2月21日説教原稿

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2月21日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです

「試練の先にある光」
キリスト者であること
今日皆様と一緒にこのところを読みながら考えたいのは、そもそも、キリスト者であること、キリスト者として生きることについてです。といいましても少々漠然としています。今日は特に13-15節を選びましたけれども、このところの区切り方として、例えば9-13節をひと続きによむ、という区切り方もあります。その場合何がよいかといいますと、何といってもイエス様の洗礼の様子が描かれていることです。今日の13節では、「それから」で始まっていますが、新しい協会共同訳では「それからすぐに」としています。こちらのほうがギリシア語に忠実な訳です。イエス様が洗礼の後、水から上がられるとすぐに聖霊が降ったのでした。そして天から「これは私の愛する子、私の心にかなうもの」という声が響いた、とつづきますが、そのすぐ後にというのです。しかも、そこでイエス様の上に降ったあの「聖霊が」イエス様をいきなり荒れ野に放り出したのだ、とこのように、とても臨場感を持った、急な展開が実はこのところの特徴なのです。まさに、イエス様の洗礼、神の子であることの確認、それはすぐさまに試練を引き起こす、という流れが生き生きと描かれているのです。

神の子
しかし、そこでなお考えたいのは、私たちキリスト者もまた、神の子とされたものであったという事実です。私たちが、信仰を持ち、洗礼を受けキリスト者となったその時に、まさに私たちは、イエス様の兄弟とされ、神の子の一人となったのです。そうしますと、当然ながら、イエス様と同じことが起きると、考えたほうがよいのです。このところは、イエス様だけのことだ、イエス様も災難なことだ、いきなり、荒れ野に行かされて、サタンに試みられて、おかわいそうに、と言っている場合ではないのです。むしろ、このところで描き出されていることは、キリスト者であればだれでも通るべきことなのです。ただし、そこで、イエス様だけにしかできないこと、あるいは、イエス様がまず先頭に立ってしてくださっていることがあります。それが、このところでの一度限りの40日間にわたる激しい試練との戦いにおけるその詳しい戦い方において描き出されているのです。その意味では、このところを丁寧に読むことが、私たちの信仰にとって何よりも大切な土台を据える近道です。そこでこのところを改めて確認していきます。

荒れ野と試練
13節の前半はこのようになっています。「イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた」。この書き方は、同じ出来事を描いております、マタイやルカと比べますと、かなり短くあっさりとしているように見えます。特にここでは、断食のことは触れられていません。ただし、マタイでは、40日40夜断食をした後に、サタンによって試みられたとありますが(マタイ4:2,3)、このところでは、最初から最後まで、サタンが一緒にいた、そして試みがあった、という様子が描かれています。どちらがより厳しいかはともかくとして、この40日間サタンによって試みられ続ける、というところにこそ、このところの特徴がありますし、また意義もあります。それは決して短い期間ではありません。しかし、一方で、絶望してしまうほど長い期間でもありません。神の子となったものは、この間いわば試されるのです。しかし、それは何のためでしょうか。それは、この試みの期間によって、鍛え上げられるためです。私たちの信仰の歩みは、決して平たんではありません。具体的なことを数えればきりがありませんし、個別のことを言うつもりもありません。ただ、最初の情熱、一時の感情では長い人生は乗り切れません。しっかりと筋が通らなければならないのです。ある意味では、私たちは生涯をかけてキリスト者としての生き方という冒険を旅するのです。

サタンと野獣と天使たち
その私たちに先立って、イエス様は、私たちの土台を据えるための戦いをしてくださっています。ここでは、40日間サタンに誘惑されるとともに、そこに二つの要素があったことが紹介されています。一つは、野獣です。もう一方は天使です。この場合の野獣とは、かなり広い範囲を指しているようですが、一般的に言って、肉食獣から毒蛇といった人間の害になる存在を指す言葉のようです。しかし、それはただそれだけのことではなく、むしろ、人を危うくする存在を象徴しているように見えます。私たちが生きております時に、様々に不都合なことが起きてきます。災害もあります。悪意や犯罪に巻き込まれることもあります。そのようなことを含めて、私たちに迫る危険、危機といったものを象徴しているのが、おそらくこの野獣です。脅威にさらされるのです。ひょっとして、ここで躓いてしまうのではないか、と思わされ、怯え、不安になるのです。そのような恐れと背中合わせの状態で、神様を呪ったり、疑ったりするようにサタンから試みられるのです。それを毎日繰り返されるのです。イエス様は、そこで信仰の戦いを戦われたのです。しかし、まさにその戦いにおいて、神様はともにいてくださるのです。それを象徴するのが、天使たちです。「天使たちが仕えていた」という一言は大きな一言です。

イエスの勝利
何の助けもないように見える場としての荒れ野において、孤独に、不安や不信仰と戦っているように思われるその所に、実は、神様の守りが届いているのです。み使いが仕える、とはそのような状態です。神様は、試練自体をなくしてしまわれないのです。しかし、試練に負けてしまうことがないように、試練の中でともにいてくださるのです。イエス様は、まさに、そのような試練を40日間戦い抜くことに成功したのです。このところには、サタンとの直接対決の様子や、サタンの誘惑の言葉をイエス様が退けた、といったことは書かれていません。しかし、まさに、毎日毎日繰り返される、神様から離れることをそそのかす試練を潜り抜けたからこそ、次の展開が開かれた、とみるのが自然です。それが、14,15節で語られております、イエス様による宣教の始まりです。そこでは、神の福音ということが言われています。実は、このマルコによる福音書では、冒頭で「イエス・キリストの福音のはじめ」ということが言われていました。ちょっとした違いのようにも見えます。しかし、大きな違いです。最初に語られたのは、イエス様の福音です。イエス様についての良い知らせです。この福音書全体がそうだ、と言いたいのです。しかし、このところでイエス様が言われているのは、神様についての良い知らせです。それを私はあなたがたに持ってきた、私が勝ち取ってきた、とイエス様が語っておられるのです。

イエスの獲得したもの
あの40日間の試みによってイエス様が勝ち取られたもの、それは、実際に試練の中で、神様が一緒にいてくださった、この事実です。私たちが、どれほどつらい目にあったとしても、その所に、まさに苦しんでいるその所に、神様が一緒にいてくださる、そのような時代が切り開かれた、と言いたいのです。この神様の在り方をこそ、イエス様は勝ち取ってくださったのです。そして、それを私たちに分けてくださるのです。そのようにして、いいものを分けてあげる、ということを言い換えたのが「神の福音を宣べ伝える」という言葉です。それに続きます「時は満ちた」という言葉もまた、同じことを示しています。イエス様が試練に勝利し、神様が一緒にいる状態を勝ち取った、ということこそ、この時代に新しい時代がやってきた、その意味で、一番いい時が今ここに近づいているのだ、と言いたいのです。そして一番いい時とは、いうまでもありませんが、神の国の接近です。それは、言い換えますと、神様のご支配の始まりです。それは何も難しいことではなく、先ほど確認しました通りのことです。とっても大変だと思っているその所に、様々な形で、神様の守りの手がそっと触れている、その状態がもう来ている、ということです。

イエスの呼びかけ
そして、このような事実を引っ提げてイエス様は、私たちに向かって二つの命令を語っておられます。それが、今日の最後のところにあります「悔い改めて福音を信じなさい」という言葉です。今、二つの命令といいました。しかし、実はこの言葉は確かに二つですが、実際には一つのことを私たちに求めていると私は理解しています。最後にこの言葉について短くお話しして終わります。私たちは、悔い改めなさい、という言葉をどのように聞くでしょうか。悔い改める、という言葉のもともとの意味は、心の向きを変えるということで、その意味では、人生の在り方の大転換といえます。問題は、そのような人生の大転換をどのようにして行うのかです。私たちは、しばしば、この悔い改めを、自分で頑張って行うもの、とイメージしがちです。今までは、ダメな生き方をしてきたけれども、一念発起して、生き方を改めよう、そうしたら、神様も喜んでこの私を受け入れてくださるはずだ、というような考え方です。しかし、ここで言われている、「悔い改めよ」という命令は、そのようなものでしょうか。

悔い改めと信仰
むしろ、ここで大切なのは、もう一つの命令である「福音を信じなさい」という言葉です。福音の中身はすでに確認しました通り、神様がどんなときにもそっと手を差し伸べてくださるその時代がもう来ている、でした。これはイエス様が勝ち取って、私たちの目の前においてくださっている事実です。そして、イエス様の命令は、この事実を受け取りなさい、というシンプルなものです。それが、福音を信じる、ということです。イエス様が差し出してくださったものを受け取るのです。そうすると、私たちは、イエス様と同じように、神様の守りの中に入るのです。そうすると、私たちの世界観が変わるのです。私たちは自分で何とかしなくちゃ、とあくせくするものでいなくてよくなるのです。心のあり方が大転換するのです。これが、悔い改めの中身です。

試練の先にある光
そして、神様は、この事実を受け取らせるために、私たちを試練の中に入れられるのです。私たちが試練をくぐらされるのは、ただつらい思いをするためではなく、そこで、神様が一緒にいてくださることを体験するためです。そして、その体験を重ねることで、私たちの心のあり方が変わるためです。考え方が根本的に変えられるためです。そのようにして私たちが変えられていくときに、実は試練の先に、大きな光があることに気づかされるのです。

祈り
父なる神様、大いなる聖名を賛美します。あなたは私たちを愛して、一人子の試練を通して、地上に平和を実現してくださいましたから感謝します。私たちは、イエス様が差し出してくださる福音を受け取り地上を歩むことができます。そして、試練の中でもあなたがいつもともにいてくださることを日々体験できます。どうぞ、私たちがますますこのような信仰の目を明らかにしていくことができ、また、あなたを信頼するものとされますように。主イエス・キリストの皆によって祈ります。アーメン

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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