1月23日説教原稿

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1月23日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです。朗読などで用いてください

「神に見いだされたもの」
神様の目当てとモーセ
今日の聖書の主役はモーセです。あるいはこの出エジプト記全体を考えましても、モーセを中心に物語が進んでいくと言ってよいかもしれません。とはいえ、これはモーセ個人の話ではありません。むしろ、もっと広く大きな話です。何が大きいかといいますと、神様の歴史という意味です。私たちはそのような大きな視点でこの聖書の言葉に向き合いたいのです。このところでは、確かに神様がモーセに現れ、モーセに役割を与えて遣わしています。しかし、それはより大きな見方をすれば、神様のご計画があって、そして、神様とイスラエルの民との昔からの約束があって、その約束を守るために、この時モーセを召し出したのだ、そして、モーセが神様から声をかけられたのは、ご自身の約束を具体的にこの世界で実現していくためだった、そのようにも言えますし、むしろ、このようにして全体を見ていくのが大切です。モーセがどうしたこうした、というだけではなく、むしろ、全体としてどのような方向に向かっているのかです。

モーセの二つの役割
その上で基本的なこととして、この所でモーセは神様から人に語りかけるものとして召し出されています。それも二つの相手があります。一つは、イスラエルの長老に語り掛けることです。それからもう一つはエジプトの王に語り掛けることです。この二つに共通するのは、神様から与えられた言葉をそれぞれに語るようにという命令であり、その内容もまた、示されている点です。このことでまず確かめたいのは、神様が何かをされるときに、最初は一人の人から始まっているという事実です。一人に言葉が託され、それを他の人に伝えるという形です。しかし、一方で、そのようにして語られる言葉は、聞かれることを目指しているとも言えます。一人で終わらないのです。一人から始まるけれども、一人で終わってしまわないで、むしろ広がっていくことが目指されているのです。さら言えば、何かを引き起こすことが期待されています。そして神様の言葉のこのようなありかたは時代を超えていつでも当てはまります。例えば私たちの教会が何をするところなのかを考えますと、全く同じであるはずです。説教を考えますと、僭越ですが、まず牧師が説教準備をします。これはある意味では孤独な作業に見えます。一人で聖書と向き合います。しかし、聖書は神様の言葉ですから、そもそも、完全な孤独ではありません。神様との対話です。さらに、その週に出会った人たちとの対話があります。本を読むことで注解書を書いてくれた人との対話もあります。そこで聞き取られた言葉が説教になって、このようにして皆様に語られます。そこで語られた言葉は新しい働きを始めていくのです。

神の見通し-簡単ではない
しかし、そのような言葉の働きはいつでも、きれいに理想的に実現していくとは限りません。むしろ、言葉は様々に受け取られ、あるいはまるで受け取られないことすらある、という現実を神様は良く知っておられます。或いは私たち自身も知っているのです。このところでは対照的な言葉があります。一つは18節にありますので読んでみます。「彼らはあなたの言葉に従うだろう」。これは誰のことを言っているのかといいますと、イスラエルの長老たちです。神様の民であるイスラエルの長老たちは、モーセの言葉に耳を傾けるだろうし、それに従うようになるはずだと神様が言われます。事実、この後の所を読み進みますと、例えばこの後4章ではモーセとアロンを前にしたイスラエルの民たちの様子が描かれていますので読んでみます。「アロンは主がモーセに語られた言葉をことごとく語り、民の面前でしるしを行ったので、民は信じた。また、主が親しくイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみを御覧になったということを聞き、ひれ伏して礼拝した。」(4:30,31)。ところが、この逆の例もあります。同じイスラエルの民は、ひとたび重労働で疲れ果ててしまうと今度は言葉に耳を傾けられなくなります。6章ではこのような言葉があります。「モーセは、そのとおりイスラエルの人々に語ったが、彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった。」(6:9)。

未来は開かれている
人は弱いものです。神様が素晴らしい約束をしてくださっている、といくら言われても、厳しい現実を前にしてなかなか素直に言葉を受け取れない場合もあります。しかし、実はそれは問題ではありません。なぜなら、わたしたちがどのようなものであれ、神様は言葉によって語りかけられるからです。それは例えばエジプト王に対する預言的な言葉によく表れています。神様は、モーセにイスラエルの長老たちを引き連れてエジプト王の所に行って説得を試みるように命じています。もちろん、それは簡単な仕事ではありません。神様ご自身が、この交渉は難航すると言われます。19節で「しかしわたしは、強い手を用いなければ、エジプト王が行かせないことを知っている」と語っておられるとおりです。神様ご自身、言葉による説得で事態を動かすのが難しいことを知っておられます。しかし、そうであるにもかかわらず、まず説得するために出かけることを命じられるのです。それはおそらく、このような言葉のやり取りの中で、神様ご自身が働いてくださるからです。この点では実は私たちにも思い当たることがあります。それは、マタイに見られる宣教命令です。マタイ28章では、私たちはイエス様の弟子を作るように言われています。聖書を教え、洗礼を授けるように言われています。しかし、あのところの中心にある言葉は「あなた方は行って」です。出かけていくのです。

動かすのは神ご自身
けれども、私たちは、それをうまくできないように思われます。実はこの所でも4章の冒頭で早速モーセは泣き言を語りだします。そのように、私たちは、たびたび行き詰まるのです。しかし、あきらめる必要はないのです。なぜなら、ことを起こしてくださるのはいつでも神様だからです。神様こそは、あるいは神様だけが、私たちの現実のかかわりを変える力を持っておられます。そして神様が働かられるときには、私たちは、何もしていないようであるにもかかわらず、勝利者のように分捕り物を手にするのです。それは21節の言葉で明らかです。「そのとき、わたしは、この民にエジプト人の好意を得させるようにしよう」。神様ご自身がイスラエルの民に好意を与えられるのです。それによってエジプトの人たちのものの見方そのものが変わってしまうのです。私たちは、人の心を変えることはできないという事実をよく知っています。わたしたちがどれほど意を尽くして語っても、人の心は変わりません。けれども、神様にはできます。けれども、それは何もないところで、行われないのです。エジプト人がいて、イスラエル人がいて、両者の間に、厳しい人間関係がすでにある、そのようなところで神様は働かれるのです。もっと言えば、モーセたちが具体的に厳しい交渉をしていく、そのような中で働かれるのです。神様の召し出しに答えて、うまくいかないように思える仕事をそれでも行っている人たちの中で、神様は不思議な業をなされるのです。わたしたちがタフな交渉をするそこにこそ神様がおられるのです。

顧みられる神
私たちは、いわゆる交渉事といったことと信仰とは、あまり関係ないと思っているところがあるかもしれません。しかし、わたしたちが取り結ぶ人間関係で神様と関係ない物は実はないのです。なぜでしょうか。神様は私たちの身の上に起きることをみな見ておられるからです。それは例えば16節のカギ括弧の中を読むとよくわかります。「あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主がわたしに現れて、こういわれた」。「わたしはあなたたちを顧み、あなたたちがエジプトで受けてきた仕打ちをつぶさに見た」。最初に言われていた「あなたたちの父祖の神」という言葉は、なんとなく決まり文句のように聞こえますが、しかし、これは神様のあり方という点で重要です。そもそも、この書き方は神様の名前である「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という言い方そっくりです。それで何を表しているかですが、これは、神様が各時代に、人と出会ってその人の神様になってきた、一緒にいる神様になってきた、これまでもそうだったし、これからもそうだ、という意味です。14節では、「わたしはある、わたしはあるというものだ」というもう一つの名前もありましたが、あれも全く同じことです。神様は、具体的な一人の人と一緒にいて下さる方です。あなたと共にあるという意味です。神様は私たち一人一人と一緒にいて下さる方です。そして、そのような神様は、一緒にいる人、あるいは一緒に人たちの様子をいつも見ているというのです。

最初から見ている神
ここで言う「あなたたちがエジプトで受けてきた仕打ち」とは、もっと具体的には出エジプト記の1章ですでに読みましたところの、エジプト王による強制労働や、幼児殺しの命令ですが、あの時神様は一見しますと、何もしてくださっていないように見えました。しかし、一方でイスラエルの民を強くされたのでした。なぜか直接エジプト人たちの暴力を防ぐことはされませんでしたが、しかし、イスラエルを祝福されていました。イスラエルの民の数を増やされました。しかしれれよりも大切なのは、同時に、イスラエルの苦しみの様子をしっかりと見て確かめて、救いの手を差し伸べる決意を固められていた、というところです。神様は民の苦しみを見て、決意を固められ、その上で行動するというのです。これがモーセに語られた言葉です。それと全く同じように、神様はわたしたちが出会うすべてのこと、良いことも、悪いことも、悔しかったり、つらかったりすることもすべて、つぶさにみておられ、やがて顧みてくださる方であるということがこのところから分かるのです。そして神様は、言葉をもって事実を変えていかれるのです。事実に働きかけられるのです。

聞くようにする神
21,22節は不思議な言葉です。大逆転が起きるとの預言です。エジプトでいじめられ、奴隷として働かされ、子どもの命さえ危険にさらされるような生活を強いられていたイスラエルの人たちは、ここでは勝利者として、分捕り物をもって、さっそうと出かけていくようにと命じられています。むしろ、何も持たずに出て行ってはならないとの命令すら語られています。今まで見下して馬鹿にしていたイスラエルの民に、エジプト人たちが進んで贈り物をするようになるというのです。それは奴隷としてこき使われている状態のイスラエルの民にとってはあり得ない言葉です。しかし、そのありえないことを成し遂げられるのが神様です。

神に見いだされたもの
いずれにしましても、神様によるエジプトからの脱出、その救いの業は今日の聖書ではまだ始まったばかり、あるいは具体的には何も始まっていないように見えるところです。しかし、その始まり以前のところ、モーセがああでもない、こうでもないと言っているこのところからすでにことは始まっているのです。モーセが神様の言葉を聞いたその瞬間から新しいことは始まっていたのです。これは端的に一つの事実を示しています。それは、まだ何も起きていないように見えるところで、神様に見いだされる人がいるのなら、そこから神様の御業が始まるという事実です。わたしたちがこのみ言葉を聞いて、そこに神様の声を聞き取るなら、今このところからでも、神様のみ業は始まっていくのです。

祈り
主イエス・キリストの父なる神様、あなたのみ名を賛美いたします。あなたは、私たちがどのようなものであるのかをすべて知っていて下さり、その上で私たちに語り掛けてくださいますから感謝します。また、それだけではなく、私たちを力強い御手によって世に送り出してくださいます。私たちは弱さのゆえに、この事実を忘れやすいものです。どうぞあなたの顧みを覚えて、また召し出しを覚えてこの週を歩ませてください。主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。アーメン。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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