1月31日説教原稿

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1月31日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです

エフェソ2:19-22 「一つの土台」
何に属するか?
今日この所から考えたいのは、一言で言えば、私たちは何者であるのかです。もちろん、キリスト者なのですが、ではキリスト者とは何であるのかです。それを、所属という事から考えたいのです。何に属するのか、という事です。とはいえ、このように言いますと、そもそも、洗礼を受けてキリスト者になったのだから、教会に属しているでしょう、という答えが返ってきそうです。もちろん、その通りなのですが、私たちは、それ以外にも多くのものに属しています。では、いろいろなものに属して、同時に教会にも属しているとは、どのようなことでしょうか。

人生すごろく
私たちは、多くの場合生まれてすぐに、家族の一員となります。家庭に属します。やがて、成長してきますと、保育園に行ったり、幼稚園に行ったり、さらに小、中、高、大学あるいは専門学校と、何らかの集団に属して人生を過ごします。やがて就職すれば、企業に属します。いや俺は自営だ、という人がいたとしても、特定の業界に属しているといえます。やがて年をとっても、地域や、趣味のグループに入るかもしれませんし、あるいは、少々体が弱くなれば老人ホーム、福祉施設といった組織に身を置いて生涯の終わりを迎える、という事もあり得ます。実際に、私の母は、高齢者福祉施設にお世話になっていますし、恐らくあの施設で最後の時を迎えるのではないかと思われます。私自身も、いずれ、定年退職となったのちには、それこそ、キングスガーデンのお世話になるかもしれません。このように、私たちは人生のステージごとに、属する場所を取り換えながら生きていきます。しかし、教会はそうではありません。私たちが、どのような境遇になっても、たとえ教会を移り変わったとしても、若い時から、死に至るまで、もっと言えば死の先まで、私たちがキリスト者であることに変わりはありません。それは一言で言えば、キリストに属している、という事になります。

洗礼で起きること
そして、私たちが、キリスト者になる、その始まりは、いうまでもなく、洗礼にあります。そこで少々ややこしいのは、幼児洗礼ですが、今日はそのあたりは飛ばして、幼児洗礼を受けていない、いわゆるおとなの未信者でしたら、信仰が与えられた時が、洗礼を受ける時です。それで問題は、そうして信じて洗礼を受けた時にどうなるかです。多くの場合、私もそうでしたけれども、何かが大きく変わったという感じはしないかもしれません。それまで、十何年間か、あるいは何十年間か生きてきた、当たり前の生活のあり方や癖といったものが、そう簡単に変わるわけでもなく、たいていは、或いは例外の方がいたら申し訳ありませんが、イエス様の洗礼のように、突然上の方から、不思議な言葉が響いてくるということもないはずです。これは、例えば、先ほどお話しした、赤ちゃんの頃に洗礼を受けていて、後から信仰を告白した人、いわゆる二世、三世と呼ばれる方たちにとっても、ある程度同じかもしれません。ある時、自分で決断して信仰告白をした時に、心を燃やされるような感激はあったでしょうし、これからはイエス様の弟子として、しっかり生きて行こう、と決意を新たにされたかもしれませんけれども、それで、普段の生活に何か大きな目に見える変化があったか、と言えば、そうでもないかもしれない、というのがいい悪いは別にして、多くの方の感想ではないでしょうか。

まったく違う
しかし、パウロはこのエフェソ書においてそうではない、というのです。キリスト者になったという事は今までとは全く違う、というのです。しかし、あえて言いますと、そのような違いは、実は、それほど分かりやすくないかもしれないのです。また、そうであるからこそ、パウロはこの手紙で、あえて今までとは違うのだ、という事を励ましの意味で書き送ったのです。それゆえパウロは、昔と今、という言い方をします。例えば、11節では、あなた方は以前には、と言い、また12節でも、そのころは、というのです。以前は異邦人だった、キリストとかかわりのないものだった、しかし、今は違う、という言い方です。その意味では最も極端な言い方として、同じエフェソ書の2章1節を見ますと、「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいた」とまで言います。もちろん、これは、肉体的に死んでいるという事ではありません。それは神様の前にあたかも死んだも同然、そんな状態だった、というのです。それは言い換えますと、神様が全く見えていない状態、神様がわからない状態です。

一つの新しい人
ところが神様は、私たちそれぞれを、どんないろいろな背景があったとしても、新しい人に作り替えた、ということを15節で言っています。細かな話をしますと、ここで前提となっているのは、イスラエルと異邦人の区別のことなのだ、といったようなことも言えるのですけれども、今日はそこには踏み込みません。むしろ、大切なのは、その一つ前の節にある言葉です。14節はこうなっています。「実に、キリストは私たちの平和であります」。イエス様を信じる、という事から、なにが始まるかというと、平和が始まるのです。和解が始まるのです。それぞれ違っていた人たち、別の立場に立って、別ことを信じていた人たち、別の生き方をしていた人たち、こういう人たちが、イエス様を信じた時に、イエス様ご自身が、その人の形を作り替えはじめているのだ、こうパウロは言いたいのです。しかも、それは、各方面の和解を伴うのだ、というのです。神様と和解し、人間同士和解して、一つの体になるようにしてくれている、というのです。これが、「一人の新しい人」という言葉の中身です。洗礼を受けて、キリスト者になる、という事は、この意味で、「新しい人」になるという事ですし、それは、ただ、それぞれバラバラにこっちに新しい人、あっちにも新しい人ができる、というだけでとどまらず、みんな一緒に「一人の新しい人」になっていく、そんな神様の働きに入っていく、という事です。それをパウロは別の所では、「秘められた計画」と言っています(3:3)。神様のご計画があって、キリスト者になるとそれに沿って生きるようになる、というのです。

神の国の民
そういうわけですから、私たちキリスト者が何に属しているのか、と言いますと、当然ですけれども、神の国、神様のご支配に属している、のです。それが例えば19節では「外国人でも、寄留者でもなく、聖なる民に属する」ですとか「神の家族」というように言われていることです。今、こうして、と言いましても、インターネット中継で見てくださっている方が多い状況ですけれども、それでも、或いは、他教会に属している方も、他教派の方も、カトリック教会の方も、正教会の方も、今この会堂にいる人も当然ですが、神様と関係のない人はいないのです。むしろ、神様とがっちりとつながっているというのです。そして、そのような神様の国の中で、しっかりとした立場を持っているのです。そして何よりお互いに、一つにされているのです。何しろ、神様の家族なのですから。しかも、それは、ただ、今一緒にこの時代に生きている人たちだけの関係ではないのです。この所でパウロは、もう一つ大切なことを語っています。それは、土台、という事です。私たちが、神様の家族であること、私たちが、信仰を持っているということ、私たちが、ある時、イエス様に心惹かれて、聖書に心惹かれて、教会の言葉に心を惹かれて、信仰について考えるようになったこと、それは、あなただけの問題ではない、というのです。それは、そうなるだけの伝統に支えられているのです。

土台とキリスト
20節では「使徒や預言者という土台の上に建てられています」とあります。これは、少し広く意味をとった方がよい言葉かもしれません。例えば、イエス様の直接の弟子であった使徒ペテロや、或いは、旧約の預言者イザヤといった人だけのことではありません。もちろん、彼らを含んでいます。しかし、それだけではなく、例えば、この手紙を書いたパウロ、或いは、パウロの同労者であった、テモテ、テトスといった人たち、あるいはフィリピ書でパウロが同労者、親友と言っているエパフロデトといったような、あまり聖書に登場しませんけれども、各地の教会において、イエス様と一緒に生きるすばらしさを人々に語ったような人たち、それは私たちの教会で言えれば、信仰の先輩たち、この教会を開拓するために働いてくださった、上福岡教会の年配の方たち、あるいは、CRCミッションの方たちや、名も知らないアメリカの教会で日本のために献金や祈りをささげてくれた人たち、こういった人たちが土台として存在しているというのです。そして、そのような一人ひとりの信仰者をさらにその下で支えておられるのがイエス様です。その要石はキリスト・イエスご自身とある通りです。イエス様が土台になって、その上にすべての信仰者が、私たちも含めて乗っかっているというイメージです。

自分が神殿-一緒に組み合わされる
そして、私たちが、このことに気づくのなら、すなわち、私たちが、洗礼を受けた時に、何にも変わらなかったのではなくて、実はそれは自分の錯覚で、本当は先輩たちの信仰の上に乗っていて、先輩たちに支えられて、さらにはイエス様に支えられて、みんなと一緒に生き始めていたのだ、という事に気づいていくのなら、そこから、今このところで、新しいことが始まるというのです。それが、キリストにおいてこの建物全体が組み合わされる、という事です。もちろん、それはこの教会堂のことではありません。私たち一人ひとりが、キリストの体の部分になっていくということです。一人ひとりがバラバラではなく、組み合わされるのです。その組み合わされ方がどのようなものであるのか、また、いつどうなっていくのか、それを決めるのは神様です。しかし、はっきりしているのは、今、この時代、この教会に居合わせている私たちを、神様はイエス様の体として組み合わせようとしておられるという事です。

一つの土台に支えられ
そして、もし私たちが、この神様の秘められたご計画にこたえて、組み合わされるのであれば、実はそれが、教会の成長という言葉の本当の意味なのですが、そのような成長があるのであれば、私たち自身が、全体として、神様の神殿になるのです。「キリストにおいて、あなた方も共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」この言葉にもはや説明はいらないはずです。私たちはそのようなものになれます。私たちは、イエス様という一つの土台に支えられて、神様の住まいとして、たて上げられるのです。

祈り
神様、あなたは、私たちを御旨のままに、相応しい時に子としてくださいましたから感謝します。そこから私たちは新しい人として生き始めました。たとえ私たちが気づかなくても、今既にキリストの体として整えられていることを信じます。どうぞ、これからの教会全体の歩みをあなたがますます確かなものとしてください。この週もあなたの祝福が豊かにありますように。主イエス・キリストのみ名によってお祈ます。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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