12月6日説教原稿

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12月6日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです

「逆転の始まり」
ヨハネの話?
今日の聖書を読みますと、1節以外はイエス様のことというよりは、洗礼者ヨハネという人のことが語られているように見えます。それはちょうど、この季節が、クリスマスを待つ期間であってまだクリスマスではない、という事と似ているかもしれません。例えば今日の聖書にも、「道を備える」ですとか、「私より優れた方が後から来られる」と言った言葉があります。このような言葉を読みますと、ああ、この後が大切なのだな、15節からイエス様の話になるから、そこからが本番なのだ、というように考えてしまいがちです。しかし、そこで私たちは、少しものの見方を変えてみたいのです。それはまさに今日の所で一体ヨハネが何をしているのか、という視点です。彼はただ地味にイエス様のための準備をしていたのでしょうか。とんでもないことです。むしろ、ヨハネのしたことは派手です。八面六臂という言葉は仏教用語だそうですが、まさにそんな感じで、ヨハネの声が各方面に響いて、その呼びかけが大変なインパクトを与えた、という様子が描かれているのです。

声の響き-ヨハネのスタイル
そして大切なのは、そのようなヨハネの活動そのものが、イエス様の福音の始まりなのだ、とマルコが書いていることです。いうまでもなく、福音とは良い知らせです。私たちのあり方が、よい方に大きく変わる、そのような知らせが届く、という事こそ福音という言葉の中身です。そして、その知らせが届くときに、人々は知らせを届ける人の所に集まってくるのです。そして、このことこそ、まず私たちがしっかりと目を止めたい出来事です。それはある意味では不思議なことです。そもそも、ヨハネの叫びはどのようにして人々に告げられたのでしょうか。また、なぜ、人々はこのヨハネの一見突拍子もない呼びかけに耳を傾ける気になったのでしょうか。一つはヨハネのスタイルという事が挙げられるかもしれません。6節では、「ラクダの毛衣を着て腰に革の帯を締め、イナゴと野蜜を食べていた」とあります。これは間違いなく列王記に登場する預言者エリヤのスタイルですし、同時に当時の人々にとってもまさに預言者らしい装束でした(列下1:8、ゼカリヤ13:4)。とりあえず、見かけにおいて、少なくとも聖書に多少ともなじみのある人にとっては、これは聖書に書いてあるあの預言者の登場ではないか、その点で人目を引いた、とはいえそうです。

神が遣わされる-マラキの預言
しかし、それよりももっと大切なことがあります。それは、ここでイザヤの書に書いてある、とされている言葉です。「見よ、私はあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう」(2節)。ちなみに、この言葉のもとになった旧約聖書は、イザヤではなく、むしろ、マラキ書のようです。それも併せて読んでみます。「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。」(マラキ3:1a)よく似ていますが少し違ってもいます。まず、同じ言葉としては、「見よ、私は」とあります。この場合の「私」とは当然ながら、神様ご自身のことです。このことが何よりも大切です。ヨハネが華々しく登場した、それを人々は歓迎した、この一切は神様の業がそこで行われていた、神様の力が働いていた、という事実を示しています。その一方で、今日の聖書とマラキ書で、もっとも違っているのは「あなたの道を準備させよう」と「彼はわが前に道を備える」とあるところです。あなたの道、という場合には、イエス様の道、あるいは私たち人間の道、という事になります。一方で、わが前に道を、となりますと、神様の前の道、という意味です。全く対照的なことを言っているようですけれども、これは一つのことです。なぜなら、神様の前に現れる道と、私たちの前に現れる道とは、同じ一つの道としてつながっているからです。要はどちらから見るかの違いだけです。神様の前に出来上がる道は、私たちの前にできる道なのです。

その道をまっすぐに
それが、3節の言葉によって語られていることです。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」。これはまさにイザヤ書に書かれている言葉です(40:3)。この「真っ直ぐに」という言葉は、物理的な意味と共に、精神的な意味もあります。誠実であったり、嘘偽りがない、という意味での真っすぐさ、です。それと同時に、もう一つ目を止めたい言葉があります。それは、「主の道」と「その道筋」という言葉です。ちょっと理屈を言いますと、これはわざと訳し分けているのです。ギリシャ語でも、別の言葉なのです。「主の道」の方は、普通の意味での「道」なのですが、「道筋」と訳されたことばは、どちらかと言いますと、細道なのです。何度も何度も、通って、だんだん出来上がっていく、細くて頼りなく見える けれども、踏み固められて道らしくなった、そんな道のことです。それは、人間らしい、生活の匂いのする、また、日々の積み重ねを思わせる、そんな道です。「その道筋をまっすぐにせよ」という言葉には、そのような含みがあるのです。私たちが、誠実に神様と向き合う時に、神様へと続く真っ直ぐな道が、少しずつ出来ていく、神様への道が踏み固められていく、そんな道を造っていくのだ、という意味です。

集まる人たち
では、そのような道はどうやって出来上がっていくのか、そのカギを握っているのが、4節と5節にある言葉です。まずは5節です。「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」この出来事自体、驚くべきことで、これほど多くの人がヨハネを慕ってやってきた、という事自体、不思議と言えば不思議なことですが、ここには決定的な何かが起きていると言ってよいのです。その決定的な出来事とは、「罪を告白し」という言葉に現れています。人は、自分の間違いをなかなか認められないものです。キリスト教が嫌いという人は、たいてい、「罪、罪とうるさい」という思いを持っていることが多いようです。自分を不快にするようなことを言う人のところに、人はなかなか集まらないものです。けれども、ここでは、人々の方からヨハネのもとにやってきて、しかも、自分で「罪を告白」しているのです。自分が悪い、自分が間違っていた、と認めているのです。もっと言えば、白状している、ともいえます。このように、神様の前で、率直になれる、自分の罪を認められる、という事は、本当はとても気持ちのいいもので、いっそすがすがしいものですが、私たちはなかなかそのような気持ちになれずにいることが多いのです。

この所で起きたこと
しかし、まさに、そのような、普段なかなか味わえない事、回りの人にどのように思われようと、神様の前で率直なありのままの自分をさらけ出す、という事が、この所で起きているのです。そして、そのようなことが繰り返されるのなら、確かに、神様と人間の間には、一つのとぎれることのない道筋が、出来上がっていくことになるのです。そして、このことを一言で言い表したのが、4節の言葉です。「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」。悔い改め、とは、先週もお話ししましたけれども、心のあり方が変わることです。心の向きが変わることです。人間の根本から、その考え方を変えていくことです。私たちが、素直ではなく、自分に拘って凝り固まっている状態から、神様に、イエス様に信頼して、すがって、心を開いて、自分のだめさを率直に認める、という方向に、大転換することです。しかも、それはただ一度、に限ったことではありません。もちろん、洗礼を受け、信仰を告白する時に、そもそも、大転換が起きたと言えますが、しかし、それだけではなく、私たちは、生きている限り、いつでも、神様の道からそれてしまうものです。そうであれば何度でも、向きを変えていくことになります。

力強く
そして、そのようにして、いつでも神様へと向きを変えていく生き方は、実は私たちの力では成り立たないのです。この時、ヨハネには神様の力が働いていて、それでこのような出来事が起きたのでしょう。しかし、ヨハネはこれからはもっとすごい神様のお働きが始まる、というのです。それは、「わたしよりも優れた方が、後から来られる」とあるとおりです(7節a)。この所は、以前の口語訳や、新改訳では「私よりも力のある方」となっていました。圧倒的に強いのです。力にあふれているのです。イメージとしては、無敵という感じです。その力にあふれたイエス様が、私の後ろから、やって来るというのです。どんどん迫ってくるのです。そして、強力に私たちの背中を押してくれるのです。ヨハネは、ただ一度、イスラエルの人たちの間で、神様の力を表しましたが、イエス様は、この時から後の時代のすべての人たちに対して、力を振るわれるのです。そして、わたしたちもまた、このイエス様のお働きに背中を押されて、心が変えられ、神様の前に素直になるのです。そうして、いつでも、イエス様によって押し出されるようにして、私たちは、どれほど躓いても、やり直して神様の道を歩むことができるものになるのです。そしてその力は、聖霊によってもたらされます。ヨハネが「その方は、聖霊で洗礼をお授けになる」と言ったのはそのことです。

聖霊の洗礼-逆転の始まり
わたしたちが、イエス様を信じて、洗礼を受ける時に、聖霊のお働きも始まります。そして、私たちの残りの人生は、いつでも、このようにして、イエス様に背中を押していただく歩みになります。このようにたどっていきますと、この一見ヨハネについて語っているように思われた言葉は、イエス様が来られたらどうなるのか、という事を先取りした個所であったことがわかります。この所の出来事は、間違いなく神様の御業です。しかし、この時、イスラエルの片隅で起きたことは、この後、世界中で起こっていくことの先取りです。そして、何よりも私たちの間で起こっていくことです。今は天におられるイエス様は天から私たち一人ひとりに聖霊を遣わしてくださいます。そして、イエス様の遣わされた聖霊が働かれるところではどこででも、今このところから、私たちの人生の逆転が始まるのです。

祈り
父なる神様、御名をほめたたえます。私たちはただ、イエス様によってだけ、あなたを父と呼ぶものとされました。それは私たちが、あなたへと向きを変えることができたからです。私たちが、行き悩むとき、いつも助けください。そして、私たちがあなたに通じる道を日ごとに確かにしていくことができますように。この週の歩みにもあなたの導きが豊かにありますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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