憐れみ深く、謙虚になりなさい
- 日付
- 説教
- 久保浩文牧師
- 聖書 ペトロの手紙一 3章8~12節
3:8 終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。
3:9 悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。
3:10 「命を愛し、/幸せな日々を過ごしたい人は、/舌を制して、悪を言わず、/唇を閉じて、偽りを語らず、
3:11 悪から遠ざかり、善を行い、/平和を願って、これを追い求めよ。
3:12 主の目は正しい者に注がれ、/主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 3章8~12節
2026年6月7日(日)朝拝説教
「憐れみ深く、謙虚になりなさい」
ペトロの手紙一3章8~12節
Ⅰ.はじめに
ペトロは、この世の旅人また寄留者であるキリスト者の社会生活、家庭生活について勧めをし、特に弱い立場にある召使いや妻に励ましを与えてきました。最後にすべてのキリスト者に対して、いかなる原則で生活すべきかについて語ります。「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい」(8節)
不当な苦しみ、理由もなく受ける苦しみに遭いながら、どのような姿勢で生きるべきか、キリスト者の歩みについて、五つ勧められています。
まず「心を一つに」することです。これは「同じ思いになる」ことです。信者は心を一つにしなければなりませんが、その共通点はキリストです。キリストを信じる信じ方が同じであること、「イエスは主である」(コリント一12:3)と公に言い表すこと、共通の信仰の告白があるところに信仰の一致すなわち「心を一つにする」ことが出来ます。しかし、私達が、自らの力で「心を一つにする」のは難しいことです。そこで、主イエスは「…わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」(ヨハネ17:11)と弟子たちが一つとなるように祈られました。パウロも「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」(フィリピ2:2)と勧めています。同じ愛がなければ心を一つにすることは出来ません。
二つ目は「同情し合う」ことです。これは「共に苦しむ」という意味です。他の人の苦労を、自分の苦労とし、共に重荷を負い、涙を分かち合い、共感することです。
三つ目は「兄弟を愛する」ことです。パウロは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:15)と勧めています。これは、心を一つにしている者たちの当然の結果であり、教会の真の姿です。ペトロは「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい」(1:22)と恵みの事実を指摘しています。兄弟愛(フィラデルフィア)は、互いに神を父としているキリスト者同士が、御子キリストを長子とした一つの神の家族であることに基づきます。キリストと共に御国を受け継ぐ相続人です。パウロも「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」(ローマ8:17)と語っています。主にある兄弟姉妹を自分のように愛することは、私達が救われていることの証拠です。
四つ目は「憐れみ深い」ことです。これはかつて主イエスが「…群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(マタイ9:36)ように、「断腸の思い」自分のはらわたを動かすほどの熱い思いを意味します。主イエスは群衆の霊的な貧困をみて、我が事のように断腸の思いをもって同情されました。人間は、神から離れてから、憐れむべき罪人、孤独の状態に陥っています。真の羊飼いである主イエスによって憐れまれ、養われなければ生きていけない存在です。私達は、主イエスにより受けた愛と憐れみをもって兄弟姉妹を励まし、慰め合うことが大切です。
五つ目は「謙虚」になることです。これは、キリスト者がもつ品性の一つで「心が低い」という意味です。ギリシア人は、これを高く評価していませんでした。お互いに「謙虚になる」ことが出来るためには、神の前での自己の無価値、無力の自覚自分の弱さを知らなければなりません。人間の生活の基盤として、愛よりも必要なのは謙虚であることです。主イエス・キリスト御自身が「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(マタイ11:29)と言われています。私達は、自分自身の罪の現実と神の憐れみと罪の赦しがないと生きることは出来ないことを知らされたときに、自己の無価値と弱さが分かるのです。信仰を持つとは、神の前に自分の真の姿を知ることです。「神認識と自己認識は結び合った事柄である。」(カルヴァン「キリスト教綱要」第1篇第1章) かつてペトロも「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と主イエスの足もとにひれ伏しました。(ルカ5:8)
Ⅱ.敵を愛するとは
ペトロは「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(9節)と語ります。この勧めは、主イエスの教えに基づきます。主イエスは弟子たちに「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39)また「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と言われました。この教えは、ペトロにとって、主イエスの弟子として召され、主イエスに従う中で、斬新な生き生きとした教えでした。「報いる」は「お返しをする」の意味です。これは悪や侮辱に対して、無抵抗でありなさいではなく「祝福」をお返ししなさいとの勧めです。「祝福」は「積極的に親切を示す」ことです。私達は、キリストに従うがゆえに、理由もなく悪口を言われたり、悪を仕向けられたりする時に、それに復讐しないで忍耐するだけでなく、善をもって答え、祝福をもって報いるのです。相手のために善いこと、祝福を祈ることは、未信者の目には弱々しく、悪を増長させることのように見えます。しかし、神のみが、罪に報い、赦し、すべてにまさる祝福を与えることが出来ます。パウロも「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。』悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12:19~21)と語ります。もし、悪や侮辱に対して仕返し、報復をしたら、相手は、さらに憎悪の念を抱き、報復の連鎖を生みます。たとえ、仕返しをして、一時は溜飲が下がったとしても、真の解決にはなりません。また、仕返し、報復はしないまでも、相手に対して怨恨を心に抱き続けることで、自らの心は荒んで、人格が歪み、平安はなくなり、結果的に自らを不幸にします。真に悪に打ち勝つ道は、悪に対して悪をもって復讐することではなく、また悪に屈して諦めることでもなく、主イエスが教えられたように善をもって悪に勝つ、祝福をもって悪に報いることの他にありません。主イエス・キリストは、御自身が生涯を通して「敵を愛し、迫害する者のために祈る」歩みをされ模範を残されました。
主イエスは、十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と執り成しの祈りをされました。この教えはキリスト教信仰にとって基本的かつ重要な教えです。
さらにペトロは「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」と言明します。この「祝福」は、主イエス・キリストにあって神から与えられる祝福、天の御国、生命の祝福です。悪に対して祝福をもって報いることは、私達が神から祝福を受け継ぐ、与えられるためです。「受け継ぐ」とは、それを単に受け取るのではなく「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(1:4)との約束に従い、私達が「相続人」として永遠の世襲財産、嗣業として相続することです。また、「受け継ぐ」のは、他者にも分け与えるためです。悪に対して善と祝福をもって報いるのは、私達が主イエス・キリストにあって罪の赦しと憐れみを受けているので、自分も他者の罪を赦し、与えられた祝福を分け与えるのです。パウロも「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(エフェソ4:32)と語ります。
Ⅲ.平和を作りだす者の幸い
ペトロは詩編34:13~17を引用します。この詩編は、正しい者が、絶えざる苦難の中にあっても、神の庇護を信じて委ねていることの幸いを歌っています。
「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」(10~12節) ここでは三つのことが勧められています。
一つ目は「舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず」です。言葉による罪から離れることを勧めます。「口は禍の門」という諺があります。不用意な一言や余計な発言が、禍を招くことがあるので気をつけなさいとの意味です。「同じように舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。…舌は火です。舌は『不義の世界』です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。」(ヤコブ3:5~6) 人間は、舌で人を傷つける言葉を発し、不信仰な事柄も口にします。自分に悪を行う人について、ことさら誇張しようとする「欺き」、また、相手が不当であることを明らかにしようとして、自分の過ちを取り繕うとする偽りも避けなければいけません。さらに「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。」(ヤコブ3:9~10a)
二つ目は「悪から遠ざかり、善を行う」ことです。罪から離れて、善を行うことに努めることです。この詩編の作者であるダビデは、当時、自分の命を執拗に狙うサウル王から逃亡する生活を送っていました。ダビデには、サウルの命を奪う機会が何度かありました。しかし彼は、自分の身を守るための千載一遇の機会にあっても「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ」(サムエル上24:7)と、主を恐れる信仰から、自分の手で復讐はしませんでした。この出来事は、将来、イスラエルの王として立てられるダビデにとっても主からの試金石でした。
三つ目は「平和を願って、これを追い求めよ」です。平和は、自然に生じるものではありません。ユネスコ憲章の前文「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。」平和は、個人と個人の間であれ、国家と国家の間であれ、努力して追求し、作り出すものです。主イエスは「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)と言われました。
舌を制し、悪を遠ざけ、平和を作り出すこと、それは私達の力ではできませんが、聖霊なる神が私達の心を支配し、愛と憐れみの心を与えて下さるように祈ります。
