7月26日説教原稿

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7月26日説教原稿

家庭礼拝のための祈りと説教原稿です。朗読などでご使用ください。

牧会祈祷
恵み深い神様。あなたは天と地と海とその中にあるすべてのものを、み旨のままに創造され、今に至るまで大能の御手をもって支配し、守り導いておられます。この御業をおぼえて、心からあなたを賛美し、栄光をたたえます。
この日、私たちが、この場に集められ、あるいは、ウイルス対策として、それぞれの家庭であっても、あなたと共に過ごし、み言葉と御霊によって豊かに養われておりますから感謝します。あなたは、私たちに聖書を与え、御霊によって解きあかし教えてくださっておりますことを覚えます。
私たちは、イエス・キリストを知り、また、キリストに従って生きる救いの道を示されています。しかし、このような大きな憐れみをいただきながら、なお私たちには生まれながらに罪の性質があり、日々罪を犯すものです。いま、私たちは自らの罪を認め、悔い改めます。それゆえ、イエス・キリストによる赦しをお与えください。
私たちに、主イエスが十字架において、ご自身を贖いのささげものとして下さったこと、三日目に復活して、罪と死の縄目から私たちを解放して全く自由にしてくださっていることをますます確信させてください。私たちが、この喜びを自らのものとして、その豊かさを、兄弟姉妹と、また、隣人と分かち合い、あなたによって遣わされます日々の生活の中でも、福音を示すものとしてくだいますように。
水害のあった地域の方たちのことを覚えますとともに、必要な助けを速やかに与えてくださいますようにお願いいたします。新型コロナ・ウイルスの感染が、再び増加しています。世界においても深刻さは、増し加わっています。なお当たり前の生活を送る日は見通せていません。どうぞ感染被害を防ぐために労苦しておられる、すべての方を、支えてください。今、感染に苦しんでいる方たちに、癒しを与えてください。残念ながら家族を失った方たちをねんごろに慰めてください。また、今はそれぞれの所で礼拝を持つ兄弟姉妹をあなたが格別に覚えて顧み、それぞれの家庭にあって支えてくださいますように。今日も勤労に従事なければならない方たちをささえていてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。

ガラテヤ2:1-10 「自由の訪れ」
明日への思い
有名な赤毛のアンシリーズの第5作目に、エリザベスというかわいそうな女の子が登場します。彼女は、家庭の事情で、とても厳格な祖母の家に引き取られてしまい、愛情を感じられずにいました。そんなエリザベスは、ひたすらに「明日」を夢見ながら、日々を過ごすようになります。彼女の「あした」には、顔も覚えていない父親が、いつか迎えに来て、愛情あふれる生活を送るようになる、というように彼女が考え出した楽しい空想がたくさん詰まっています。ところで、私たちにとって、このような、夢のような「あした」は、あるでしょうか。また、あるとすればそれはどのようなものでしょうか。実は、今日の聖書でパウロが語るのは、彼にとっての来るべき「あした」を戦い取った、それもみんなのために、ガラテヤの人たちを含めて、おそらく私たちをも含めて、教会に関わる全ての人のために、「あした」を守った、そういう話として読むことができます。

聖書にあるあした
その場合に、パウロが守り抜いた「あした」とはいったい何でしょうか。その手掛かりはやはり聖書にあります。イザヤ書61:1を読んでみます。「 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために」。ここではいくつか鍵になる言葉があります。一つは、「貧しい人に良い知らせを」という言葉です。今日の聖書の、最後10節では、ペテロたち、エルサレム教会の側に立つ人たちと、パウロたちとの間である合意が成立した後に、お互いに、キリストにある教会として、大切にしたいこととして、「貧しい人たちを忘れない」という約束が取り交わされた、と書かれています。実は、これはかなり重要なことなのかもしれません。私たちが、キリストの教会を名乗る場合に、もちろん、様々な現実的制限があるのは間違いないのですが、それでもなお、貧しい人と向き合うこと、貧しい人の存在を忘れない事は、どうしても外せないことです。しかし、それと全く同じ重みをもって、このところでは、「捕らわれている人に自由」とあります。先ほど、「あした」という言葉を使いました。それは、何よりも、このようなイメージ、すなわち「何かに捕らわれている状態から自由にされる」という事と一致するように感じられます。そして、忘れてはならないのは、イエス様ご自身が、ルカによる福音書によれば、このイザヤ書の言葉を引用して、「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたときに実現した」(ルカ4:21)と宣言されたことです。

パウロは何を大切にしたのか
実は、私たちキリスト者にとって、「捕らわれからの自由」という、「あした」の実現は、何も遠い未来のことではなく、むしろ、イエス様によってすでに実現しているのです。そして、イエス様を信じる人はだれであれ、たとえ、現実の身分がどのようなものであっても、この「あした」の世界、神様によって自由にされた世界、に生き始めることができるはずなのです。それはもう少し具体的には、パウロのコリント書の言葉にも表れています。「召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい」(コリントⅠ7:12)。これは一見不思議な言葉です。奴隷であるものが、その身分のときにキリストを信じたのなら、その後、せっかく自由になる機会があっても、奴隷の身分のままでいろ、という意味です。ずいぶんひどいことを言っているように聞こえます。しかし、これは、たとえ、この地上における身分がどのようなものであれ、あなたはもっと素晴らしい自由をすでに手にしている、キリストの僕としての身分、キリスト以外にどうしても従わなければならない存在はない、という意味で、まったく自由にされている、ということを言いたいのです。それは例えば、ルターが、皇帝によってウォルムスという町の会議に招かれた時、居並ぶ貴族たちを前にして、「私は取り消すことはできませんし、取り消すつもりもありません」と言い放ったことによく現れています。

恵みのみ
そこで大切なのは、私たちキリスト者はすでに自由にされている、という事実です。どうも、そんな気がしない、相変わらず様々に不自由で気が滅入る、と思われる方があるかもしれません。私自身も時に、そのように感じることがあります。気が弱っているときには、なぜ、という思いに襲われることもあります。しかし、問題は、その時々の私たちの気分ではないのです。むしろ、問題は、私たちの身分です。私たちが自由にされている、という時に、その根拠は、私たちがキリストのものである、というただそれだけにかかっています。あるいは、そのはずです、と言った方がいいでしょうか。実は、このところが問題です。私たちがキリストのものである、という場合に、それは私たちがイエス様を救い主として信じている、という事以外ではないはずです。そして、そのように信じられるようにしてもらえる、というのが教会でいうところの「恵み」です。私たちは「恵み」を受けて、イエス様のものとされたのです。あるいは、これから洗礼を受ける方はそうなるのです。ところが、教会には最初から、そのような恵みに対して、ある条件を付けようとする人たちが、存在していたようなのです。それが、パウロがこのところでいう、偽兄弟と書かれてしまっている人たちです。

テトスの問題
彼らは、パウロが、聖霊に導かれてバルナバと一緒にエルサレムに登り、教会の主だった人たちと会議をしている、その所に「もぐりこんできた」と4節にあります。彼らの目的は、パウロたちの「自由をつけ狙う」ことだといいます。パウロが人々に知らせた福音、その中心にある自由を崩すことを狙っている、というのです。では、その彼らが問題にしたのは何だったのでしょうか。実は、このパウロたちの訪問には、テトスが付いてきていました。1節にある通りです。テトスは、パウロの次の世代であり、どちらかと言えば弟子という位置づけですが、コリント書では、彼のことを「同志」と呼んでいます(コリントⅡ8:23)。一緒に働く大切な仲間とパウロは考えていました。実際に、これよりもかなり後ですが、一つの教会を任せられるようになります。そして、テトスは3節を見ますと「ギリシア人」となっています。この場合、厳密な人種の問題というよりは、ユダヤ人に対する異邦人である、という事に重大な意味があります。テトスは、異邦人でありながら、異邦人キリスト教会でそれなりの役割を果たしている人として、この時、エルサレム教会にやってきていました。そして、私たちにとっては、意外なことですが、この時代、教会の中心はエルサレムで、キリスト者の中心は、ユダヤ人でした。さらに言えば、異邦人キリスト者は、例外的な存在、珍しい人たち、という扱いであったようです。

教会はユダヤ人のもの?
繰り返しますが、キリスト教会はそもそも、ユダヤ人のもの、というのが当時の常識でした。キリスト者であるという事は、ユダヤ人である、というのがそもそもの始まりでした。イエス様でさえ、人種や宗教の枠組みでいえばユダヤ人以外ではない、といえます。そして、ユダヤ人の特徴として最もはっきりしていたのが、割礼でした。イエス様もまた、律法の通り生まれて八日目に割礼を受けた、とルカ書に記されています(2:21)。そして、このことはどうでも良いことではなく、最初のころの教会に属した人たちの中には、キリスト者になるとは、ユダヤ人となって、ユダヤ人になったしるしに割礼を受けなければいけない、と主張する人たちがいました。それが、このところでいう、偽兄弟とパウロに言われてしまっている人たちです。一方で、ペテロたちはどうだったかと言いますと、どちらでもいい派、だったようです。キリスト者になるのに、特に割礼を受けなくても、いいし、受けたければそれでもいいし、どうせ例外的な人たちなのだから好きにさせておけば、という理解だったようです。

どちらでもよいでいいのか
これは一見穏やかで、妥当な判断のような気がします。しかし、そこには問題が隠れています。それは、ペテロたちにとって、割礼を受けていない異邦人のキリスト者は、あくまで例外的な存在、教会の主流ではない、脇役のような人たち、という理解だったからです。あくまで、本当のキリスト者、一流のキリスト者は、割礼を受けてユダヤ人になった人たち、それ以外の人たちは、いわば、二流のキリスト者とでもいうような考え方です。そしてこのことの問題の本質は、人間の人種や、信念、行動、もっと具体的にいえば、割礼を受けるかどうか、という意思決定によって、本物の、キリスト者、と曖昧なキリスト者もどきが区別されても仕方がない、という事になってしまうところにあります。しかし、その点では、私たちもまた、大いに自分たちのあり方を振り返ってみる必要があるかもしれません。例えば、これは、ある人たちにとっては、耳の痛いことかもしれませんが、名誉○○といった呼び名が、教会の中でつかわれることがあります。何か偉大な業績を残したキリスト者は、そのことで讃えられ、そうでない人たちは、つまらない、平凡なキリスト者、忘れ去られてもいいキリスト者、というような区別があるかのようです。

教会はみんなのもの
そんな馬鹿な話はありません。絶対にありません。また、そのような区別をするのであれば、神様の恵み以外に、私たちの行い次第で、神様から恵みを受けられるか、受けられないかが影響を受けてしまうことになります。パウロは5節で「福音の真理」と言います。大切な言葉です。福音とは言うまでもなく、よい知らせです。そしてよい知らせとは、私たちがどのようなものであっても、イエス様を示していただくことができるし、イエス様を信じて受け入れるようにしてもらえる、すなわち、誰でも、新しく生きることができる、という事自体です。そして、このことは何を置いても曲げてはならないのです。だからこそ、パウロは言います。「福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。」パウロは言うのです。あなたたちのために、福音を福音のままに守った、と。そして、パウロの戦いの足跡は、この後、11節以下でも確かめることができます。そこでは、パウロはペテロですら、ものともせず、おかしいと指摘することができるのです。

自由の訪れ
しかし、いずれにしましても、私たちは、今既に、この新しい自由に生きるものとされています。たとえ、私たちが、時に、暗い思いにとらわれたとしても、自分自身に失望するような時があったとしても、なお、私たちは、いつでも私たちにとどまってくださっているイエス様とその真実によって、支えられているのです。パウロが願うのは、ガラテヤの人たちが、また私たちが、そのことに目が開かれていくことです。

祈り
神様、あなたは、私たちがどのようなものであっても、変わることなく愛して下さり、主イエスによって、ご自身のものとしてくださっておりますから感謝します。どうか、私たちが、いつでも、この福音の真理に堅くとどまり、あなたにある新しい希望によって生きるものとなれますように。この週の歩みもあなたにあって支えられますように。主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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