10月11日説教原稿

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10月11日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです。朗読などで用いてください。

ガラテヤ4:1-7 「神の親しさ」
相続人のうれしさを味わうために
パウロがこのところで強く主張しているのは、私たちは間違いなく、もう既に今この時にも、神の子にされていて、神の恵みの相続人だ、という事実です。そしてこのことは、とてつもなく大きな力を私たちに与えてくれるはずです。私たちが、毎日の生活の中で、本当にそうだ、まったく自分は神様の子どもとされて、うれしくてたまらない、と感じられるのならこれほど幸いなことはありません。そこで、今日はぜひこのこと、私たちが日々、心から嬉しい、楽しい、と感じて生きていくために、あるいは、たとえ嫌なことがあったとしても、でも大丈夫、いや、なにくそ、まだまだ、と踏ん張れる、そんな生き方をしていくためのヒントが、今日の聖書の言葉にあるはずですから、それを一緒に探したいのです。

本当の私たち?
このところでパウロは、まず、私たちがどのような状態にあるのか、あるいは以前はどうだったのか、というところから話を始めています。それは、ちょっともったいない状態だ、というのです。そのもったいない状態をパウロは相続人だけど子どもの状態、と言います。今日の1節に「相続人は未成年である間は」とありますように、基本的に私たちは相続人のはずなのだ、というのがパウロの人間観です。そして相続人ですから、いいものを本当は持っているのです。この1節の続きでは「全財産の所有者」とあります。そもそも、人間というのは、神様の子として、よいものをいっぱい受け取る権利を持っている、というのが基本的な考え方です。ところが、子どもの間は、「僕と変わるところがない」と続きます。僕、という言葉は、奴隷とも訳せるようですが、せっかく良いものを受ける権利があっても、実際の所は、それをまだ手にすることができず、むしろ、制限がかかってしまっている、というのです。それで実際にどのような状態であったかというと、一つ飛んで3節にこのように書いてあります。「未成年であった時は」これは子供であった時は、と言い換えてもよいのですが、「世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました」。ここでもまた、奴隷、僕という言葉が出てきました。良いものを受け継ぐ立場にあるのだけれども、余計なものに押さえつけられて、まるで僕のようにしか生きていない、というのです。

私たちは何に縛られているのか
ちなみに、2節で後見人や、管理人という言葉が出てきますが、パウロは以前3章で律法のことを「養育係」(3:24)と呼んでいました。これは、後見人や管理人とほぼ同じ意味です。イスラエルの民にとって、律法が、彼らを支配し閉じ込める役割を果たしていた、ということでした。一方で、このガラテヤ4:3はおそらく異邦人、その場合にはより私たちに良く当てはまる、という事になりますが、異邦人が、主に何に支配されやすいのか、という事を語っているのです。ただし、そこでなお注意したいのは、パウロが「私たち」と書いていることです。3節の書き出しに「同様に私たちも」とあります。パウロはユダヤ人ですけれども、しかし、異邦人と同じように私たちも、この影響を受けている、と言いたいようです。その意味では、ここで登場します者の力は強い、という事になります。ではここで何が問題になっているかと言いますと、「世を支配する諸霊」とある通りです。実は、この「諸霊」とは「諸元素」とも、「森羅万象」とも訳せるようです。それから、この時代の哲学では、世界は四つの元素、「火、空気、水、地」でできている、と考えていたようですし、さらに言えば、この四つの元素は、神様とも考えられていたようです。

わたしたちと諸霊
このようにお話ししますと、なんと無知な、迷信的な、と思われるかもしれません。しかし、そもそも、この2000年前の人たちは、一体何のためにこの諸霊、あるいは神々を拝んでいたのでしょうか。それは、おそらく、より楽に生きるため、よりよい生活のため、だったはずです。一方、私たちは、科学的な知識があります。物質が分子からできていて、それは原子の結合したものだ、と言ったことを知っています。でも、実際の暮らしでその科学知識は何かの役に立っているでしょうか。むしろ、私たちもまた、より、楽で、快適で、自分が良いと思える暮らしを求めているだけではないでしょうか。いわゆる世俗主義です。しかも困ったことに、私たちは、隣の芝は青い、という言葉にあるように、ちょっと隣の人の方が、暮らし向きがよさそうだと、何となく寂しい気持ちになってしまったりしないでしょうか。それはとりもなおさず、実は、私たちも、この暮らし向き、とでもいうようなもの、自分が何を持っていて、何を持っていないか、と言ったことに、かなり深く心をつかまれてしまっているのではないでしょうか。そして、おそらく、私たちがそのようなものであるのは仕方がないことです。私たちはそのようなものだからです。肉において生きているからです。でも、まさに、私たちがそのようなものであることは、実は、奴隷の状態なのではないか、何かに支配されているのではないか、そして、それは実にもったいないことではないか、とパウロは言いたいのです。

私たちの開放-神の子となる
しかしそこで、パウロは、そのような奴隷の状態を終わりにする時が来ているというのです。時は満ちているのです。4節に「しかし、時が満ちると」とある通りです。もちろん、これは、イエス様の誕生のことを言っています。「その御子」と続いている通りです。このイエス様が、私たちのこの世界に来て下った、そして、私たちと全く同じような人間として、限界があって、暮らし向きに左右されてしまうような存在として、しかし、そのような私たちを縛ってしまっているものから、まったく自由になる道を作ってくれた、というのです。この所で、女から生まれたもの、とわざわざ書いてあったり、律法のもとに生まれたと書いてあったりするのはその意味です。人間として、物質の支配のもとに、ユダヤ人としては律法の支配のもとに、生まれた。でも、十字架において、復活において、すべての支配から、自由になる道を開いた、それは私たちを、神様の下へと、買い取るためだった、というのです。5節にあります贖う、という言葉はそのことです。それで私たちは、イエス様によって、それはさらに言えば、イエス様を派遣した、神様によって、買い取られて、養子のようになって、神様の子どもにされているのです。しかも、それは、私たちは普段まったく気が付かないけれども、実はそうなっている、というのではない、というのです。

キリストの霊-アッバ
むしろ、私たちが神の子という立場になるという場合に、私たち自身の中に、具体的な出来事がおきると続いています。それは、「神が、「アッバ父よ」と呼ぶ御子の霊を、私たちの心に送ってくださる」とありますとおりです。御子の霊とは、キリストの霊ですけれども、聖霊の意味です。では何で「御子の」とあるのかですが、それは、「アッバ」という言葉と関係があります。そもそも、イエス様は、父なる神様にむかって「アッバ」と呼び掛けていました。これは、親しみを込めた呼びかけの言葉であることは、皆様ご存知の通りです。そこで大切なのは、神様がわたしたちを子としてくださったのなら、私たちの心に聖霊が送られているという事実です。私たちの心は、私たちの心でしかありません。しかし、その私たちの心の中に新しい働きが生まれて、私たちもイエス様と同じように、神様に「アッバ」と呼び掛けるようになる、ということです。心の中で、「アッバ」という叫びが生まれるのです。そして、そこにおいて、私たちは、初めて、心から、頼るべき方が、誰であるのかがわかるようになるのです。また、それだけではなく、わたしたちは、そこにおいてはじめて、イエス様の兄弟姉妹とされるのです。

キリストの兄弟として
ところで、旧約聖書のエゼキエル書にこのような言葉があります。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。 また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。」(36:26,27)まさに、ここに預言された通り、神様は、私たちの心に霊を置くことによって、私たちの心を新しくされるのです。それは、頑なな、冷たい、神様を理解しない、不幸な心ではなく、温かい、血の通った開かれた肉の心、です。そして、そのような心が与えられる時に、掟に従って歩む、という事が起きます。それは、言い換えますと、イエス様のように歩む、という事です。さらに言うのなら、それは、イエス様のように、神様と共にある喜びに支えられて、人に仕える、そのようなありかたです。私たちの中に、新しい信念が生まれるのです。こう生きるという力が生まれるのです。それは、私たちにとって、人生を生きていく翼を得ることです。そして、それこそが、私たちが本来あるべき姿です。もちろん私たちは、なお、世の支配者が支配する世界の中に生きています。そして、その影響は今も続いています。それゆえ、私たちは、いつでも、心を悩ませる出来事に出くわします。この世界にある限り、イエス様がそうであったように、私たちにもまた、困難なことは起きてきます。

神の親しさ
しかし、そのような日々の問題の中で、様々な時に与えられる試練の中にあったとしても、なお、私たちの中に、私たちの心の中に、聖霊なる神がいてくださり、私たちが、神様に向かって「アッバ」父ちゃんと呼び掛けることができるのです。その声が、もう、神様とそういう関係にあると、教えてくれるのです。あるいは、ただ教えてくれるというよりは、それに気づかせてくれて、実際にそのように呼びかけて、安心することができるのです。私たちは、今既に、このところで神様と親しい関係にあります。なぜなら、私たちは、神様の養子、神様の正当な相続人だからです。この声に励まされて、翼を広げていくことができるのです。

祈り
神様、あなたは、私たちを、主イエスの兄弟・姉妹としてくださいました。それは、私たちが、キリストと共に生き、あなたの子として、自由に生きるためです。その為に、あなたは私たちの心に御霊を与えてくださいました。どうか私たちが、この御霊に助けられ、あなたの名を呼びながら、あなたと共に生きることができますように。主イエス・キリストのみ名によってお祈ます。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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