2026年5月31日(日)朝拝説教
「キリストにある夫と妻」
ペトロの手紙一3章1~7節
Ⅰ.はじめに
この箇所は、キリスト者である妻、キリスト者である夫に対する勧めです。キリスト者の結婚式において、少なくとも聖書を神の言葉として信じ、告白する教会においては必ず読まれるところです。日本キリスト改革派教会「式文」の結婚式の項目で「聖書の教え」という箇所があります。「そこで、夫婦に関する聖書の教えを受け入れなければなりません。」との司式者の言葉の後に朗読される聖書箇所が、夫に対して三か所、妻に対して三か所ありますが、その中にあるのが、ペトロの手紙一3章1~7節です。
夫も妻も家庭を形成する上で、それぞれの役割があります。まず、妻に対して教えています。それに続いて夫に対する教えが続きます。妻については6節が充てられ、夫については1節しか充てられていません。結婚式の誓約は、まず夫に対して、次に妻に対して求められます。しかし、この個所では妻に重点が置かれています。これは、キリスト者である妻が信仰をもった場合により多くの困難が生じたからです。この当時は、婦人の地位、立場が非常に低く、弱かったのです。ユダヤ人の間では、妻は夫の所有物のような立場であり、ギリシア人の間でも夫は妻に自由を与えていませんでした。この聖書箇所は今日の夫婦観からは、かけ離れているようにもみえます。しかし、この教えは、キリスト者ではない夫をもつ、キリスト者である妻たちに向けて語られています。彼女たちは、未信者の夫が「信仰に導かれるようになるため」に、言葉には言い尽くせない祈りと労力、犠牲を払っているのです。
Ⅱ.夫に従いなさい
ペトロは、キリスト者である妻に対して、神の立てられた制度に従うという服従の中で「同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです」(1節)と勧めます。この時代は、妻のみがキリスト者であることは珍しくありませんでした。しかし、ペトロは、キリスト者である妻に対して、信仰をもったなら未信者の夫のもとを去りなさいとは教えていません。夫への服従は、キリスト者である夫に対してのみではありません。あらゆる人間は、それぞれの置かれた立場において従順でありなさいと勧めます。
主イエス・キリストの復活と聖霊降臨により、エルサレムから始めて地の果てにまでキリストの福音が宣教されるようになりました。ペトロをはじめとする使徒たちの宣教活動により、異教の地であるローマ帝国の各地にキリストの福音が宣べ伝えられ、回心してキリスト者になる者が起こされました。
異教徒であった家庭にキリストの福音が入り、妻だけ、あるいは夫だけがキリスト者になる場合、とりわけ妻のみがキリスト者になる場合が多かったのです。その場合にキリスト者になった妻は、未信者である夫に対してどうあるべきでしょうか。ペトロは「自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても」と言います。キリスト者となった妻たちに、異教徒として不信仰にとどまっている夫に従いなさいと勧めます。「自分の夫」と呼ぶことで、たとえ妻が夫に従うとしても、妻が劣等の立場にあるからではなく、神の前の平等、人間と人間との正常な関係にあり、愛で結び合わされていることを思い起こさせています。「従う」は「仕える」ことで、自ら進んで決心をして、自分を捨てて相手を喜ばせようとすることです。妻が低い位置にあるから仕えるのではなく、自発的に自分を捨てること、犠牲を払うことを勧めています。
ペトロは「夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです」と言います。妻が夫に従う、仕えるのは、夫が信仰に導かれるようになるためです。「妻の無言の行い」により、彼女の未信者の夫がキリストを信じる信仰に導かれる可能性があるからです。それは「神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。」(2節)「無言の」とは「言葉なし」ですが、これは神の言葉、福音の言葉なしでということではなく、日常生活の言葉です。つまり、言葉ではなく、行いによって信仰の姿勢を現わすことです。「見る」というのは「注意深く見る、観察する」という意味です。たとえ未信者の夫が、御言葉を信ぜず、無関心ではあっても、妻の神を畏れる純真な生活を目の当たりにすると、無関心ではいられなくなります。
「神を畏れる生活」とは、一つ二つの行いではなく、すべてにおいて神がおられることを信じ、すべてを神に対する畏れをもってする行いです。それは、神が生きて働いておられることを証しすることです。その行いも完全かつ立派なものである必要はありません。自分を誇らず、謙遜に神に仕える生活が、神を証しすることになります。キリスト者になっても、日々、自分の罪と弱さを知り、それと戦いながら、キリストの十字架の贖いにより罪が赦され、新しい人に生かされていく様を見せながら未信者の夫に仕えていくのです。主イエスは「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5:16)と言われました。神は、キリスト者である妻に対して、彼女たちが未信者の夫にキリスト教信仰について、表立って語ることはなくても、彼女たちの敬虔な生活により、夫を、キリストを信じる信仰に導くように備えをすることができるという希望を与えています。ある人は、人の救いを、神の言葉ではなく、愛の業によると説明しようとします。しかし、人の救いは神の言葉、福音を聞くことなしにはありません。パウロは「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)と語っています。さらに神は、福音宣教という愚かな手段、迂遠と思われる方法を用いて、人を救いに導かれることを良しとされました。「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」(コリント一1:21) キリスト者である妻が神を畏れ、御言葉に従う、敬虔かつ貞節な生活を送るならば、たとえ今は、福音の説教に耳を傾けない夫であっても、その妻の「神を畏れる」無言の行いを見て、やがて心が開かれ、神の言葉、福音に耳を傾けるように備えられていきます。そのためには、信者の妻の未信者の夫に対する愛と不断の祈りが大切です。一人の魂が救われることについて、神の御心に適わないはずはないとの信仰と希望をもって生涯をかけて、祈り続けることが大切です。
Ⅲ.内面的な人柄
「あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです」(3~4節) ペトロは、身を飾ることを全く否定しているのではありませんが、それよりも積極的に身に着けるべき内面の重要さを語っています。「外面的なもの」と対照されている「内面的な人柄」とは霊的に新しくされたというだけでなく、知、情、意において刷新されたキリストにある人のことを指します。「内面的」なものは、人の目には隠されていますが神の目には明らかです。
人は、救われたと言うだけでなく、内面的なものが日々、新しくされなければいけません。パウロも「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます」
(コリント二4:16)と語っています。「柔和でしとやかな気立て」という朽ちないもので飾られなければいけません。「柔和」とは、弱々しい人のことではなく、神にすべてを委ねて、神に服従した人のことです。主イエスは「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイ11:29)と言われています。「しとやか」は「穏やか」なことで、神に従う信仰からくる柔和さ、穏やかさをもって無言で良い証しをすることは神の御前で朽ちない価値があり、ひいては夫を喜ばせることになります。
Ⅳ.婦人たちの模範
ペトロは「その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました。あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となるのです」(5~6節)と語ります。「内面的な人柄」を飾りとした婦人の例が挙げられ、とくにサラはその模範でした。聖なる婦人たちの日常生活は「神に望みを託した」ものでした。彼女たちは、夫への従順で自らを飾っていました。サラは夫アブラハムを主人と呼んで従い、彼が「父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」という主の言葉に従って旅立った時から、信仰の旅路を共に歩みました。アブラハムは、信仰の父としてユダヤ人だけでなくキリスト者にも認められていたように、サラも信仰の母、霊的な母とされていました。サラのように「善を行い、また何事も恐れないなら」サラと同じように信仰ある妻の生活ができるのです。
Ⅴ.妻を尊敬しなさい
「同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません」(7節) 夫たちには二つのことが言われています。第一は「生活を共にする」ことです。すべての営みを愛と理解をもって共にすることです。第二は「妻を尊敬する」ことです。当時の中近東は、家父長制の社会であり、女性の立場が低く、夫が力で妻を威圧し、わがまま、横暴、尊大にふるまうことがありました。「生活を共にする」ことには、妻に対する尊敬の念がなければいけません。日常生活において、妻に対する温かい理解と態度が求められます。さらに妻は「命の恵みを共に受け継ぐ者」です。夫も妻もキリストにあって、キリストと共に神の国と永遠の命の栄光を受け継ぐ者です。そして夫婦は、今現在の地上の生活での恵みにもつながっています。夫婦の間に、いさかい、不和、口論がある間は「祈り」の場所と時はありません。
ペトロは、夫と妻が共に一つ心となって神に祈ることができるために相互に和らぎ、相互に平和であるようにと勧めています。聖書の教えに従い、夫と妻が互いに愛と尊敬をもつ家庭においてはじめて、共に祈ることができ、神からの平和と恵みと命に与ることが出来るのです。