9月19日説教原稿

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9月19日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです

「声を聞く神」
聖書をどう読むか
今日のところでは一つ前の段落で神様と出会ったモーセに対して、いよいよ神様が語りだされる、そのようなところです。ところで、これはこのところに限らず聖書を読む場合に、大切なことですが、例えば、今日の所で神様が直接モーセに語り掛けるという場面を読んで、それをどう考えるのか、というのはどうでもよいことではありません。例えばこれを一つの昔話のようにして読んでしまう、そんな可能性もあります。それこそ、そもそも、このようなことが本当にあったのかと思いながら読む、ということもあるかもしれませんし、これ自体は本当にあったことだろうけれども、それは昔々のことで、モーセが特別に体験したことだ、というように読むこともできます。けれども、私自身は、そのように読んでしまうのは大変残念なこと、もったいないことだと考えています。さらに言いますと、これはぜひとも私たち自身のこと、実際に私たちの身の上に起きることとして読みたいのです。

下ってくる神
じゃあ、今このところで、神様の声が突然上から降ってくるのか、と問われたとしたらどうでしょうか。そこで私は、そうです、と答えたいのです。しかし、皆さんは、でも、神様の声が上から降ってきているようには特に聞こえないけどなー、ただ牧師さんが話してるだけだけどなー、と思われるかもしれません。確かにその通りです。ではどういうことなのかですが、実はこのことについて、少々回りくどいのですが、いくつかのことを順々にお話ししたいのです。そこでとりあえず、今日の聖書の8節に「私は降っていき」とあるところに注目します。神様が地に下ってくる、というのです。しかもただ、下ってくるだけではなく、「エジプト人の手から彼らを救い出す」と続きます。神様が行動をおこして、ご自身の民を助けて下さる、というのです。しかもそれはとても具体的な目的を持っていることがすでに今日の所でも示されています。一つには、特別な目的地に向かって、彼らを導きいれる、という約束です。しかし、それだけではありません。以外に気づきにくいことかもしれませんが、このところでは、もう一つ、大切な約束、ないしは将来計画というべきものが語られています。それは、礼拝のあり方についてです。

新しい計画-目的は公の礼拝
それは、12節の言葉の中にあります。「民がエジプトから導き出されたとき、あなたたちはこの山で神に仕える」と書かれています。繰り返しますが、この時、イスラエルの民はエジプトで奴隷の身分となっていました。彼らは神様への信仰を失ってはいませんでしたが、公に神様を礼拝することはできませんでした。あくまで、個人的に、静かにそれぞれの家で神様をあがめ、祈りをささげることしかできませんでした。それは、現代でいえば、このようにして、教会に集まること自体ができない、そもそも教会を造ること自体出来ない、そんな状態です。その点で、私たちは、実は大変恵まれていますが、ご存じの通り、コロナ渦によって、教会に集まることができず、家庭礼拝が中心になっている、という状況は、少しだけこの時のエジプトにおけるイスラエルの状況に近いかもしれません。しかし、神様による開放が成し遂げられた暁には、この山で、すなわち3章1節には「神のホレブ」とありまして、これは別名シナイ山ですが、その山の上で自由に、何の遠慮もなく神様を礼拝することができるようになる、という目的がすでにこのところで語られているのです。それは、圧倒的な力によって、不自由な状態、人間によって自由が制限された状態から解放されるという見通しです。それは、神様が具体的に地上のあり方に対して、力を働かせる、ということです。そして、そのようにして神様が現実を作り替えていく、というあり方を美しく表現した言葉が出エジプト記の少し先に書かれています。

手を差し伸べる神
7章5節を読んでみます。「わたしがエジプトに対して手を伸ばし、イスラエルの人々をその中から導き出すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」ここでは、手を伸ばす、というように描かれています。でも、実際の所、この時代のエジプトの人たちも、イスラエルの人たちも、神様の手が見えるようになったわけではありません。それこそ、漫画やアニメのように、空からニューと巨大な手が生えてきて、エジプトの街をぶっ壊す、というようなことを言っているのではない、というのは納得していただけるはずです。しかし、そうであるにもかかわらず、現実が変わるぞ、と神様は言われているのです。そして、確かに現実は神様の言われた通りに変わっていくのです。そして、その様子を事細かに記したのが、この出エジプト記そのもの、ということになります。そして、このことは、私たち信仰者がぜひ知っておきたいことを示しているのです。それは、神様は、現実に対して今も、確かに働きかけて下さる、という事実です。私たちにも、神様の腕は見えないのです。しかし、神様は、確かに働いてくださっているのです。しかも、それだけではありません。いよいよといいますか、最初の疑問に近づいていきます。神様の声が聞こえるか、という話です。

知ってくれる神-派遣へ
すでに神様は現実を作り替える方だ、ということを確認しました。では、それはどのようにして実現するのでしょうか。10節にはこのように書かれています。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」これは言うまでもなく、神様からモーセへの命令の言葉です。ここでもまた、今、ということが言われております。この今は、神様がイスラエルの苦しみを見て、叫びを聞いてくださった今ですし、「イスラエルの叫びが今届いた」(9節)という今です。おそらく、この時、エジプトで奴隷として働かされていたイスラエルの民は、誰一人として神様のお姿を見ていません。神様がやってきて、自分のそばに立って、どうだ、元気か、と聞いてくださって、実は、かくかくしかじか、と話した、ということが言われているのではありません。むしろ、地にあるイスラエルの民は、神様が自分たちのことを見たり、自分たちの言葉を聞いたりしてくださっているのを全く知らないのです。しかし、地上の人間、私たちを含めて、地上の人間が何もない、何の変化もない、何の希望もない、と思っているその所で神様はすべてのことを知ってくださって、具体的に新しい出来事を始められるのです。

何のための派遣か
そして神様が具体的に事を始められるそのやり方こそが、このところで書かれている派遣というあり方です。もう一度10節を読みます。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」ここで明らかなのは、神様は、この世界の現実を変えてしまう意思を持っておられること、そして、それを、人間を派遣して、その人間に言葉を語らせることで実現しようとしている、という二つことです。それは、言い換えますと、神様の望んでおられる出来事は、人間が現実に語り掛けることによって引き起こされる、ということになります。そこで、思い出していただきたいのですが、今、私はこの世にして、ぺらぺらと語っています。聖書の言葉に基づいて、すなわち、神様の言葉に基づいて、現実世界の中にあるこの教会に集まった皆さんに向かって言葉を語っています。しかし、それは同時に、神様が現実を作り替えるための言葉を、現実に向かって語りかけているというようにとらえることもできます。あるいは、もっと言えば、神様のやり方はいつもこの通りなのです。神様は、人間に言葉を預けて、人間が人間に言葉を語ることによって、そして、聞いた人間のあり方が実際に変わっていくことによって、地上にご自身の望まれることを実現していかれるのです。

何で自分が、との戦い
しかし、その場合にたいへん難しい問題が起こります。それは、端的にいって、神様の言葉を聞いた人間はたいていピンと来ないという事実です。例えばモーセです。私たちは、モーセといいますと、すばらしい信仰の人、というイメージが強くあるかもしれません。確かに、ヘブライ人への手紙ではモーセがまさに信仰の偉人として語られています(11:24以下)。しかし、少なくとも神様の語り掛けを初めて聞いた時にはそうではありませんでした。11節はこうでした。「モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」。彼の言い分はこうです。「私に何の関係があるのですか」。「ちょっと何を言っているのかわからない」。そんな、今でもエジプトではお尋ね者で、下手に帰ったら死刑になるかもしれない、危ないところに、しかも、自分が殺人という罪を犯す原因になったイスラエルの人々のために、何で出向かなければならないのか、そんなことには協力したくありません。と、自信たっぷりに答えています。このように、神様が現実に働きかけられる時に、わたしたちがどうもよくわからない、神様の言葉に説得されない、ということがあります。

現実の中で
それから、もう一つ、難しいこととして、神様が現実を変えられる、というのは、必ずしも、私たち人間が何もすることなく、なんとなく棚ボタ式に、気が付いたら素晴らしい世界にに取り囲まれていた、というような状態のことではないという点があります。例えば8節を見ますと、神様は、広々とした素晴らしい土地、乳と蜜の流れる土地、と言われますが、それは何も無人の場所ではなく、前からの住民がいるところなのです。カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、と続きましてここでは六つの部族が挙げられていますが、実際にはもっといたはずで、そのような人たちと、後から入っていったイスラエルの民は、何らかの方法で、折り合いをつけて、多くの場合には戦って土地を勝ち取っていく必要があった、というのは、出エジプトや、その続きのヨシュア記でも繰り返し描かれていることです。そうしますと、これはとても現実的なことです。神様の御心は、神様の言葉を伝える人が、周りの人たちにそれを伝えて、周りの人たちが、それを聞いて納得して、実際に一つの目的を持った集団として行動するようになって、そのような集団が具体的に周りに働きかけていくことによって、はじめて、現実になっていく、現実を変えていくという順番になっています。その際、とても大切なのは、神様の言葉を語る人も、聞く人も、その言葉がピンと来るかどうかです。

共にいるという証拠
そして、神様の言葉がピンとこないモーセに与えらえた約束こそが12節の言葉でした。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」。神様は、確かに人を派遣し、人を用いて地上を変えていかれるのですが、それは、ただ、命令をして終わりなのではなく、むしろ、神様の言葉を聞かされた人といつでも一緒にいるようになる、その人と一緒に働くようになるとの約束です。それはさらに言えば、神様の言葉を飲み込み切れない私たちの側にいて、神様の言葉がなぜそう言っているのか、何でそれが必要なのかをその時々にわからせてくださる、という約束です。

声を聞く神
繰り返しますが、神様は私たちの声を聞いてくださり、現実を変えてくださいます。そして、そのような神様の現実を作り替える業は、神様が人を通して語る言葉によって始まります。すなわち、わたしたちが聖書の言葉と本当に出会うことができるように、今もこのところで働きかけて下さることによってです。そのようにして神様は、いつでも私たちの現実を作り替えるために、聖書を通して私たちに語り掛けてくださるのです。


祈り
主イエス・キリストの父なる神様、あなたのみ名を賛美いたします。あなたは、私たちの何気ない生活を見ておられ、私たちをご自分の下へと招かれます。そして、私たちが思いもよらない言葉を語られ、また、新しい役割の下へと送り出されます。どうぞ私たちがあなたの御言葉に耳を澄まし、与えられた言葉に忠実に歩むものとなれますように。また、この週の歩みにあなたの希望が豊かにありますようにお願いします。主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。アーメン。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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