キリストの苦難による救い
- 日付
- 説教
- 久保浩文 牧師
- 聖書 ペトロの手紙一 3章17~22節
3:17 神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。
3:18 キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。
3:19 そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。
3:20 この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。
3:21 この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。
3:22 キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 3章17~22節
2026年6月21日(日)朝拝説教
「キリストの苦難による救い」
ペトロの手紙一3章17~22節
Ⅰ.神の御心による苦しみ
ペトロは、キリスト者がこの世にあって受ける苦難について語っています。それは、悪事を働いて、その刑罰としての当然の苦しみとして受けるものではなく、キリストを信じ、福音にふさわしい生活をおくることで、不当な、理由のない苦しみを受けている者に対して、励ましと慰めを語るものです。ペトロは「しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません」(3:14)と勧めたあとで「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」(17節)と苦難の中に在るキリスト者たちを励ましています。
「善を行う」とは、一般的な何か善いことをしてということではなく、キリストを主と信じ告白する、弁明することです。キリストを信じる信仰の弁明、信仰告白は、キリストを信じる福音に相応しい「善き生活」を伴っており、それにより信仰が証明されなければいけません。「悪を行って苦しむ」とは、悪人が悪行のために刑罰的な苦しみを受け、良心に痛みを感じることです。悪を行うのは、いつも自らの利益のためです。しかし、悪行をすれば、まず気が咎め、自分を責める人の目が恐ろしくなります。これは、当然かつ正当な苦しみです。しかし、キリスト者が「善を行って」処罰され、キリストを信じているという理由で苦しみが増し加わることは不当かつ理不尽なことです。
聖書は、キリスト教信仰に入れば苦しみがなくなるとは教えていません。キリストを信じる信仰により、罪による苦しみからは解放されます。私達は、地上にある間、罪を犯すことはなくなりませんが、キリストによる罪の赦しを信じることで、神に恐怖心を抱くことはなくなり、心からの平安が与えられます。しかし、信仰を持っているがゆえに苦しみを受けること、迫害されることがあります。ペトロは、キリスト者が「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ」ことも良いと語ります。なぜなら、キリスト者が、善を行って、そのために苦しみを受け、迫害されるならば、それは決して偶然や運命などによるのではなく、神の御心、御意志に従って生じていることだからです。
神は天地万物を無より創造されただけでなく、全能かつ主権的な御手で世界と人間の歴史を御心に従って支配しておられます。すべての事柄において神の定めでないこと、神の御心でないことは決して生じません。「神の摂理の御業とは、神がその全被造物とそれらのすべての行動とを、最も聖く、賢く、力強く、保ち、治めておられることです。」(「ウェストミンスター小教理問答」問11) すなわち、神が定めておられないこと、御心でないことは決して生じません。主イエスは「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」(マタイ10:29~31)と言われました。有限で愚かな私達人間にはその理由や意味が分らなくても、神の御業には、すべての事柄において最も賢く、最も聖い理由があります。日常生活のすべてにおいて生じることは、私達の目には偶然かつ予期しない、不思議に思える事柄ではあっても、神には偶然はありません。パウロも「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(ローマ11:33)と神の叡智の深さを賛美しています。「神の御心によるのであれば」とは、決して「もし御心であるならば」といった疑念をもち、仮定を差し挟むことではありません。むしろ「それは神の御心である」という断定的な意味です。キリスト者が、信仰のゆえに不当な苦しみを受けるならば、そのことにより神は、私達を通して計画されていることを実行しておられます。私達が、信仰や善い行いのゆえに理不尽な苦しみを受けても、その時は神が私達を通して計画をなそうとしておられることを覚えることで、苦難の中でも神の御手の中にあるという慰めと喜びになるのです。
Ⅱ.キリストの受難
ペトロは「善を行って苦しむ」ことの模範として主イエス・キリストを示します。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。」(18a節)
キリストは、神の御心に完全に従われた「正しい方」罪なき御方であるにも関わらず、「正しくない者たち」のために苦しまれました。キリスト者が「義のために苦しみを受ける」(14節)こと「善を行って苦しむ」(17節)ことの模範はキリストです。キリストの行ったことは模範であることを超えて、キリストだけが、神が定められた救い主として成し遂げられたことです。それは「正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれた」という「身代わりの苦難」でした。罪のないキリストが、罪人の身代わりになられたのです。苦難の最終的な目的は、罪の支配下にある正しくない者たちを「神のもとへ導くため」でした。「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」(18b節)「肉では死に渡されました」とは、キリストが私達の代わりに罪の代価を支払われたということです。私達が自分の罪のために受けなければならない刑罰、苦しみを、キリストは代わって十字架の上で死んで受けて下さいました。それは「ただ一度」の決定的な出来事でした。キリストが私達の身代わりとして十字架上で贖いの死を遂げられたのは歴史上の「ただ一度」です。「この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。」(ヘブライ7:27) さらにキリストは、肉体において死に渡されましたが「霊では生きる者とされ」ました。キリストは、この世界、人間の目に見える世界、物質的な領域においては、死に渡されましたが、目に見えない霊的な領域においては生きる者とされました。すなわち、復活されました。キリストの復活は体の復活です。ペトロや他の弟子たちは主イエス・キリストの幻を見たのではなく、復活された主イエス・キリストを見たのです。しかし、復活された主イエスの体は、十字架に付けられる以前とは異なる体でした。この物質的な世界の体とは異なる霊の体、朽ちない体、栄光ある体に復活されました。それは「あなたがたを神のもとへ導くため」すなわち、信じる者を神に立ち帰らせるためでした。
主イエス・キリストは、御自身の十字架の死と復活により、神と人間との間に横たわる深淵を越えて、私達を神に導かれました。罪なきキリストの苦難により、罪人の救いがなり、神の救いの計画が成就したという祝福をもたらされました。信仰のゆえに、善い行いのゆえに不当かつ理不尽な苦しみを受けているとみえる事柄でも、それは神の御心であり、キリストに倣い、キリストと共に苦しむことであり、それにより神の栄光が現わされることは、キリスト者にとり喜びなのです。パウロも「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。」(コリント二4:10~11)と語っています。
Ⅲ.キリストの下降
「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました」(19~20節) 復活のキリストが「捕らわれていた霊たち」すなわち、死んだ人の霊に対して宣教されたと記されている箇所は、新約聖書の中で、最も難解な箇所の一つです。ペトロはノアの時代の洪水と箱舟に言及して、ノアが信仰のゆえに受けた苦難と、この当時のキリスト者の生活が相似していることを語っています。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」(創世記6:5~6) 地上に暴虐が満ち、すべての者が堕落しており、思い計るすべてのことが主の御心から離れていました。「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。」(創世記6:9)ノアは神に従順な模範的な信仰生活をしており、神に命じられたとおり、忠実に箱舟を造りました。ノアは「箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者」たちからの嘲笑、愚弄にさらされました。ノアと家族が箱舟に入ると、神は40日40夜にわたり雨を降らせ洪水を引き起こしました。ノアと共に箱舟に入って救われた者が8人、ノアと妻、ノアの三人の息子、セム、ハム、ヤフェトとその妻だけであったことは、この時代に生きた者たちの罪がいかに大きいかを現わしているだけでなく、ペトロの時代のキリスト者の置かれていた世界がいかに類似しているかを示しています。「キリストは捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」「捕らわれていた霊たち」とは、悪しき霊、悪霊、人間を神から引き離そうとする霊、神に裁かれて働きが制限されている悪霊です。「宣教されました」とは、キリストが裁きを宣言された、勝利を宣言されたということです。十字架に付けられたキリストは、無力な存在のようにみえ、神に従わない悪霊が勝利を収めたようにみえました。キリストは、死んで葬られて陰府に下られましたが、罪と死の力を打ち破られ、悪しき霊たちに対して裁きと勝利を宣言されたのです。
「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。」(21~22節) ノアと家族「すなわち八人だけが水の中を通って救われました」とは、信仰に入るものが水、洗礼により救われることを示しています。洗礼そのものが肉の汚れを取り除くのではなく、キリストの復活を通して実現した救い、すなわち古い自分に死んで新しい命が与えられたことを感謝し、神に従っていくことを誓約するものです。天上にて神の御子であられたキリストは、地上において十字架の死と復活により勝利を得られ栄光に入られました。そして主イエス・キリストは、天に上って神の右の座におられ、天使やすべての権威、勢力をご自分の支配下におき、永遠の大祭司として私達のために執り成しておられ、御自分を通して神に近づく人たちを完全に救うことがおできになるのです。(ヘブライ7:24~25)
