8月2日説教原稿

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8月2日説教原稿

家庭礼拝のための祈りと説教原稿です。朗読などで用いてください。

牧会祈祷
唯一の不死の存在、近寄りがたい光の中におられる方、誰一人見たことがなく、見ることのできない、王の王、主の主、とこしえの神様。み名をほめたたえます。
あなたは、聖なるおきてを人に与えて、ただしく生きる道を教え、野の草、空の鳥に勝って私たちを愛し、あらゆるよいものをもって満ちたらせてくださいました。
それにもかかわらず、私たちは、アダムにあってあなたに背き、自らの腹を神とし、恥ずべきものを誇り、この世のものばかりを考えるものとなってしまいました。
しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬います。あなたは救い主イエス・キリストとその十字架の死による贖いを信じる者に、罪の赦しを約束してくださいました。願わくば、今、私たちにまことの悔い改めと信仰を与え、主イエス・キリストにあって、あなたの赦しをお与えください。
あなたは、私たちに聖書を与え、御霊によって解きあかし教えてくださっておりますことを覚えます。この日、私たちが、この場に集められ、あるいは、ウイルス対策として、それぞれの家庭であっても、あなたと共に過ごし、み言葉と御霊によって豊かに養われておりますから感謝します。
水害のあった地域の方たちの上に、なお助けを与えていてください。新型コロナ・ウイルスの感染が、再び激しく増加しています。世界においても深刻さは、増し加わっています。なお当たり前の生活を送る日は見通せていません。どうぞ感染被害を防ぐために労苦しておられる、すべての方を、支えてください。今、感染に苦しんでいる方たちに、癒しを与えてください。残念ながら家族を失った方たちをねんごろに慰めてください。また、今はそれぞれの所で礼拝を持つ兄弟姉妹をあなたが格別に覚えて顧み、それぞれの家庭にあって支えてくださいますように。今日も勤労に従事なければならない方たちをささえていてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。

ガラテヤ2:11-14 「誰と食べるかの問題」
感染の原因?
今日は8月の第一日曜日で、本来ですと、礼拝の中で聖餐式を行うはずでした。残念ながら感染対策として、しばらく聖餐式ができずにいます。いささか尾籠な話ですが、食事における感染がとても多いのは、食事、とりわけ会話を伴う食事において、飛沫やエアロゾルが飛び交うからです。もっとはっきり言いますと、大変微小な唾液などが、飛び交って、それが直接、あるいは間接に口や鼻に入るから、という事になります。こんな話をしますと、うわ、汚い、と思われるかもしれません。しかし、まさに、その感覚について、今日は考えたいのです。他人という存在が汚く感じる、ということについてです。これが実は問題の本質に深くかかわっているかもしれないのです。

聖餐と食事
それはそうとして、少し聖餐という事についてお話しします。私たちの教会では、月に一度しか聖餐式を行わずに来ました。同じ改革派教会でも、教会によっては毎週聖餐式を行うところもあります。ただ、そのような教会であっても、夕礼拝においては聖餐式を行っていないと記憶しています。そうしますと、同じ礼拝なのに聖餐式を行う礼拝と、そうではない礼拝が存在しているわけです。その場合に、どちらかの礼拝が、本来の姿ではない、という事になります。そして、結論から言えば、聖餐を行うのが本来の姿であって、聖餐式を行なわないのは、様々な都合によって、それを省略している、という事になります。しかし、そのような礼拝においてもなお、聖餐式によってあらわされている事柄の大切さは、変わりません。いわば、聖餐式を行う理由、聖餐式が現わす本質とでもいうべきもの、それは、いつどのような時においても、教会に、そして、キリスト者一人一人が生きていくうえで、なくてはならないものだと私は考えています。そのような意味で、私たち一人ひとりにとってなくてはならず、教会の名によって行われるあらゆる行事において欠かすことのできないもの、それは、言葉でいえば、愛、あるいは、愛のあるまじわりという事になります。それは例えば、こんなことです。先ほど、他人の存在は汚く感じることがある、と言いました。しかし、他人であっても、好きな人であったらどうでしょうか。その場合には、むしろ、くっついていたい、と感じるのではないでしょうか。物理的には同じ人間であってもです。愛があれば、むしろ寄り添いたいと感じられるという感覚は大切です。問題はそのような感覚がどこから与えられるのかです。

一緒に食べること-ユダヤ教の場合
その場合にやはり聖餐や食事という出来事の理屈は一つの鍵になります。今日の聖書12節に「一緒に食事をしていた」という言葉があります。これはパウロがペテロを非難して、この間まで、異邦人と一緒に食事をしていたくせに、という中の言葉ですが、この「一緒に食事をする」という言葉を辞書で引きましたときに、こんな注意書きがありましたので、紹介します。「同じ食卓で食べることは、ユダヤ的習慣からは同席者の交わりの一員となり、自分がその人たちと全く同じ立場(生き方=信仰)であることを認め、自分をその人たちと同列に置くことを意味した」。いかにも辞書に書いてありそうな言い回しですが、しかし、これがユダヤ人の感覚です。これをひっくり返しますと、全く同じ立場だと思える人、自分と同列の人としか一緒に食事をしない、となります。私たちから見ますと、少々頑なにも思えます。しかし、私が考えますに、このようなハッキリした態度は悪いだけではないかもしれないのです。あるいは、もっと言いますと、私たちが、一緒に食事をすることの前提として、相手を受け入れているという事がまず先にある、という事になるかもしれません。順番としては、食事をするから仲良くなるのではなく、仲が良いから食事をする、という事です。それで先ほどの繰り返しになりますが、ではどうしたら、どんな理由で仲良くなれるのかです。

この場合の福音の真理
所で聖書の内容に戻りますが、11節を見ますと、ペテロは、この時、と言ってもそれがいつなのかはっきりとしないのですが、おそらくは、あのエルサレムでの会議のあと、何かの用事でアンティオキア教会に出かけて行ったのです。そして、彼は、そこで、異邦人たちが次々にキリスト者になっていることを確認し、また、そこで大変自由な、そして幸いな、分け隔てのないまじわりが行わっていること、とりわけ、ユダヤ人も異邦人も関係なく、互いを受け入れあって一緒に食事の席についている姿を見て、彼もまたそれに加わったようです。ペテロは、実はこれよりも前に、神様の幻によって、目が開かれた人でした。使徒言行録10章を見ますと、ペテロ自身が、神を畏れる異邦人である百人隊長コルネリウスという人をたずね、彼とその家族に洗礼を授けたという記事があります。さらに、11章ではその様子をエルサレム教会に報告したことも紹介されています。その使徒言行録10章にこんな言葉があります。「そこで、ペテロは口を開きこういった「神は人を分け隔てなさないことが、よくわかりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられているのです」」(10:34,35)。と語っています。ここが一つの鍵かもしれません。「神によって受け入れられている」、神様が、この人は私のものだ、私が好きな人だと言っている、というのです。この、10章から11章にかけては興味深い言葉が続きますが、いずれにしましても、ペテロが異邦人に対して、ああこの人も、神様が分け隔てなく愛しておられる、というように目が開かれたことは確かです。そして、おそらく、このことをもって、パウロは、今日の所、すなわち、ガラテヤ2:14節で、「福音の真理」と言っています。

ペテロのしたこと
しかし、そうであるにもかかわらず、ペテロは、アンティオキア教会に、エルサレム教会からある人たちがやって来ると、非難すべきことを始めた、それゆえ、自分は人々の見ている前で、反対した、と11節でパウロは大変強いことを言っています。けれども、これはやはりどうしてもしなければならない事でした。その場合の批判すべきこととは、具体的には、ユダヤ人キリスト者の目を恐れて、異邦人と一緒に食事をするのをやめてしまった、という出来事です。では、なぜ、一緒に食事をしてはならないのでしょうか。それは、ユダヤ教の理解に立てば、異邦人は汚れているからです。ばっちいのです。受け入れたくないのです。実際の所、ペテロがどのようにしたのかはわかりませんが、とにかく一緒に食事をするのを、やめてしまったのです。しかし、これはペテロにとどまらず、教会を壊していくことになりました。続きを読みますと、13節では、「ほかのユダヤ人たちも、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼の見せかけの行いに引きずり込まれた」とありますとおりです。教会に溝が生まれてしまったのです。しかも、それだけではありません。心を欺くことが起きています。ペテロも、アンティオキアのユダヤ人キリスト者たちも、バルナバも、自分の心を偽ってしまっている、というのです。

心にもない-心の変化
彼らは何を偽ったのでしょうか。パウロに言わせれば、ペテロたちは、本当のことを知っていたはずだと言いたいのです。では、ペテロたちが知っていた本当のこととは何でしょうか。14節にはこうあります。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活している」。ユダヤ人として、かくあるべき、という生き方がありました。それは先ほども、お話しした、異邦人は汚れている、というような考え方ですし、最初に紹介しました辞書に書いてあった、ユダヤ人の食事のあり方、そこで行う頑なな差別のことです。清いか、清くないか、律法を守っているか、守っていないか、律法を知っているか、知らないか、という事で区別をして、自分たちと違うものは汚い、ばっちい、触りたくない、と言って仲間に入れない、そんなありかたです。しかし、ペテロは、或いは、アンティオキア教会のユダヤ人キリスト者は、それが嘘だと、本当はわかっていました。少なくとも、神様の前では、そのような区別はないと知っていました。これが本当のことです。

何かを強いる?
しかし、ペテロたちは、本当のことを捨てて、しまっていると、パウロには見えました。そしてそれは、ただ彼らだけの問題ではないというのです。なぜなら、そのようにして、本当のことをやめてしまって、律法に従って人を区別する、という事を始めてしまうなら、異邦人キリスト者に、やっぱり、割礼受けようかな、ユダヤ人にならなくちゃ、本物と認めてもらえないものな、という圧力をかけることになる、というのです。それが「ユダヤ人のように生活することを強要する」という言葉の意味です。その場合の一番の問題は、ある人たち、この場合には、ユダヤ人キリスト者ですが、キリスト教会であれば、たいていは強い立場にある人たちが、弱い、少数派の人たち、後から仲間に入ってきた人たちに、いろいろと理由をつけて、こうしなければ、このような人でなければ、というように、条件を付けることがあっていいのか、という問いです。もちろん、そのようなことは赦されません。

あらためて福音の真理
私たちが、一緒にものを食べる時、互いに語り合う時、すなわち教会でいうところの、いわゆるまじわりを持つとき、相手を好ましく、受け入れ合っているのなら幸いです。それはとても楽しいものでしょう。そして、一つだけ確かなことは、今、このところで目の前にいるお互いは、神様によって、イエス様によって受け入れられているという事実です。「神が(キリストによって)清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」のです。聖餐式の食事の中心にあって、私たちを支えるのは、この言葉に根差した愛です。

誰と食べるかの問題
そこで問われるのが、私たちの本音です。私たちの心の中に何があるのかです。お互いを、嫌いと思っているのか、好ましいと思っているかです。私たちがまじわり、ということをいい、一緒に食事をすることをなし、あるいは、聖餐式を行い、礼拝をおこなうその時に、誰をどのように受け入れるでしょうか。私たちの中心に、神様の言葉があれば、神様の思いがあれば、私たちは、お互いに、神の宝の民だ、という事を理解します。そしてそこにおいてはだれと食べるかに拘らない、本物の交わりが実現します。

祈り
神様、あなたは、私たちがどのようなものであっても、主イエスによって清いものとしてくださいますから感謝します。どうか、私たちが、お互いを清いもの、約束されたものの相続者として、互いに愛し合うことができますように。また、その喜びを携えて、この週も、出かけていくことができますように、お支え下さい。主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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