10月3日説教原稿

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10月3日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです

エフェソ5:1-7 「喜んで生きる」
キリスト者らしさ
今日の説教題は「喜んで生きる」と付けました。私たちは今こうして礼拝しています。これは、キリスト者として喜んで生きるという意味です。そしてこの喜びの理由は、今日の聖書の冒頭で語られている言葉によります。私たちキリスト者とは、神様に愛されている神様のこどもだ、というところです。神様は私たちにとって父親、母親のような方だと言います。親ですから、うるさくかかわってくるのです。これは失礼な言い方かもしれませんが、特に母親はそうではないでしょうか。お母さんは、いろいろと、小言を言ってくる、でもそれが幸せなのです。神様は、私たちにぐいぐいと語り掛けてこられるのです。それは具体的には、このような聖書の言葉を通してです。そして、聖書の続きを見ますと、神様に倣うように、となっています。まさに、親の背なかを見て子が育つように、神様を見習って私たちは育っていく、というのです。その際、さらに2節を見ますと、神様を見習うというはもっと具体的には、イエス様を見習うことであるようです。5節にはキリストと神の国という言い方もありますが、ここでは神様の愛の表れがイエス様だ、だからイエス様を見れば神様がわかる、こういう理屈です。

イエスの愛のカタチ
それで2節をみますと、これは一言でまとめれば、イエス様の十字架の贖いについて語っているということもできます。けれども、ここではそれをわざわざ三つに分けているのですね。確認のためにもう一度読んでみます。「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」まず最初に、愛した、とあります。それに続いて、香りのよい供え物とした、とあり、次に、自分自身をささげられた、とあります。実際に旧約にある罪の赦しの供え物を考えますと、動物が屠られ、焼かれて神様の前によい香りが立ち上る、という順番ですが、細かなことはともかくとして、イエス様は、私たちのために、このような犠牲としてご自身をささげられた、という見方は、ヘブライ書にもある通りです(9:12、10:10)。とはいえここで私たちが注目したいのは、この順番です。最初に愛、次に行動、という順番です。神様とイエス様には、私たちへの愛があふれていた、そして、その愛をいわばてことして、それを表す行動がなされた、という順番です。まず動機が、まず心の動きがあって、それが現実を変えていく、というこの順番です。神様に、そしてイエス様に倣う、ということは、このカタチに倣うという意味です。まず私たちの中に神様の愛が届いて、その愛に動かされて私たちの具体的な生き方が変わっていく、この順番です。

性とむさぼり
ところが、私たちの実際の人生では、これを邪魔するものがあるというのが、3節からの話です。3節には、「ふさわしく」とあり、4節では「ふさわしくありません」とあります。この世界には、神の子にふさわしくないものがあるというのは、まあ、そうだろうと思います。ここでは特に、性の乱れとむさぼりが問題になっています。この3節ではまず、典型的に好ましくない性のあり方を語っています。それは「みだらなこと、いろいろの汚れ、という言葉です。これに貪欲が続きます。この場合の貪欲は、性的なことを含むかもしれませんが、むしろ、物質的、金銭的な貪欲さ、むさぼりのことです。そうしますと、ここでは、「みだら」、と「汚れ」がまずは問題となります。この場合の「みだら」とは、いわゆる悪所がよいと呼ばれるもの、性を商売とするところに出入りするという意味です。それから、「汚れ」は、おそらくいわゆる不倫と呼ばれるもの、結婚外の関係全般です。これは当時も今も、良い行いとは決して言えないものですが、ここではそう言った行為がキリスト者に全くふさわしくないのはもちろん、それを口にすること、話題に上らせること自体を避けるようにと命じられています。そして続く4節では、そのより具体的な言葉として、「卑猥な言葉や愚かな話、下品な冗談」が取り上げられています。いわゆるきわどい冗談といったたぐいの言葉です。これらはキリスト者にふさわしくないと言います。当たり前といえば、当たり前かもしれません。

二つの立場
エフェソの教会は、そもそも異邦人の街の悪い習慣に満ちた環境にあって、彼らもまたそこから回心したのでした。そこで、実際にこのような習慣が問題になった、ということもよくわかります。一方で、このお堅い改革派教会で、いわゆるいかがわしい場所に通い続けているですとか、教会での会話が下品な冗談で満ちている、ということはまあ、あまり考えられません。では、私たちには、このような警告は関係ないのか、といえばそうとばかりも言っていられないかもしれません。もうだいぶ前のことですが、わたしがまだ神学生の頃、多分市川先生が授業の中で語ってくださった言葉が今でも印象に残っています。それは、「キリスト者は、二つの足場に立っているようなものだ、その分大変なところもある」、という言葉です。その言わんとすることは、私たちイエス様を信じたものは、二つの世界に生きているところがある、という意味だと私は理解しています。一方では、神の国の市民として、しかし、一方では、この世の市民として、実際に私たちは生きています。そして、この世にあっては、一つの強い力が働いています。その行き着く先は、偶像礼拝だと5節でははっきりと書かれています。ここでは特に性的な乱れと貪欲がそれだとあります。それは前にもお話しした記憶がありますが、このような自分の欲望だけに突き動かされている状態こそが、自分を神にしてしまっている状態だからです。偶像礼拝とは、つまらない像を拝むことではありません。自分とその欲望に従っていくことです。その場合には、まさに人を愛することからは全く遠ざかります。それはまさにイエス様に倣う生き方の正反対です。

惑わし?仲間?
そして実際に私たちはこの世の影響を強く受けているのです。さらに、この世の中で生きていく以上、ある程度周りに合わせていく必要すらあるかもしれないのです。そこでしかし、ただただ、現実に合わせていていくのならそれこそ、6節の「空しい言葉に惑わされはなりません」ですとか、7節の「仲間に引き入れられないようにしなさい」という強い警告の言葉がそのまま当てはまります。それで、もう少し具体的に考えたいのですが、とりあえずこのところもっぱら話題のLGBTQといったことにはふみこまず、もっと根本的なところについて、ごくおおざっぱに考えたいのですが、それは、私たちの性に関するそれぞれの考え方についてです。性について、ごく一般的な現代の人権意識に沿った考え方として、わたしたちは、自分の体に対して完全な権利を持っています。誰も、私たちの体に対して、不当に働きかけることはできません。積極的な意味でも、消極的な意味でも、私たちは、自分の性をコントロールする権利があります。それは、基本的な人権です。同意のない性行為はあり得ませんし、望ましくない相手からの性的言葉や視線が犯罪になりうる、といったことについて、私たちは、特に注意深くある必要があります。とここまで私はごく当たり前のことを言いました。どこもおかしくはないはずです。

権利と神
しかし、この理論の行き着く先を突き詰めてみますとどうでしょうか。自分の性に関して、それをコントロールするのが自分だけの権利ならば、自分の性をどのように用いるのかを決めるのは自分だけとなります。そしてこれは例えばどのような性生活をするのか、さらには妊娠についてどう考えるかについても決めるのは自分、という考え方につながるのだと思います。しかし、そのようにして、すべてを自分で決めるのであれば、例えば、パウロがコリント書で、夫婦は互いの体を相互に所有している、という指摘ですとか(Ⅰコリント7:1以下)、あるいはイエス様がファリサイ派から離婚について問われて、結婚とは神が結び合わせたものなので安易に離婚してはいけない(マタイ19:5以下)といった聖書の言葉は私たちの権利を不当に制限する時代遅れなもの、という理解になる可能性もあります。もちろん、これは微妙な問題です。み言葉を杓子定規に当てはめてあれはダメ、間違った生き方だと言ってよいのか、それもまた、真剣に考えなければならないはずです。しかし、その場合でも、わたしたちが忘れてはならないのは、もし私たちが本当に神様の子であるのなら、み言葉が自分に語り掛けていることを、真剣に受け止めて、自分に与えられた状況の中でしっかりと考えていく態度が求められるのではないでしょうか。そして、その時々の判断において私たちは、自分が本当は何を大切にしているのか問われるのです。

喜んで生きる
実は、正直に言いますと、私自身、いつもこのせめぎ合い、このようなパウロの勧めにしっかりと聞いていけるかどうか問われているように感じています。ただはっきりとしているのは、私にも、皆さんにも、今このようにして、父親であり、母親である神様の声がしっかりと届いているという事実です。そして、この声を妨げようとする様々な声の中で私たちは生きているというもう一つの事実です。この中で、私たちはぜひ神様の声に聴いて、神様に倣って歩みたいのです。なぜなら、このような道の先にこそ、本当に喜ばしい人生があるだろうと、直感的にわかるからです。聞くべき言葉、ゆくべき道は、自分を優先する生き方の先にあるものではなく、むしろ、仲間の最善を願い「愛によって歩む」その先にこそ、喜んで生きる未来が開かれていく、このように信じているのです。

祈り
父なる神様、み名を賛美します。あなたは、私たちを主イエスにおいてご自身の愛する子としてくださいました故に感謝します。私たちは、あなたの子として、ふさわしく愛に生きるように促されています。どうか私たちが、本当に大切なことを、あなたのみ言葉によって教えられて、それを確かに聞き取って日々の生活を整えていくことができますように。この週の歩みをあなたが力強く導いてください。主イエス・キリストのみ名によってお祈します。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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