3月27日説教原稿

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3月27日説教原稿

家庭礼拝のための説教と祈りの原稿です。朗読などで用いてください

ルカ15:11-32「比較ではなく」
この個所の流れ
今お読みしましたところは全体がイエス様が語っておられるたとえ話です。そしてたとえ話はこれだけではなく。この前にすでに二つのたとえ話が語られていました。全体に共通するものがあるとすれば、「見つけて喜ぶ」、という言葉で表せます。ここで言いあらわされているのは喜びです。それも、神様の喜び、そして私たちの喜びです。すでに喜びがあるというのです。とはいえそもそも何でこんなたとえ話が語られているのか、という点でははっきりとした理由があったと言えます。この15章の一つ前14章では、イエス様がファリサイ派の人の家に礼拝の後で食事に招待された、ということが書いてあります。そこで様々な話をして教えられた後でその家を立ち去ったようですが、そこにも人々が集まってきてさらに話を続けられた、という流れがあります。大学などでも、いわゆる名講義というようなものがありますが、イエス様の周りには多くの人たちが集まったようです。その中に、徴税人や罪人がいたと15章の初めにあります。ちなみにこの場合の罪人は具体的にだれを指しているのかはっきりしませんが、律法にかなわない生活をしている人たち、例えば、あまり大っぴらにできない仕事ですとか、あるいは、羊飼いのように安息日の集会や、神殿礼拝に参加できない人たちも含まれていたようです。イスラエルにおける常識的な信仰生活から外れてしまっている人たちです。

譬えの意図
このような人たちがイエス様に近付くこと自体に文句を言う人たちがいました。ファリサイ派の人々や律法学者たちと2節に書いてあります。彼らの言い分はこうです。「この人は罪人どもを迎えて、食事まで一緒にしている」。ちなみにイスラエルでは、一緒に食事をする、ということは、明らかに味方であること、家族同然の関係であることのしるしとみられたようです。そして先ほどすでに確認しましたように、イスラエルにおいては、いわゆるちゃんとした人は、神殿と安息日ごとに行われる会堂での礼拝につながっている人でした。そしてイスラエルの律法では、罪人と親しく関わってはいけない(汚れたものと関わってはならない)ことになっていました。もっとはっきり言いますと、ある差別があったのです。イエス先生はあんな変な奴らと付き合って大丈夫なのか、本当に律法の教師なのか、あんな連中と付き合うのなら我々も今後の付き合い方を考えなければ、というようなことを口に出して言う人がいたのでしょう。こうしてみますとファリサイ派、律法学者といった人はずいぶん意地が悪く思えますが、しかし、基本的に彼らはいい人です。もしわたしたちが隣人として付き合うのなら、多分、彼らが嫌っている罪人よりも、ファリサイ派の方が気楽かもしれしれません。何しろこの人たちは常識人です。変なことをしない人たちです。約束はほぼ守ってくれる人たちです。それに比べて罪人と呼ばれる人たちは、よくわからないところがあるかもしれません。あえて言いますと、突然変わったことをし始めたりするかもしれないとみられていたのです。

よくわからない弟
そして、それはこのたとえ話の弟の行動にまさにぴったりとあてはまります。彼は、ある時突然、今すぐ財産を相続させろ、分け前をよこせと言い始めます。この譬え話の家族は召使もいる裕福な農家のようですが、細かなところは語られていません。もちろんたとえですから、それは仕方がないのですが、なぜ、この弟が家を出たいのか、その理由がまるでわかりません。ただ、はっきりとしているのは、彼は何かに飢えていたのではないか、と思われることです。そして、心の中の満たされない思いに突き動かされるようにして、おかしなことを言いだすのです。当時は生前贈与などというものはありませんから、そもそも財産を生きているうちによこせ、というのはまったく無理な話です。ところが、この父親は不思議なことに、二人に財産を与えてしまっています。そこでこの弟は、何も悪びれることなく自分の分け前を受け取るとすぐに財産を売り飛ばしてお金に替えて、遠い国のある街に出かけていき、そこで「放蕩の限りを尽くした」と13節には描かれています。私が先ほどたぶん彼は何かに飢えていたのだろう、とお話ししたのは、この行動が理由です。何かが満たされていないのです。不満があるのです。そしておそらくそれが何によって埋め合わされるのか、自分でもわかっていないのです。そこで彼が思いついたのは、思いっきりお金を使って、楽しそうなことをすれば満足できるかもしれないというもので、彼は実際にそれを実行してしまったのでした。

弟の気づき
ちなみに、お金を使うということは、誰にとっても愉快なところがあります。一方で、例えば買い物をするまではワクワクしても、ひとたび物を買ってしまうと、ワクワクが消えてしまう、ということもよくあります。この弟のしたこともそれに似ているのかもしれません。うんと楽しもうと思って豪快にお金を使って、気が付いた無一文になって、空しさだけが残ったのでした。彼のたどったみじめな歩みは、聖書に書いてあるとおりです。この譬えでは、お金を使いつくしたところに飢饉が訪れたとなっていまして、さらに、多分その街の遊び仲間の所に身を寄せようとしたこの弟は、豚の世話をさせられて、ろくに給料も与えられない、食事すら与えられないということで、泣きっ面に蜂の状態になります。しかし、まさにそこで、とても大切なことが起きています。放蕩のその後、どん底を味わった後に彼に変化が起きます。彼は振り返るのです。立ち帰るのです。17節で「そこで彼は我に返って」とあります。自分自身に深く尋ねたのです。苦難の中で自分の最も奥にあるものを見つめたのです。そこでハッと気づくのです。「そして、言った」と聖書にあります。独り言です。自分で自分に言い聞かせるのです。「帰ろう」父のもとへ帰ろう、あそこにこそ良いものがあった、自分が見えていないだけだった、と気づいたのです。さらにこの弟息子は一生懸命言い訳を考えています。「私は罪を犯しました。あなたの息子にはふさわしくない、でもせめて僕として家においてください」。

父の愛
ところが、このたとえ話の父親は、この言い訳を全く問題にしていません。それもまったくいい意味でです。そもそも、この父親は、息子がまだ遠くにいるうちにそれと見つけ出して、自分から走り寄って、抱きしめてキスをしています。まさに手放しの愛です。父の威厳などどうでもいいのです。それ見たことか、などと小言を言うつもりもないのです。弟息子が練習した謝罪の言葉を口にしているのにかぶせるように、僕に「服をもってこい」、「上着を持ってこい」、「指輪を持ってこい」、「靴を持ってこい」と次々に命令し、そして、とうとう子牛を屠って宴会を始めてしまいます。ここには純粋な喜びがあります。それは一人の子を取り戻した喜びです。24節にある通りです。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』」。これは言うまでもなく神様の愛のあり方です。この愛が私たち一人一人ににそそがれています。私たちもまた、神様によって見つけ出されたものです。そして、神様によって見つけ出された者は、生き返ったものとして、神様の宴会に招かれるのです。そして、神様の宴会とは、言うまでもなく、わたしたちが今共にしているこの礼拝です。申し訳ないことに、たとえ話のようなごちそうはこのところでは用意できませんけれども、神様が、やあ、よく生きて戻ってきてくれたね、と手を広げ大喜びで迎えて下さるのがこの礼拝です。

入りたくない兄
ところが、このたとえ話はこれで終わりません。その意味でこのたとえ話は放蕩息子の譬えではなく、二人の息子の譬えです。そして、すでにお気づきのことでしょうが、どちらかと言いますと、話の中心はこちらの兄ではないかと私は見ています。なぜなら、このたとえ話自体が、罪人を憎む、ファリサイ派や律法学者たちに向けて語られていたからです。そこで問題となっているのは、神様の気前良さに納得できない、というこの兄の姿です。この譬えでは、兄が父親に食って掛かっています。兄の中に大きな怒りがあります。それは、不公平に対する怒りです。少なくとも、この兄にとっては父親のしていることが不公平に感じられるのです。その理由は一見もっともかもしれません。何しろまじめな人ですから、父親から与えられた仕事をせっせとこなしてきたのです。その間、決して小遣いをせびったりもしなかったのです。そのように、自分としては一所懸命仕えてきたのに、どうしようもないことをしてきた弟が帰ってくると一緒にバカ騒ぎをしているなどとんでもない、新しい服などもったいない、ぼろ布でも着せておけ、自分は絶対にあの輪の中に入らない、と決めてその場を離れようというのです。自分が納得できないものとは絶対に交わりを持たない、そのかたくなな姿が見事に描き出されています。

出てくる父
この兄の姿はしかし、私たちの持つ一面を映し出しているように見えます。ある意味では、この兄もまた、父の心、すなわち、神様の心をとらえ損ねているのです。神様の心は先ほどすでに確認しましたように、大変寛大なものです。寛大すぎるかと思えるほど寛大なものです。しかし、この兄の語った言葉には、父は自分に何もしてくれない、という響きが感じられます。それは端的には29節の言葉に現れています。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか』。お父さんは何もいいものをくれなかった、私はこんなに頑張って、必死の思いで、お父さんのために働いてきたのに、というのです。この世ような思いは、忠実なキリスト者であれば、何となく心の中に感じているかもしれません。しかし、そこで、大切なのは、これはあくまでこの兄がそう感じていた、という点です。そして事実は別にあります。それは、31節の父の言葉の通りです。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ』。実は孤独に自分一人で頑張ってきた、と思っていた兄のものの見方も実は間違っていて、父はいつもあのおおらかな愛で兄を愛していたのですし、そもそも相続などしなくても、父のものはすべて子のものだったというのが正しい見方でした。その点では、この兄のものの見方も変わらなければならなかったのです。

一人一人が大切
この父親は、兄と弟全く性格も行動も違う二人の兄弟を共に、深く愛している、これがこのたとえ話の告げるところです。もちろん、これは神様の譬えですが、神様は、このように、私たち一人一人をこれ以上なく深く愛してくださるのです。どこかに行ってしまった弟に対しては、いつ帰ってくるか、いつ帰ってくるか、とじりじりして毎日待ちわびて、帰ってきたらすぐに抱きしめられるように待ち構えておられるのです。また、機嫌を損ねて出て行ってしまった兄に対しては、宴会の輪から抜けて、外で孤独な怒りに燃えている息子に、自分から語りかけて、もう一度心を開くように、と待ち続け、語り続ける方なのです。このところでは、兄がどうなったのか、最後が語られていません。しかし、それは、兄が戻ってくることが強く願われているからです。このように神様は、人がご自身の所に戻ることをいつでも願っておられるのです。

喜ばねばならない
そして戻ってきた人を待っているのは、喜びの祝宴です。神様も、戻ってきた人自身も一緒になって喜び楽しむのです。その様子がここでは祝宴という言葉で表されています。最後に32節の言葉を読みます。『祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』一人の人が神様に立ち返るのなら、一人の人が神様に対する誤解を解くのなら、そこには大きな喜びがある、それを喜ぶのは当たりまえだ、と言います。このところを直訳すると、楽しみ喜ばねばならない、どうしてもそうせずにはいられない、となります。そうしなければいられない、これが神様の愛です。そして、この神様の愛のしるしとして、また私たちがどのようなものであっても赦されるために、イエス様は十字架にかかってくださいました。

比較ではなく
神様は私たちに、戻ってきてほしい、理解してほしいと願っておられます。その際、私たちの目を曇らせるのは、あの人と比べて、というものの見方です。丁度この譬えで、兄が弟をねたんだように、人と比較することによって神様の御心が見えなくなります。しかし、そこから出てくることを、そしてまっすぐに神様の所に戻ることを、そして神様との関係を楽しむことを何よりも神様は願っておられるのです。

祈り
父なる神様。尊いみ名を賛美いたします。あなたはご自身の一人子を遣わすほどに、私たちを愛してくださっております。しかし、私たちはあなたと自分とを間違ってみていたかもしれません。どうぞ、今こそ、あなたの胸の中に立ち返り、あなたと共に過ごすものとしてください。この週のあゆみにも共にあってくださいますように。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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