◆辻幸宏牧師作成文書

2018. 3.26~28  中部中会中高生修養会
  「みんなで交わる 喜び!幸せ!」    辻 幸宏

 私が中部中会中高生修養会において講演をした時の講演要旨です。中部中会の中高生に語りかけるということと、大宮教会とでは、条件がかなり異なりますが、これから大宮教会において教会形成を行うにあたり、重なる部分も多々あるかと思います。違いを覚えつつ、要旨を読んで頂ければ感謝です。   辻 幸宏



2018年3月26日(月)~28日(水) 中部中会中高生修養会(多治見教会)

テーマ:「みんなで交わる 喜び!幸せ!」 辻 幸宏

1.教会の交わりとは

 交わりは、教会において大切にしてきていることであるが、同時に私たちは、家族・友だち・学校・部活・仕事・趣味・同じ地域に住んでいる人たち等々、様々な機会に、様々な交わりを持ちます。
 第一回目の講演では、こうした一般の交わりと、教会における交わりの根本的な違いを考えていこうと思います。

 1.中部中会中高生会において目指してきたこと
 最初に、私が15年間、中部中会において継続的にジュニアサマーキャンプ、中高生、学生、青年たちとの交わりに入れられてきましたが、そこで大切にしてきたことを確認したいと思います。その第一に挙げられるのが、「交わり」です。現在、各個教会において、どこでも中高生・青年の人数が少なく、寂しさ、自分の居場所がない思いにあるかと思います。そうした中にあって、中会の交わりにおいて、同じ年代の友だちがいる、交わりがあることを覚えていただきたいのです。だからこそ、こうした修養会・キャンプにおいて、同年代の友だちをつくり、交わりを大切にして頂きたいのです。
 それと同時に、ここに自分が居て良い場所がある、帰って来る場所があることを感じ取って頂きたいのです。
 私自身、そうした場所を提供するために、心得てきた思いがありますが、今後も、そうした居場所つくりを奉仕に携わる方々は心得て頂きたいと思っています。

 2.「交わり」 一定の共通目的がある
 「交わり」を考える時、どのような機会の交わりであったとしても、一定の目的、共通認識といったものがあるかと思います。それがなければ、ただの集まりであり、どこに向かって進んで行くのかも明らかになりません。
 では、教会の交わりは、他の交わりと何が異なるのでしょうか?

 3.教会の交わり目標・到着点は天国にある
 ここで「教会」について考えたいと思います。ギリシャ語では「エクレシア」と言います。私たちのイメージするのは、ここは多治見教会ですが、教会堂があり、そしてそこに集う教会員のイメージかと思います。つまり各個教会ですね。各個教会の集合体である、中会、そして日本キリスト改革派教会(大会)もまた、一つの教会であるということができます。教会堂という形、建物があるわけではありませんが、一つの教会としての集まりがあります。中部中会では、教会会議(中会)があり、また信徒研修会があります。また、中高生やジュニアサマーキャンプなども一つの教会としての集まりです。
 一方、私たちが教会を考える時、もう一つの教会を考えなければなりません。それは、天国(神の国)、主イエスを中心としたすべての神の民が集められ、盛大な賛美、盛大な晩餐が執り行われる場所もまた教会です。ヨハネの黙示録には天国の姿が語られています。7:9~10 この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を見に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。
 「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」。

 このような天国に集められる神の民は、キリストの十字架により罪が赦され、救いに与り、永遠の生命が与えられ、天国において永遠に主を誉め称えることが出来るのです。そのため、キリスト者のことを、「聖徒」とも呼び、「教会の交わり」を「聖徒の交わり」とも語ります。私たち一人ひとりは、天国において一つに交わる聖徒です。
 だからこそ、各個教会に集う交わりばかりか、中部中会、日本キリスト改革派教会の会員相互の交わりは、聖徒の交わりです。
 そればかりではありません。天国に迎えられるのは、先程の黙示録で確認したように、国籍・民族・言葉の違いを超えた人たちです。ここには、教会・教派の違いを超えて、一つに集められます。改革派教会が一つの教会でありますが、それと同時に、信仰は異なりますが、他教派の教会の人たちも、天国に集められる神の民です。日頃は、あまり交わりがないでしょうが、私たちはそのことを忘れてはなりません。
 学生の皆さまの中には、KGKに携わられている方々もあります。超教派のキリスト者の交わりですね。大垣にも市内信徒会がありました(改革派、日本キリスト教会、在日大韓、日本福音同盟教会、美濃ミッション、アッセンブリー、ルーテル、聖公会、カトリック)。毎月、教会持ち回りで集会を持っていましたが、毎回、一つの教会であることを確認することが出来ました。昨年の市民クリスマスでは、カトリック教会において、改革派の私が説教することも行いました。

 キリスト者は、罪赦された神の民です。そして天国が約束されています。だからこそ、教会の交わりは、終わりがありません。場所を変え、人を変えつつ、交わりが続くのです。各個教会で交わることが少ない人も、中会の中高生会において交わりを続けて頂きたいのです。

 そして最後にもう一つ、マタイ18章20節はこのように語ります。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。私たちキリスト者相互の交わりは、私たちだけの集まりではなく、常にキリストが共にいて下さり、私たちを執り成し、励まして下さいます。だからこそ、教会の交わりにおいては、喜びがあり、希望があるのです。





2.教会における交わりの位置づけ   使徒言行録2章37~42節

 1.御言葉・交わり・祈り・聖礼典
 使徒言行録2:42「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」と語られ、交わりは、使徒の教え(御言葉・説教)、パンを裂くこと(聖餐)、祈りという礼拝の重要な要素と共に、欠かすことが出来ないものとして記されています。つまり、逆に考えるならば、教会における交わりが充実しなければ教会の成長は望めず、礼拝が充実していなければ、交わりも豊かになることはないのです。

 2.コイノニア〔koinownia〕 交わり、援助、施し
 「交わり」を表すギリシャ語「コイノニア」には、「交わり、援助、施し」、動詞では、「(分け前に)与る、交わりを持つ、助ける」といった意味があります。ここで注目すべきことは、交わりとは、単に一緒にいて話しあっていれば良いというものではないということです。交わるということは、互いを知ることであり、そこから必要を求めている者に対して、施しや援助が生じてくるのです。ですから、交わりを持ちながら、互いに深く知ろうとしなければ、交わりが深まることはなく、深い交わりが与えられれば、自然と互いに助け合い、施しが行われるのです。

 3.隣人を愛すること(愛:アガペー)
 ここで確認しなければならないのが、交わりから生じる施しの根拠です。それは、キリストの十字架によって与えられた救いの喜びであり、神の愛が満たされているということです。
 マタイ22章37~40節では、十戒の要約が記されています。「イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」」。十戒を実践しようとする時、神への愛、そして隣人への無償の愛が無ければ、それは施しの名を借りた売名行為となる恐れがあります。
 マタイ19章16~22節には、金持ちの青年のたとえが記されていますが、青年は永遠の命を得たいと願い、律法を実践していましたが、貧しい者への施しを行うことが出来ませんでした。彼は、隣人との交わりがなく、隣人を愛することが出来なかったのです。交わりを持ち、隣人の苦しみを理解するならば、隣人への愛により、施しが行われるのです。このことが青年にはなく、主イエスから神の子としての資格がないことが示されたのです。
 だからこそ、私たちは愛について語られているⅠコリント13章13節の御言葉を改めて確認しなければなりません。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」。

 神によって救われた者として、神の愛によって満たされ、隣人を愛し、交わり、交わりを通して目の前の人たちを深く知り、必要に応じて施し、施される関係が築き上げられていくのです。

 4.ディアコニア(執事活動・愛の業)
 最初に取り上げた使徒言行録2章42節の後、初代教会の愛の交わりの姿が、43~47節で語られています。教会における交わりが深められていく時、教会では互いに助け合い、そして一つとなることが出来るのです。
 こうしたことを、私たちが理解した時、今、教会において盛んに語られ実践されているディアコニア(執事的働き、愛の業)の大切さが理解されるかと思います。ディアコニアは、まず教会の中において行われ、それが周辺の人々へ、そして救済活動へとの広がりを見せるのです。ですから、震災における支援が叫ばれますが、教会において、十分な理解を得るために、礼拝の充実と共に、日頃から愛の交わりが深められておくことが求められています。

 結.中高生の集まり
 こうした信仰共同体としての中会中高生会が形成されることを、私自身、望んできました。そのために、最初の講演においてお語りしました私自身、中高生会において目指してきたことの意味を、理解して頂けるかと思います。
 引き続き、下記の中高生の集まりに、集い続けて頂きたいと願っています。
   春:中高生修養会
   夏:ジュニアサマーキャンプ、サマーディズ(大会)
   9月:信徒研修会
 また、中高生の集まりは、これで終わりではありません。学生会があり、青年会があります。それも中部中会もありますが、大会もあります。大人になっても、交わりを継続することが出来ます。改革派教会に留まることなく、教派を超えた、さらに国を超えた交わりを持つことが出来ます。私たちは、皆、主イエス・キリストの十字架によって罪赦されて、神の子とされた神の家族、天国の住民なのです。
 私は、中会が変わります。そのため、皆さまと出会える機会は減るかと思います。それでも、主にある兄弟姉妹であることには、変わりありません。そのため、主がお許し下されれば、交わりの機会が与えられます。 ありがとうございました。






 

「牧師文書」ページに戻る
 

 
COPYRIGHT(C) 2018 日本キリスト改革派大宮教会  ALL RIGHTS RESERVED