神の恵みの善い管理者として
- 日付
- 説教
- 久保浩文 牧師
- 聖書 ペトロの手紙一 4章7~11節
4:7 万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。
4:8 何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。
4:9 不平を言わずにもてなし合いなさい。
4:10 あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。
4:11 語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 4章7~11節
2026年7月12日(日)朝拝説教
「神の恵みの善い管理者として」
ペトロの手紙一4章7~11節
Ⅰ.世の終わりとは
ペトロは「万物の終わりが迫っています」(7a節)と語ります。
「万物の終わり」とは、キリストが再び来られる終わりの日が近づいているということです。「イエス・キリストが現れるとき」(1:7)は神の救いが完成する時です。主イエス・キリストは、終わりの日に、力と栄光を帯びて天から来られます。再臨のキリストは、罪と不義に満ちている世界を、義をもって裁かれて、全ての悪の力に勝利され、神の国を完成し、父である神に御国を引き渡されます。最後の審判の時に、現在の天と地が過ぎ去り、万物は新しくされ、罪と汚れから完全に清められた新しい天と新しい地が再創造されます。主イエスは、再臨の時に、すべての死者を復活させ、最後の敵である死が滅ぼされます。キリストを信じて死んだ者たちは、朽ちるものから朽ちないものに復活し、キリスト御自身の栄光の体と同じものに変えられます。その日に生き残っているものたちは、一瞬にして変えられます。「復活のとき、信仰者は、栄光の内によみがえらせられ、裁きの日に公に承認され、無罪とされます。さらに、永久に、神を限りなく喜ぶことにおいて完全に祝福されます。」(「ウェストミンスター小教理問答」問38)
万物の終わり、キリストの再臨の時が、「迫っています」とは「もうすでに来ている」という意味です。主イエスは「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる」(ヨハネ黙示録22:12)。さらに「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」(マタイ24:36)と言われています。しかし、その時がいつであるかはわからないというのは、それが不確実であるとか、はるか遠い将来に生じることを意味していません。
世の終わりが近づいているという確信と緊張感は、初代教会においては顕著でした。テサロニケ教会では、「終わりが迫っている」ということで、怠惰な生活をし、働かない者がいました(テサロニケ二3:6~12)。キリスト者は、この地上にあっては、仮住まいの者、旅人であり、主イエスの再臨によって実現する新しい天と新しい地を目指して歩んでいます。ペトロは、いつも終末を意識して、備えなければいけないこと、霊的な眠りから目を覚まさせようとしています。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(ペトロ二3:8~9)
Ⅱ.終わりのときの備え
ペトロは「万物の終わり」主の再臨に備えて、どのように過ごすべきか語ります。
①「だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。」(7b節)
「思慮深く」とは「理性的である、分別がある、正しい感覚を持っている」という意味です。日常生活が地に足の着かない状態ではいけません。その反対は「冷静さを失う、狂う、傲慢である」ことです。正しい感覚は謙遜な態度も含んでいます。「身を慎む」とは「節度を持つ、酔っていない」という意味です。真の信仰は、狼狽せず、冷静な心を持ち、人を正気に戻します。主イエス・キリストの再臨に備えるとは、霊的な目を覚まして、冷静な心、健全な心を持つことです。主イエスは、御自身の再臨を待つ姿勢について「十人のおとめ」のたとえで「だから目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」(マタイ25:1~13)と言われました。
また、ペトロは「よく祈りなさい」と勧めています。これは絶えず祈ること、祈りに集中すること、祈りによって神の御心を知り、主イエス・キリストの足跡に従う者となることです。「それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。」(2節) 主イエスにある者は、深い闇が周囲を覆い、多くの者が暗闇に絶望し、眠りこける時にも、上にあるものに心を留めて、この世を冷静に見つめて祈るのです。パウロも「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」(コロサイ3:1~2)と語っています。
②「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」(8節)。「何よりもまず」とは、「優越、優先」を現わし、これ以外に優先事項、重大事項は他になく、この事柄が軽視されれば、その人の人生が無意味になるというものです。「心を込めて愛し合いなさい」の「心を込める」とは「根気強い、絶え間ない、熱い」などの意味があります。そこから、いつも変わらない、永続的に一貫した愛で愛し合うことを勧めています。現代は人の愛が冷めているといわれています。自己中心的な生き方が蔓延し、愛が壊れ、憎しみが世を支配しています。キリスト者同士の間でも、争い、対立、衝突をすることもあります。相手の弱さと罪にぶつかり、こちらの隠れていた弱さが現れてくる、弱さと弱さがぶつかる時に互いに傷つけあうことになります。しかし、主イエス・キリストにある者は、そこで終わりとはしません。主イエスの愛は、表面的なものではなく、深いつながり、固い絆をもたらします。「愛は多くの罪を覆うからです」とは、私達の兄弟姉妹に対する愛が、彼らの罪を償い、贖う効果があるとか、私達自身の罪を償う功徳になるということではありません。「憎しみはいさかいを引き起こす。愛はすべての罪を覆う。」(箴言10:12)、「罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです。」(ヤコブ5:20) 憎しみは他者の罪を暴露し、攻撃し、倒すことを願います。しかし、愛は他者の罪を覆います。これは、私達の罪のために御自身の御子である主イエス・キリストを十字架に付け、全ての罪と咎を贖って下さった神の愛を受けた者として、他者、隣人の罪を覆うことです。私達の教会の交わりにおいても過誤のない者は一人もいません。すべての者が赦しを必要としています。かつてペトロは、主イエスに「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と質問しました。主イエスは「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」(マタイ18:21~22)と無制限に赦すように教えました。自分がどれほど神に愛されているかを覚えて、主イエスの愛をもって他者を赦し愛することを求めるならば、非が相手にあったとしても、多くの罪を覆うことになります。私達キリスト者は、交わりの中で、互いに赦し合うことが必要です。互いの赦しは、相互の主にある愛からのみ生じます。もし、互いの愛がなく、互いの赦しがなければ、憎しみが争いを引き起こし、主にある交わりは壊れます。パウロは「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(ローマ13:10)と語ります。愛は、兄弟姉妹と真実な平和と結びつきを築いていくことが出来ます。互いの愛を深め、互いに赦し合って生きていることを主イエスに見られることが、主イエスの再臨に備えることです。
③「不平を言わずにもてなし合いなさい。」(9節) 当時、ローマ帝国には、個人的、職業上の必要から多くの旅行者がいました。ペトロやパウロのように巡回伝道者が伝道旅行をしても、安全な宿は少なく、道徳的に低劣かつ危険な宿が多かったのです。ですから、旅人を「もてなすこと」は美徳とされました。しかし、これは大変な労力を要します。そこで、単なる善意は、それに対する見返りがないと悪意へと変質し、初めは喜んでしていたことが、いつのまにか負担になり、不平や不満となることがあります。そこで、単なる善意ではなく、主イエスの愛に生かされているが故に「もてなし合いなさい」と言われます。主イエスの愛する兄弟姉妹として愛し、受け入れ、主イエスに仕えるように仕えなさいと勧めます。パウロも「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい」(ローマ12:13)と勧めています。
Ⅲ.賜物の善い管理者
「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」(10節)。
「賜物(カリスマ)」は「神の恵み(カリス)」として神から一人一人に与えられています。賜物には多様性があります。一人一人が神の愛の対象として創造され、それぞれに他者にはない賜物、才能を与えられています。私達は、競争社会の中で、自らの存在を肯定的に捉えることができず、低く感じる傾向があります。しかしキリスト者は、様々な賜物の「善い管理者」でなければいけません。「善い(カロス)」は「健全な、見事な、質の良い、高潔な」という意味があります。善い管理者は、すべての物が自分の物ではないこと、それらは主人からの預かり物であることを知っています。そこで、彼らは賜物を主人の思い、意向に沿うように管理し、使用することが自分の務め、責任であることをわきまえています。「賜物を生かす」ためには、その賜物を土の中に隠していてはいけません。賜物は、神に献げられ、他者のために活用する時に生きたものとなります。「互いに仕えなさい」の「仕える(ディアコネオー)」は「しもべとして仕える」ことです。主イエス・キリストは、弟子たちの足を洗われて彼らに仕えて下さいました。主イエスは「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(ヨハネ13:15)と言われました。主イエス・キリストの模範に倣い、異なる賜物を互いに他者のために用いて、仕え合うところに真のキリストの体である教会が生まれます。
ペトロは、多くの賜物の中から二つを挙げます。「語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。」(11節)
「語る者」とは、説教者の務めであり、その語る内容は、人間の言葉ではなく「神の言葉」です。説教は、神がキリストによって教会に命じられた奉仕の業です。個人の業ではなく、語る権威は神にあり、その人にはありません。語る者は神により召され、神に仕えることが求められます。「奉仕をする人」は、自らの力で行うのではなく、神がお与えになった力、賜物に応じて奉仕を行うのです。それでこそ、最終的には、奉仕者ではなく、神に栄光が帰され、神が崇められることになります。
