1月17日説教原稿

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1月17日説教原稿

家庭礼拝のための祈りと説教原稿です。朗読などで用いてください

「天と地が一つに」
天が割ける
今日は、ちょうど阪神淡路大震災から26年になります。私たちはまだあの震災の恐ろしさを記憶しています。しかし、それだけではなく、東日本大震災も、そしてつい先日にはインドネシアでも大きな地震がありましたし、今も私たちは現実の問題として、コロナ禍の中を過ごしています。私たちの地上の生活にはこのように苦しみ、悲惨があります。しかし、今日の聖書は、そこに言葉が響くというのです。それだけではありません。言葉が響いた後には天が開くのです。そこから聖霊が下ってくるのです。ただ事ではないことが起きたというのです。とはいえ、この聖書の言葉をもう少し丁寧に見ますと、これは、イエス様が見た幻、聞いた言葉、という位置づけです。あるイメージと言ってよいかもしれません。では、この所で響いている言葉、起こっている事実、これらのことは、今、地上に生きている私たちとどのような関係にあるのでしょうか、今日はそのことを確かめたいのです。

福音のはじめ
あまりくどくどという必要はないのでしょうが、私たちの生きております現実は、一筋縄ではいかないところがあります。皆さんそれぞれに、携わっている仕事において、家庭において、様々な人間関係においても、苦労があるはずです。それが地上の歩み、あえて一言で言えばそれが人生、となるのかもしれません。しかし、そのような私たちの生きているこのところに、新しいことが始まっている、というのがそもそも、このマルコによる福音書のメッセージです。このマルコの1:1は「イエス・キリストの福音の初め」という言葉で始まっています。イエスはキリストであって、良いことをもたらして下さる、そしてそれは間違いなくもう始まっている、という呼びかけです。先ほどの、天と地という事でいえば、天は天、地は地、と私たちは、ついつい考えている所があります。しかし、マルコによればそうではないのです。むしろ、この所では天が割けている、真っ二つに割れている、そこから鳩のようにして聖霊が地に舞い降りてきている様子が記されています。このことは私たちと無関係ではありません。なぜなら、ここで記されていることは、もう既に起きたことだからです。もう実現した事実です。しかし、私たちは、日々の暮らしに追われて、この事実に気づきにくいのかもしれないのです。

悔い改めとは
そこでもう一つ確認したいことがあります。それは、ここで、神様に変わって呼びかける声と言ってもよいでしょうけれども、洗礼のヨハネが告げ知らせた言葉です。それは4節に書かれていました。「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」。ヨハネが声を張り上げたのは、「罪の赦しのための悔い改め」だったとあります。これは、一つ前のイザヤ書の引用と併せて考えますとよくわかります。すなわち「主の道を整え、その道筋をまっすぐに」というところです。主の道ですから、神様に至る道です。聖書において、キリスト教信仰においては罪の状態とは、神様に至らない道にある、という事です。どれほど努力を重ねても、どれほど素晴らしい能力を駆使して頑張っても、神様と逆向きの努力をしているのなら、神様から離れるばかりで、決して目的地にたどり着きません。そうであるからこそ、神様の方に、心の向きを変えるのです。そしてそれは私たちのあり方もまた、変えていく、という事になります。これが、ごく大雑把に言って悔い改めるという事です。それは、私たちの全体がくるりと変わる、向き直る、というイメージです。では、そのような向き直った人、悔い改めた一とはもう少し具体的にはどのような人なのでしょうか。

ヨハネの教え
例えば行動が変わる、というのはわかりやすいことです。ルカによる福音書では洗礼者ヨハネが人々に悔い改めた人のあり方について教えている箇所があります。「そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。」(ルカ3:10-11)この後、徴税人には、規定以上に取り立てるな、と言い、また、軍人には、ゆすり取ったりせずに給料で暮らせ、と教えています。助け合いと、公正さ、正義と落ち着いた生活というのは大変分かりやすい教えであるかもしれません。ただ、ヨハネ自身がこれらのことは、悔い改めの実なのだ、と言っています。「悔い改めにふさわしい実を結べ」(ルカ3:8)とある通りです。「悔い改め」が本体であって、良い行いは、そこから出てくる実りだ、というのです。そうであれば、人に親切にできているから大丈夫、不正をしていないから大丈夫、というのはちょっと違うのです。むしろ問題は、そのような生き方の根本になっている所が変わっているのかです。

ヨハネの意識
そこで改めて読みたいのが今日の聖書のヨハネの言葉です。7節にこうあります。「彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」。「靴の紐を解く」というのはこの時代奴隷の仕事です。ご主人様の足元に跪いて丁寧に紐をほどいて、履き物を脱がせ足を洗いきよめる、という仕事です。それ自体大変低い心構えがなければできないことですが、しかし、それをすることすら恐れ多い、自分は側によってお世話をすることすらはばかられる、それほどイエス様は偉大である、と言っているのです。これは、いささか、大げさだと思われるでしょうか。私たちは、人間は平等だ、と教わって育っています。それは間違っていません。また、奴隷のようにこき使われ、人間の尊厳が踏みにじられてよいわけがありません。しかし、それはそうとして、私たちは、神様を、そしてイエス様を、ヨハネのように恐れているでしょうか。ヨハネは少なくとも、イエス様が実際に現れる前に、その価値をこのように高く見積もり、自分の立ち位置がどこにあるのかを正確に見て取ることができたのです。そして、悔い改めるとか、主の道をまっすぐにする、というのは、単に心構えといったことではなく、このヨハネのように、イエス様と自分の位置を正しく位置付けていく、という事にこそ、その本質があるはずなのです。

聖霊の洗礼
そのような位置づけを決定的にすることがあります。それは洗礼です。ここにいる多くの皆さまは、洗礼を受けてキリスト者になりました。その洗礼はどこからきているのでしょうか。それは、この8節に書かれていることに由来しているはずです。「その方は聖霊で洗礼をお授けになる」。もちろん、私たちは直接イエス様から洗礼を受けたのではない、と言えるかもしれません。しかし、それを言うのなら、福音書に登場する弟子たちも同じです。彼らもまた、イエス様から直接洗礼を受けたのではありませんでした。しかし、弟子たちには聖霊が与えられる約束がありました。そして実際にイエス様は復活後にそれを与えてくださいました。そして、原理的には、まったく同じ出来事として、私たち一人一人の洗礼において、イエス様から聖霊が与えられているのです。そして、このこと、イエス様が洗礼を授けてくださる方であり、私たちはイエス様から洗礼を受けるものである事、この事実がイエス様とわたしたちの立ち位置をはっきりと決めているのです。その意味では、私は教会で、○○先生から洗礼を受けたというような言い方はあまり感心しないと考えています。洗礼はただ、イエス様からくるからこそ価値があります。牧師は確かに洗礼を授けますけれども、それはあえて言えば神様の道具になっているだけであって、そこで本当に恵みを与えてくださるのは神様ご自身です。

聖霊と言葉
さらに言いますと、私たちの洗礼において、起きるのは、この時イエス様に起きたことをなぞっているのだろうと私は考えています。イエス様がヨハネから洗礼を受けた時、大きく分けますと二つのことが起きました。一つは幻です。先ほど確認しましたように、天が割けて聖霊が鳩のように舞い降りてくる様子がイエス様には見えたのでした。それから、もう一つは、天からの声、神様の声が聞こえたのでした。「あなたはわたしの愛する子、私の心に適うもの」。これは、ある意味では、イエス様にとっては、確認の言葉です。もともと、イエス様は人として生まれる前から、このような方であった、と私たちは信じています。キリスト教の神学では、イエス様は永遠から、父なる神様や聖霊なる神様と天において、愛の交わりの中にある方だ、と信じてきました。それは地上において人となっても変わらない、この時、イエス様に向かって神様はこのように改めて語り掛けておられるのでしょう。しかし、そこでなお、考えたいのは、このような呼びかけの言葉は、イエス様のためだけであるのか、ということです。

正しい関係へ
私たちは、洗礼において、聖霊を受けているのです。という事は、私たちがここにあるような幻を見ることができたかどうかはともかくとして、私たちにも、天を割って聖霊なる神様が下っているはずなのです。また、それだけではなく、イエス様に対して、わたしの愛する子、と語り掛けられた神様は、イエス様を信じて、聖霊による交わりの中に入れた私たち一人ひとりについてもやはり、「これはわたしの愛する子、私の心に適うもの」と言って下っているはずなのです。なぜなら、私たちは、洗礼において、イエス様の兄弟・姉妹とされているからです。

天と地が一つに
わたしたちの人生には、様々な困難があります。しかし、地上で労苦します私たちには、すでに響く声が与えられています。もう既に天が割れているからです。あらゆる困難の時のその所に、この声が響きます。全くこの意味で私たちは、天と無関係ではないのです。むしろ、私たちは、今このところで、天とつながっているのです。地にあって困苦しつつ歩む私たちと、天とは聖霊なる神において、一つなのです。そして、この事実こそが、まさに良い知らせなのであり、私たちが強く生きることのできる、根拠です。

祈り
父なる神様、御名をほめたたえます。私たちはただ、イエス様によって、あなたの子とされておりますから感謝します。私たちは、あなたの御霊によって、新しい歩みに入れられ、あなたに向かって歩むことができるものとなりました。どうぞ、あなたの御力によって私たちが、行き悩むとき、いつも助けください。そして、私たちがあなたに通じる道を喜んで進んでいけますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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