5月3日説教

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5月3日説教

家庭礼拝のための祈りと説教原稿です。

牧会祈祷
聖なる、聖なる、聖なる、三つにしてただ一人にいます、生けるまことの神様。あなたの尊いみ名を賛美します。イースターから四週目となり、ペンテコステが近づいていることを覚えます。あなたが、その全能のお働きにおいて、私たちを生かし、あなたのものとして今この時もいかしてくださいます故に感謝いたします。
私たちは、あなたが一切を私たちのために配慮してくださることを知っております。しかし、なお、ウイルスの災いは私たちの身近にあります。あなたのみ旨は私たちに測りがたく、このような困難の中にも、御心があることを覚えます。しかし、そのような中にあって、わたしたちが、思いと言葉において、人を愛することに背く歩みをしていたかもしれません。どうか私たちの罪を御子のゆえに赦してください。また、私たちが、このような困難をも、あなたから与えられた時として、自らを省み、変えるべきところを変える機会として用いていくことができますように、なお、私たちの思いを整えてください。
どうぞ、この時に、私たちの目が、あなたの良い知らせに対してますます開かれ、福音の喜びを自らのものとして、その豊かさを、兄弟姉妹と、また、隣人と分かち合い、あなたによって遣わされます日々の生活の中でも、福音を示すものとしてくだいますように。その為に、み言葉を聞く私たちに聖霊の助けを豊かに与えていてください。
緊急事態宣言が延長されます。今この時も、ウイルス感染拡大の中で、労苦しておられますすべての方たちを、あなたが支え励ましてください。感染の症状に苦しんでいる方たちをいやし、励ましてください。残念ながら家族を失った方たちをねんごろに慰めてください。また、今はそれぞれの所で礼拝を持つ兄弟姉妹をあなたが格別に覚えて顧み、それぞれの家庭にあって支えてくださいますように。今日も勤労に従事なければならない方たちをささえていてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。

ヨハネ10:1-10 「イエスの声」
二つの譬え
今日の聖書はイエス様がご自身について二つの譬えを語られるところです。一つは羊飼い、そしてもう一つは門です。どちらにも共通するのは、羊飼い、そして羊の牧場の門は、どちらも、羊たちの普段の生活に欠かせないものであるという点です。羊たちが健やかに日々を過ごしていくために、彼らの生活の中に当たり前にあって、その生活を守っているもの、それが、羊飼いであり、牧場の門です。さらに言いますと、この場合の羊の群れは、私たち自身、すなわち、ごく当たり前の人間のことです。人間が、このようにしたら、幸せに生きていくことができる、生き生きと日々を過ごしていくことができる、そんなうれしい生活を当たり前のように支えてくれるものがある、そこにあなたも参加しないかと、私たちを招く言葉としてぜひこのところを読みたいのです。

今ということ
そこでさっそく、羊飼いと私たちの関係についてお話ししたいのですけれども、今日はその前に、ちょっとだけ、時間というものについて考えてみます。わたしたちは、普段、小さなことから大きなことまで、いろいろなことを選びながら、生きています。今日はちゃんとしなくちゃいけないから、この服にしよう、とか、今日のお昼は何を食べようか、昨日はラーメンだったから、今日はパンにしよう、と言ったように、何かを選びます。そうしますと、選ばなかった可能性はどうなっていくのでしょうか?例えば、ある人がA高校に進んで、そこで、物理担当の素晴らしい先生に出会って、励まされて理系のB大学に行って、Cという技術系の会社に入った、としますと、この人は技術者になる道を選んだわけです。でも、ひょっとしてEという高校に進んで素敵な国語の先生に出会っていたら、その人は今頃、作家を志していたかもしれないのです。というように考えてみますと、いろいろな可能性とその結果が、無限に広がっているように感じられます。SFとか空想科学小説と言われるものに、パラレルワールド、という世界観が出てきます。こうだったかもしれない世界が、いくつもいくつも並行している、と言った考え方のようです。しかし、実際には、そのようなことはないらしいのです。時間とは、ただ一度きりの今の積み重ねであって、それ以外の可能性はそもそも存在しない、というのが科学的な答えだそうです。

羊飼いと羊
私たちは、ただ今の、この時を生きるしかないものです。一つの今にしか生きられない、この事実は生涯変わりません。そして重要なのは、その時々の今が、どのようであるのか、その一度しかない今この時を、誰と一緒にいるのか、です。さらに言うのなら、私たちが当たり前だと思っている、今、一体何に支えられているのか、考えたいのです。そこで、一つの風景を思い浮かべてみます。それは羊飼いと羊の姿です。今日の聖書の3,4節と改めて読んでみます。「10:3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。10:4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。」ここではいくつも大切な言葉が登場していますけれども、今は、こまごまとしたことはしばらく置いて、まずこの言葉全体のイメージを思い描きたいのです。羊飼いは一頭一頭の羊の顔がわかっています。名前を知っています。もっと言えば、その羊らしさ、癖、性格もはっきりと知っています。その羊飼いに名前を呼ばれると、羊たちはうれしくなります。そして、うれしくなって羊飼いの後を、安心してついていきます。なぜなら、この羊飼いについていけば、いいことがある、安全だ、と分かっているからです。こうして、羊飼いを先頭にして、羊たちはぞろぞろと、その後をついていくのです。もちろん、これは、たとえです。そして、最初にお話ししましたように、これは、イエス様と私たちの話です。私たちは、ただ一度しかない、人生のただ一度の今を、イエス様と一緒に歩くのです。その今が先へ先へと進んでいく様子が、このところの羊飼いと羊の行進として示されているのです。私たちの人生は、羊飼いであるイエス様に一緒についていく、そのような幸いな今の連続によって成り立っていくのです。

イエスという門
しかし、一方で、イエス様はあえて、このところで、もう一つのイメージを語っておられます。それは、門です。7節を読んでみます。「ヨハ10:7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。」。羊飼いである、と言われ、また、門であるといわれますと、少々混乱しますが、これは、バラバラなことを言っているのではありません。むしろ、前の譬えとつなげて読みますと、同じことを別の角度から見ていることがわかります。前の譬えでは、羊たちは、羊飼いであるイエス様と一緒に出掛けていく、そのようなイメージが語られていました。ここでは、そのような生活をずっと続けていくために、基地のような場所がある、という話です。それは、羊の囲いです。外から悪いものが入ってこないように、柵で囲われた場所がある、それは、まったく安心できる場所です。その出入口自体が、イエス様なのだ、というのです。その様子を具体的に描くのが、9節です。ここも読んでみます。「ヨハ10:9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」。「私を通って入る」とあります。もちろんこれは、たとえですから、このまったく安心できる場所とは、おそらく、神の国のことです。私たちは、イエス様という門をくぐって神の国へと入っていくのです。

入門するとどうなるのか-救われるとは?
そうすると、私たちは、神の国という柵の中で守られている羊のようなもの、という事になります。ところで、すでに私たちは、この2か月ほど、暗い思いをもって過ごしています。ほんの数か月前まで、私たちは、なんとなくこのままの世界がこれからもずっと続いていくものと思っていました。中国の武漢で新しいウイルスが発見された、と知った時にも、どこか遠い世界のことのように思っていました。しかし、そのウイルスは、いまや、私たちのすぐそこまで来ていて、先日も、すぐそばのコープや、カインズというホームセンターで、従業員の方に感染者が出たと知らされました。今は、出歩いて買い物をするだけでも、ある危険を冒さなければならない、そんな中で私たちは、生活をしています。この状況は少々大げさに言えば、詩編23編にうたわれている、死の影の谷を歩く、そんな状況であるかもしれません。死がすぐそこに顔をのぞかせていると言えなくもないのです。いわば、死と隣り合わせ、なのかもしれないと、私たちは気づき始めたのです。しかし、そこにおいて、まさに、死がすぐそこにあるにもかかわらず、門を通って神の国に入る人には救いがある、とイエス様ははっきりと約束されるのです。

イエスとともに歩く-たとえコロナでも
では、そのような救いとは、どのようなものでしょうか。「その人は、門を出入りして牧草を見つける。」。これもまた確かな約束の言葉です。牧草は、いうまでもなく羊の食べ物です。しかし、これもまた譬えです。牧草、それは命の糧です。私たちには、イエス様という門があります。そこから出かけていくものは、ここが大切なところですが、このイエス様という門から出かけていくものこそは、死にそうな中でも、かならず生きる道を見つけ出すのです。イエス様に入門した人は、死の力に対抗して歩み始めるのです。私たちの人生は、ある意味では、いつでも、死と向き合っていると先ほどお話ししました。けれども、そのような死の力に向き合い、日々困難な状況と向き合う力が日ごとに与えられる、というのです。それがこのところで「牧草を見つける」という言葉で示されているものです。私たちは、イエス様から出発する時にこそ「日々命の糧」を見つけ出すのです。そうして、イエス様に送り出され、また、イエス様へと帰っていくのです。その時にはイエス様こそが、私たちの人生の土台となり道にます。このようにして、私たちは、日々、死の力、滅びの力へに立ち向かうものにされるのです。しかし、今日は、このところまで、触れずに来たことが一つあります。それは、7節の「はっきり言っておく」という重要な言葉ではじまっているように、1節もまたこの「はっきり言っておく」で始まっていたという事実です。

警告の言葉
そして、1節の言葉は、間違いなく、警告の言葉です。そこで語られておりますのは「盗人、強盗」です。盗人と、強盗の違いという事はともかくとして、ではこの盗人とは誰なのか、と考えたくなります。おそらく、今日の所の後、11節以下の言葉と併せて考えますと、この一節に登場します、不法に柵を乗り越えて、羊をどうにかしようとする盗人は、イエス様の偽物、という位置づけであることがわかります。いわば偽イエス、です。そして、これは大変申し上げにくいことですが、牧師は、時にこのような偽イエスになってしまう危険性が十分にあるのです。牧師が、教会員に対して、私についてくれば大丈夫だ、私があなたたちを守ってあげるといい、そして教会員はぞろぞろと牧師の後をついていく、というのは、やはりどこかおかしいのです。もし、牧師がそのようにふるまうなら、彼らは羊の囲いを不正に越えようとするもの(1節)、であり、羊に不当に語り掛けようとするものです。もっとも、羊はそのような声は知らないので、逃げさると5節に書かれています。しかし、そうであるにもかかわらず、盗人は羊を盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりする、存在なのだと9節では語られています。間違いは起こり得るのです。ただし、このようなことを確認したうえで、私はあえて言いますが、ここで描かれております、盗人を、誰か特定の人、というように直接、現実にあてはめて考えることについては、とても慎重でなければいけないとも思うのです。この人は正しいのだろうか、この人は偽物ではないか、と疑っていく時に、おそらく、わたしたちは別の意味で間違うのです。

イエスの声‐イエスから離れない
改めて6節の言葉を確認します。「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことかわからなかった」。ここで登場しますのはファリサイ派です。一つ前の9章の後ろの方をみますと、ファリサイ派の人たちは、自分たちこそが正しいものだ、と繰り返し主張し、イエス様にあなたたちは目が見えてないといわれて怒っていた、という事が書かれています。問題は、自分たちは正しい、自分たちは物事がわかっている、という事を疑わないこの人たちこそ、イエス様の語られたこのたとえ話を全く理解できなかったという事実です。「彼らはその話が何のことか分からなかった」のです。ここに一つの逆説を見ることができます。自分に信頼し、自分の目で見て判断する、自分たちこそ正しいので、イエスという男を簡単には信じない、と力んでいる人たちこそ、実はイエス様に入門することができなかったのです。
それで、一つのことが明らかになります。人の声、人が思い描く正義、そのような人間に頼ろうとする一切の思いこそ、実は、イエス様の声を聞くことを妨げるのです。ですから、このところでいう盗人は、具体的なだれか、ではないのかもしれません。むしろ、イエス様から引き離そうとする声です。

イエスの声
しかし、羊は、そのような声ではなく、イエス様の声を聞いて、イエス様という門に飛び込むのです。そして、イエス様と共に歩むものは命を得るのです。イエス様に自分の名前を呼んでもらい、イエス様と一緒に歩む人生に入れられるのです。それゆえ、私たちはこのイエス様による招きの言葉を聞いて、それにこたえるものとして、豊かに命を受ける者として歩みたいのです。

祈祷
主イエス・キリストの父なる神様。私たちには、主イエスという万軍の土台があります。私たちは、いつでもそこから出かけていくことができます故に感謝いたします。どうぞ、私たちのこの週の歩みが、主イエスによって導かれ、また、主イエスに従って歩むものとなり、それぞれに命の糧が豊かに与えられますようお願いします。主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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