8月29日説教原稿

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8月29日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです

エフェソ4:1-6 「一つである幸い」
キリストにひかれる?
今日の説教題は「キリストにひかれて」としました。あとからちょっとわかりにくかったかな、不十分だったかな、などと思ったりしましたが、何を言いたいのかといいますと、イエス様が私たちを引っ張っている、それも、でたらめな方向にではなく、上に向かって、天に向かって、ぐいぐいと引っ張り上げようとしている、そんなイメージです。もちろん、それは、召されるということではなく、この地上の命において、しかし、そこで精いっぱい天に向かって生きる、そんなことがもう始まっている、と言いたかったからです。そこで大切になる言葉があります。それは7節の「私たち」です。

一人一人が大事
実はこのところは前の6節まで、「あなたたち」という書き方でした。あなたたちは、このようなものだ、あなたたちはこうしたらよいだろう、そんな勧めの言葉が続いていました。ところが、ここでは改めて「わたしたち」といいます。パウロを含めて、キリスト者であればだれでも、と言いたいのです。それで、私たちが誰であってもイエス様を信じたその時から、もうそうなっていることがあるのですが、それは、キリストの恵みの賜物の測りにしたがって、と続いていることです。イエス様から贈り物があるのです。ただ、ここだけ読みますと、なんとなく、不公平な感じがしなくもありません。たとえば、あの人の量りの分量は大きそうだけど、私の量りは、ちょっと小さいかもしれないというようにです。どうしても私たちは、大小、強弱、優劣、といった見方をしてしまうものです。しかし、神様の目から見た場合に、重要なのは、そこではありません。むしろ、一人一人が、神様が与えようとした方向に進めるか、が問われているのです。それをもっと簡単に言えば、神様にあってその人らしく、ということです。私たちは、みんなそれぞれ違っています。神様の国では、みんなおんなじでは、困ってしまうのです。それぞれに役割があるのです。そして大切なのは、私たちそれぞれにちょうど良いように、イエス様がよくよく見極めて、恵みが与えられているとあることです。

恵みと、とらわれ人
そして、一番の恵みは、8節に書いてあることの中ですでに明らかになっています。これは、旧約聖書の詩編からとった言葉のようですが、もともとの言葉とは少し違っています。もともとは神様が人々をご自身のもとに集められる、という感じで、イスラエルの祭りで使われる詩編だったようですが、ここでははっきりとイエス様が何をしているのか、を示す言葉になっています。そしてイエス様は二つのことをすることになっています。一つはとらわれ人を連れていき、とある通りです。とらわれ人ですから捕虜なのですが、そして私たちは、ある意味では罪にとらわれていたものだった、といえます。しかし、おそらくここではその意味よりも、むしろ、わたしたちがイエス様のとらわれ人にもうなっていることが大切です。そして、そのような私たちに対して、イエス様は、それぞれに神の民として生きるために必要な賜物を分け与えられている、というのです。そして、これは、イエス様が天に挙げられて以来、ずっと続いている、そんなイメージで語られているのです。ルカによる福音書の終わりと、使徒言行録の始まりはいずれも、イエス様の昇天の様子が描かれていまして、あのような意味での昇天は一度限りのことですが、あの上っていくイエス様の動きに合わせて、私たちもまた、ぐいぐいと天に向かって引き上げられていく、地上にいながら引き上げ、天へと向かわされていく、そんな動きがこの言葉で表されているのです。

イエスは天に
それで、次の9,10節では、イエス様が地上においてその生涯を送られたことが改めて確認されて、さらに天に上ったときに何をしたのかが改めて、語りなおされるのですが、この降りてこられた方、すなわち、イエス様は、上って行かれるときに、ただ漠然と上っていったのではないというのです。そうではなく、すべてのものを満たすため、とあります。この場合のすべてのもの、とは、4章6節にありました、すべてのものの父、すべてのものの上にあり、と続いているあのところと同じで、人間一般というよりは、イエス様を信じた人たち、です。私たちのことです。私たちは、イエス様の昇天、先ほど確認した通り、それは一度限りのことでしたが、しかし、決して昔、昔そんなことがあったのではないのです。イエス様が天に昇って行かれた、それは、私たちと関係大有りなのです。むしろ、わたしたちが地上でまっとうにキリスト者として生きることができるように、天に昇って行かれたのです。そして、今もその関係は今も続いているのです。イエス様が天に昇られたように、私たちもまた、天に向かって引き付けられ続けている、パウロはこのように言うのです。

教師も賜物?
それからもう一つ、私の立場から少々言いにくいことですが、ここでは、11節で教会の中でも特別な役割が求められる人たちのことに触れています。使徒、預言者、福音伝道者、と五つの役割が登場しますが、このところで大切なのは、一つ一つの職務のことではありません。そもそも、現代において、特に改革派教会では、教師の立場は基本的に平等ですから、誰かがパウロのような使徒で、誰それ先生は、テモテのような福音伝道者だ、というように言うことはできません。むしろ、このところの最後で、ひとまとめに、牧師、教師として言及されているのが私たち改革派の牧師に近いと言えます。しかし、それよりも大切なのは、ここで取り上げられた職務は一体的に考えられていて、なおかつ、何でこんな職務があるのかというとそれは、イエス様が、それを立てたからです。そしてその目的は、12、13節にあるように、教会をたて上げるためです。それからさらに言いますと、このようにしてイエス様が牧師を立てるのは、8節でいうこところの賜物の一つということにもなります。イエス様は一人一人によいものをくださるのですけれども、それとは別に、教会全体が成長するために、牧師を賜物として、教会に与えた、とこうなるわけです。その場合、牧師自身の自覚が問われるのは言うまでもないことです。何しろ神様からの贈り物なのですから、そして、教会を助けるために贈られたのですから、そのようなものとして立つ必要があります。一方で、教会に集う一人一人もまた、牧師の役割というのでしょうか、同じ一人の仲間なのだけれども、牧師は自分たちの成長のために存在している、ということを意識することが求められているようです。もっと牧師をいい意味で使っていいのです。

成長とは
それから同じ関連ですが今日は、最後に、「教会の成長」ということについて、改めて確認して終わりたいのです。わたしたちが、成長といった場合に、しばしば思い浮かべるのは、どちらかといえば、目に見えるもの、数字になって出てくるものです。いわゆる教勢と言われるものです。教会の勢い、という言い方も、本当にこれでいいのか、と思いますけれども、確かに、人数が増えて、献金額も増えて、といったことがあると何となく、ワクワクし、そうでなければがっかりする、というところが私たちにはあります。そして、実際のところ、欠乏を味わうのは、だれしも楽しいことではありません。しかし、そこであえて言いますと、そのような意味での、数字に表れる成長は、このところでいう成長の結果、後から追いかけてくるものだと私は言いたいのです。そして、このところで語られている成長のイメージは、いくつかありますが、まず、12節では「奉仕の業に適したものにされ」とあります。これはイエス様が私たちを整えて下さる、ということです。それも特別な奉仕ではありません。むしろ、自分が自分らしく神様に仕えることですが、それだけではピンときません。

キリストの体
そこでもう一つのことが重要になります。それは、「キリストの体」を造り上げる、という部分です。教会はキリストの体だ、と言われます。それは全くその通りですが、キリストの体は、勝手に出来上がるものではない、とこのところでパウロは言っているようです。キリストの体とは、むしろ造り上げられるもの、それも私たち一人一人が、整えられることで造り上げられるものです。さらに言えば、ここでは「造り上げていき」とありますが、いつでも造り上げられ続けるものです。これで良し、というのではないのです。いつも変化し続けるのが現実の教会です。とはいえ、キリストの体として造り上げられる、という場合には、何らかの方向性があるはずです。そして、おそらく、その方向性、具体的な在り方を示しているのが、その次の13節の言葉です。「ついには、私たちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり」とあります。ここでどうしても注意したいことがあります。それは、このところの「一つ」という言葉です。これによく似た言葉に「一致」という言葉があります。では、教会において最終的に目指されているのは、みんなが同じ思いになっていく、みんなが同じ意見になっていくことでしょうか。しかし、その場合には、極端に言えば、異論を赦さない、全体主義、のようなものも考えられなくはありません。

目的は一つの信仰
しかし、そこでよく読みたいのですが、ここで言っているのは、「信仰と知識」です。私たちの内面の考え方全般がべったりと同じになることではありません。そもそも、最初にお話しした通り、私たちは、一人一人違ったものです。それぞれのあり方にふさわしくイエス様が恵みを与えて下さっているものです。それがべったりと同じ考え方に統一されるなどというのは全くあり得ませんし、あったとしたら不幸なことです。しかし、逆に「イエス様を信じるとはこういうことだ」、「神様とはこういう方だ」という最も大事な部分で、みんながばらばらというのもまたあり得ない話です。実はこのこと、イエス様とはこういう方だ、神様と私はこのような関係に生きている、という部分で教会の中にぶれがないこと、それこそがここで言うところの「一つのものとなる」ことです。そしてそれこそが、成熟した人間になり、キリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長することへと続いているのです。

成長するまで引き上げられる
今日の個所でまだ残った部分もありますけれども、来週続きをお話しします。しかし、今日のところでもある程度のことは言えたのだと思います。私たちが進むべき方向はもうすっかり定まっています。それは、イエス様の満ち溢れる豊かさに至るまでです。それを、私たちは、地上にある教会として行っていきます。教会が成長するとは、私たちの信仰が研ぎ澄まされることです。そして、わたしたちの思いが、イエス様へと整えられれば整えられるほどに、それこそ、実際的な数字の成長にも近づいていくのです。

祈り
父なる神様、み名を賛美します。あなたは、私たちを愛して下さり、御子イエス・キリストによって、一人一人に恵みを賜っておりますから感謝します。私たちはなお途上にあるものです。しかし、私たちには主イエス・キリストの豊かさというはっきりとした目標があります。この地上の教会が真のキリストの体として成長していくことができますように、また、この週の歩においても、あなたの恵みによって歩めますように。主イエス・キリストのみ名によってお祈ます。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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