1月10日説教原稿

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1月10日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです

マタイ2:1-12 みんなが求めていたもの
事実の確認-二つのあり方
今日の所はクリスマスの個所とも言えますが、より正確にはクリスマスに続く箇所です。イエス様の誕生事態は、1節でほんの少しその事実が告げられているだけです。しかし、それはどうでもいいことではないのは言うまでもありません。この短い1節で語られていることは、ある意味では革命的なことです。そこにははっきりと、ヘロデ王の時代とあります。ヘロデが支配していたというのです。歴史に詳しい方でしたら、ヘロデの王権は、ローマから出ていたこと、いわば、虎の威を借る狐のようなものでしかない、という事はご存知かもしれません。しかし、それがどのような性質であれ、支配者としてすでにヘロデが君臨していたのです。そこに、まったく別の支配者が現れた、というところから、この段落は始まっているのです。そして、この新しい支配に対して、人間はどうやら二つの反応を示すらしい、というのが、ここで語られていることです。それは、極端に言えば、受け入れるか、拒むか、どちらかです。中間はありません。問題は、ここで示されている二つのあり方をどのように見るのかです。とりわけ私たち自身にとってこの二つの可能性をどのように見ていくかです。

ミカ書の預言
その為にまず、6節にあります、旧約聖書ミカ書から取られた預言の言葉を読んでみます。『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』これは、実はミカ書5:1から取られていますが、途中からかなり大胆に変更されています。比べるために、ミカ書も読んでみます。「ミカ5:1 エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」もっとも違うのは、もともとは「いと小さき者」とあったのが、「一番小さい者ではない」となっていることです。もう一つは、「私のために、治めるものが」とありますところが、「私の民イスラエルの牧者となる」となっています。これが、実際にどのような経過でこうなったのか詳しいことはわかりませんが、ここには何かしらの意図があるように見えます。それは、ミカの時代と、マタイの時代で、もっと言えばイエス様の誕生によって、事態が変わった、ということです。ベツレヘムは、もはや小さい者ではなく、私のための牧者は、明確に、新しいイスラエルを治める牧者として現れている、というようにです。新しいイスラエルが現れるのです。では、その新しいイスラエルとはどのようなものでしょうか。

跪くため
そこでまず、占星術の学者たちのあり方について確認します。彼らはエルサレムの王宮に出向いたようです。このようなことができるのは、この学者たちがそれなりの身分であったからのはずです。事実彼らはこの訪問の目的をユダヤ人の王をたずねるため、としています。新しい王の誕生を祝うために特使のようにしてやってきた、という事がわかります。しかし、この所はそれで終わっていません。もう一つ、確かめたいのは、最後に書かれた言葉です。「拝みに来たのです」。この所の翻訳は五つくらい日本語聖書に当たりましたけれども、やはり「拝む」となっていました。岩波訳のみ「伏し拝む」です。ひれ伏す感じです。英語ではワーシップとなっています。崇拝とか礼拝の意味です。そうしますと、彼らの目的は、ただ挨拶をしに来た、という事を越えているのです。一人の王族に礼を尽くす、という事でもありません。おそらく、ここにマタイの意図が現れていると私は考えているのですが、イエス様は礼拝される方である、という事をこの学者たちの口を通してはっきりと示しているのです。この学者たちの目的、それは、イエス様を礼拝することだ、とはっきり書かれているのです。礼拝自体が、長い旅路の困難に耐え、知恵を振り絞って尋ね求め、見つけ出すものとして描かれているのです。それは、言い換えれば、イエス様を礼拝することにはそれほどの価値がある、という事ですし、まさにこのようにして礼拝に集うものが新しいイスラエルなのです。これは、今コロナ禍の中で、集まっての礼拝がなかなか困難な状態にある私たちにとって、身につまされることではないでしょうか。

礼拝の目的-喜びに満たされる
そして、彼らの願いは完全な形でかなえられています。ヘロデの王宮から送り出された学者たちは、やがて星に導かれて赤ちゃんイエス様たちの暮らす場所を見つけ出し、そこで自分たちの言葉のとおり、「ひれ伏して幼子を拝み」と11節に書かれています。その後に、三種類の贈り物がささげられた、と続きます。教会の伝統では、この三種類の贈り物それぞれに意味が与えられ(黄金=王権、乳香=聖性、没薬=死)、また、この贈り物が三種類であることから、三人の博士という事が言われるようになり、それぞれに名前が付けられるという事にまで発展していまして、そのようにして、教会の伝統ができていく、クリスマス物語が形成されて今に伝わっている、というのは興味深いことですが、今日はそれよりもまず、確認したいことがあります。それは、この時の学者たちのあり方です。10節には「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」とあります。

星とは
その場合の星とは、学者たちが観察し続けた星、新しい王の誕生の根拠となった星、のことですが、そこで一つの聖書の言葉を読みます。お聞きください「わたしには彼が見える。しかし、今はいない。彼を仰いでいる。しかし、間近にではない。ひとつの星がヤコブから進み出る。」(民数記24:17)。これは民数記にある言葉です。雇われ預言者のバラムという人が語った言葉です。マタイにおいては、恐らく、この星という言葉にもまた、このような意味、すなわち、神様によってたてられる来るべき王の訪れ、という意味が込められているように見えます。そして、このような意味での星を見たものは、喜びにあふれるのです。もともとの言葉を直訳すると「この上なく大きな喜びを喜ぶ」という最大限の喜びに浸るのです。そしてこれこそが、礼拝の目的ですし、礼拝で起きることです。イエス様の訪れを確かめた人は誰であれ、この上もない喜びを味わうのです。

ヘロデの場合-民もまた
一方でこのところでは、それとは全く反対の反応をした人たちの様子も描かれています。いうまでもありませんが、ヘロデ王とエルサレムの人たちです。その基本的なありかたは「恐れ」です。3節に「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」。ここでは、首都にいる人たちがそろって不安に襲われたと報告されています。もちろん、エルサレムにも神を畏れる正しい人たちはいたのだと思います。しかし、あくまでも一般的な傾向、大多数としては、こうだったというのです。では、そもそも、ヘロデ王とエルサレムの人たちは、なぜ不安になったのでしょうか。そのことを考えます場合に、はっきりとしていることがいくつかあります。一つは、ヘロデ王をはじめ、彼らは聖書の知識があった、ということです。4節を見ますとまさにヘロデ王が、祭司長たちや律法学者を集めた、とあります。目的は、その道の専門家に「メシア」はどこに生まれてくることになっているか、と尋ねるためでした。私たちもまた、メシア、キリスト、といった言葉を半ば当たり前のように感じるところがありますが、これは、聖書、と言いましても当時は今、旧約聖書と呼んでいる部分しかありませんでしたが、聖書のことがわかっていないと、そもそも、「新しい王」と聞いて、これは「メシア」の登場か?というように結びつけて考えられないのです。

苦労して得た地位
それからもう一つのこととして、これは特にヘロデ王に直接かかわることで、ある意味で、彼がイスラエルの民の代表であると考えたいのですが、それはヘロデ王は大変な苦労人であった、という事です。詳しいことは省きますけれども、イスラエルの国が大変混乱している時代に、のし上がったのが、このヘロデ王、後に大ヘロデと言われる人です。彼は、半ユダヤ人、父親はエドム人であったそうです。そんな中で、一時は外国に落ち延びた後にローマに取り入って、王の座を手に入れたようですが、疑い深い人で、最後は妻や息子たちを殺してしまったともいわれています。問題は、この所です。彼は、苦労をして地位を手にした人であり、この地位が奪われることを強く恐れていた人だった、と言えます。もっと、単純な言い方をしますと、ヘロデ王は変わりたくない人でした。自分が得たもの、自分がこうだと決めたこと、その所にしがみついていたい人だった、と言えます。それはまた、イスラエルの頑なさ、にもつながるかもしれません。以前の新改訳聖書では、イスラエルのことを「うなじのこわい民」(出32:9、エレミヤ7:26他多数)と表現したところがありました。自分たちのあり方を頑固に変えないというのです。神様が働きかけても相手にしない、そんな頑固さです。

死を願う心
そして、ただ頑固なだけではなく、自分たちを変えそうなものを、全力で否定しようとするのです。例えば、この所でヘロデ王がとった行動を、まとめますと、まずは、知識人たちを呼び集めて、メシアの生まれた場所を、特定しようとします。次に、学者たちに、善意を装って、自分も拝みに行きたい、と言いながら、はっきりとした場所と時間を探らせようとしています。もちろん、これは、今日の所の次の段落、13節にありますように「この子を探し出して殺そうと」企んでいたからです。存在自体を消そうとするのです。自分のあり方を変えようとするメシアが現れた時に、素直に従おうとするのではなく、むしろ、自分のあり方を守ろうとして、邪魔なメシアを消そうとする、これもまた、人間のもう一つのあり方として、この所で克明に描かれているように見えるのです。そして、これは何も、ヘロデ王や、エルサレムの住民が悪かった、という話ではないはずです。私たちもまた、自分の自由さ、勝手気ままさ、といったものにどこかしら、強い執着があるかもしれないのです。実際に自分が何かを断念しなければならない、という事にならないように、ならないように、信仰者になってもそのようにふるまってしまうところがあるかもしれないのです。

二つの思い
実は私たち人間の中に、この二つのあり方、メシアを見つけ出して大きな喜びを感じる部分と、しかし、その一方で、自分に拘って、自分の立場や、都合といったものから一歩も出たくない、という頑なさとが、同居していると私は見ています。私自身そのようなものです。信仰の理想を理解し、信仰によって生きたいと願う自分があります。一方で、実際の生活においては、ちょっとしたことでも、自分のやり方、自分の正しさにこだわってしまっている自分に気づくのです。しかし、今日最後に確認したいのは、実は、私たちがこのように、分裂した自分を持っている、という事ではありません。それは、恐らくパウロ自身も悩んでいたことで、私たちは地上においては最後まで解決しないことです。ただし、そのままでよいとは思っていないのです。この所わたしは、説教で、キリスト者の多様性について何度かお話ししました。キリスト者はそれぞれでよい、むしろいろいろ個性的であった方がよい、という事です。その点について私は今でもその通りだと確信しています。

我々のいく先-イエスを拝する
そのうえで、一つだけ言えることがあるとすれば、先ほど確認したこと、すなわち、メシアを喜ぶ自分と、メシアを嫌う自分、そんな分裂があるかもしれない、という事について言えば、少なくともキリスト者であればだれでも漏れることなく、メシアを喜ぶ自分を絶えず目指すべきだ、という事です。あまりにも当たり前のことですけれども、もう一度言います。私たちは一人として例外なく、メシアの訪れを喜ぶ者とされるために、キリスト者になりました。それゆえ私たちが訪ねていく先にあるのは、イエス様を拝することです。このことに例外はありません。

祈り
父なる神様、貴いみ名を賛美します。あなたは御子を人として生まれさせて下さり、私たちの希望の光として与えてくださっておりますから感謝します。私たちは、このキリストの光を見出すように召されています。私たちがまといつく闇の業に囚われてしまうことなく、何度でも光へと身を向けて歩むものとなれますように支えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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