3月6日説教原稿

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3月6日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです。朗読などで用いてください。

ルカ4:1-13
試練ということ
先週の水曜日から、キリスト教会においてはレントあるいは四旬節と呼ばれる季節になりました。イエス様のご復活を祝うイースターに先立って、日曜日を除いた40日間がこの季節にあてられています。これは、イスラエルの民がエジプトを脱出してから荒れ野を40年間旅したことや、今日の聖書にあります通りイエス様が荒れ野で40日間試みと戦われた、ということを念頭に置いています。ところでイスラエルの旅とイエス様の試練の期間には共通することがあります。それは、神様によってそのような中に入れられたという点です。モーセがイスラエルの民をエジプトから導き出したのは、まさに神様がそうするようにモーセを召し出してその役割を与えたからでした。同じように、今日の所でもイエス様は霊に引き回されとあります通り、神様ご自身によってこの試練の中へと連れていかれたのです。さらに言えば、今日の4章1節では「イエスは聖霊に満ちて」という言葉で始まっていますが、同じく4章14節も「イエスは霊の力に満ちて」となっていて、実は、イエス様が洗礼を受けられて、天から聖霊が鳩のように降るのをご覧になった直後に、荒れ野で試練を受け、そして最初のお働きをガリラヤで始められる、というこの一連の流れは全く計画的な神様の霊の導きによるものだったと言えるのです。

喜ぶべきこと
ところで今、イエス様が試練に引き入れられたという言い方をしました。実際には、2節にあります通り「四十日間、悪魔から誘惑を受けた」というのが聖書の言葉です。これを新しい協会共同訳では「悪魔から試みを受けられた」と訳しています。以前の口語訳も同じでしたら元に戻ったと言えますが、ギリシア語のもともとの意味としては、誘惑、試み、どちらもあります。いずれにしましても、それは、神様から信仰が試される、という意味になります。悪魔の役割は、お前はどうだ、お前の信仰は本物か、と問いかけるもののようです。旧約聖書の有名なヨブ記の話はみなさんご存じのとおりです。ヨブは悪魔が神様にあのヨブを試させてください、と申し出たことによって不条理としか思えない苦しみを何重にも受ける、そこで信仰が試されるという内容でした。そして、この苦難がやってくる、という面と、試練という言葉は強く結びついていて、私たちは、試練なんてありがたくない、試練からはなるべく逃れたい、平穏無事が一番いい、というようについつい考えてしまうところがあります。しかし、試練なんてまっぴらごめん、というのがいつも正しいかというと、そうとばかりも言えないかもしれないのです。少なくとも、イエス様に対して、神様は洗礼の時に「これは私の愛する子、私の心に適うもの」(3:22)という決定的な宣言をされていました。その愛する子を、愛する子だからこそこの4章ではまず荒れ野で悪魔の試みに合わせているのです。

良い結果を
それを裏付けるような言葉が箴言にあります。「わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。かわいい息子を懲らしめる父のように/主は愛する者を懲らしめられる。」(3:11)。ヤコブの手紙(1:5)や、ヘブライ人への手紙(12:7,8)にも同じ意味の言葉があります。試練を受けている、ということはまさに神様から子どもとして取り扱われていて、愛されているしるしなのだ、というのです。とはいえ、試みですから、やはり楽しいものではない、とは言えるかもしれません。けれども、もう少し別の観点から言いますと、このような試練には明確に目的があるとも言えます。ヘブライ人の手紙では「平和に満ちた実を結ばせるため」(12:11)という言葉がありますし、例えば最初にお話ししたヨブ記の最後はハッピーエンドです。ヨブは最後には神様によって信仰を認められ、友人たちのためにささげものをしてとりなし、そして以前にもまして物質的にも祝福を与えられています。その意味では試練とは神様からの祝福を得ていくという明確な目的のために与えられていると言えます。しかしそれよりも大切なことは、試練とは神様との関りの中で与えられるものだ、試練があること自体、それは神様と一緒に生きているしるしだ、という事実です。

三つの試練?
そしてこの点において、すなわち、愛されている神様の子どもとして試練を受ける、という点においては、実はイエス様とわたしたちとで違いはありません。もちろん、安心していただきたいのですが、私たちがイエス様と全く同じことをしなければならないと言いたいのではありません。40日間断食をしなければならない、ということを言いたいのでもありません。そうではなく、神様の子として、私たちの信仰と人生がよりよいものとなるように試練は与えられている、というこの基本線においてイエス様と私たちは同じ立場にあると言いたいのです。そこで大切なのは、当たり前ですが、信仰です。信仰そのものです。もう少し言い換えれば神様への信頼です。今日のところでは、三つの試みが語られています。最初に石をパンに変えること、次に、世界の国々の権威と栄光を自分のものにすること、そして危ない状況で神様の助けがあるかどうか試してみることです。もちろん、一つ一つに意味があると言えるでしょうが、この三つに共通するものがあるとすれば、それはそもそも神様への信頼が問われている、という点です。そして、それは、最初のパンの試練に一番強く表れているように思われます。ですから、今日はこのパンの試練についてしっかりと考えてみたいのです。

根本はおまんま
3節と4節をもう一度読んでみます。「そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。」。悪魔のかたる「神の子なら」という言葉はある真実をついているように思えます。神様の子なら、神様が何とかしてくれるだろう、石もパンに変えて下さるだろう、という促しであるように聞こえます。しかし、イエス様はこれに対して、申命記の言葉(8:3)を引用して応えられています。このところの特徴として、元々申命記に言葉には、「人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」という続きがあります。けれども、ルカはあえてここでイエス様が後半を省略したように書いています。それはおそらくこの「パンだけ」という言葉をより強調するためではないか、と私は感じました。もちろん、この場合、「パン」というのは象徴的な言葉です。日本語では「おまんま」という言葉があります。口に糊する、糊口をしのぐ、とも言います。いずれも食べていく、食べること=生きること、という考え方です。もちろん、それはそれで正しいのですが、しかし、「パンだけで生きるのではない」という言葉は、本当にそれだけですか、食べることさえできればそれでいいのですか、と問いかける言葉です。

神を信頼する
例えば私たちは、主の祈りを祈ります。その四番目は言うまでもなく「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」です。なんとも控えめな祈りにも思われます。何しろ、この日の糧を今日与えてください、という意味です。ひと月分、一年分、十年分、ドーンといっちゃってください、できれば一生安泰にしてください、ではないのです。そうではなくて、神様、今日あなたご自身が、あなたと私の関係の中で、私に必要な物をくださいますから、それを今日ください、という祈りなのです。それは日ごとの祈りなのです。それは、毎日毎日、神様とこの私の関係の中で祈られる祈りなのです。そしてこの祈りの中心にあるのは間違いなく、神様への信頼ですし、神様との強い関係です。イエス様が、この所で、「パンだけで生きるのではない」と言われたのはこのことです。自分は神様との関係の中に生きている、生かされている、と言いたいのです。そして、実は私たちも主の祈りを祈る時に、このイエス様と同じように祈っているのです。今日、今この時、神様によって生かされています、今日も神様がわたしを生きさせてくださいます、そのことを信頼しています、だから、神様がそうしてくださるのなら、この日の糧を与えてください、と祈るのです。それは、右腕一本でおまんまを稼ぐ、という考え方とは根本からちがうのです。神様と私との関係の中で、神様によって私は生きている、生かされているこの事実を祈りの中でも確かめているのです。

信頼こそ
そしてこのような信頼関係を重ねていくことこそ、私たちの生き方の基本であるはずなのです。今日は残りの二つの試み、誘惑についてあまり深く触れていませんけれども、例えば、二番目の誘惑では、世界のすべての国々に現れている権威と栄光を一瞬のうちに見させて、これをあげる、という提案が悪魔によってなされています。そこで一つだけ条件がありました。それは、悪魔に膝をかがめるなら、でした。これは明らかに、神様抜きで、この地上における確かさを手に入れられる、という誘惑として理解できます。三番目のものも、まさに、神様が助けてくれるかどうか、それを確かめてみよう、というものです。どちらも、神様との基本的な関係がないことが前提になっています。逆に言えば、神様との基本的な関係があれば、このような言葉に惑わされることもない、ということになります。なぜなら、本当に神様に信頼していれば、この世界を自分に都合よく支配しようとする必要もありませんし、わざわざ神様が自分を助けてくれるかどうか、確かめてみる必要もないからです。そこにあるのは、どれほどつらくても平安です。しかし、神様とのかかわりがないならそこにあるのは不安です。いま、ロシアがウクライナに侵攻し多くの被害が出て悲惨な状況が続いています。このロシアの行動の背後にもまた、基本的な不安、神様抜きでしか世界を考えられないことから来る不安があるように見えるのです。そして不安は人を間違った行動へと突き動かしていきます。

全ては与えられる
他人事ではないのです。ちょっと話がずれるように思われるかもしれませんが、75周年宣言の悔い改めを語る部分に「疑心暗鬼」という言葉をあえて入れました。正確には「疑心暗鬼を生ず」というようです。中国の戦国時代の列子という思想家の言葉だそうですが、趣旨としては、疑いの心で物を見ていると、ありもしないものが生まれてくる、そして事実を事実として受け取れなくなる、ということです。私たちの戦いはここにあります。本当に単純な信仰、神様は、私と一緒に生きて下さって、私に必要な物を与えて下さる、という単純な信仰に立てるかどうかが、問われています。そして私たちにこれを問いかけるのは神様ご自身です。私たちはこれに対して自分としての答えを出さなければなりません。そして神様が望んでおられるのは、計画しておられるのは、わたしたちが、神様はすべてを与えてくださるということに気づき、そこに生きるようになることです。これが私たちに与えられている試練です。

試練というなかれ
それゆえに、実は試練とは、あるいは試練こそは、わたしたちが神様と関係があるというしるしにほかなりません。試練なんて、という必要はないのです。むしろ、試練こそが私たちと神様とをつなぐきずなのしるしです。最後にヤコブ書の言葉を読みます。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」(1:2-4)。このように、私たちは神様の手の中で試されているという事実をむしろ、神様とのきずなのしるしとして喜びたいのです。

祈り
父なる神様、あなたのみ名を賛美いたします。あなたは私たちを愛し、キリストによって私たちをご自身のものとしてくださいました。そして私たちが我が子を愛するように私たちを愛し、時に試練をも用いて鍛えてくださいますから感謝します。どうぞ、わたしたちが試練の先にある平安に生きていくものとなれますよう、また血に平和を作り出すことができますように。ウクライナの上にあなたの顧みがありますようお願いします。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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