4月12日説教

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4月12日説教

牧会祈祷と説教原稿です。家庭礼拝でお使いください。

牧会祈祷
唯一の不死の存在、近寄りがたい光の中に住まわれる方、だれ一人見たことなく、見ることができない、王の王、主の主、とこしえの神よ、み名をほめたたえます。あなたは、ご自身の一人子を世に遣わし、十字架において罪に対して勝利を勝ち取らせ、また、墓の中から永遠の命へと蘇らせ、私たちの新しい命の初穂としてくださいましたゆえに感謝いたします。
私たちは、始祖アダムいらい、あなたのみ旨からそれ、自らの思いによって生き、弟子たちが復活の主に気づくことができなかったように、なお、暗さの中で迷いがちなものであるかもしれません。
しかし、あなたは、そのような私たちを、復活の主イエスを通して一人一人の罪を覆い、ご自身のもとへと招いてくださいます故に感謝いたします。どうぞこのイースターのうれしい日に、みずらかの暗さを悔い改め、私たちが主にあってすでにあなたのものとされておりますことを確信させてください。
また、私たちが、この喜びを自らのものとして、その豊かさを、兄弟姉妹と、また、隣人と分かち合い、あなたによって遣わされます日々の生活の中でも、福音を示すものとしてくだいますように。
新型コロナウイルスの感染拡大が日ごとに伝えられ、なお先行きが見えない中におります。このウイルスの被害を防ぐために労苦しておられる、政府関係者の方たち、行政の方たち、医療従事者、ボランティアなどの活動をされている方に至るまで、あなたが支え励ましてください。感染に苦しんでいる方たちに、癒しを与えてください。残念ながら家族を失った方たちをねんごろに慰めてください。また、今はそれぞれの所で礼拝を持つ兄弟姉妹をあなたが格別に覚えて顧み、それぞれの家庭にあって支えてくださいますように。今日も勤労に従事なければならない方たちをささえていてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。

説教「夜明けをついて」ヨハネによる福音書20章1-10節

暗いうちに
いよいよイースターとなりました。今日の聖書もまた最初のイースター、復活の日の朝早くのようすを知らせる箇所です。この所のヨハネの記事の特徴の一つとして、「まだ暗いうちに」と書かれていることがあります。他の福音書では、じつは夜が明けてから女性たちが出かけているように読めるのですが、このところではそうでなく、あえて、暗いうちからマグダラのマリアが行動し始めているのです。そしてこのことは、ひょっとすると、著者であるヨハネの意図が現れているのかもしれません。ヨハネによる福音書の語りだしである、初めに言葉があった、というところは大変有名ですが、言の中に命があって、その命とは、人間を照らす光であった(1:4)と続いていました。ちょっと縮めてしまいますと、言葉であるイエス様は光である、こんなように言うこともできます。実際の所イエス様は、弟子たちに対して、ご自身を「世の光」と言われました(8:12、9:5)し、ご自身がしばらく、世にとどまっていることを、「光のあるうちに」と言われました(12:35)。しかし、このところでは、墓という存在と、暗闇、という事実によって、それはその時の現実の時刻だけではなく、この時弟子たちが置かれた状態を指しているようにも感じられるのです。すなわち、彼らは、いまだに光を見出していないのです。そして、それは何も、この時の弟子たちだけの問題ではないかもしれないのです。私たちの住むこの世界が、あるいは、私たち自身が、光をしっかりと見出しているかどうか、じつは、今日この所を一緒に読むことで、このことについて考えたいのです。

急ぐ理由
このところは、マグダラのマリアと、ここには書かれていませんが、おそらくは何人かの女性たちが、イエス様が埋葬された墓へと出かけて行った、というところから語り始めています。しかし、彼女たちが見出したのは、ふたをするはずの大きな石が取り除かれて、洞穴が見通せるようになってしまった状態の墓だったようです。これをみたマリア達は、一大事だ、というので、急いでペテロたちのいる家へと走って帰ります。そして、語られたのが2節の叫びです。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、私たちにはわかりません」。「とにかく大変なんです、どうも何人かの人たちが墓を荒らして、イエス様を運び出してどこかにもっていってしまったようなんです、なんて恐ろしい、悔しいことでしょう」。と最後の部分は私が勝手に付け足した言葉ですが、たぶんマリア達はこんなことを思っていたのではないでしょうか。そして、それを聞いた、ペテロと、もう一人の「イエスが愛しておられた弟子」もまた、これは大変、という事で、墓に向かって、まるで競争をするかのように走っているのです。そして結果から言えば、あの「もう一人の弟子」が先に墓の前にたどり着くことになります。しかし、そのうえで、ちょっと立ち止まって確認したいことがあります。それは、マリア達にしても、この二人の弟子たちにしても、いったいなぜこれほどの勢いで走っているのか、ということです。彼らが走ったのは、ある意味では自然なことですが、それは当然ながら、うれしかったからではありません。むしろ、浮足立っている、という言葉がふさわしいのではないでしょうか。何が起こっているのかわからない、どうしていいのかもわからない、ただ、なにか、とんでもない悪いことが起きているような気がする、とにかく事実を確かめなくてはならない、そんな思いなのではないでしょうか。

不安におされて走る
ところで、新型コロナウイルスのために私たちは、今も不自由な生活を強いられています。今よりも少し前、非常事態宣言が出るぞ、出るぞ、と言われていたころ、スーパーでの買い占めが一部で問題になったことがありました。そのような時にテレビのコメンテーターが、買い占めをする人の心理について、「あれは安心するための行動だ」というようなことを言っていました。人間というのは、不安な中で、具体的にするべき対策が見つからないと、まずは自分のできることをして安心しようとする、という分析ですが、そういわれますと、何となく自分でも思い当たるところがあるような気がします。おそらく、この時のマリア達も、ペテロたちも、心の中には、大きな不安があったのではないかと思われるのです。そして、その不安が彼らの背中を押して、競うように走る、という行動になって現れているのではないでしょうか。そして、このような不安に包まれた状態もまた、ある意味では先ほど確認した、暗闇につながる思い、物事がよくわからない、本当に信じるべきものがよく分からなくなってしまっている、そのような意味での、暗さに通じているように見えるのです。不安に心をつかまれてしまっているときに、私たちは、誰でも暗闇の中にあるのかもしれません。

知らない
そのような意味で、本来知るべきこと、本質的なことを理解できない、これがわたしたちの問題だとすれば、それを端的に表す言葉があります。それは、9節の言葉です。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」。聖書の言葉とは、この場合、私たちにとっての旧約聖書のことです。当然ですがイエス様の時代には、新約聖書はありませんから、聖書と言えば旧約の律法、預言、歴史、詩歌といったもののことです。そして、実際の所、使徒言行録をみましても、パウロの書簡をみましても、ペテロやパウロは、旧約聖書を駆使して、イエス様こそが、イスラエルが待ち望んだ救い主である事、それもすべての人にとっての救い主であることを、雄弁に語っているのを見ることができます。しかし、ほかでもない、そのペテロが、そしてイエス様に特別に愛されたもう一人の弟子もまた、この時点で、今目の前で進行中のイエス様に関わる出来事と、聖書の言葉を結び付けて考えることはできなかった、というのです。
そして、おそらくそれは仕方がないことです。ちょっと話がわきにそれますが、この所、息子の英語学習のことでいろいろと頭を悩ませています。私もまた、一応仕事で英語の本をたまに読む必要があって、いつも困っているという事もありますが、先日、ある英語教師の自伝のような本を息抜きに買って読んでみました。その人は、実は中学校で、英文法を習った時にはそれほど好きになれなかったそうです。ただ、素敵な発音をする英語の先生がいて、その発音に心惹かれて、一所懸命英語のスピーチに取り組むうちに、だんだん英語が面白くなった、という事でした。そして、かなり後になって英文法に改めて取り組んでみると、なんだ、自分がしゃべっている英語はこんな構造なのか、という事がよく分かったそうです。このことから思わされるのは、頭で理解することよりも大切なのは、体験、体で分かることだ、という事実です。

愛された弟子
その意味で、このところでまず私たちが目を留めたいのは、あのイエス様に愛されたもう一人の弟子です。彼の素性が明かされていないことは、特に問題ではありません。ただ、ハッキリとしているのは、彼もまた、先ほど確認したように、聖書の言葉と、目の前で展開しているイエス様に関する出来事とをうまく結びつけて理解することができずにいた、という事実です。ただ、彼は、このところで、ペテロに先立つものとして、三つのことをしています。一つは、ペテロよりも速く走って、先に墓の前についた、という事です。4節にある通りです。しかし、それだけではなく、彼は、ペテロより先に、墓の中を見ています。5節はその様子を報告しています。「身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった」。なんで、中に入ってみなかったのか、はとりあえず置いて、この新共同訳聖書では、一つの言葉が、消えてしまっています。それは、「見る」、という言葉です。この所は、口語訳でも、新改訳でも、新しい協会共同訳でも「亜麻布が置いてあるのを見た」と、はっきり「見た」と訳しています。ところが新共同訳だけ「のぞく」という、まるでちらっと眺めただけのような言葉に訳しています。しかし、これは、まじまじと見たのです。見て何かを感じ取ったのです。そして、実は、ここと全く同じ言葉が、7節のペテロの所でも繰り返されています。ただし、ペテロのところは「亜麻布が置いてあるのを見た」(6節)とこちらは、はっきり「見た」と訳しています。二人とも、イエス様がその所からいなくなったのを、それも、遺体が盗まれたのではないようであり、まるでそこでイエス様が着替えをしたかのように、亜麻布と顔を覆う布が脱ぎ捨てられているのをしっかりと見たのです。

死で終わらない
そして、この単純な事実からわかることがあります。それは、マリアが言うように、イエス様の遺体は、誰か複数の人たちがやってきて、墓をこじ開けて、どこかへと運び出して、どこか分からないところにひっそりと置かれている、という事ではなく、むしろ、忽然と墓の中から、消えていった、あるいは、より正確に言うのなら、ご自身の力で、死に装束を脱ぎ捨て、着替えをして、墓から出ていかれたのだろう、という事です。さらに言うのなら、イエス様は、そのような意味で、墓という、死の力、暗闇の力を表す場所に、留まる方ではない、というあまりにも当たり前のことを、この出来事は物語っているはずなのです。あるいは、そもそも、このようなからっぽで、脱ぎ捨てられた亜麻布と顔覆いがたたんでおいてあったという事実が、後にペテロに「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」(使徒2:24)という力強い説教の言葉を語る原体験となっていったのです。しかし、ペテロが、このような強い確信をもって、イエス様のご復活を語りだすためには、なお、別の体験が必要でした。そして、その始まりは、今日のこのところで起きた一つの出来事に、求められます。

信じ始める
最後に8節を読んでみます。「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」重要なのは、この「見て、信じた」という短い言葉です。彼が何を信じたのか、このところでは特に語られていません。さらに、先ほどすでに語られた通り、二人とも、聖書の言葉についての理解がなかった、と直後に書かれていますから、このところはよくわからない言葉のように感じられるかもしれません。しかし、このところではっきりとしていることがあります。それは、この弟子は、ペテロにしても同じことですが、たとえ、この時、聖書とイエス様の歩みとをうまく結びつけて理解することができなくても、イエス様に愛されていた、という明確な事実の中に生きていた、という事です。そして、たとえ、聖書の言葉で目の前の事実を説明できなくても、イエス様が死に捉えられたままの方ではないらしい、死がすべてではない世界があるらしい、という事をこの時から信じ始めた、理解し始めた、ということです。ここにすでに、信仰の体験が始まっているのです。そして、このような信仰によってこそ、私たちは、暗闇から抜け出す糸口を見つけ出すのです。

夜明けをついて
今現在の、コロナウイスルの蔓延に対しても、あるいは、日本社会を覆っている息詰まるような感覚に対しても、私たちは何をどうして良いのか、分からないものであるかもしれません。しかし、そのような私たちの前に、この空っぽの墓、イエス様が死の支配を打ち破って、墓から出られた、という事実が示されています。私たちは聖書を通して、今この場で、その事実と向き合いました。あるいは言い方を変えれば、私たちは、この空の墓という事実を見るように、イエス様から招かれています。イエス様が夜明けをついて、死から自由になられた、死では終わらない、肉体の滅びでは終わらない、その先がもう既にあなたの前に開かれている、この事実と向き合うようにと、招かれているのです。

祈り
主イエスキリストの父なる神様。あなたは、私たちの新しいあり方の初穂であるイエスのご復活において、まったく新しい生き方があることを、私たちに示してくださいましたゆえに感謝いたします。私たちが、この招きにこたえ、新しい着物を着せていただき、主イエスと共なる宴席に連なるものとされていることをますます知り、たとえ、現在の多くの困難がある中であっても、しおれることのない喜びをもってこの週を過ごせますように、また、この週も私たちそれぞれの歩みがあなたによって守られますように、主イエスキリストのみ名によってお祈りします。アーメン

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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