キリストを主と崇める幸い
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- 説教
- 久保浩文牧師
- 聖書 ペトロの手紙一 3章13~17節
3:13 もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。
3:14 しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。
3:15 心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。
3:16 それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。
3:17 神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 3章13~17節
2026年6月14日(日)朝拝説教
「キリストを主と崇める幸い」
ペトロの手紙一3章13~17節
Ⅰ.はじめに
キリスト者は、迫害の中でいかに生活すべきであるか。ペトロは「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」(9節)と勧めました。キリスト者は、この世の論理に従ってではなく、天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者として下さっている約束を信じて、悪に対して祝福を祈るようにとの勧めです。ペトロはダビデの詩編を引用して「主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる」(12節)と励まします。主の目は、主イエス・キリストの十字架の贖いによって義なるもの、正しい者とされた者に注がれています。主の目が絶えず注がれているとは、ふさわしい時に大能の御手を伸ばして下さるということです。主は、絶えず、私達の祈りに耳を傾けておられ、まどろむことなく、眠ることもありません。キリスト者は、悪に対して怒りに燃えて罪に陥ることなく、キリストに倣い生活すべきなのです。
Ⅱ.善いことに熱心である
「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみをうけるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません」(13~14節) ペトロは「善いことに熱心である」ようにと勧めます。「善いこと」は「美しいこと」とも訳せる言葉です。ペトロは、キリスト者が善を行うことに熱心で、掟を守るならば、危害を加えるものはないと言います。確かに善を行う者に対して好意を寄せてくれる者は少なからずいます。しかし、現実を無視した楽観主義でしかないと主張する者もいます。この当時でも、善なる行為に対して、誹謗中傷をし危害を加えるものがいました。「善いことに熱心である」とは「善いことの熱心党」です。主イエスの弟子のなかに「熱心党」に属している「熱心党のシモン」(マルコ3:18)がいました。熱心党はユダヤ人の宗教的な政治結社です。彼らは、父祖の宗教的な伝統を守ることに熱心であり、ローマ帝国による異邦人支配を拒み、パレスチナを奪還し、メシアの支配を実現するためには武力の行使も辞さない熱狂的な愛国者です。しかしペトロは、この意味で用いたのではなく、キリスト者は「善の熱心党」になるようにと勧めているのです。さらに、ペトロは「義のために苦しみをうけるのであれば、幸いです」と語っています。パウロも「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」(テモテ二3:12)と語っています。他者と異なることをしていると、それだけでいじめや嫌がらせの対象になることがあります。主イエスは「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタイ5:10)と言われました。キリスト者としての生き方を貫こうとすれば攻撃され「義のために苦しむ」ことは少なくありません。「義のために苦しむ」とは、神の御心に従って生きるために、損失、不利益を被ることや、理不尽な不当な苦しみに遭うときにもそれを甘受することです。これは、善を行って迫害されることだけでなく、信仰のために迫害されることも含まれています。ペトロをはじめとする使徒たち、すべてのキリスト者たちが、主イエスに従い、主イエスの御心を行おうとして、多くの苦しみを味わってきました。しかし、彼らは、そのために苦しむことが、自分たちにとって幸いであることも経験しました。それは、苦難そのものは幸いではなくても、それにより神が味方をして下さる、神の祝福があるからです。だからペトロは「人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません」と語ります。「人々」とは「この世の人々、この世の力」のことです。神に従いながら、そのことのために迫害されるならば、そのこと自体が、天の国、神の国の市民であることの証拠であり、神からの祝福につながるのです。
Ⅲ.神を畏れる
主イエスは「体は殺しても、魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)と言われました。たとえ私達の生命を脅かす者たちであっても恐れず、真に恐れるべき方を恐れなければいけません。この世の支配者たちも悪魔も、私達の体を殺すことは出来るでしょう。しかし彼らは、私達の魂に指一本触れることも、危害を加えることも出来ません。それは生と死を含むすべてを支配しているのは神であって、人ではないからです。やがてパウロもペトロ自身も殉教します。かつて日本も多くのキリシタンの殉教者を出しました。「恐れなさい」と言われているのは、恐怖感を抱くことではなく「畏れかしこむ」ことです。その御方を真の神として心から崇め、信じ、礼拝することです。神は、私達一人一人の命を慈しんでおられ、御手の中においておられます。1アサリオンで売られているような二羽の雀でさえ、顧みられる神は、雀よりも価値のある人間を放置して顧みられないはずはありません。体も魂も地獄で滅ぼすことのできる主の目が、絶えず私達に注がれ、主の耳は、絶えず、私達の祈りに傾けられており、必要とあらば、最もふさわしい時に御手を差し伸べてくださるのです。ペトロも、これまでの信仰生活の危機的な状況下で、何度も経験してきたことです。
さらにペトロは「心の中でキリストを主とあがめなさい」(15a節)と語ります。これはイザヤ書の引用です。「あなたたちはこの民が同盟と呼ぶものを何一つ同盟と呼んではならない。彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主。」(イザヤ8:12~13) イザヤは、ユダ王国の王アハズが、目に見える世俗の力と権力に心惹かれることに対して神の警告を預言します。苦難に直面しても偶像礼拝に走らず、近隣の強大な諸国の力に頼って同盟を申し込んではならない、危機的な状況下でも万軍の主をのみ、聖なる方として畏れ、崇め、主の御力に全幅の信頼をおきなさいと勧めています。ペトロはこの預言を踏まえて「キリストを主とあがめなさい」と勧めます。「あがめなさい」とは「聖なる方として認めなさい」という意味です。神の御言葉に従うことのゆえに、復活され、生きておられるキリストのみを「わが主、わが神、わが救い主」と畏れ、信仰の対象とすることです。「認める」も、知的なものではなく「心の中で」すなわち、信仰生活のすべての面で知、情、意のすべてにおいて体験的に知ることです。私達にとって、心に住まわれるキリストは危険のときの避け所、砦です。キリストに依り頼むことは、苦難の中での唯一の勝利の秘訣です。
Ⅳ.信仰の弁明
「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい」(15b~16a節) ペトロは、私達の信仰を軽蔑したり、愚弄したり、否定する者たちに対しても自らの信仰について、確固たる揺るぎない心で弁明するようにと勧めています。ペトロは先に「あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです」(1:21)と語りました。私達は、主イエス・キリストを生きるにも、死ぬにも唯一の慰め主として、唯一の希望として信じています。主イエス・キリストは、生ける神の子であり、十字架の贖いの死と復活をされました。主イエスの復活は、私達の罪の赦しの保証であり、私達の復活の初穂です。今は、天上の神の右の座にあって、やがて世の終わりの時に再び栄光を帯びて来られます。その時には、すべての選ばれた、贖われた神の子たちを復活させ永遠の命と朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継がせて、神の国を完成させ、主イエス・キリストと共に栄光と祝福に満ちた御国に住まわせて下さるのです。主イエス・キリストにあって、これら一連のことを信じ、希望をもって待ち望んでいるのがキリスト者です。
当時のキリストを信じる者たちの信仰の弁明は、キリスト教の教えに初めて接した異教徒たちに大きな印象を与えました。彼らは、キリスト者たちの、このような希望、信仰の確信を迷信かつ愚かなものとして愚弄しました。今日でも、キリスト者は「抱いている希望について」問われた時には、それを問う者がだれであれ、いつでも、信仰を擁護し、弁明しなければいけません。
ペトロは、弁明する時は「穏やかに、敬意をもって、正しい良心」で行うようにと勧めています。「穏やかに」とは「優しく、柔和」という意味で、心からの謙遜をもってです。真の謙遜は、神の手に委ねたことからくる穏やかさで、私達がキリストにあって神の前に立つときにのみ与えられるものです。私達が、このような謙遜をもたずに、問う者に対して優越感をもって、大上段から構えて見下したり、横柄な受け答えをするならば、他者を信仰に導くどころか、場合によってはつまずきを与えてしまうことになります。「敬意をもって」とは「慎み深い」ことで、神を敬い、恐れる敬虔な畏れです。私達は、神により創造され、主の目に価高く、貴く、愛されている者です。他者も、同じ神の創造の器です。主が、私達を通して、質問者に、御自身を証しさせ、伝道させようとしておられるのです。人を救いに導くのは、私達自身の雄弁さや説得力にあるのではなく、聖霊なる神の導きです。「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主であると』とは言えないのです。」(コリント一12:3)質問者が、主が選ばれた器であるならば、たとえ私達の拙い弁明であっても、聖霊が働いて、心を捉え開かれる場合もあるので、主を恐れ、主に委ねつつ語るのです。その時は、自らを必要以上に誇張したりせずに、自らの弱さや失敗も含めて正直に語ればよいのです。さらに「正しい良心」をもってなされなければいけません。「正しい」とは「そこなわれていない、終始一貫した」態度のことです。私達の弁明は、言葉によるだけでなく、日常生活の姿勢が御言葉の教えに一致している、基づいているときにのみ、正しい良心に基づくものと言えます。いくら饒舌に語っても、日常生活が、それに伴っていなければ説得力をもたず、証しにもなりません。福音について語りながら、言行不一致な生活により、自らの不敬虔を明らかにするならば、自らが未信者の方たちからの嘲りを受けるだけでなく、主イエス・キリストの福音と栄誉を汚すことになります。私達の神の前にある真摯で、正直で、謙遜な証しによってこそ「ののしる者たちは悪口を言ったことで恥じ入る」自分たちの態度を恥ずかしく思うようになるのです。
