8月22日説教原稿

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8月22日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです

エフェソ4:1-6 「平和の住処」
平和を創る?
先週は8・15集会でした。この8月は特に、平和について思いを寄せる時です。しかし、それはただ、89年前に満州事変があって、それからずっと戦争が続き76年前に大変悲惨な敗北で終わった、だから、戦争はもう嫌だ、というだけでは済まないと私は考えます。そもそも日清、日露の戦いから、日本はずっと戦争をしてきた国でした。そして今もまた、中国脅威論のようなことが言われ、ひょっとしてまたなにか、紛争のようなことがあるのでは、というような不安を覚えなくもありません。そこで、そもそも、問われるのは、遠いだれかがどうしたかではなく、私たち自身の人間としてのあり方です。例えば8・15集会では私の記憶では以前は「平和を創る集会」という副題がありました。これは具体的にわたしたちが、目の前の現実、国際社会がどうこうという以前の問題として、実際の暮らしの中で、平和を創っていこう、ということです。そのために必要なことがあるとパウロは言います。今日の聖書で描かれているパウロの招きこそがその平和への道です。

パウロの召し、みんなの召し
このところでパウロは、改めて自分が「主に選ばれた囚人」であると確認します。パウロが、囚人というときには、二つの意味があります。一つには実際に、捕らわれていたという事実です。以前にもお話ししましたが、使徒言行録にあるように、パウロはユダヤ人たちの妨害によって裁判沙汰に巻き込まれ、皇帝に上訴し、裁判を受けるためにローマで軟禁されていたのでした。しかし、そこで彼は自由に福音を宣べ伝えていました。その意味では、心は自由で、ただ、唯一借りがあるとすれば、それは、イエス様に捉えられていたということです。これがもう一つの意味で、まさに、「キリスト・イエスの囚人」です。しかし、ここでは、ただ、パウロがイエス様にすっかりとらえられている、イエス様のために働くことにぞっこんになっている、というだけではありません。というのもパウロは一節で続けて、「あなた方に勧めます」といいます。エフェソの人たち、あるいは私たちもその中に入るはずですが、イエス様を信じた人に一つ、勧めたいことがあるというのです。さらにそれにつづけて「神から招かれているのですから」とあります。なにもパウロだけが神様から招かれて、イエス様に捉えられているわけではない、あなた方も同じではないか、みんな神様によって、イエス様を通して招かれているではないか、ということが最初に確認されているのです。

パウロの勧め-ふさわしく
この「招かれている、召されている」ということは、4節にもあります。そこでは神様が与えて下さった希望へと向かうとあります。いずれにしても、それは、神様の召しです。私たちは、それぞれの個性があり、別々のあり方があったとしても、確かなことは、キリスト者である以上、神様からの召しだしに答えたもの、という意味では、一緒です。そして、このような一つの立場にある人に対して、パウロはさらに進めの言葉を語ります。それが、1節のおわりにある「その招きにふさわしく」ということばです。神様に呼ばれたものというのがすでにキリスト者らしさです。神様のご計画の中にあるのです。そして、パウロは、この4章を始めるにあたって、招きにふさわしく、と言います。神様に招かれた者には、それにふさわしい生き方があるというのです。私たちにしましても、まことにキリスト者らしい生き方がもう用意されているのだから、それに沿って生きてほしい、そのように言うことから、このところは始まるのです。そして、まさにそのような生き方こそが、平和を創る道です。

柔和さへ
ではそのような平和を創る生き方とは具体的に何かです。それはまずは2節の言葉に生きることです。このところでは謙遜さ、愛、忍耐ということが言われます。2節の冒頭、「一切高ぶることなく、柔和で」とありますこのところを、新しい協会共同訳では「謙遜と柔和の限りを尽くし」としています。こちらの方が元の言葉に近いようです。そこで言われているのは、あらん限り、自分が持つことのできるすべての謙遜と柔和さを身に着けようということです。しかも、それは実際の関係でです。ふと思い出して、もっと謙遜にならなくちゃ、というような感じではないのです。そうではなくて、実際に今目の前に人がいる、教会生活の中で、あるいは、社会生活の中で、ちょっと困った、そんな場面でどうするかです。ちなみに、このところの「柔和」という言葉は、「哀れな」とか「貧しい」といった意味合いをも持つようです。はっきり言いますと、負けてしまうようなあり方、みすぼらしいあり方です。そんなと思われるかもしれません。しかしイエス様は、ご自身を「柔和だ」と言われました(マタイ11:29)。そして、実際に、ロバに乗って柔和な王としてエルサレムへと入っていかれたのでした。そうであれば神様に招かれたものは、当然ながら、このイエス様の姿に一致していく、ということになるはずです。それも実際に目の前の人と丁々発止とやり合っている時にです。まさにその時に、あえて勝ちを取りに行くべきかどうか、というところでふみとどまること、そのような柔和さが求められるのです。

愛をもって忍耐
とはいえ、目の前にいる人がとんでもないことを言っている、そして、実際のところ、正すべきことを正す必要がある場合もあるかもしれません。これはもう怒ってもいいだろう、怒鳴りつけてやった方が、本人のためではないか、というような場面は確かにあることでしょう。しかし、そこでなお考えたいのは、パウロはそのような人間関係を知らない人ではなかったという事実です。コリント書には「同胞からの難」(2コリ11:26)という言葉がありました。ユダヤ人から徹底してたたかれたのです。しかし、そのパウロがユダヤ人たちの将来について書きましたローマ書の言葉はこうです。「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。」(9:22,23)。神はその怒りを示し、とあります。神様が怒っているというのです。人間に対して、怒っているのです。ご自身の選びの民であるユダヤ人に対して怒るのは当然だったのだが、と言います。しかし、そのようなものたちを「寛大な心で耐えた」と続きます。怒って突き放してしまってよいはずなのだけれども、しかし、そうしない、忍耐して、むしろ、自分の民とすることで栄光を現わそうとしておられる、それが神様のみここだ、と続きます。これがパウロの行動を規定しています。そして、それと同じように、あなたたちは「神様のような愛をもって互いを忍耐するべきだ」との勧めになるのです。

平和のきずな
これはとても具体的なことです。リアルな今このところの日常の話です。具体的なAさんと話していて、あるいはBさんと話していて、お互いに、「えっ」、「なんだそれは」と感じたとしても、そこで、「君ちょっと」としてしまうかどうかという話です。それで何でそうなるのか、と言いますと、この3節にありますとおり私たちは「平和のきずなで結ばれて」いるからです。少なくとも私たちは、みな、イエス様と子のきずなで結ばれています。そこで同じエフェソ2章にある言葉を少し長くなりますが読んでみます「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」。イエス様は、あの十字架のみじめさ、弱さを通して、私たち人間を、神様と、またお互い同士についても、平和なものにしてしまっている、一つの体としてしまっている、というのです。もう結び付けられてしまっているのです。これがパウロの言う、「平和のきずな」です。あなたたちはもうこの平和のきずなの中に入っているというのです。

一つの希望、一つの信仰
だからこそ、この3節の後半では「霊による一致を保つように」といいます。いうまでもなくキリストの霊、聖霊なる神です。今日はもうあまり丁寧にお話しする時間がありませんが、このところでは、この後4節からずっと「一つ」、ということが繰り返されています。特に4節では、一つの希望にあずかるように」とあります。これは、私たちの側の希望が一つの種類しかない、というのではありません。私たちには、それぞれに人生でこうしよう、ああしよう、といった希望があるかもしれません。しかし、ここでは、神様によって招かれている、という意味で、その意味で一つの希望です。この希望にはいろいろな種類はないのです。同じように5節では「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」とあります。これも全く同じことで、私たちを招く方はお一人だけで、それに対する信仰も一つであり、洗礼もあれこれあるわけではない、というのです。ようはわたしたちに関わってくださるのは唯一まことの神お一人ということです。神様がそのように私たちを招いておられるのです。だからこそ、その招きにふさわしく生きるようにというのがそもそものパウロの勧めでした。その通りに、私たちは、神様に招かれたものとして、まずはお互い同士の間で平和を実現していく、という希望に向かって日々進んでいくのです。

主と共に
そして、その時には、この6節で書かれていることが、私たちの間で実現します。もう一度読んでみます。「すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」この場合の、「すべてのもの」とは、私たちのことです。キリストの体とされた私たち教会に集うものはすべて、ということです。そのような私たちには唯一の神様がいて下さって、その神様は、私たちの上におられ、私たちを通して働き、私たちの内におられる、というのです。神様が私たちと共に働いてくださるときに、わたしたちは互いの間に平和を創っていくのです。それによって平和は現実の出来事になります。

平和の住処となる
このようにして、私たちは、地上において、平和を創る、あるいは、私たち自身が、平和の住処となるのです。この会堂にいるお互い、あるいはZOOMで参加してくださっているお互いが平和を実現するのです。その平和は、他の教会の兄弟姉妹と、また、中会、大会を超え、更に教派を超えた平和を創ります。そして、そのような平和が実現するのであれば、やがてその平和は、この国にも、世界にも平和を創りだしていくことになるのです。

祈り
父なる神様、み名を賛美します。あなたは、深い憐れみと忍耐によって、私たちを愛して下さり、主イエスにおいて、私たちを召し出し、あなたを父と呼ぶことのできるものとして下さいましたから感謝します。あなたは、私たちの上に、また、わたしたち中に、また私たちの業とともにいてくださいます。わたしたちがこの恵みに生き、この週の歩においても、あなたと共に、地に平和を実現していくことができますように、何よりも兄弟姉妹を、そして隣人を愛するものとして歩めますようにお願いします。主イエス・キリストのみ名によってお祈ます。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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