11月1日説教原稿

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11月1日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです

ガラテヤ4:12-20 「何度でもやり直す」
本当のこと
今日の聖書でも、パウロはかなり強い言葉でガラテヤのキリスト者たちに呼びかけています。例えば、16節では「真理を語ったために、敵となったのですか」といいます。どきりとする言葉です。もちろん、これは本気で言っているのではありません。絶対に敵などという事はない、そうなってはいけない、という呼びかけです。そこでパウロが最も大切に考えているのは「真理」です。本当のことです。何が、神様の前で本当なのか、何がガラテヤの人たちために、本当に役に立つのか、誰がガラテヤの人たちに対して本物の愛を持っているのか、パウロはこのように問いかけているのです。本物を見分けようというのです。そこで私たちも、何が本当なのかを一緒に考えたいのです。

塾の譬え
そのために今日は、うまくいくかどうかわかりませんけれども、ちょっとした、たとえ話を考えましたので少しお付き合いください。「街の片隅に小さな個人経営の学習塾があった、と思ってください。先生は、見た目はさえないおじさんですけれども、実は難関大学受験の指導もできる実力の持ち主です。でも、この先生は手広く、中学受験から大学受験まで、子どもたち一人ひとりに寄り添って、その子が一番生きるような選択肢を一緒に考えてくれます。場合によっては、実業高校や、通信制の方がよい、と分かればそれに合った指導をして、多くの子たちは幸せな進路を見つけることができました。ところがある日、その街の駅前にきれいなビルが建って、難関大学合格の実績を売りにした塾ができます。入塾すれば、あの有名国立大、私立大に入れます、というのです。街の小さな塾に通っていた子どもたちや、その親たちの心は揺り動かされてしまいます、あの塾に行ったら本当にあの○○大学に行けるのかな。でも、あのさえないおじさん先生はこんな風に思っています。あの駅前にできた塾は、本当に子どもを幸せにはしない、なぜなら、多くの子を集めてお金を取って、優秀な子に無理をさせて実績をつくって、もっと多く子どもを集めたいだけだから」。これはあくまで、たとえ話です。私は教育産業に喧嘩を売るつもりはありません。でも、パウロとガラテヤのキリスト者が陥っていたのは、このようなことです。

パウロの敵対者
以前にも何度もお話をしてきましたが、パウロには、ライバルがいました。パウロの生き方と教え、すなわちイエス様を信じるだけでよい、むしろ、それに集中した方がよい、という教えに不満があって、やはりユダヤ教に則った生き方をしなくては、という別のタイプのキリスト教を広めたい人たちがいました。その人たちがガラテヤの教会にもやってきて、やっぱり、本物のキリスト者、もっと上のレベルのキリスト者になりたいなら、私たちのようにならなくちゃ、とけしかけたようなのです。そして、ガラテヤの諸教会に集まっていた人たちは、このような教えに心が揺れて、やっぱりそうなのかな、と思い始めてしまっていたのです。それは、このライバルたちが別の教えを熱心に吹き込んだからです。しかし、パウロは、そのようなものたちについて語ります。17節です「あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。」。彼らの本音が透けて見えている、彼らはあなたたちにとって本物ではない。彼らは自分たちのことばかりを考えているのだ。というのです。では、ガラテヤの教会の人たちにとって、ひいては私たちにとって、キリスト者として本当に役に立つこと、とは何でしょうか。

幸せ?
そこでまず目を止めたいのは、16節にある「幸福」という言葉です。これは新改訳聖書では「喜び」と訳してありました。ガラテヤの人たちが大いに喜んでいたというのです。しかし、この言葉は、「祝福」とも訳せます。その場合には、神様から与えられる祝福です。もちろん、幸いと訳しても、喜び、と訳しても間違いではありませんが、いずれにしても確かなことは、そのような幸いであり、喜びがあるというその根本には、神様との一致、神様との良い関係からくる祝福があるのです。そのような祝福を味わっている、という意味での喜びであり、幸いである、ということです。しかも、そのような神様の民としての喜びとは、ただ内面的なものではありません。むしろ、実際の教会生活の中で、生きた体験の中で、味わっていくものです。そして、まさに、パウロと、ガラテヤの諸教会の人たちとの関係こそが、この幸いを味わう体験そのものだったのです。パウロはこのところで、自分がガラテヤ地方を初めて尋ねたころのことを語っています。それは、必ずしも良い出会いではなかったようです。その様子は、13、14節に描かれていますので、改めて読んでみましょう。

パウロとガラテヤの人たち
「知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました」。この所で「体が弱くなった」という言葉の意味は、実ははっきりしません。ある人は、マラリヤだったのではないか、と言いますし、別の人は、視力にかかわる病気だったのではないか、とも言います。もともと、パウロはいかにも立派な感じの風采ではなかったようですが、それに加えて、この場合には、明らかに、人に迷惑がかかりそうな、病らしきもの、それも見た目にもそれがわかるような状態だったようです。丁度今現在でしたら、マスクをして、ゴホゴホと咳をしている、そんな状態を考えてもよいかもしれません。はっきり言って、あまり近づいて欲しくない、厄介なことになりそうな人が、少し休ませてほしい、と言って町に入ってきた、というところでしょうか。ところがこの迷惑なおじさんの話を聞いてみると、どうも普通ではない、それどころかとてつもなくすごいことを言っているように感じられたのです。そこで、本来なら、追い出してもよい所を、むしろ大変尊敬してその教えに聞き入って、とうとうイエス様を救い主として受け入れるまでになったのでした。

キリスト者が目指すこと
そして実は、このような体験こそが、大切です。なぜなら、これは、パウロの弱さを、ガラテヤの人たちが受け容れる体験であったからです。しかも、ガラテヤの諸教会では、さらに進んだことがなされていたらしいということが、15節の後半からわかります。それはこうなっていました。「あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。」証言します、というのですから、これはパウロが実際に体験したことです。もっとも、目を抉り出して、というのはたとえです。人間がまず本能的に守ろうとするのが、目です。その大切な目をパウロのためなら犠牲にしてもかまわない、というほどに、パウロのことを慕ってくれていた、それが彼らといる時に、ひしひしと感じられるほど分かった、とパウロはいうのです。そして、このことは、決してどうでも良いことではないのです。なぜならここにキリスト者の理想が示されているからです。コロサイの信徒への手紙に、キリスト者の理想を語る箇所があります。少し長いのですが、読んでみます。

愛の交わり
「3:13 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。 3:14 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」長々と説明する必要はないと思います。キリスト者における人間の成熟、完成とは、イエス様のような、自らを犠牲にしても、互いを愛するそのような愛の交わりにおいて実現していく、という事です。それはとても具体的なことです。お互い、困ったところがあるのです。大変難しいのですが、それを互いにいたわりあい、受け入れ合うのです。そのように、ガラテヤの人たちは、パウロを受け入れ、また、パウロによって受け入れられました。そうしてパウロと共に歩んでいる時に彼らは幸いだったのです。そして、そのような豊かな関係を支えていたのは、もちろん、イエス様の霊のお働きですが、同時に、パウロの変わることのない忍耐強い愛ともいえます。この手紙を書いている時点でも、すなわち、ガラテヤの人たちがパウロから離れようとしている、この時においてもなお、パウロは間違いなく、愛を持っているのです。それは、そもそも、このところの書き出しが、兄弟(姉妹)たち、という呼びかけで始まり、また、「私の子どもたち」という呼びかけで終わっていることに良く表れています。

母のように
そのパウロの愛について、19節はこのように続いています。「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」パウロはここで、自らを母親にたとえています。母親の労苦をこれからも続けていくというのです。子どもが幼い時から、成人をした後に至るまで、親には心配事が尽きません。その時々に、たとえ困惑するようなことに出くわしたとしても、なお、子どもたちが、幸いに生きていくことができるように、心を配り続けるそのような母親のような労苦を、自分は行う、というのです。「もう一度あなた方を生もうと苦しんでいます」というのはその意味です。パウロは、確かに、困惑しているのです。しかし、希望を捨てないのです。

何度でもやり直す
彼は正直に自分が困っていることをこの手紙で言い表しています。そして、手紙でしか言葉のやり取りができないことを悲しんでいます。一方で、この手紙の言葉が届いて、今あなた方の前に、私が一緒にいて、別の響きをもって語るように、あなた方にわたしの言葉が届くことを願っている、と言います。そして、そのようになることを希望しまた信じているのです。それは、言葉が届くまで、そして、あのキリストにあるまじわりが再び生まれるまで、決してあきらめず何度でもやり直す、という決意の表れです。

祈り
神様、あなたは、私たちを、イエス・キリストにおいてご自身の約束の子としてくださいました。しかし、私たちは、このような幸いの中にいるにもかかわらず、時にそのことがわからなくなり、迷い出やすいものであるかもしれません。しかし、私たちの歩みのすべてに、主イエスの執り成しがあり、また、知らずに祈ってくれている、兄弟姉妹の執り成しがあることを覚えます。どうぞ、このような愛の交わりの中で、私たちもまた、互いに愛し合い、成長していくことができますように。この週の歩みにおいても祝福が豊かにありますように。主イエス・キリストのみ名によってお祈ます。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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