8月8日説教原稿

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8月8日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿です

説教 ルカ4:1-13「誘惑に打ち勝つ主」     2021.8.8新座志木教会

<聖書本文>
4:1 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を"霊"によって引き回され、4:2 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。4:3 そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」4:4 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。4:5 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。4:6 そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。4:7 だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 4:8 イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」4:9 そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。4:10 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』4:11 また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」4:12 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。4:13 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

<メッセージ>
 私たちの主イエス・キリストは公生涯の初めに悪魔の誘惑に遭われました。公生涯の初めということに、大きな意味があります。かつて人類の始祖アダムが誘惑に遭ったことと重ね合わされるからです。ここで救い主イエス・キリストが誘惑に負けたなら、人類に一切の希望はありませんでした。最初の人アダムは誘惑に負けたために、全人類に罪と悲惨とが入り込んだからです。み父は切り札として御子をお送りくださいました。このチャンスを逃したらサタンは永遠に閉じ込められてしまいます。ですから、荒野の誘惑について主イエスさまが「霊によって引き回された」という強い言い方で書かれています。イエスさまの方でも、ここを通らなければ救い主としての地位は確立しません。イエスさまが救い主とならなければ、私たちに救いは永遠にありえないことになります。ですからイエスさまの戦いにおいて私たちは固唾を飲んで見守る、または手に汗をして聞いているという壮絶な戦いの火花が散っているところです。
 アダムとエバは悪魔の誘惑に対して、神の命令の言葉以外の言葉を付け加えたために見事に引っかかってしまいます。中央の木の実以外に食べてはいけないというご命令に対して、エバは「触れてもいけない。死んではいけない」という言葉を付け加えました。そこに神に対するある種の不満を悪魔は見抜きました。そこで悪魔はその心理を見抜いてたたみかけるように誘います。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(創世記3:4)という甘き誘いです。
 一方ここでの悪魔の誘惑に対して、イエスさまはご自分の考えを一切付け加えていません。3回の誘惑に対して3回とも旧約聖書の申命記の言葉で返されています。イエスさまは完全な人間として悪魔の前に立たせられています。神だからやり過ごせるという安易な状況ではありませんでした。
 
 主イエスの40日もの間の断食で空腹の極限状態の中で、悪魔は石をパンに変えてみろと誘います。この誘惑は直接私たちには及びません。私たちは石をパンに変えることなどできないからです。アダムたちはエデンの園で空腹ではなく、すべてが整えられ満たされていました。にもかかわらず誘惑に敗れていまいます。ですからアダムの場合と違って、主の状況とは比べられないほどに厳しいものです。40日の断食の後です。石をパンに変える能力をもっておられる故に、この誘惑はイエスさまにとってとてつもなく大きな試練です。主イエスは「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」と申命記の言葉ではねのけます。
 ところで歴史にもしはありませんが、「もしアダムとエバが悪魔の誘惑に負けなかったらどうなったのでしょうか」と大胆にも(不遜にも)神学校の時に私は故松田一男教授に質問したことがあります。すると先生は、私たちそれぞれに誘惑の試練が課せられたでしょうね。と答えられました。私は個人的にりんごは敢えてなくても済みますから私がアダムだったら誘惑されなかったかもしれないという甘い考えからでした。私の好物が幾らでも誘惑の種となったことでしょう。それらの誘惑に勝つ自信はおよそありません。
ですから、主イエスに対する40日間の断食の後の空腹での石をパンに変えてみたらという誘惑はどれほど大きいことか想像を絶するものなのです。

 そこで悪魔は2つ目の誘惑をしかけます。悪魔はわたしを拝むなら一切の国の権力と繁栄を与えようというものです。悪魔に国を左右する権限などありませんから、この誘惑はおかしいと思えます。でも現実の厳しい社会状況の中では考えられる状態があります。この誘惑の怖さは、アダムが誘惑に負けてから神の創造された世界の秩序が狂い始め、まるで悪魔が支配している世界の様相を示しているからです。私たちの日常には、古今東西、いついかなる時代においても、神がいるならどうして世の中は暗く、苦しいことが多く、涙が絶えないような状況が続くのかと思う場合が多々あるのではないでしょうか。これらの悲惨が断ち切れるならば、悪魔に魂を売ってもよいと思う事態ならば、まさにこの誘惑に負けることになります。
ここでの主イエスの態度については、遠藤周作の『沈黙』がこの問題を考えるのによい材料だと思います。主人公の宣教師は結局自分が転向すれば、今迫害され苦しんでいるキリシタンたちが解放されるということで、葛藤はあったものの遂に棄教してしまいます。この選択は、目の前の苦しみがたちどころに去るようでいながら、結局は永遠に救われないの方向を選び取ってしまうのです。悪魔はエバの誘惑の時でもそうでしたが、最初から嘘つきです。
悪魔は決してイエスさまに妥協するような存在ではありません。悪魔は全面的に神に逆らい神の民を自分の虜にする目的があります。もしここに現実に苦しむ者たちを救う目的で、悪魔に妥協してしまったら誰一人救われることはなかったでしょう。イエスさまはこの誘惑に対してもやはり申命記の言葉「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』」と書いてある」で撃退しています。

 悪魔の悪知恵は徹底してます。2回とも聖書の言葉で切り返されましたから、3回目には聖書の言葉をもってきて誘惑します。「神の子ならここから飛び降りたらどうだ」という誘いは、「神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。」また、「あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。」と何と2つとも詩編の言葉を引用して誘っています。それに対してここでも主イエスは申命記の言葉から「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている。」とお答えになって退けます。
 前にもお話ししたと思いますが、私はクリスチャンホームに育ちましたから、物覚えのついた頃からずーっと教会に行っていました。また礼拝を欠かしませんでした。そのような恵まれた環境に甘んじて、いつしかキリスト者の驕りや傲慢が心を支配していました。それは神への信頼が、いつの間にか自己過信に陥っていて、自分は守られていてケガや病気などしないという恐ろしい考えがどこかにありました。骨を2,3回折ったことがありますが、それはみな日曜日の礼拝後に家に帰ってからでした。いつの間にか神を試していたことを反省しました。

 今回この個所を説教させていただくにあたり、黙想して得たことがあります。3回とも主イエスは申命記の言葉で撃退しています。膨大な旧約聖書の中で申命記だけを用いられた理由は何でしょうか。もちろん一番ふさわしい言葉が載っていたからにほかなりません。
 申命記という書物から考えてみましょう。出エジプト記で十戒が与えられるにあたり、モーセがシナイ山に登っている間に人々は待ちきれず、金の子牛を作り、神として拝み神に逆らったため再び戒めが与えられたことが書かれている書です。(申命記とは、再び命を与える書の意味です。)ここに人間がいかに罪深いものであり、神に従いとおせないという本質が明確に示されています。悪魔の言葉はそのような愚かな弱い人間の罪の本質に訴えかけて誘います。
 それゆえに私たちにとっての誘惑とはどのように関係するのか、その観点からもう一度この誘惑の意味するところを考えてみましょう。食べ物の誘惑は私たち人間の食欲をよく表しています。他国を侵略したり、植民地として暴利を貪る罪が私たちには皆あります。「衣食足りて礼節を知る」という諺がありますが、特に食物に事欠くと簡単に戦争も辞さないのが私たちではないでしょうか。もうけるために他の国を苦しめることに平気な心理こそ、まさにこの罪の本質なのです。経済発展は自国優先主義に陥っています。
 それと関連して2つ目の誘惑は似ていますが、支配権に密着します。貪る欲求にほかなりません。世の支配者は常に他国の侵略を考えまたチャンスとあれば実際に他国を襲い始めます。直接武力をもってしなくても、相互貿易と言う名のもとに、経済支配で相手国をがんじがらめにして、莫大な利益を貪りとるのです。この欲望は私たちにとってとても甘い魅力ある誘惑とならないでしょうか。弱小国を相手に、利益を強奪しているのが先進国と言われています。私たちもまた先進国に置かれている者としてその利益を受けているということを自覚していないといけません。できるだけそれらの罪に加担しないように教会は見張りの役目をし、キリスト者は決定的な瑕疵や不公平を見出したらノーと断言し、地の塩・世の光の役割を果たさねばなりません。
 3つ目の誘惑は、神を試すというものです。一見私たちはそのような愚かなことをしないと思いがちです。この個所を黙想しているときにふと教えられました。私たちは、自分は死なないという考えをもっていることです。言葉の上では、人は一度必ず死ぬということは当たり前と知っています。また身近な人が死ぬ時、また歳が行った来た時に死ぬかもしれいないとふと実感します。それでもやはり多くの人は自分の死について考えようとしません。死はタブーとされ、遠ざけているだけで解決を求めようとしません。本当に死ということを真剣に考えたら、私たちは生死の権限をもつ唯一のお方の存在を真剣に思うのではないでしょうか。どこかでやはり神の裁きと自らの死つまり罪について切り離しているところがあります。だから本当に神に救いを求めようとしないのです。
 これらの誘惑に主イエスが打ち勝たれたということは、ことほど左様に大きな意味をもちます。アダムの失敗を補うためにはまず、悪魔の誘惑に主が完全に打ち勝たなくてはなりません。罪のない完全な人である方だけが、アダム以来私たちの生まれもった罪を贖えます。ですからここで主イエスが悪魔の誘惑に少しでも負けたとするなら、私たちに救いはありませんでした。誘惑に妥協していたら、十字架の身代わりの犠牲はいらなかったのです。

 このチャンスを生かすことができなかった悪魔は一時的に引き下がりました。しかし、13節に「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」とありますように、それは“時が来るまで”でした。その時とはまさに十字架の時です。ここで誘惑に失敗した悪魔はイエスさまの生涯の中であらゆる方法で妨害します。敵対者たちをたきつけて評判を落とそうとしました。あらゆる悪意ある質問に対して主は切り返されました。ただ反撃するのではなく、知恵ある言葉で敵対者たちに考えさせました。何とか悪魔に誘導されている彼らを悔い改めさせようとなさったのです。これは悪魔に対する仕方と大きく異なるところです。しかししつこく悪魔はついには一番身近な弟子の一人に入り込み、イエスを裏切らせ逮捕させます。そしてまったく無罪のお方が、十字架にかからざるを得ませんでした。
 “時”とはまさに十字架の時でした。悪魔は勝ったと思ったことでしょう。その瞬間父なる神は御子イエスを死者の中から復活させられました。それは御子イエスが全ての誘惑に打ち勝たれ、み父のみ旨に完全に従い通したからです。
 復活した主イエスは弟子たちに次のように告げます。(マタイ28:16-20)「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいてことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたを共にいる。」この主イエスのお言葉は、確かです。このお方だけが真に天と地の一切の権能をもっておられるからです。
 ただし御子主イエスは、神の子だから当然権能をもっているというのではありません。このような公生涯の初めに悪魔の誘惑にあって試され、徹底的み旨に従い、人として悪魔に勝利されたからにほかなりません。
ヘブライ人の手紙2章14節以下(P.403)には次のように記されています。「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは死をつかさどる者、つまり悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。それで、イエスは、神の御前において憐み深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」主イエスが勝ち取ってくださったこれらの力をまさに信じ従う私たちにすべて惜しみなく与えてくださいます。
このようにして文字通り命を賭して勝ち取ってくださったこれらの恵みと力を、信じ従う弱い私たちに主は惜しみなく与えてくださいます。この方こそ感謝と希望の約束の言葉です。
悪魔の誘惑に完全に勝利され、十字架から復活された主イエス・キリストは多くの人々に現れた後、天に昇られ神の右に座られました。そこにおいて、今もなお弱い信仰の私たちの救いのために祈りつづけてくださっています。
この人の子イエスこそ、私たちの救い主です。弱いとき助けを求める相手です。公生涯の初めに、人の子として、主イエスが悪魔の誘惑を受けられ勝ち取ってくださったという事実があります。主が天に昇られた後に約束の聖霊がキリストの教会にくだりました。
主のお送りくださる聖霊なる神は、私たちが誘惑に遭う時、弱い時こそ助けてくださいます。上から目線で「がんばれ」ではなく、言葉にならないような戦いの中で「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきか知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」と使徒パウロもローマの信徒への手紙8章26節で賛美しています。
ですから主は、心から悔い改めて祈り求めるとき、喜んで手を差し伸べてくださいます。キリストと教会を迫害していたパウロはまさに知らないで犯した罪の故に赦されました。私たち罪人も洗礼を受けても罪人として主の御前に出ることのできない者です。御赦しにより礼拝に招かれている故に与ることができます。
また主イエスは私たちの信仰がなくならないように、常に祈っていてくださるお方です。主は、まどろむこともありません。この方を自分の救い主として受け入れる者は幸いです。命の源であり、命の命だからです。悪魔によって十字架にかけられた主は、しかし死の床よりお甦りになられました。その復活の命に私たちも預かることができるのです。神の御国において、永遠の命に名を連ねることが許されているのです。
地上の生活の中で誘惑に遭わぬように祈りつつ、礼拝に与り、主とお会いし、御言葉に心開かれて、祈り続ける者は幸いです。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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