11月28日説教原稿

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11月28日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿です。朗読などで用いてください

「終わりと始まり」
アドベント
今日からアドベントに入ります。クリスマス前の四週間を指します。イエス様の訪れを待つ期間ですから、降誕を待つ、待降節とも呼びますが、これは毎年お話ししていますけれどもアドベントという言葉自体は「おとずれ」という意味です。イエス様が来てくださった、待っていたものが現れた、そのような意味です。そしてこの見方もまた、正しいのです。なぜなら、イエス様はすでに一度来てくださったからです。私たちの過ごしております時代は、すでにきてくださったイエス様が、もう一度来てくださるのを待っている時代、そんなふうに言うこともできます。ただ、そこで注意したいことがあります。それは、この時代は、決して退屈な中間時代、イエス様が留守をしておられる時代ではない、ということです。むしろ、すでに来られたイエス様がずっと終わりに至るまで私たちに関わっておられる時代というように見たいのです。

過ぎ去らない時代
ところで、ルカのこの個所は、いわゆる、終末預言ですとか、黙示といわれる言葉がちりばめられています。そして、きちんとした順番に従って、出来事が進展していくように描かれています。例えば、少し前の所の8節では偽イエスによる時の訪れを告げるデマのことが書いてありましたし、その少し後の10節では、国同士の対立の様子が描かれていました。さらに進んで、16節ではキリスト者への迫害の様子が描かれ、さらに20節以下ではエルサレムの破滅が、そして25節以下では天変地異が、告げられていました。しかし、このようなことが起きてくるにもかかわらず、32節では「すべてのことが起こるまではこの時代は決して滅びない」とあります。そして、34節では「心が鈍くならないように注意しなさい」とはっきりと警告が語られています。イエス様が来る来ないということで言えば、私たちは明日イエス様が来られても、何の文句も言えませんし、それを当然のことと受け止めるべきですけれども、しかし、この言葉の通りであるのなら、そうでない確率が高いのです。しかしその一方で、この何も変わらないように見える日常を、ただそれとしてみてしまってはいけない、何も感じない心でいてはいけない、というのです。それは、もう少し具体的なことで言えば、目の前のこと、今日は仕事で大変だった、同僚の誰それがどうして、課長がこうして、ですとか、電車が混んでいてひどい目にあったですとか、スーパーで特売品が売り切れていてがっかりしたですとか、ウェッブでセールになっているセーターがちょっといいかも、といったこととイエス様とを別のことに考えてはいけないのです。

頭をあげる時
むしろ、朝ご飯を用意して、食べたらすぐに出かけて、忙しい一日を送って、ということと、イエス様が来られる、ということを一つの自分事として理解したいのです。その点では、今日の28節にあります言葉こそ、私たちがぜひとも聞きたい言葉です。「身を起こして頭を挙げなさい」。というところです。この言葉は、一つ前の27節に描かれた、イエス様が再び来られる時、「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくる」そのような時を指しているのは間違いありません。そこで、まさにそこでですが、そのイエス様の訪れを、あの終わりの時、終末の時のこと、自分とは関係ない未来のこと、と私たちはついつい考えがちかもしれないのです。しかし、最初にお話ししましたように、私たちは、今すでに、イエス様が来てくださったときを生きているのです。イエス様が来てくださって、今もいて下さって、そしてやがてもう一度目に見える形で来てくださるときの間を生きているのです。その意味で、私たちの日常は、決して、退屈な、何の変化もない日常で終わってしまう意味のない日々ではないのです。そうではなく、むしろ、私たちに求められているのは、この時代にあって、28節にある「頭をあげて」「解放の時」が近いというそのしるしを探すことです。

キリストの訪れ
しかし、今しるしといいましたが、それは必ずしも分かりやすいしるしではないようです。たとえば、キリスト者が困っていると途端に奇跡が起こって解決してしまうということではないようです。といいますのも、少し前の16節では、私たちキリスト者が「裏切られ」、「殺される」ということが予告されていましたが、これは、少なくとも、使徒言行録を見ますと、例えば7章のステファノの石打ですとか、12章のヘロデ王による使徒ヤコブの殺害といったことにおいてある程度現実になっていると言えます。しかし、同じ個所ではもう一つ別の約束も語られていました。それは、こんな言葉です。「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなた方に授ける」というものです。この言葉を語っているのはもちろんイエス様です。そうしますと、このイエス様の言葉が語られて以来、この約束は生きているはずです。そして確かに、使徒たちに、先ほどのステファノがまさにそうですが、それ以降、イエス様の言葉を伝える人たちに、誰も反論できない言葉が、各時代の教会にも与えられてきたのです。同じことは私たちの教会にも当てはまります。その意味では、私たちは、あまり将来について悲観する必要はありません。今後、私たちを取り囲む状況がどうなるかはわかりません。より厳しくなるかもしれません。しかし、そうであるほどに、イエス様から与えられる言葉もまた、更に力強く鮮やかなものになっていくのです。

キリストへと頭をあげる
そして先ほど確認しました「身を起こして頭をあげる」ということばは、まさにこのイエス様へと、イエス様のみ言葉へと、頭をあげていくという意味です。それは、決して空しいことではありません。さらに言うのなら、それは、私たちの日常生活において、そうしていくということです。日ごろの生活の中で、解決すべきこと、教会の中で、解決すべきこと、考えてみれば多くのことが、私たちの身近なところで起きています。それぞれに与えられた働きの場所があります。時に苦渋の決断をしなければならないこともあります。その時に私たちは、どこにすがるのかです。もちろん、それはイエス様に対してです。イエス様の語ってくださるみ言葉に対してです。もっと具体的には、このようにして礼拝で語られるみ言葉に対して、です。あるいは一人で向き合う祈りの時に与えられるみ言葉に対してです。その言葉の約束に向かって私たちは、身を起こして頭をあげるのです。その時に現実が少しづつ変わり始めるのです。このところではイチジクのたとえ話があります。それは、季節の進展とともに少しづつ変わっていく樹木の様子をよく見ることを勧めています。もちろん、これはたとえ話です。わたしたちがこのようにして観察するべきは、神様についてです。

神の国
31節で「神の国が近づいていることを悟りなさい」とある通りです。神の国が近づいている、もう自分がそれに関われるほど近付いている、ということを何によって知るのかといえば、自分の身近に起きていることによってなのだ、というのです。頭をあげて、み言葉を求めて生きているのであれば、それに対して神様が答えてくださるのです。そのわずかに見えるかもしれない変化、それは多くの場合、自分の生き方の変化、そして自分の周りの変化となって表れていくのだと思います。私自身のことをお話しするのは少々気が引けますが、やはり、10年前とは違っているということを実感しています。そしてその変化は、私自身の力によるものではありません。少しずつ、祈ってきた、その祈りが、少しずつ聞かれて、様々なところで変化があったということを感じています。そしておそらくこれからも、祈っていく限り、この少しづつの変化は続いていくのだと信じてます。そして、このようにして、祈る、少し変わる、という繰り返し、こそが実は神の国の中にいる、という言葉の意味です。

全てのことが起きるまで
そして私たちの生きる時代とは、このような時代です。32節にこのようにあります。「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない」。ここでいう「この時代」とは、かなり広い意味を持つ言葉です。最も広くとれば、再臨のイエス様が来られるまでの、地上におけるすべての時代ともいえます。その時代は、滅びないのです。各時代に課題があり、各時代に祝福がありますけれども、基本的にこの時代は簡単には過ぎ去らない、これがイエス様のお言葉として語られている意味は決して軽くはありません。私たちは、地に足をつけて、この時代と向き合うことが求められています。そして、その時の唯一の武器は、み言葉です。イエス様が「私の言葉は決して滅びない」と言われた、イエス様を指し示している聖書のみ言葉によって私たちは立ち上がるのです。

人の子の前に立つ
その際、私たちには明確な目標があります。それは、36節の「起ころうとしているすべてのことから逃れて、人の子の前に立つ」という言葉です。私たちは、不意に起こってくる様々なことを、み言葉によって守られながら、イエス様の前に立ち続けるのです。その場合に、ここでは一つだけ警告されていることがあります。それは、34節の「放縦や、深酒や、生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」とある通りです。神様から離れる、み言葉から離れる時に、このようなことへと取り込まれていく、というのです。それがいわゆる眠った状態です。それがないように、36節の最後では「いつも目を覚まして祈りなさい」との命令があります。それは、とても具体的な祈りです。生活の悩みのど真ん中で、イエス様に祈り求めるのです。いつでもそのようにして生きていくのです。

終わりで始まり
このような生き方は、すでにイエス様によって始まっています。それは同時に、古い生き方、神様を知らず、イエス様を知らず、祈りを知らない生き方の終わりが来ていることを意味しています。私たちは、この古い時代の終わりにして、新しい時代の始まりに生きています。毎年訪れるこのアドベントの時こそ、まさに、わたしたちがこの終わりで始まりの時に生きていることを確認する時なのです。

祈り
父なる神様。聖名をほめたたえます。あなたは時いたって独り子であるキリストを幼子として私たちに与えてくださいました。今はこのご降誕を覚える時を過ごしています。しかし、私たちは、すでに来られ、今も我々と共におられる方によって、あなたを見上げ、希望を持つことが赦されていますから感謝します。この待降節の日々において我々がますます信仰に目覚めて、生活していくことができますようにお願いいたします。主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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