3月21日説教原稿

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3月21日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです

「イエスのいるところ」
宣言の後?
緊急事態宣言は今日まで、明日から解除になります。とはいえ、まだまだ、油断はできません。また、このウイルス騒動によって、とても困っている人が多くいるのも事実です。しかし、それでも、とにかく私たちは、一つの区切りを迎えて、前に進んでいくことになります。それで、丁度、といいますか、少しとってつけたような感じがしなくもありませんが、今日は始めること、入門、弟子入り、もっと言えば、イエス様に弟子入りすること、について聖書から読み取っていきたいのです。さらに言えば、弟子入りしようとした人に向けて、イエス様が謎をかけているように見える、このところの言葉を、ぜひ、自分のこととして、聞いていきたいのです。それで、早速聖書の20節以下のところについてです。

弟子になる?
このところではギリシア人たちが登場します。どんな人たちだったのか、あまり詳しくは書いてありません。しかし、祭りの巡礼に交じって、このところの言葉では「祭りの時に礼拝するためにエルサレムに上ってきた人たち」とあって、その中にギリシア人がいた、と続きますので、ひょっとしてユダヤ教に改宗していたのかもしれません。さらに、イエス様に会いたい、と弟子に頼んでいますから、イエス様のことも知っていたのでしょう。それで、これは弟子入り志願とみていいのではないか、と私は読みました。そうであれば、先生、ぜひ私たちを弟子にしてください、ということになります。ところが、ここではイエス様は、直接それに答ていません。そして、答える代わりに時の訪れ、ということを言い、さらには、有名な一粒の麦の種のたとえ話が語られています。とはいえ、そのあと「自分の命を愛する者は」というように続く部分で、今度はどうやら弟子の覚悟について語っているようです。そうしますと、やはりこれは、弟子入り志願者に対して、イエス様が、私の弟子は、こう生きるんだよ、そうするととても幸せな人生が待っている、とこう語りかけている、というように読めるのです。あるいは、ぜひともそのように読みたいのです。ただし、そこで注意したいことがあります。それは、このところでは、イエス様ご自身のことも、たっぷりと語られている、という事実です。あるいは、子のたとえ話とその解説によって、同時に、イエス様ご自身のことと、弟子たちのこと、両方について語っているように見えるのです。

種のたとえ
それが「種」のたとえ話です。もう一度読んでみます。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」「はっきり言っておく」、というのはイエス様がここぞ、というときに言われる言葉です。例えば同じヨハネ3章でニコデモに対して「はっきり言っておく、誰でも水と霊によってまれなければ」とあります。その意味で、これがとても大切な教えであることは明らかなのですが、それと同時に私たちは、イエス様が、ニコデモに対して「新たに生まれなければならないといったことに驚くな」(3:7)と言われたことを思い出したいのです。それが、このところでの大切なテーマだからです。この「種」は、言い換えれば、新しく生まれるのです。死んで生まれるのです。ここでいわれている種に例えられる生き方は、新しい生き方です。自分が変わることによって、自分も、世界も変わる、という生き方です。それをまず行うのは、イエス様ご自身です。時が来た、とは、イエス様が十字架につけられる時が来た、という意味です。しかし、それをここでは28節にある通り、「栄光を表す」と言っています。なぜそうなるのか、といいますと、それが神様の御心の実現だからです。その場合の神様の御心とは、イエス様の死を通して、さらに言うなら復活を通して、多くの人をご自身のところへ立ち返らせることです。それは、神様の愛の実現です。神様と私たちが愛し合う関係の実現です。それこそが御心の実現の時であって栄光の表れです。

人もまた
その一方で、この種のたとえは、私たち人間に向かって語られているとも言えます。それはもちろん私たちが、イエス様とまったく同じことをする、という意味ではありません。けれども、そこでよく考えたいのは、「種が死ななければ」という言葉と私たちの関係です。このところについて私たちは、この肉体の命を、今すぐやめてしまうべきだ、というように読むのはおかしい、ということは納得していただけるのではないでしょうか。あるいは、何かのために、例えば、国とか家族のために、自分を捨てる、というのもおそらく違います。ではこの場合の「種が死ぬ」とは何なのかですが、そこでイメージしたいのは、しぶとい人、扱いに困る人、です。それは、この世にありながら、この世に属していないように生きる、そんなあり方です。それはイエス様が25節で言われた「自分の命を憎む」という生き方に生きることです。それも、イエス様との関係において、そのように生きることです。幕末に山岡鉄舟という人がいました。西郷隆盛と交渉をしたことで有名で、詳しいことは今日はお話ししませんが、この人を西郷は「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困る」と評したそうです。もちろん、鉄舟の場合には、彼の哲学と徳川への忠誠心がそうさせたのですが、私たちは、イエス様に従うことにおいて、これを生きるのです。それは一言でいえば、大切なものが変わる、ということです。あるいは、一人ぼっちでいるのか、それともイエス様と生きるのか、どちらかを選ぶこと、とも言えます。

命とは
私たちは、自分が大切だ、この命が大切だ、と無意識に、強く思っているのではないでしょうか。しかし、聖書では、わたしたちの、この命は神様からもらったもの、と書かれています。創世記にある通りです。命の息吹が人間に吹き込まれているというように考えるのです。そしてそれは、いずれ神様に返す命です。そして、もし、この命を握りしめているだけなら、それは、それだけのもので終わりになります。神様からもらった命を、一人で抱え込んで、ある期間生きて、そして終わっていく、それは一人ぼっちの生き方です。そしてその人は「自分の命を愛するものはそれを失う」ことになります。しかし、もう一つの生き方、イエス様に心を開く生き方、イエス様に従うことを、第一とする生き方をしていくのなら、それは一人ぼっちではない、生き方です。神様と、イエス様と一緒に、また、仲間と一緒に生きる生き方です。その時には、この地上の命もより強くなり、さらに、永遠の命、神様とともにある命をも得ることになると続いています。しかし、そこで、そもそも、永遠の命とはなんだ、と問いたくなるかもしれません。永遠の命というものの実態、実際、中身とは何か、です。それを知る手掛かりは、おそらく「イエス様に従う」という言葉にあります。

イエスに従うとは
26節に「わたしに仕えようとするものは私に従え」という命令の言葉があります。まさに、弟子入りしたいなら、私に従いなさい、なのです。これだけを見ますとずいぶん厳しく感じます。しかし、この言葉には、続きがあります。私たちが、イエス様に従う、ということは、「わたしのいるところに、私に仕えるものもいることになる」とある通りです。この場合当然ですが、イエス様がいるところが、具体的にこの地上のどこかにある、という意味ではありません。

引き寄せる
では、イエス様と私たちが同じ場所にいる、というのはどのようなことでしょうか。今日は最後にこのことを32節から考えます。もう一度読んでみます。「わたしは地上から挙げられる時、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」。ちょっと細かい話をしますと、この場合の「すべての人」がどの範囲なのか、ということはいろいろと考えられるかもしれませんが、今日はそのことはとりあえず無視して、ざっくりと人間一般と考えます。「地上から挙げられる」というのは、ほかでもない、十字架の死と復活、そして、昇天と呼ばれていること、すなわち、イエス様が天の父なる神様の下へ帰られた出来事です。イエス様は、今は、天にあって神様の右の座におられる、というのが、私たちの信仰告白の内容です。毎週一緒に唱えております使徒信条は、まさにそのようになっています。「全能の父なる神の右に座し給えり」ですね。それに続いて「かしこより来りて、いけるものと死せるものとを裁き給わん」とつながりまして、これは、終末的裁きを言っているはずです。しかし、問題は、その間、あるいは、終末よりも前です。今です。

ともにいることになる
今、イエス様が何をしているのか、といいますと、引き上げよう、としておられるのです。私たちをご自身のところに引き上げようと、しておられるのです。それは何も、わたしたちが今すぐ死んで召されることではありませんし、生きたまま、神秘体験をすることでもありません。私たちが引き寄せられる、ということは、わたしたちが、今ここで、イエス様の言葉を読んで、それがわかるようにされて、イエス様を「知る」ということにおいて、実現します。私たちが、イエス様を知るのであれば、私たちはイエス様と一緒にいることになるのです。そうしますと、もう答えは見えています。私たちが、イエス様を知っている限り、わたしたちが、いるところがイエス様のいるところになります。私たちが、この教会にいるのであれば、ここがイエス様のいるところになります。私たちが、帰っていって、また別のところに行くのなら、そこがイエス様のいるところになります。それは、いつでもイエス様が一緒にいるという状態です。これが、イエス様に従うことです。

イエスのいるところ
わたしたちがイエス様に従って、イエス様を知っている限り、私たちのいるところがイエス様のいるところです。そして、そのような私たちは、イエス様に仕えるものになります。そのように変えられます。なぜなら、イエス様を知っていく、ということは、イエス様に似た喪にならざるを得ないからです。そして、そのようなものを、神様は大切にしてくださる、とこのところで約束されています。それゆえ、私たちは、今このところで、イエス様に従い、神様に大切にされて、生きていく人生を始めるのです。

祈り
父なる神様、あなたは御子によっていつも私たちをご自身の下に招いて下さり、そして、私たちを愛して、大切にしてくださいますから感謝します。私たちが、あなたにどれほど愛されているかを、ますますよく知って、励まされつつ歩むことができますように。主イエスのみ名によって祈ります。アーメン

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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