4月4日説教原稿

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4月4日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです

ヨハネ20:1-10 「目覚めの時」
復活の朝
今日私たちはイエス様の復活を祝う礼拝を持っています。特にこのところの聖書ではその始まりが、まだ朝の暗いうちであったことが書き留められています。ヨハネによる福音書はその始まりから、光と闇とが対比されていました。その意味では、このところでもまた、闇から光への転換が意識されているように見えます。そしてそれは、頭の中のことではなく、私たちの生き方にかかわることです。あるいは私たちの頭の中と、私たちの普段の行動、生き方とは実はそのままつながっている、と言い換えてもよいかもしれません。そして、その場合に私たちの頭の中ということでいいますと、まず問題になるのは、聖書をどう読むかということです。

聖書を読むこと、未だということ、2:22との関係
今日もこうして一緒にヨハネによる福音書を読んでいます。復活の朝の出来事を記すところです。このところを含めて、福音書なら福音書全体、あるいはその他の聖書、例えば今日の9節では「聖書の言葉」とありまして、これは当時の聖書は今の旧約部分のことですから、旧約聖書ですが、それとイエス様との関係ということで、そのようなことを含めて、わたしたちが聖書をどのように読むのか、ということと、私たちの生き方がつながっている、と私は言いたいのです。その場合に前提となる言葉があります。それは先ほどの9節の「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」というこの言葉の持つ重みです。これとおそらく対をなしているのが、同じヨハネの2:22の言葉です。「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」。復活の朝、弟子たちはまだ、イエス様の語られた言葉と、聖書の言葉とが、結びついていなかったのです。そして、このことがそもそも大切なことです。私たちもまた、このことが問われるからです。イエス様の言葉、イエス様の語られた言葉と、聖書全体との結びつき、というのは、ちょっと大変なことを言っているようですけれども、言い換えますと、聖書のどこを読むにしても、読み方があるわけです。この読み方の土台が据わっていれば、どこを読むのも楽ですし、そうでなければどこを読んでもよくわからない、こうなる勘所があるのです。そして、その勘所を押さえる変化が、この復活の朝から始まった、ということを報告するのが今日のところ、こんな風に読みたいのです。

闇の中で
そこで改めて9節の言葉ですが、これは、この日、すなわち、復活の日の朝に、空の墓を見る直前まで、弟子たちは、イエス様の言われたことをしっかりとは受け止められていなかったし、それと聖書の言葉とを結び付けて理解できていなかった、といいたいのです。このことをわきまえたうえで、このところの始まりを今一度確認してみます。それは、闇の中で始まっています。まだ朝早く、日が上る前に、マグダラのマリアだけしか名前が挙がっていませんが、2節には「わたしたち」とありますから、ほかの福音書で報告されているように、イエスに従った女性たちの何人かが一緒にいたはずです。彼女たちは、二日前、金曜日の夕方に、アリマタヤのヨセフとニコデモが急いで埋葬した墓(19:38以下)へと出かけました。おそらく、改めて香油を塗り最後のお別れをする、そういったつもりだったようです。しかし、暗い中、墓についてみると、横穴式の墓の蓋をするようにしておいてあったはずの大きな岩が、なくなっているのを発見します。そして、彼女はすぐにペテロと、そしてイエスが愛しておられた弟子、これはヨハネのことだと言われていますが、弟子たちのところに行って、この様子を報告しています。その言葉は、一言でまとめてしまえば、「誰かかが遺体を持ち出した」です。大変なことが起きた、と告げに言ったのですが、そこでまず、確認したいのは、彼女は走った、という事実です。急いだのです。おそらくは息を切らして弟子たちのところに駆けつけたのです。

その場合の「急ぐ」の意味
そしてまた、このようなマリアの知らせを受けた弟子たちも、外に出て墓に向かったのですが、4節を見ると、一緒に走った、とあります。さらに続きを読みますと、もう一人の弟子のほうがペテロよりも速く走って、となっています。何でもないことのようですが、これは本気で走ったということのはずです。二人ペースを合わせて、なんだか大変なことになったねえ、と言いながら一緒に軽く走っていった、のではないのです。むしろ、がむしゃらにかけていったのです。そして、ペテロよりヨハネのほうが若かったのか、あるいはペテロよりもヨハネのほうがすらっとして走るのが早かったのか、とにかくほぼ全力疾走をした結果、ヨハネが先に墓についた、とこのところは報告しています。マリアにしろ、二人にしろ、彼らはほぼ力の限り走ったことになります。それは大変急いだ、ということです。では、この場合に彼らが急ぐのはなぜでしょうか。それは、急げば何かができると、考えていたからではないでしょうか。最初に私たちの頭の中が、私たちの在り方を決める、というようなことをお話ししました。この時三人の頭の中がどうであったのか、本当のところはわかりません。ただ、少なくとも、自分たちが急いで墓に行くことで何かができる、あるいは何かをしたい、と意識しているかどうかはともかく、そのように信じていたのではないでしょうか。

彼らの信じていたこと
私が頭の中、といったのは、この意味です。何を信じているのかです。そして、マリアを振り出しにして、走る三人が信じていたことの大本は、イエス様は死んでしまわれた、そして、墓の中に横たわっているはず、横たわっていなければならない、という確信です。これを私たちは常識と言います。死んだ人はそのまま、動くはずはないのです。そして私たちの中にも、しっかりとこの常識があります。ですから、聖書を読んで、イエス様は復活された、と書いてあっても、なんとなくおさまりが悪く感じられたりします。そして、実は私たちが向き合うべきは、この私たち自身の常識あるいは頑固な思い込みであり、私たち自身が何を信じているのかです。この時の三人は、墓に少しでも異変があったのなら、それは、イエス様が何かをされたのではなく、だれかわからないけれども悪意のある者たちが、墓を荒らして、イエス様のご遺体をどこかに持ち出した、それ以外にはありえない、と固く信じていたのです。そして、これこそが、あの9節にありました、「聖書の言葉を、理解してなかった」という言葉の意味するところです。イエス様は3度も、ご自身の死と復活について、予告されていました。しかし、弟子たちはこの時に至ってなお、イエス様もまた普通の人間だという前提から出ることはなかったのです。それで、以前に語られた復活についての言葉も、旧約聖書から引き出された教えも、彼らの中では、ただ、ばらばらの知識として記憶されているだけでした。

事実を見たときに
そして、このような弟子たちに対して、この時、神様が用意されたのは、空の墓という事実です。5節ではもう一人の弟子のほうが、先について、身をかがめて中をのぞいた、とあります。そして、遺体を巻いていたはずの亜麻布が置いてあるのを確認しています。さらにそのあとで、6節を見ますと、ペテロが到着し、今度は墓の中に入って、亜麻布を見つけ出しますが、それだけではなく、「イエスの頭を包んでいた覆い」が登場します。体を巻く布とは別に、ハンカチのようなものが頭にかけてあったらしいのですが、これが、別の場所に丸めておいてあったというのです。これが、ペテロのみたすべてです。そして、実は私たちがまず見るべきことも、これです。墓は岩が取り除かれていました。中は空でした。イエス様のご遺体はありませんでした。体を包んでいたはずの亜麻布と、頭にかけておいたはずの手ぬぐいは、別々の場所に、まるで、だれかによってほどかれてそこに置かれたかのように、おいてありました。これが復活の朝の始まりの景色です。これが、私たち人間に示された、復活の様子の始まりです。そして、問題は、わたしたちが、この景色から何を感じ取り、何を信じるようになるのかです。問題は常に私たちです。教会でどのように教えているのか、信仰の先輩がどのように言うのか、ということはひとまず置いて、まずは、自分自身が、この景色をどのように見ることができるのかが改めて問われるのです。

信じることの始まり
そして、このところの短い言葉、すなわち、8節の「見て信じた」という言葉が示しているのは、イエス様の弟子たちにとっては、この空の墓が、信仰の始まりだったということです。8節にあります単純な言葉「見て信じた」という言葉は決定的に重要です。これはとても単純な言い方です。「見た、そして信じた」それだけです。しかし、それは、とても大きな転換の第一歩です。それは、信じているものの転換です。世界の転換です。すでにお話ししましたように、彼らは一つのことを信じていました。それは、イエス様は死に取られてしまった、イエス様は今は遺体となってもはやあとは丁寧な葬りだけが自分たちにできることだ。そこで遺体が盗まれたのなら、自分たちで取り戻すことこそなすべき唯一のことだ、と信じていたのでした。しかし、このところで、あの弟子、あるいは弟子たちは、新しく別のことを信じた、とヨハネは言いたいのです。では、そのような意味で、新しく信じることとは何かといえば、すでに最初にお話しした通りですが、2:22の言葉が思い出されます。「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」。空っぽの墓を見たときに、弟子たちの頭の中で、何かが変わったのです。それは、イエス様の語られた言葉、イエス様が解き明かしてくださった聖書の言葉、そして、イエス様ご自身の語られる、復活についての言葉、そのような一切が、一瞬にして結びついて、一つの形をとったのです。

イエスを信じる
最初に聖書をどのように読むのか、読めるのかそれが問われるとお話ししました。私たちが、今ある聖書、旧約と新約とそれが一つになっていて、イエス様のことを明かししている、というように読むためにどうしても避けて通れないこと、それは、この時弟子たちの頭の中で起きたことです。最後にヨハネによる福音書の中で復活について語っている箇所を読みます。「ヨハ11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」」イエス様は問われます「信じるか」と問われます。イエス様の空の墓、という事実を見て、イエス様が死にとらえられたままでいるなどということはないのだ(使徒2:24)、と信じ、また、何よりも、イエス様ご自身を信じる、わたしたちがこの人をどこまでも信用する、という意味で信じることができるかと問われるのです。

目覚めの時
そして私たちが、この空の墓という事実によって信仰の目を開かれていくのなら、この時弟子たちがそうであったように「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉」をそっくりそのまま、それは、神様がそのようにご計画してくださって、そして、実際にその通りになったのだ、という事実として、信じるものにされるのです。イースターは復活の時です。それはイエス様のご復活の時であり、同時に、私たちの信仰が、取り換えられる時です。この新しい目覚めの中で、私たちはこれから生きていきたいのです。

祈り
父なる神様、このようにして、イエス・キリストの復活を共に祝うときが与えられましたことを感謝します。私たちは、このキリストの御業によって、すでにあなたのものとされています。そしてそれはただ主イエスの御業を信じる信仰が与えられているからです。私たちが、この復活を信じる信仰をさらに確かにされ、復活の喜びをますます豊かにしてください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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