4月18日説教原稿

日本キリスト改革派 新座志木教会のホームページへ戻る

4月18日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです

派遣される教会
今日の聖書もまた、イエス様が復活の日の夕方から次の日にかけての出来事を描いています。そこで特に目に留めたいのは、弟子たちの派遣です。イエス様から証人という役割を与えられて送り出されるという約束です。それは、私たち教会にあつまるもののあり方へにもそのまま当てはまります。私たちが、こうして教会に集められておりますのは、ただ何となく、ではないはずです。とはいえ、いきなり、私は皆さんに今すぐ何かを始めてください、ということを言いたいのではありません。このところのもう一つの特徴として、都にとどまれ、という命令もあります。派遣の約束と一緒に、しばらくとどまって備えることが、同時に命じられているのです。それは、出かけていくためには、そのために必要なことがあるからです。今日は、このところで弟子たちが、どのように変わったのか、あるいはイエス様によって変えられたのか、ということを中心に見ていきます。

幽霊?
そこでイースターの日のことを少し振り返ってみます。そもそも、イエス様は、あのイースターの日に、エマオへと旅をする二人の弟子と一緒に旅をして、彼らに聖書の言葉を語り、復活こそが神様の御心であることを解き明かし、最後には、目の前にいるその旅人こそが、イエス様ご自身であることを示してくださったのでした。有名なエマオ途上の出来事です。この時イエス様を見た二人の弟子は、大急ぎでエルサレムに戻り、そして、弟子仲間に事の次第を報告していますが、その時、ほかの弟子たちもまた、ペテロにイエス様が現れた、との話題で持ちきりだったのでした。それは、今日のひとつ前の34節、35節に書いてある通りです。このように、基本的に弟子たちは、この時すでにイエス様はどうも復活されたらしい、という見方をしていたということがわかります。
ところが、そのようにして、イエス様は復活された、ということをみんなで確認しているその所に、いきなり、すっと、イエス様が立ったのです。そして「平和があるように」と語りかけてくださったのですが、結果として、この突然の登場と語り掛けは、むしろ弟子たちに大変な恐怖心を与えてしまったようです。ここでは弟子たちのありのままの心の動きが描かれています。27節では「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」と報告されている通りです。かれらは、本気で恐れています。それは亡霊を見ているという意味での恐れです。これは、わたしたちが、怪談のたぐい、幽霊や、怪奇現象といったものを聞いて、ぞくぞくする、というのと同じです。嘘のような話ですけれども、どうも、この時、弟子たちは復活されたイエス様を、そのようなものとして、死者の霊魂のようなものとしてみてしまっていたようなのです。

イエスは生きている
しかしそこで私たちは、弟子たちをばかげているとばかり言っていられないかもしれません。もちろん、私たちはイエス様の復活を信じています。しかし一方で、イエス様を直接目で見て、手で触れて確かめることはできません。さらに言いますと、これは私も反省しているのですが、何かというと、教会ではイエス様とお会いするのは、聖霊によるのだ、聖霊によるのだ、と口を酸っぱくして語られてきました。それ自体は全く正しくて間違っていません。間違っていませんが、しかし、そのような、霊的なこととして考えていきます時に、ひょっとして、私たちの中で、イエス様は、霊的な方だ、私たちには、生きているイエス様は想像もつかないのだ、と思ってしまっているところがあったのかもしれません。けれども、福音書がこのところではっきりと知らせようとしているのは、イエス様は本当に人間として復活したという事実です。そうであれば、私たちは、イエス様の復活を、全くそのようなものとして、一人の人が、実際に、新しくされてはいるけれども、以前のからだの特徴を持っていて、肉も骨もある、全く人間らしい、しかし、新しくされた人間として、復活されたのだ、そして、今もそのような方として生きておられるのだと、はっきりと受け止めることが求められるのではないでしょうか。それは、もっと言えば、生きているイエス様にピントが合っている、ということです。そして、実はこのところがはっきりとしますことが大切です。

迷いが問題
今日の聖書では、まさに迷っている弟子たち、復活のイエス様を、幽霊と勘違いしてしまう弟子たちに対して、イエス様が38節で語りかけています。「なぜうろたえているのか、どうして心に疑いを起こすのか」。イエス様を幽霊と見てしまう弟子たちの、その心の奥深くに疑いがあるというのです。この「疑いを起こす」という言葉は、「思い浮かぶ」とも訳せます。例えば私たちにしましても、何か悪いことが起きてしまいますと、激しく動揺します。そして、これから、もっともっと悪くなっていくのではないか、いやなことが次から次に起きるのではないかというように、不安が、ふつふつと沸き起こってくるような思いをすることがあります。この時、イエス様は弟子たちの中に、このような意味での不安と疑いがあると言われたのです。そして、このような不安と疑いがある限り、目の前にイエス様がいて下さっても、それをしっかりと受け止められないのです。それは、もう少し別の言い方をしますと、イエス様を見ているのに、見えていない、といってよいかもしれません。それは、私たちに当てはめるなら、いくらイエス様について読んだり聞いたりしても、ピンとこない、という状態です。私たちは、イエス様を信じているはずなのです。しかし、そうであるにもかかわらず、生活の中で、様々にやってくる問題のほうに気を取られて、本当は、そこに一緒に生きているイエス様がいて下さることに、あまり目が開かれていない、ということがないでしょうか。しかし、ここでは、イエス様と向き合えないすべての人に対して、イエス様は、「なぜ、疑うのか」と言われるのです。まず、私を現実として受け止めたらどうだ、と言われるのです。また、ただそのように言われるだけではなく、手足を差し出して、よく見てみろ、といわれ、触ってみろとも言われるのです。肉も骨もある、普通の体だ、と言われるのです。

土台となる言葉
ところが弟子たちは、なおこの時「喜びのあまりまだ信じられず不思議がっていた」と続いています。これは興味深い言葉です。思いが定まらないのです。イエス様は復活してくださった、本当に生きておられるようだ、ということはうれしいのです。しかし、それでもなお、こんな不思議なことが本当にあるのか、という思いも引きずっているのです。まだ、しっかりとした信仰の土台がないのです。それに対して、イエス様がされたのは、改めて言葉を語ることでした。しかも、それは、イエス様について書いてある、律法と預言と詩編というように、44節に記されています。それには聖書、現在では旧約聖書と呼ばれている部分の聖書の言葉です。ただ、あえて言いますと、旧約聖書の例えば出エジプト記の、何章何節に、イエス様について、イエス様が語られた通りの言葉が書いてある、というような話ではありません。例えば46節のカギ括弧の中に「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」という言葉はイエス様が語られた言葉です。イエス様が、以前弟子たちに語られた言葉の要約です。

目が開かれる
問題は、このイエス様の語られた言葉、と旧約聖書のいろいろな箇所の言葉、例えば、イザヤ書ですとか、ホセア書の言葉ですとか、そのような言葉が結びついて、ああ、確かに、その通りだ、と膝を打つようにしてわかる、納得することができるかです。そういう意味で聖書が見えてくるかです。そこでイエス様がしてくださったことこそ、45節の言葉です。「イエスは聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて言われた」。これこそが、決定的なことです。聖書が見えてくることによって、はじめて、「人々に宣べ伝える」こともまた、できるようになるからです。そして、このようにして、聖書が見えてくるのであれば、イエス様が今生きておられることの証人にもなれるのです。最初に、派遣される前には準備がある、ということをお話ししました。それは、このようにして、イエス様は確かに生きておられると知ること、そして、もう一つは、イエス様は聖書に書いてある通りに生きて下さった、と知ることです。これが、いわば、信仰の土台です。この土台がしっかりと座っていますと、神様が私たちを愛してくださる、私たちを助けて下さる、ということが、聖書のどこを読んでも、わかるようになります。眼が開かれるのです。私たちの前で、聖書の言葉が意味を持って語りだし、聖書の全体像が見えてくるのです。そして、聖書の全体像が見えてくると、聖霊の働きによって、イエス様の証人となる道が開かれるのです。そして、このところで書かれた通りのこと、すなわち、イエス様がご自身を示され、それを受け入れた人が、み言葉の意味へと目を開かれ、そして、聖霊を約束され、イエス様の証人となる、というこの出来事は、いつの時代でも変わらず繰り返されるのです。そして、このところで書かれたことは、私たち一人一人もまた、通り抜けることへと、招かれているのです。そこにこそ、わたしたちが、どのような時にもくじけないでいるための土台があります。

聖霊の約束
今年は、5月23日がペンテコステです。このところで約束された聖霊が弟子たちに与えられたことを祝う日です。そのようなペンテコステに向けて、イエス様は、この時弟子たちを整えられました。同じように、わたしたちもまた、この期間にイエス様によって整えられることができます。あるいは、そのように整えられることへと招かれています。このみ言葉によってです。「あなた方はこれらのことの証人となる」。これがイエス様の約束です。そして、そのために、イエス様は、私たちに必要なことをすべて備えてくださいます。49節にあります「高いところからの力に覆われるまで」の間、イエス様から力が降ってきて、私たちを覆う、包み込んでくれる、という喜びの約束を待つ季節、それが今です。あの約束を待ちつつ生きる今この時において、私たち自身が、変えられていくことができる、これもまた、約束です。

確かな約束に生きる
私たちは、今すでにこのような約束の中に生き始めています。もちろんそれは、いつも緊張して、握りこぶしを作って待機することではありません。くつろいだり、休んだり、普通に生活をしていくのです。むしろわたしたちは、教会において、ゆったりして、自由な心をもらって、もっと言えば、幸せになっていくべきです。そして、それは、ただそれだけでは終わらないのです。私たちが、正しく作り替えらることと、わたしたちが力を受けることとはつながっているのです。私たちが、まずはイエス様の言葉と向き合って整えられていく先に、証人となることが実現していきます。そして、いつしか、わたしたちはキリストの良い香りになる(2コリ2:15)のです。そこにおいて、証人となるという約束は実現します。

祈り
父なる神様。あなたは、創造の時から私たちを憐れむために御子を遣わすご計画を立ててくださいました。そして、主イエスによって私たちに新しい命の道を開いてくださいました故に感謝いたします。その御子によって、私たちもまた遣わされようとしています。この備えの時に、ますますわたしたちがあなたの愛のご計画を知るものとしてください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

お気軽にお問い合わせを

「一度礼拝に出席してみたい。」

「教会に行ってみたい。」

「でもどうしたらよいかわからない。」

そんな時は専用の問い合わせフォームからご質問ください。担当スタッフが折り返しお返事を差し上げます。

電話でのお問い合わせなら048-474-9237まで。その際「ホームページを見たのですが」とお伝えくださると話が通じやすくなります。