北四国伝道会講壇交換 説教 Mt20:29~34「イエスの憐れみ」20260628松山教会
今朝は、マタイ福音書20:29以降の御言葉から神の御声に耳を傾けたいと思います。
19:1が伝えますように、十字架で命を捧げ、私たちの罪を償うというご自分の使命を果たすために、主イエスは北のガリラヤから南のユダヤへ下り、そこからエルサレムへ向われました。今朝の聖書箇所は、イエスがエルサレムへ向われる途中のエリコという町の近くで盲人を癒されたことを伝えます。
30節に「二人の盲人が道端に座っていた」とあります。彼らは物乞いでした。並行箇所のマルコ福音書10:46は、バルティマイという名前も伝えますが、マタイはとにかく二人の盲人が癒されたことを伝えます。今朝のこのマタイ福音書の聖書箇所から、私たちは特に何を教えられるでしょうか。
30、31、34節に憐れみへの言及が3回もあります。ですから、これと関連して彼らは癒されたと言えるでしょう。そこで、イエスの憐れみに与(あずか)れる信仰がどういうものかということを学びたいと思います。今朝は五つの点をご一緒に学びます。
第一に、それはイエスへの正しい認識と信頼のある信仰です。
二人は30節でも31節でも「ダビデの子よ」とイエスに呼びかけます。この表現は9:27と15:22にもありました。旧約時代の信仰者ダビデは、神信仰に堅く立ち、神に祝福されて素晴らしい働きをしました。そして、「ダビデの子」とは、紀元1世紀当時のユダヤでは、神が遣わされる救い主を指す称号でした。二人の盲人たちも幼い頃から旧約聖書の教えを耳にし、救い主について当然知っていたでしょう。
そして今、イエスの噂を聞き、「この方こそ我々が教えられて来たあのダビデの子、神からの救い主なのだ」と、不十分ではあっても、その点は正しく認識していたでしょう。それと、先ほど触れましたマタイ福音書9:27は、イエスが盲人の目を癒されたことを、また15:22は、カナン人の女の娘で悪霊に憑かれて苦しむ娘をイエスが癒されたことを伝えていました。ですから、二人の盲人たちはこれらのことも聞いていたでしょうから、イエスに対する強い信頼もあったと思われます。
イエスの憐れみに与れるために、まずイエスについての正しい認識と信頼のある信仰の大切さを、改めてここから教えられます。ですから、私たちも一層聖書の学びを深め、体系づけ、主イエスについてますます正しく豊かな認識を持ち、信頼を堅くされたいと思います。
第二に、へりくだった信仰の大切さを教えられます。
二人は「私たちを憐れんで下さい」と二度叫びました。「あんたは救い主なのだから、困っている我々を救って当然だろう?」などとは決して言いませんでした。
昔、私が病院で牧師をしていた時、一人の末期患者の方がホスピスに入られ、呼ばれて私は伺いました。すると彼はいきなり「牧師さん、わしに早う洗礼をしてくれ」と、やや命令口調でおっしゃいました。私は驚き、ご家族を見ました。彼らも困惑した顔をしておられました。そこで、私は洗礼を受けるために必要なことを少し話し始めました。すると、彼は苛々した顔で向うを向かれ、布団をかぶってしまわれました。仕方なく、私は退室しました。
こういう例は滅多にありませんが、「神やキリストがいるなら、我々を救って当然ではないか」という調子の人も時々います。しかし、これは間違っています。今まで神を畏れ、敬うこともなかったのに、自分が困ったらその途端に、神とイエス・キリストに助けや救いを要求するのは間違いです。そんな態度では永遠の救い主・神の御子イエスの憐れみを頂くことはできません。へりくだった信仰が何より不可欠であることを、私たちも今朝、改めてよく覚えたいと思います。
第三に、忍耐強い信仰の大切さを教えられます。
二人がイエスに向って叫びますと、31節「群衆は叱りつけて黙らせよう」としました。どうして群衆は黙らせようとしたのでしょうか。ある註解書は、<当時、ラビと呼ばれた教師たちは歩きながら人々に教えたため、盲人たちも歩きながら必死になって叫び続けた。だから、相当邪魔だったので、こうしたのだろう>と言います。何にせよ、二人はへこたれず、31節「ますます」叫びました。
マタイ福音書7:7で、イエスは「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門を叩きなさい。そうすれば、開かれる」と言われました。元のギリシア語の動詞のニュアンスでは「求め続けなさい。…探し続けなさい。…叩き続けなさい」となります。つまり、簡単に諦めない忍耐強さが大切です。ヘブライ人への手紙10:36も言います。「神の御心を行って約束のものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」
無論、お聞き下さるかどうかは、最終的にはイエスご自身の判断によります。けれども、イエスの憐れみに与る上で、この大切な点を決して忘れないでいたいと思います。
第四に、自分の願いが何であるかを、主イエスにハッキリ申し上げることのできる信仰が大切です。
イエスは彼らに、32節「何をしてほしいのか」と尋ねられました。よくよく考えますと、彼らの願いを神の御子イエスがご存じでないなど、あり得ません。しかし、イエスは尋ねられました。これは並行箇所のマルコ福音書10:51とルカ福音書18:41でも同じです。
では、何故イエスは尋ねられたのでしょうか。ご自分の憐れみに与らせる上で、彼らに自分たちの願いが何であるかを整理させ、ハッキリ自覚させるためでした。
自分の一番大切な願いが何であるかをハッキリ自覚することは、とても大切です。人のことに関しては沢山願いがあってもかまわないと思いますが、自分のことではアレもコレもソレもと欲張らず、またハッキリしないのではなく、「主よ、今、私が何より願うのはこれです。私があなたの御心にかない、私が喜んであなたにお従いし、あなたのお役に立つために、これを叶えて下さい」と、雑多な願いを整理し、これという最も大切な願いを主に申し上げたいと思うのです。
かつて王になったばかりのソロモンに、神は夜の夢の中で彼の願いを尋ねられました。ソロモンは、自分のことではなく、民のことを思って一つだけ答えました。「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕(しもべ)に聞き分ける心をお与え下さい」(列王記上3:9)と。すると神は、知恵と判断力だけでなく、彼の願わなかった富と栄光も与えると約束されたことを、続く3:12、13が伝えています。
イエスは今も私たちに尋ねておられます。「私に何をしてほしいのか」と。私たちが喜んで神と人に仕えることができるためにも、無論、自分自身のためにも、キチンと整理して明確にイエスにお願いしたいと思います。
最後、五つ目は、今お話した四つ目とも関係しますが、神またイエス・キリストに今後ますますお仕えしたいという信仰の大切さです。
マタイ福音書20:34は伝えます。「イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。」
「イエスに従った」とあります。彼らは目が見えず、物乞いをする他ないという非常に困難で不自由な辛い生活を長い間強いられて来ました。ところが、目を癒された今、彼らは、思いっ切り好き勝手にし、自由に生きようというのではありませんでした。むしろ彼らは主イエスに従い、神ともっと親しく豊かに交わり、また喜んで主イエスご自身のように、神と人に仕える生き方を選んだのです。こういう信仰のある彼らですから、イエスも憐れみをもって、喜んで彼らを救われたのでしょう。ここに大いに教えられることがあると思います。
無論、以上のような五つの信仰があれば、イエスの憐れみに必ず与り、必ず困難を解決されるというのではありません。けれども、イエスが慈しみに満ちた憐れみをもって必ず私たちと共にいて下さり、どんな困難の中でも私たちの魂を堅く守り、私たちの内で始められた救いの御業(みわざ)をイエスご自分が完成して下さることだけは間違いありません。ここに、何によっても決して奪われることのない私たちクリスチャンの究極の希望があります。
この主イエスの深く温かい憐れみの内に、今年の後半だけでなく、残る全人生を是非、夫々が感謝と賛美と献身の思いをもって歩み、また皆で共に励まし合って歩んで行きたいと思います。