2026年07月05日「地上での残された時をいかに」

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地上での残された時をいかに

日付
説教
久保浩文 牧師
聖書
ペトロの手紙一 4章1~6節

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4:1 キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。
4:2 それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。
4:3 かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。
4:4 あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。
4:5 彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。
4:6 死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 4章1~6節

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2026年7月5日(日)朝拝説教
「地上での残された時をいかに」
 ペトロの手紙一4章1~6節
Ⅰ.キリストに結ばれた者の苦難
ペトロは、「イエスは主である」と信じ、告白するキリスト者が受けている苦難にどう対処すべきか、その姿勢について語ってきました。ここでは、キリスト者が受ける苦難の意味を語り、多くのそしりを受けても、最終的な審判者である神の前に立つ者であることを自覚して聖なる生活を送るように勧めています。「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい」(1a節)。キリスト者の信仰生活の苦難には、孤独がつきものです。しかし、私達には復活されたキリストが共におられます。
さらにペトロは、キリストについて「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方(かた)が、正しくない者たちのために苦しまれたのです」(3:18)また「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたのです」(2:21)と語っています。主イエス・キリストは神の御子でありながら「肉において苦しみを受けられた」のです。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブライ4:15) 主イエスは、罪は犯されませんでしたが、私達と同じ弱さを身にまとわれた人間でした。そして、罪人を救うために、一人の人間として誘惑を経験されました。主イエスは、神の言葉に信頼し、誘惑に打ち勝たれ、罪人を救うために、神のみ旨に従順になることを学ばれました。
キリストが「肉に苦しみをお受けに」なったのは、一つには、私達の身代わりとなって贖罪の死を遂げるためでした。もう一つは、罪を犯して、永遠の命の源である神との交わりを失い、神の栄光を現わすことが出来なくなっている人間を、本来の創造された時の姿に回復するためです。主イエスの受けた苦しみは救い主としての苦しみでした。主イエスは、私達の罪が赦されるために、十字架の死を耐え忍ばれ、復活されたのです。その苦しみは、不当な苦しみではあったにもかかわらず、父なる神への信頼と服従をもって歩まれた人生でした。
そこで、ペトロは「同じ心構えで武装しなさい」と勧めます。「同じ心構え」とは「同じ原則」でという意味です。「同じ原則」とは、キリストの従順に倣うことです。それは「苦難」が「神の御心による」(3:17)ものとして、自発的に受けることです。キリストは、救い主としてのご自分の使命を自覚して、神の御心にすべてを委ねて十字架の道を歩まれました。「武装する」とは「神の武具で身を固めなさい」と言うことです。「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ6:18) そして、それをキリストと同じ心構えで行うということです。キリストは、父なる神との交わり、祈りを大切にされ、祈りを通して神の御心を知り、御心への従順を学ばれました。ペトロは、キリストの心構えをもって、自分自身を武装して信仰の戦いをしなさいと勧めています。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」(ヘブライ5:7~8) キリストが苦難を経て、復活、昇天、父なる神の右の座に着かれたのは、神への信頼と従順によるものでした。
さらにペトロは「肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです」(1b節)と語ります。私達キリスト者は、キリストを信じ、受け入れた時に十字架のキリストと一つにされました。これまで罪に支配され、罪に仕えてきた私達は「罪との関り」を絶たれて、訣別して復活の命、新しい命に生きる者とされたのです。私達もキリストを信じ、キリストに従うが故の苦難を耐え忍ぶならば、それがキリストと共に受ける栄光への道なのです。
Ⅱ.神の御心に生きる
神の武具で身を固め、武装すること、「それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。」(2節)
キリスト者は、聖霊によりキリストに結び合わされた者として、これからは人間の欲望にではなく、信仰による新しい命で、神の御心に従い「肉における残りの生涯」を生きるのです。かつて私達は、キリストを信じていなかった時は自己中心的な「人間の欲望に従い」生きていました。パウロは「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」(フィリピ3:18~19)と語っています。この世界は、神が創造され、神の御心に従ってすべてのものは支配され、歴史は動いています。神に逆らって、自己の欲望に従って生きることに、真の喜び、平安はありません。
ペトロは、すでに「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」(3:17)と語っています。神の御心に従い、福音にふさわしい生活、善を行うことで重荷を背負うこともあります。しかし「人間の欲望」に従う生き方から「神の御心」に従う生き方へと変わることで、真の心の自由と平安が得られます。
神の御心に従うことは、人生の重荷、思い煩いの全てを神に委ねることです。主の祈りの「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」との祈りは、私達一人一人が、一日一日を神の御心を求めながら、少しでも御心に従った生き方ができるようにとの願いから実現します。朝、眠りの床より起き出でて、一日の業を終えて眠りの床に就くまでの間には、予期しない出来事、試練に遭遇することもあります。そのような時には心を静めて、主の前に出て祈りましょう。祈りの答えが、すぐには与えられなくても、全てを主イエスに委ねて平安の中に床に就くことが出来ます。
Ⅲ.キリスト者の苦難
「かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。」(3節) 私達は、かつてキリストを信じる以前は「異邦人が好むようなこと」すなわち、神を知らず、神の御心に従ってではなく、肉なる人間の欲情に従う、人間中心の罪ある性質から生じる自分の腹、欲望を神として生きる生活を送っていました。ペトロが挙げている好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝は、罪ある行いの全てではありません。日本でも、キリスト者が飲酒することを強く禁じているキリスト教の教派があります。これらの不道徳な行いの根本にあるのは、すべて神の御心からはずれたものであり、神を抜きにした生活です。ペトロは、それらはキリスト者にとっては、過去のことであり、もうそれで十分ですと語ります。私達は、若き日にキリストを知り信じたとしても、あるいは年齢が進んでからキリストを信じたとしても「肉における残りの生涯」を神の御心に従って生きる、神に喜ばれる、栄光を現わして生きることは、悔いのない人生を送るための唯一、絶対の道です。
しかし「あの者たちは、もはやあなたがたが、そのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。」(4節) 未信者のかつての仲間たちは、キリストを信じるようになった者たちが、もはや、これまでのように放蕩、乱行に加担しなくなったので、不審に思い、そしり、軽蔑までします。キリストに捕らえられ、キリストを信じて生きることを決心した者たちは、これまでとは全く異なる価値観、人生観の下に、異なる種類の新しい生き方を始めます。神を自らの心の中心に据えて、キリストに仕え、神の御心に従って生活することは、周囲の未信者の目には、禁欲的かつ偽善的な生活と映り、嘲り、そしりの対象となるかもしれません。しかし、キリスト者は、決して自分一人で存在し、生活しているのではありません。キリストを信じることは、ぶどうの木と枝のように幹であるキリストにつながる一つの枝として、教会というキリストにある生ける交わりにあって存在しています。この世の人々が、キリスト者をそしることは、教会の頭である主イエス・キリストをそしっているのです。
Ⅳ.キリストの再臨と審判
主イエスは「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる」(ヨハネ黙示録22:12)と言われています。そこでペトロは「彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません」(5節)と語ります。主イエスは、審判者として、やがて再び来られます。主イエス・キリストが再臨されて「生きている者」地上で生活している者も、「死んだ者」キリストの再臨に先立って召された者、すなわち、かつて地上に生きていた全ての人間が審判者であるキリストの前に立たなければなりません。キリスト者にとり、キリストの再臨と審判は、罪の赦しと永遠の命と復活、御国を受け継ぐという約束の完成です。キリスト者が、信仰のゆえに流した涙、労苦がすべて報いられる時でもあります。 「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」(6節) この聖句も難解な箇所です。「死んだ者」とは、5節と同じく主イエスの再臨を待たずして世を去った死者のことです。彼らは、生きていた間に福音の説教を聞いて信じました。神のもとに立ち帰ったキリスト者でも「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23a)を免れることは出来ません。肉においては、人間として裁きを受けることになります。最初の人アダムの罪過は、神との交わりの断絶である霊的な死、肉体的な死、裁きとしての永遠の死を人類にもたらしました。「しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ローマ6:23b)
キリスト者は、罪の刑罰としての死と呪いから解放されています。キリスト者にとり肉体の死は、罪と悲惨、この世の労苦と涙からの完全の解放と永遠の命への祝福の入り口です。キリスト者の肉体の死は、罪の刑罰として死の裁きを受けたようにみえても「神との関係」では、霊において、キリストにあって永遠に生きる者とされているのです。「信仰者の霊魂は、彼らの死のとき、完全に聖(きよ)くされ、直ちに栄光に入り、信仰者の体は、なおキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休みます。」(「ウェストミンスター小教理問答」問37)キリスト者の魂は、死の時、完全に聖くされ、直ちにキリストのもと、天上の勝利の教会に移され、地上にある時よりも、さらに豊かなキリストとの栄光の交わり、先に召された兄弟姉妹との愛の交わりを喜び、共に神の御顔を仰ぎ見ます。体は墓の中で、復活と完全な贖いと天地の完成を待ち望みます。

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