10月17日説教原稿

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10月17日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです

「神の名を呼ぶもの」
神を呼ぼう
今日の説教題は「神の名を呼ぶもの」としました。おや、と思われた方もおられるかもしれません。以前の説教でも何度かお話ししたことのある有名なキリスト者で詩人の八木重吉さんの代表的な詩集の名前が「神を呼ぼう」です。これにあやかってつけました。八木さんは学校の先生でしたが、若くして結核を患ってしまいます。そのままならない闘病生活の中で与えられた思いを、苦悩を含めて率直に詩の言葉に託した人でした。しかし、その基本的なトーンは明るく単純なものです。それは神様を「御父上様」と呼ぶことができてうれしい。という思いを繰り返し語るからです。神様に呼び掛けることができてうれしい、ある意味ではそのことに気づいた人が、それを書き残してくれた、それがあの詩集です。そしてこのこと、すなわち神様の名を呼ぶことができてうれしいと気づく、これが実は私たち教会に集うものにとって生死を分けるほどに大切ではないかと私は考えています。

青い鳥?
さらに言いますと、青い鳥の童話にあるように、この神様の名を呼ぶ喜びは、どこか遠いところにあるのではなく、私たちの足元にあるはずなのです。ほかでもない、この礼拝の中に、聖書の言葉の中に、あるはずなのです。しかし、そうであるにもかかわらず、私たちは、幸いを見つけるのが、あまり上手ではないのかもしれないのです。私たちだけではなく、イスラエルの民もまた、そうであったのかもしれません。このところ15節に、「先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とあります。これが、神様の名前として示されています。このところでモーセが問題にした、神様の名前とは、この名前です。そして、明らかに、苦しみの中で、叫んでいたと7節に書いてあるイスラエルの民は、神様の名を知っていたはずなのです。実際の所、イスラエルの民は、神様の名を知っていました。しかし、その神様の名を呼んでも、現実は変わらないと思っていたのではないでしょうか。むしろ、神様が助けてくれない、神様に見捨てられている、とすら思っていたかもしれません。そうしますと、神様の名前を知っているだけでは、それは必ずしも、幸いではないのです。むしろ、神様の名前を知識として知っているだけでは、虚しさと痛みばかりを感じてしまう、ということすらあり得るのです。なぜなら、この私と神様との関係がとても遠いと感じてしまうからです。もっとはっきり言えば、神様と私の間に何の関係があるのか、となってしまうのです。

モーセの恐れ
ところで今日の13節を見ますと、モーセもまた恐れにとらわれていたようです。彼は、そもそも、最初から神様によって自分がイスラエルの民を救い出すために派遣される、といった計画自体を疑っていました。いったい私に何の関係があるのか、とまで言っていました。しかし、神様に、「私が一緒にいるから」と説得されてしまいます。それが12節でした。この言葉によってしぶしぶ、出かけていく気になったモーセが語りだすのが13節です。そこで、ちょっと立ち止まって確認したいのですが、モーセは神様から「私が一緒にいる」と言われて心を動かされたのは間違いありませんが、しかし、その一方で、なお、この時点で不安がいっぱいであったようなのです。彼は出かけていく確信が持てないのです。モーセは、神様の言葉を聞きました。確かに、そのような約束を受け取ったはずです。しかし、なお受け取り切れていないのです。これが大切なところですが、私たちもまた礼拝において、聖書の言葉に触れて、なるほど、と思うことがあります。しかし、教会から帰って、お昼ご飯を食べて、あるいは、一晩過ごして翌朝会社に出かけて行ってというように日常生活の中で、神様の言葉が、どのくらい残っているのか、と考えてみますと、少々おぼつかない、といったことがあるかもしれません。ほかでもありません、私自身が、一週間前の日曜日の説教の内容を克明に隅々まで覚えているか、と言われると自信がないのです。

名を問う
派遣されるものにとって、この自信のなさは致命的です。自分がのこのこ出かけて行っても、どうせ誰も聞いてくれないのではと思ってしまうのです。語る言葉が見つからないのです。モーセも全く同じで、どうせ自分は受け入れられないと見て、イスラエルの民を恐れているのです。自分が出かけて行っても、テストされてうまく答えられなければ、相手にされない、そこで、この13節では、神様、名前を教えてくださいと願うのです。しかし、すでにお話しした通り、名前を知っている、というのは、理屈の世界のことです。名前を知っているだけでは、人の心は動かないのです。イスラエルの民の側から言えば、なるほど、このモーセという男は、我々の先祖の神様の名前を知っている、その点では、まるきり偽者ではないようだ、しかし、だから何だ、となってしまうのです。そして、このことを何よりもはっきりと知っておられるのは神様ご自身です。実際の所、この後、4章を見ますと、神様の派遣の言葉を一通り聞いたはずのモーセ自身が、ああでもない、こうでもない、どうせ相手にされないですとか、どうも自分は口下手でですとか、うまくいかなり理由を並べています。更にその後を読みますと、イスラエルの民は、モーセが予想した通りの反応、あるいはそれよりももっと悪い態度を示していくことになります。そして、これは、わたしたちとこの世界、すなわち、今こうして教会で神様の言葉を聞いているわたしたちと、そして、私たちが出かけていく社会、日本の、埼玉の南西部の埼玉都民と言われるような人たちが多く住んでいるこの地域の状況ともまたよく似ているのです。神様の言葉をしっかりと持つことがなかなかできないわたしたちが、神様の言葉に背を向けている人たちの中に出かけていくと言ったら言い過ぎでしょうか。

語りだす神
ある意味では、このところでモーセは、なかなか神様を信じ切ることのできない私たち人間の代表として神様の前に立っていると言えます。そして、神様はおもむろに語りだされますが、それは、必ずしも、モーセの問いにそのまま答えるものではないように見えます。モーセは、神様、名前を教えてください、と尋ねました。これに素直に答えるのなら、最初に確認しました通り「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と一言言えば十分です。実際に、神様は、15節ではそのようにしてご自身の名前を示しておられます。しかし、神様は、そのようにして、ただ、名を示すことで済ませていません。むしろ、ご自身の正式の名前を語る前に、もう一つの、あるいは最も大切なことを語っておられます。それが14節です。神様の第一声は、ここに書いてあるとおりですが、もう一度読みます。「わたしはある、わたしはあるというものだ」。このところの「わたしはある、わたしはあるというもの」という言葉こそは、神様の本来の名前、決定的な神様の名前なのだ、と私たちは理解してきました。そして、それは大きくは間違っていないのかもしれません。ただ、ひとこと言わせていただきますと、そもそも、このところを、もともとのヘブライ語で読みますと「もの」という言葉はないのです。本当に直訳しますと「わたしはあろうとする、そして、わたしはあろうとする」だけなのです。

「ある」という決意
そして、この神様の言葉は、ただ、知識としての名前を伝えることに優先して、最初に語られています。この意味はどうでもいいことではありません。むしろ、この順番でこれが語られていることに神様ご自身の意図があります。これは神様の決意表明であり、最大限の自己紹介です。渾身のとか、乾坤一擲という言葉を神様に使うのがよいかどうかと思いますが、それくらい、力いっぱいの言葉、そのように私たちは読みたいのです。この言葉の意味は明快です。それは、神様が神様であるとは、いつでも、そしていつまででも、あなたたちと一緒にあろうとし続けるし、実際にあり続けることだ、というのです。この言葉はその意味での決意表明です。私はいつでも、いつまででもあなたたちと一緒にいる、そのようにしてどんな時でも、あなたたちが従うときだけではなく、あなたたちがわたしに躓いている時でも、私はなおあなたたちと一緒にあり続ける、というのです。

「ある」を伝えよ
しかも、このところは、ただ、モーセにこの神様の決意が示さるだけで終わっていません。むしろ、モーセは改めて派遣されています。14節後半はこうでした。「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」。神様は、モーセが一人でいることをよしとされないのです。そうではなく、神様はご自身の民全体を意識されています。「私はある」あるいは「わたしはあろうとする」方は、個々人の神であるだけではなく、神様の民と共にあろうとする方です。そして、一人の人を通して、あるいはごく少数の人を通して、民全体に働きかける方です。そのようにして、一人の人が起こされ、何人かの人がそれを理解し、更に民全体にこの言葉が伝わっていくことによって、神様の民はおこされていくのですが、しかし、すでに確認した通り、そのようなプロセスは、必ずしも順調には進まないのです。多くの疑いがあり、抵抗があり、挫折があり、罪と逸脱があるのです。神様はそのことをも知っておられます。しかし、それを全部知っておられてなお、言われるのです。そのようなすべての場面においても、「わたしはあろうとするしありつづける」と。

先祖の神の名と出会う
そしてこのところでおそらくもう一つ大切なことがありますので最後にそれを確認します。それは、神様がこの「あろうとしてあろうとする」と語られた直後に、今度は伝統的なご自身の名を語っておられることであり、更にそれに続けて、この名前を「とこしえに私の名」、「世々に私の呼び名」と言われているこの15節の言葉です。すでにお話ししました通り、こちらこそが、イスラエルにおける、本来の正当な神様の呼び名でした。しかし、これもすでに確認した通り、この名前を知っているだけでは、人々は虚しさにさいなまれてしまうのでした。そこで、神様がこのところで行っていることは、この神様の正しい名前と、そして、神様の正しい在り方とを改めて結びつけているということです。父祖の神、イスラエルの神は、ただ、遠い日の、遠い人たちの神様なのではなく、あのアブラムに対するようにして、昔の人に現れた神様は、今も、変わることなく、私にも表れて下さる、このことをはっきりとさせようというのです。

私の神は父祖の神-今ここで語る神
最初に八木重吉さんの話をしました。どのような境遇にあっても「御父上様」と唱えるのが、なんともうれしい、そんな素敵な言葉を語った人でした。イスラエルの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は、アブラハムたちと共にあったように、八木さんともともにあったのです。そして、今度は私たちの番です。わたしたちが、このようにして聖書の言葉を読むときに、私たちは神様の宣言、「わたしはあなたたちとあろうとして、あろうとする」という言葉を聞き取るのです。その時に本当に、アブラハムの神は、私たちの神になるのです。

神の名を呼ぶもの
そして私たちは、神様の名を呼ぶものになっていくのです。もちろん、私たちのあゆみもまた、平坦なものではありえません。様々な、躓き、挫折さえあるかもしれないのです。しかし、その時々に、あの父祖の神である方、聖書によって語る方が、共にあろうとしていてくださいます。それゆえ、私たちは、いつでも、神様の名を呼ぶことに喜びと慰めを見出して、生きていくのです。


祈り
主イエス・キリストの父なる神様、あなたのみ名を賛美いたします。あなたは、私たちがどの与なものであるのかをすべて知っていて下さり、わたしたちがどのような者であっても、いつも、そしていつまでも、私たちと共にあろうとしてくださいますから感謝します。私たちは弱いゆえに、この言葉を忘れやすいものです。しかし、そのたびにあなたは私たちに語り掛けてくださいます。この週のあゆみにもまた、あなたの語り掛けが豊かにありますように。そして、わたしたちがもはや一人ではないことを思い起こし、感謝しながら生きていけますように。主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。アーメン。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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