に置かれたのかという疑問が残ります。
 もう一つの考えは、健康管理のことを語りつつ、信仰のことを指し示しているのだと解釈することです。すると前の段落からのつながりも考えることが出来るかと思います。

Ⅱ.教会は禁欲主義に非ず!
 最初に水だけを飲むことを考えます。禁欲主義からくる発想です。教会によっては禁欲主義が奨励され、裕福な生活が罪を犯しているごとく語られます。確かに主イエスは、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)と語られ、金持ちの青年は、周囲にいる貧しい人のために財産を用いることが出来ず、主イエスから非難されています(同19:16~22)。しかし、お金を持っていること自体が否定されているのではありません。主は私たちの生活において、富を用いて生きるようにお与え下さいました。私たちは生活に相応しい形で富を用いることが求められています。多く与えられた者は責任が伴うのであり、持っていること、用いることまで否定されているわけではありません。
 同じことが、食べること・飲むことにおいても考えられます。つまり、酒を飲み過ぎることにより、人を傷つけたり、体調を崩したり、多くの弊害があるため、「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです」(エフェソ5:18)と語られています。そのため禁酒を語る教会も少なからずあります。しかし、聖書は飲酒そのものを禁止していません。カナの婚礼(ヨハネ2章)には、主イエスが水をワインにした奇跡が記されています。主イエス御自身が、宴席に出ること、酒を飲むことを否定されず、肯定されているのです。つまり、どのような飲み物・食べ物にしても、神さまがお与え下さった恵みです。酒は人を傷つけたり、体調を崩したりするため、即、一切飲んではならないとはならず、適度があるわけです。酒を含めて偏ることなく頂くことにより、健康な体が支えられるのです。
 ウェストミンスター大教理問135では、第六戒「あなたは殺してはならない」において、積極的に人を生かすために、何が必要かが語られています。その中にあって、〔第二に〕「食べ物・飲み物・薬・睡眠・労働・娯楽の適度な使用」と語られています。教会は、禁欲主義、律法主義に陥る危険性があり、注意しなければなりません。
 この後、聖餐の礼典に与ります。十字架上のキリストの体、血を覚えつつ、パンとワインを食します。礼典ということでは、パンとワイン以外にあってはなりません。しかし、主の晩餐、愛餐会は、この2品に限らないのです。主がお与え下さった様々な恵みに感謝しつつ、作って下さった奉仕に感謝しつつ、豊かな恵みに与るのです。

Ⅲ.教会が成長するために
 次に5:23が私たちの信仰に対して語られていると解釈することです。水ばかりを飲み続けることが信仰の問題だと語られても、ピンとこないかも知れません。しかしⅠコリ3:1~3、ヘブ5:11~14の御言葉を確認することにより理解していただけるかと思います。「乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません」(ヘブ5:13)。
 教会が成長するためには、教会に集う一人ひとりの信仰が成長し、主の御言葉を理解する力が養われていく必要があります。パウロの語るぶどう酒・固い食べ物とは、難しいと思われる教理を理解することです。信仰の成長により、長老・執事としての働きができる者へと成長するのです。たとえば「予定について」の教理は難しいです。しかし予定を正しく理解することにより、神の教理全体が理解出来ます。「予定」を否定する教会もあります。すると教理全体の理解が異なり、教会の在り方自体が大きく違ってくるのです。
 別の言い方を用いますと、日本では多くの人々に福音を伝えることが求められます。宣教・伝道は大切な働きです。そのため常に初歩的な教えを語ろうとする傾向があります。この場合、長い間信仰生活を続けている人でも、信仰の成長は行われません。
 必要な教理が教えられることにより、教会全体の霊性が強化されていくのです。このとき初めて、教会役員としての長老・執事の候補者が育つのです。このことが、前の22節につながるのです。「性急にだれにでも手を置いてはなりません」。準備もなしに、「足りないから」という理由で、まだ十分に信仰教育が行われていない人を選挙で選んで、長老・執事にしようとすることに対して注意しなければなりません。この時に問題が生じ、教会政治が歪められていくのです。ここで問われるのは、誰が適任かではなく、教会全体で、次の長老や執事を選出するための信仰教育を行っていくことです。
 
              
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 主の前ではすべてが明かである」  テモテ一5:24~25    2018.10.21
 
Ⅰ.繋がりを覚えて読み解く聖書
 前回は23節一節、今日は24-25節の二節を取り上げます。しかし一節・二節ではなく、前後のつながり、つまり5章から6章をとおして読むことが大切です。17~22節では長老について語り、長老に相応しくない者が選ばれることを避けるべきであることが語られていました。長老職を世的権力のために利用されてはならないからです。そのために、教会員一人ひとりが、自分自身の信仰の養いを行うことが求められています。
 続く23節では、信仰の養いのために、水や柔らかい食べ物としての簡単な聖句・自分の都合の良い聖句だけを聞くのではなく、ぶどう酒や固い食べ物として、聖書全体(特に旧約聖書)、カテキズム(教理)の学びが大切であることを語ってきました。
 つまり、5章では聖徒の交わりについて語られてきましたが、教会で聖徒の交わりを行うためには、教会員一人ひとりの信仰が養われることが大切です。

Ⅱ.主なる神さまを知ろう!
 その上でパウロは24~25節を語ります。皆さんも、他人と比べてしまうことが、あるかと思います。うらやましく思う。悪いことをしながら、なぜ悠々と生活しているのか。なぜ自分は真面目に働いているのに貧しいのか……。隣の芝は青く見えるのです。
 旧約の時代は、主なる神さまの直接的な裁きがありました。出エジプトの時、イスラエルは助けられ、エジプト王ファラオは裁かれました。それは彼ら自身の罪の刑罰でした。聖戦・聖絶が命じられ、イスラエルが主の御言葉に聞き従う時、イスラエルは勝利し、敵となる異邦人は裁かれていきました。この時も、彼らは偶像崇拝や姦淫の罪の故に主に裁かれたのです。主の裁きは、イスラエルの民も例外ではありません。エジプトを脱出したイスラエルの民は、金の子牛を作り拝んだため、主の裁きに遭いました。また統一されたイスラエルが南北に分裂し、その後滅んでいったのは、ソロモンの罪がきっかけで(列王上11章)、その後の南北に立てられた王たちの不信仰、罪の故の裁きです。主は義・聖・真実な方で、罪を赦すことが出来ないお方だからです(参照:ウェストミンスター信仰告白2:2)。すべてがこのとおりであれば、非常に分かりやすく、理解しやすいです。
 しかし現代は、罪人たちが即座に主の裁きにあうことはありません。神がいなくなったのか? 主なる神は私たちを愛しておられるということも忘れてはなりません。私たちを救うためにキリストを人としてお遣わし下さいました。キリストの十字架における救いの御業はすでに完成しました。この時、御子の十字架は神の民すべての人のためです。これから救われる人たちも含まれています。主は彼らが救われることを、非常に喜ばれます(見失った羊のたとえ、無くした銀貨のたとえ、放蕩息子のたとえ:ルカ15章)。15:7 「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」。そのために私たちは今、伝道することが求められています(参照:マタイ28:16-20)。それが終末が未だに到来しない理由です。

Ⅲ.主の御前に遜るキリスト者として
 主は、主イエスと共に十字架に架けられた犯罪者(ルカ23:43)や姦通の現場を捕らえられた女性(ヨハネ8:11)をも救われました。今悪いことをしている、私たちを苦しめている人の中にも、主の招きにより救われる人がいるのです。裁きは主に委ねるのです。キリストが再臨された時、すべての者が主の御前に裁きを受け、主を信じるキリスト者は罪の赦しが宣告され神の国へと凱旋し、そうでない者たちは、自らの罪の故に裁かれ、永遠の裁き、陰府に下る道を歩むのです。義・聖・真実なる神さまに例外はありません。
 この時、他者の罪を責めている私たち自身の姿が問われています。マタイ7:5 「まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきりと見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことが出来る」のです。
 最初にも確認しましたが、5章から聖徒の交わりについて考えて来ています。教会に集う者同士が、互いのことを理解し、一つのキリストの教会を形成するためには、一人ひとりが自らの信仰を顧みることが大切です。新しい人が加わる時、教会全体が包容力をもって受け入れる器となることが求められます。この時、牧師も長老も教会員一人ひとりが、自らの弱さを顧みつつ、主の御前に遜り、一人の失われていた羊が見つかった喜びを共有する時、教会全体が成長していくことが出来るのではないかと思います。この時、新しく加えられた人も、主の恵みにより、新しい生命に生きることが出来るようになるのです。
               
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 奴隷について」  テモテ一6:1~2a    2018.11.4
  
Ⅰ.奴隷制度に対して
 今日の御言葉は奴隷について語ります。「奴隷制度」を私たちは受け入れることはできないことを最初に確認します。確かに聖書が記されていた当時、奴隷が当然でした。また、アメリカの奴隷制度や南アフリカのアパルトヘイトもキリスト教会が主導して行われてきたのも事実です。現在でも奴隷制度を聖書的に認める人たちがいることでしょう。
 聖書は奴隷制度を認めていません。主がイスラエルをエジプトの奴隷から解放して下さいました。同様に現在に生きる私たちも、神さまを信じることにより罪と死の奴隷から解放されたのです。だからこそ私たちは、今なお十戒を唱え、十戒に聞き従うのです。
 そして申命記15:12~18では、安息年の規定が語られます。この時はヘブライ人に限りますが、隣人である奴隷を安息年に解放し、自由の身とすることを求めます。レビ25章では、ヨベルの年の規定が定められています。主により救われた者は、隣人を愛するものとされます。そして主イエスは、ルカ10章のサマリア人への譬えにおいて、「あなたの隣人とは誰か」と語り、追いはぎに襲われ動けない状態になっている人を助けたサマリア人が隣人であるとお語りになります。隣人に国境・人種や言葉の違いによる境界線を定めてはなりません。隣人とはイスラエルのみならず、すべての人であることが主イエスによって示されたのです。ローマ12:9-10、13:9-10も御確認ください。
 聖書が奴隷について語っているから、教会においても奴隷制度を認めていると読み取ってはなりません。人類は、20世紀になりようやく、聖書が語る隣人愛を理解し、実行することができるようになりました。言い換えれば、20世紀になるまで、奴隷の問題を理解せず、キリスト教会が率先して奴隷制度に関して解決してこなかったことに対して、教会が悔い改め、和解と平等を語っていくことが求められているのです。
 しかし今また、日本においても、世界の各地においても、自国優先・分断が行われています。そして少なからず、クリスチャンだと自認している人々が、このことに関わっていることを忘れてはなりません。人々が聖書から離れて行っている結果であると言わざるを得ません。そして私たちは、日本に生きるキリスト者として日本国憲法の下に生きています。日本国憲法では、平和主義と共に、基本的人権が尊重されることを定めています。平和主義も基本的人権も、神が御言葉で有る聖書を通して教えていることであり、私たちが率先して実践していくことが求められていると言えるでしょう。

Ⅱ.福音を着飾り、主人に仕えよ
 現在では奴隷はいないかもしれませんが、迫害・虐げ・パワハラを受けている人もいます。ここに集う皆さまも様々な不公平に悩まされているのではないかと思います。そのため「私たちは奴隷と関係ない」と今日の御言葉を読み飛ばすことはできません。聖書は「神の御名」を語ります。正当・正常とは言えない主人でも、主の支配の下、主が立てられた権威者です。福音をもって着飾り、遜りと尊敬をもって主人に従って行くことが求められています(参照:Ⅰペトロ2:18-21)。すべてをご存じである主は、私たちの姿をご存じであり、主の祝福で満たして下さいます(参照:ウ信仰告白16:2)。

Ⅲ.兄弟である主人に仕える
 2節は、主人もまたキリスト者である場合です。主にある兄弟姉妹として、心を通わすことは大切です。キリスト者同士であれば、仕事も行いやすいと考えます。奴隷となったいきさつを理解してもらえたり、負債の一部の免除を求めることができるかもしれません。
 しかし注意も必要です。親しき仲にも礼儀有りです。主人であり上司は、奴隷・労働者に対して働きを求めます。主による救いに導かれ、罪の赦しが与えられたことに感謝して、主に仕えて生きる者として、主人の命令に対して、よりいっそう熱心に仕えるべきであることを、パウロは語ります。
 私たちは今から主の晩餐に与ります。私たちの軛は、キリストの十字架によってすでに取り払われました。今なお苦しい中生きることが求められるかもしれませんが、主はすべてをご存じであり、その苦しみをねぎらって下さいます。そして天において祝福で満たして下さいます。だからこそ、奴隷であろうと、様々な虐げの中にあろうと、使用人であろうとも、主の救いの恵みに与っている者として、喜んで主に仕えるように、主人にも仕え、主を証しする民として歩んでいくことが、私たちに求められています。
 
                   
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高慢な者」  テモテ一6:2b~5         2018.11.11
  
序.
 先週、アメリカで中間選挙が行われました。私が問題を感じたのは分断と対立です。「ナショナリズム」と「グローバリズム」、「一つの価値観で一致すること」と「多様性を認めること」の対立です。私たちは問題の本質が何かを考えなければなりません。つまり、教会においても、一致を求める部分もあれば、多様性を求める部分もあります。

Ⅰ.多様性を認める教会
 教会において多様性が認められるべきです(参照:ウ信仰告白20:4前半)。コリント一12:12~27(特に12節)では、一つの教会に多様な人々が認められるべきであることを語ります。特に、個性、能力、性格の違いなどによって、区別されてはならないのです。
 また黙示録7:9では、天国がどのような場所であるか語られています。「見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆」が天国に集まっています。国・民族・言葉・性別・肌の色で区別されてはなりません。
 そしてテモテ書一5章で、男性と女性、年長者と年少者、長老と信徒、奴隷と使用人と、違いを認めながらも互いに尊重して生きることが求められてきました。

Ⅱ.信仰による一致を求める教会
 しかし、神さまは「誰でも良い」とは語られません。信仰による一致を求められます。この時、教会は主の聖書の解釈を一致させること、つまり信仰告白による一致が求められます。主の御言葉が示されても、解釈する人間が、自分に都合の良いように解釈すると、同じ御言葉であっても違った教えとなります。
 例えば律法です。「律法を守らなければ救われない」と解釈するのが律法学者です。しかし私たちは、律法は神から恵みとして与えられ、私たちが自らの罪を知り悔い改めるために、さらに神の子として神に従って生きるためのガイドとして与えられたものとして解釈します。救いの条件ではなく、救われた者の感謝の表れとして用いるのです。
 この時、私たちを救いへと導いて下さった主なる神さまがどのようなお方であると、私たち自身が理解しているかが問題です。主なる神さまは、天地万物を創造し、私たち人間一人ひとりに生命を与え、罪の故に滅び行く私たちを救いへと導くために御子をこの世にお送り下さいました。御子は、私たちの救いのために、十字架に苦しみ・死・陰府に下り、そして死に勝利し甦って下さいました。主なる神さまが私たちをどのような思いで、救いへとお招き下さったかを私たちが知る時、私たちは、救いへと導いて下さった主なる神さまの偉大さ、愛の深さの故に、主の御言葉にひれ伏すのです。この時私たちは、教会の兄弟姉妹、そしてすべての隣人との間にあって、遜りと謙遜に生きるものとなるのです。

Ⅲ.高慢な者
 しかし「神さまを信じる」と語りつつ、聖書に耳を傾けず、自分の思いのままに生きようとする人がいます。彼らは、真の意味では主なる神を知りません。その結果、パウロが語るように、異なる教えを説くのです。こういう人のことをパウロは「高慢である」と語ります。「高慢」とは、ギリシャ語で「目が見えない」という語が派生した言葉です。
 私たちは、神さまについて、神の救いの全体像、周囲の人々などを理解し見渡すことにより、神を愛し、隣人を愛するキリスト者として生きることができるのです。しかし高慢な者はそれが理解できず、何も分からないまま、議論や口論を行います。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争い……、様々な現象・トラブルとして表れるのです。つまり、主がお語りになる聖書に聞こうとしないことが、すべての原因であり、その結果、教会は乱れ、多様な人を受け入れるのではなく、排除するのです。
 だからこそ教会では、高慢な者たちが正しい信仰に立ち戻る手段として、戒規の制度が制定されているのです。戒規は懲罰ではありません。戒規の目的は、「キリストの栄誉の擁護」、「違反者の霊的利益」、「違反の譴責」、「つまづきの除去」、「教会の純潔・霊的豊かさの増進を求めること」です。つまり、高慢な者が、自らの過ちに気が付き、悔い改め、信仰的な一致をもって歩むことができるようにするための措置です。戒規には、訓戒、停止、除名・免職があります。除名は特別ですが、訓戒や停止(陪餐停止・職務停止)は、一時期立ち止まり、悔い改めを求めることであり、信仰的な一致をもってキリストの体としての教会を建て上げるために必要な措置なのです(参照:ウ信仰告白20:4後半)。
 だからこそ教会では、多様性を認め、尊重しながらも、同時に信仰による一致を求めるのです。そして教会の一致を乱す者が見出される時のため、戒規が制度化されています。
                     
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何も持たずに生まれ、世を去る」  テモテ一6:6~11a    2018.11.18
  
序.
 テモテへの手紙の学びを続けています。先週、教会は、グローバル、すなわち、すべての人たちを受け入れる場所であることを語りつつ、神の御言葉・信仰による一致が必要であり、神の御言葉に聞こうとしない時、私たちは周囲が見えなくなり、自分が神の位置に着き、高慢になることをお語りしました(4~5節)。

Ⅰ.救いによる天国を仰ぎ見る信仰
 私たちが御言葉である聖書に聞く時、私たちは主なる神による救いを信じます。この時、私たちは「神をどのように信じるのか」の認識することが大切です。つまり信仰とは、天国を受け入れることであり、天国では永遠の生命が約束されています。
 聖餐式を考えてみましょう。本来、礼拝では、御言葉の説教と共に聖餐が求められます。聖餐式は、「目で見る説教・五感で感じる説教」とも言われます。私たちは弱さを持ち、耳で聞いても十分に理解できず、実感がないことがあります。こうした弱さをもつ私たちに主なる神は、目で見て、口で味わうことを聖餐式で満たして下さいます。
 私たちは聖餐式に与ることにより救いを確認することができます。2つあります。一つはキリストの十字架です。キリストの十字架を覚えつつ、パンとワインを食するのです。私たちは、キリストの十字架により罪が赦され、神の子とされました。もう一つは、約束されている天国の晩餐の前味です。私たちは天国における晩餐に招待されているのです。
 私たちは、罪の赦しと天国での永遠の生命をはっきりと仰ぎ見る時、信心が満ち足ります。天国というゴールがはっきりすることにより、将来の不安がすべて取り除かれ、心に安らぎを得るのです。このことをパウロは6節で語ります。

Ⅱ.世に執着する者、主にすべてを委ねる者
 私たちが天国を見据えた生活を始める時、神を知らない時とまったく違った歩みとなります。天国へは地上のものを何も持って行くことが出来ないからです(7)。具体的に語ると、天国に持って行くことの出来ない権威・富に対する執着から解放されるからです。主イエスは、ルカ12:13~21で「愚かな金持ち」のたとえを語られます。主なる神から与えられる天国の恵みを忘れるから、神無き人生において、世のもの・富に執着するのです。
 キリスト者であっても、日々生活する時に、費用がかかります。教会においても、維持するため、費用がかかります。富を否定するような生活を行うことは出来ません。むしろ主なる神がお与え下さった恵みを有用に用いることが求められています。
 そして本当に必要なものは、すべて主が備えて下さいます。マタイ6:25~34では、主が鳥を養って下さるように、私たちの生活に必要なものは主がすべて備えて下さることをお示し下さいました。だからこそ、苦しい時、祈るようにお語り下さいます。「求めなさい。そうすれば、与えられる」(マタイ7:7)。私たちの不安を、主はすべてご存じです。

Ⅲ.金銭欲は悪の根、天国を見据えたキリスト者の歩み
 そして、主なる神から離れ、金持ちになろうとする時、誘惑・罠・無分別で有害なさまざまな欲望に陥ります(テモテ一9,10)。「その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまなひどい苦しみで突き刺された者もいます」。主なる神から離れ、御言葉に聞こうとしない時、富に執着するばかりか、そこから多くの罪を誘発し、滅亡と破滅の道を歩むのです。ここに生きる希望はありません。
 最後にもう一箇所御言葉に聞きます。金持ちの青年について(マタイ19:16~22)。主なる神を忘れ、自らの富に執着する時、周囲の人々を顧みることができません。私たちは、主なる神を信じる時、罪赦され、刑罰の死から救われ、天国における永遠の生命が与えられます。この時、私たちは、この世の権威・富に執着することのない歩みが始まるのです。それと同時に、周囲の人たち、隣人を顧み、配慮することが出来るようになります。
 ウェストミンスター小教理 問80 第十戒では、何が求められていますか。(松谷訳)
 答 第十戒は、隣人とその人に属するすべてのものに対して、正しい、思いやりの気持ちをもちつつ、わたしたち自身の境遇に十分に満足することを求めています。
 そして、パウロは続く11節で語ります。「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」。
 
                  
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永遠の生命を手に入れる生活」  テモテ一6:11~14    2018.12.2

 Ⅰ.神の人
 パウロは、テモテに対して「神の人よ」と語ります。神の人は、旧約聖書では良く用いられました。モーセ(申命33:1)、サムエル(サム上9:6)、エリヤ(列王上17:18)、エリシャ(列王下4:7)、ダビデ(ネヘミヤ12:24)等、神から特別の使命を受けた人に与えられた名称です。新約聖書では他にテモテ二3:17で用いられるだけです。つまりパウロは、テモテが、旧約の預言者のように人々に神の教えを伝えていたため、愛情を込めて「神の人」と語ります。
 しかしこの時、みなさんは「これはテモテに語られたことで、自分には関係のないこと」と思わす、主は「あなたも神の人です」と語っていると理解していただきたいと思います。
 私たちは今、「万物に命をお与えになる神」、「キリスト・イエス」、「聖霊」なる三位一体の神を礼拝するために教会に集っています(13)。そして「キリスト・イエスがポンティオ・ピラトの前で証しを行った」ことを記します。十字架に架けられる時の裁判での証言です。この時ピラトは「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と語ります(ルカ23:4)。「罪がない」お方が、罪人として十字架に架けられ、肉の死と死から三日目の朝に甦られたのです。キリストは、私たちの罪を贖って下さったのです。十字架の御業を成し遂げるために、キリストは、クリスマスの日に人としてお生まれ下さいました。
 この三位一体の神を私たちキリスト者は、「神から召され、多くの証人の前で、立派に信仰を表明した」のです(12)。主なる神を信じる私たちは、キリストの復活の生命、主による永遠の生命を享受するものとされたのです。そして信仰を告白した私たちは、すでに神によって義と認められ、聖とされ、聖徒の堅忍において最後まで信仰が守られる保証が与えられています。私たちは聖餐の礼典に与りますが、天の食卓に招かれています。そこに全世界の数え切れない神の民が共に集い、食卓も満ちあふれています。その意味においては、パウロも、テモテも、そしてここに集う皆さんも同じ「神の民」なのです。
 そして三位一体なる神による救いへと招かれると、私たちは、今日もこの場に集っているように、神礼拝へと招かれ、主の御言葉に聞き従う者へと変えられ(参照:ウェストミンスター大教理108)、「わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守」るように導かれるのです(14)。

Ⅱ.キリスト者の信仰と生活
 パウロは「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」と語ります(11)。しかし新改訳聖書では、「義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求めなさい」と訳します。6つを並列せず、3+3に分けます。これは翻訳における解釈ですが、この理解に立つとパウロが語ろうとしていることが明らかになってくるかと思います。
 第一のグループ、神の義が十戒により私たちに示され、私たちが義を保とうとすることにより、敬虔と信仰に表れてくるのです。御言葉により義が示されると、御言葉に聞き従い、悔い改めと信仰告白が生じます。つまり義が示されると、自らを顧み、悔い改めへと導かれるのです。それが「敬虔・信心」と「信仰告白」です。
 次に愛です。御言葉により神の義が示されるのと、罪人である私たちは神の子として招き入れられ、救い主の愛が明らかになります。義が神との正しい関係を取り戻し、愛は私たちが隣人との関係を取り戻します。神の愛は無条件です。キリストが救いへと招き入れて下さった人々は、主イエスと一緒に十字架に架けられた囚人を初め、姦通の現場を捕まえられ連れてこられた女(ヨハネ8章)、38年間病気で苦しんでいた人(同5章)……。主による救いを求める者は、すべて受け入れられ、悔い改めと信仰告白へと導かれます。しかし人はすぐに変わることは出来ません。一人の罪人を受け入れると時間がとられます。労力がいります。ここに忍耐が必要です。もちろん、皆さんが教会に来る時、自らの罪の赦しと救い、安らぎを求めてこられるのですが、同時に、新たに加わった人たちに対して、忍耐して見守ることも求められています。こうして教会は成長していきます。しかし忍耐が求められる時、私たちの心はイライラしたり、落ち着かなくなります。ここで求められるのが柔和です。私たちは、キリストの十字架の贖いによって罪赦され、教会へと集められたのです。キリストと教会の愛に包まれ、忍耐していただき、今にいたるのです。人を裁くのは、ファリサイ人です。分離主義者です。自らの救い、自らの信仰を顧みる時、私たちは主の御前に遜り、隣人との関係においても忍耐と柔和を保つことが出来るのです。
 
                   
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再臨されるキリスト」  テモテ一6:14~16    2018.12.9
  
序.
 先週、11節の御言葉を中心に学びました。神の義に従って歩む時、敬虔と信仰が、そして神の愛に従って生きる時、忍耐と柔和が備わります。これがキリストの教会を建て上げる時に大切です。この時、永遠の命を手に入れることが許されるのです(12)。私たちがキリスト者として生きるのは、ゴールである神の御国における永遠の命があるからです。
 
Ⅰ.ゴールである神の御国を見据えて
 私たちの救い主イエス・キリストは、私たちを神の御国に導くために、今、準備して下さっています(参照:ヨハネ14:1-3)。そして神は、定められた時にキリストを現してくださいます(15)。主イエスの昇天から2000年が経ましたが、キリストは再臨はいつなのか?主イエスの十字架の御業から20年・30年が経った頃にはすでに、こうした議論が起こっていました(参照:テサロニケ一5:1-3)。主なる神は、その時を定めておられます。しかし、私たちにはそれ時が隠されています。奥義です。私たちは、その時を詮索すべきではありません。なぜならば、前もってその時が示されていると、私たちは油断するからです。また、その時が近づくにつれ、世界中が騒ぎとなるからです。そのため、日々、主による救いと神の御国を覚えながら、粛々とした信仰生活を送るように、その日はいつか隠されているのです。
 ではなぜ、まだ神の御国は到来しないのか? 本来ならば神の国に入るべき人たちが、まだ神の御前、つまり教会に集まっていないからです。主はその時を待っておられます。そのために私たちは福音を着飾り、伝道を行う使命が与えられているのです。
 神を信じる私たちが、神の御国から排除されることはありません。聖餐式で私たちは、パンとワインに与りますが、天国における豊かな食卓に招かれ、盛大に主が賛美されます。
 
Ⅱ.主なる神
 パウロは手紙の最後で頌栄を語ります(15-16)。「頌栄」とは「三位一体の神に栄光を帰し、その御名を誉め称えるための賛美」です。イエス・キリストが再臨し、私たちを迎えに来て下さることが示された今、パウロは、頌栄により手紙を読み終えます。そして私たちは、頌栄において、神の国に導いて下さる主なる神さまを顧みることが出来るのです。
 「祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主」。地上に立てられている王、ローマ皇帝を意識して語られています。皇帝は、自分のことを主として、世界を支配する王として、人々から崇拝を求めました。そのことに対して、唯一の主権者である王は、主なる神お一人であることを宣言します(参照:ウェストミンスター信仰告白23:1)。王であっても主なる神に仕えることが求められており、本当に崇める方は誰か、ここではっきりとさせているのです。
 「王の王、主の主」。主を誉め称える祈りの定型句です。「王の王」は、旧約で4回(列王上1:37、エゼキエル7:12、26:7、ダニエル2:37)語られていますが、新約では、ここの他に黙示録の2回(17:14、19:16)語られているだけです。「主の主」は、前述の黙示録2回だけです。また申命記10:17では、「あたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主…」と語られています。神の唯一性、超越性を私たちは受け入れなければなりません。
 「主が唯一の不死の存在」。神の永遠性を告白します。私たち人間には寿命があり、有限です。有限である人間が、無限の神を受け入れることは出来ません。主を賛美することは、聖霊の働きにより信仰が与えられることにより初めて可能となります。
 「近寄りがたい光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがない、見ることのできない方」。御子は御降誕により見える者となりましたが、十字架の御業の後に昇天されました。そのため人々は、神の不在の故に、神の存在を疑い否定します。しかし、主はインマヌエル(神、我々と共におられる)お方であり、私たちは目で見ることは出来ませんが、主は生きて働いておられます。私たちは礼拝・祈りにより、主との交わりが与えられています。
 「この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン」。この頌栄の言葉を聞く時、ウェストミンスター小教理問答問1を思い浮かべることが出来ます。頌栄をもって聖書を終えることは、私たちの生きる目的・神を信じて生きる道が、この手紙に記されているからです。私たちが生きる目的は、神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとすることですが、ゴールである神の御国を目指して、神の教会を建て上げる、そして、私たち一人ひとりが霊的・信仰的に生きるために何が求められいるのか、パウロはテモテに、そして私たち一人ひとりに、特に教会でその働き人として立てられている牧師・長老・執事の役員たちに語りかけているのが、このテモテへの手紙です。
                    
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 真の命を得るために」  テモテ一6:17~21    2018.12.16
 
序.
 パウロは、14~16節で頌栄を語り手紙を書き終えますが、17~19節で追伸を語り、さらに20・21節でエピローグを語り手紙のまとめを語ります。

Ⅰ.富の本質
 追伸では富について語ります。主イエスは、山上の説教において、「だれも、二人の主人に仕えることはできない。……あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)とお語りになります。またマタイ19章では、金持ちの青年について語ります。ルカ12:13~21では、愚かな金持ちのたとえが記されています。ルカ16:19~31では、金持ちとラザロの話しもあります。いずれも、富に否定的に語られていると思われています。そのため、時として説教檀から「キリスト者たるもの、貧しく聖らかに生きなければならない」と声高に語られることもあったかと思います。
 しかしパウロは「富を持つこと自体が問題なのか」を私たちに訴えています。主イエスは、すべての人を教会にお招き下さっています。それは権力を持っている者も、富を持っている者も例外ではありません。教会も皆さまからの献金により、教会運営を行っており、富を持つことが罪であれば、自己矛盾となります。改革派教会では、有神的人生観世界観に生きることが求められます(創立宣言)。主は社会のすべてを統治しておられます。私たちキリスト者は、すべて分野において、主の統治に従い、主の御言葉を実現することが求められています。言い換えればキリスト者が、社会のトップに立ち、社会に影響を与えることが必要です。そうであるならば、当然、社会的成功に伴い、富も付いてくるのです。
 しかし富には誘惑がつきまといます。神を信じつつ、富を持つことの意味が問われます。そのためパウロは「高慢にならない」ように求めます(17)。私たちは、富の本質を考えなければなりません。主なる神は天地万物を創造しすべてを統治しておられます。富もまた、主が私たちの生活に必要なものとして備えて下さいました。同時にパウロは、「不確かな富に望みを置くのではなく」と語ります(17)。富の誘惑は、富が永遠に続くかの如く、絶対的になることです。主イエスは「愚かな金持ち」のたとえを語ります(ルカ12:13~21)。「このとき神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」。富を持っていても、天国に持って行くことは出来ません。

Ⅱ.神の豊かさを求めて
 神の前に豊かになることが求められています(17)。富を得た者が、神の御前に豊かさを感じつつ、富を用いることが必要です(エジプトにおけるヨセフ:創世記41章)。大豊作が7年続きます。ヨセフは穀物を蔵に貯め込みます。これは、その後に訪れる飢饉に備えるものであり、エジプトばかりか周辺の国々の人々、イスラエルを救うためです。自分のためではなく、主なる神の求め、周囲にいる人々の求めに従って行ったのです。
 私たちの富は、主から与えられた賜物を用いて行った結果であり、主がお与え下さった恵みです。だからこそ必要を求められる人々のために用いることが求められます(18)。
 私たちは天国に持って行くことの出来ない富や名声を求めず、永遠の生命が与えられる天国に目を向け、神を信じて生きることが求められています(19)。私たちは主なる神を信じ、キリストの十字架によって罪が赦される時、神の国における永遠の生命が与えられます。神の御国に備えて日々生きるのであり、地上において生きるために備えられたものは、地上において必要なところに用います。私たちが真の命を求めて、神を信じて、神に従って生きる時、神の御前での豊かさが与えられます。

Ⅲ.エピローグ
 パウロは手紙の最後でエピローグを語ります(20-21)。パウロは文脈を考えずに締めの言葉を語るのではなく、前述の富との関わりにおいて語ります。「あなたにゆだねられているものを守り」とは、与えられた富を有用に用いることであり、信仰と神の知恵が必要です。私は繰り返し、聖書全体、教理の全体像を理解することにより、神の知恵を知ることが出来ると語ってきました。私たちは弱い存在です。だからこそ御言葉に聞き続けなければ、忘れてしまいます。様々なことが語られた時、惑わされ、信仰が揺さぶられます。だからこそ、御言葉を蓄えなければなりません。そのために、主は私たちを7日毎に主の御前に、礼拝へと招いて下さいます。そしてパウロは最後に祝福をお語り下さいます。
 恵みがあなたがたと共にあるように。アーメン
                     
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