聖書の言葉 使徒言行録 19章11節~20節 メッセージ 2026年2月8日(日)熊本教会 朝拝説教 使徒言行録19章11節~20節「魔術師たちの回心」 1、 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。 今朝のみ言葉には、悪霊を追い出す祈祷師や魔術を使う人々のことが多く出てきています。現代においても、わたしたちを取り巻いているこの世界がすべてにおいて科学や理論で説明可能であると信じている人はそれ程多くはないと思います。理屈では解き切れないものがあるとどこかで思っているのではないでしょうか。その証拠に、人々は毎日乗る車に交通安全のお守りを取り付け、そして年が明けると大挙して初詣に出かけるのです。悪いことが続くとお祓いをしなければなどと考えるのですし、実際にお祓いをしてもらったと言うも少なくないのです。わたくしが京都伝道しています時に、キリスト教にゆかりのある先祖の霊が働いて悪さをしているので、納めてもらうことは出来ますかと真剣に電話がかかってきました。お話を聞いてお祈りすることは出来ますと返事をしましたら、早速おいでになっていろいろな悲しい出来事について語ってくださいました。最後に主わたくしが主イエス様の御名でお祈りをしましたが、それでよかったのかどうか、今でも考えています。 ましてや使徒言行録の時代です。病気や事故の原因の一つとして、そこに何か悪いもの、悪魔や悪霊が働いたと考えるのは普通のことであったと思います。今日のような上下水道や電気といった設備が全く未整備であり、衛生状態は悪く、医療もなきに等しい古代のことです。人々は、困ったことが起きると、今の時代以上に、まじないや占い、あるいは魔術師や祈祷師に頼っていたものと思います。 先ほど、お聞きしました聖書のみ言葉の終わりの方ですが、19節にこのように記されています。 「また魔術を行っていた多くのものも、その書物を持ってきて、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると銀貨5万枚にもなった。」 今日の説教題は「祈祷師たちとの闘い」としましたが、18節には、信仰に入った魔術師、祈祷師たちが自分たちの悪行を告白し書物を焼き捨てたとありますので「祈祷師たちの回心」とした方が良かったかも知れません。今朝の御言葉の11節から17節には、主イエス様とパウロの名を利用する魔術師たちとそれに対する神様の怒りと裁きが記されています。その意味では、パウロの宣教を悪用した魔術師たちと神様に守られているパウロたちとの闘いと言って良いのだと思います。 魔術師たちが焼き捨てた書物の代金は銀貨5万枚であったと書かれています。銀貨5万枚といいますのは、この銀貨がローマのデナリオン銀貨だとすれば、一枚4.3グラム、今の銀相場で換算するとなら、一枚が200円以上ですから5万枚は一億円を超える莫大な金額です。 わたくしが心に留まりましたことは、金額の大きさもそうですけれども、人々が魔術の本をもってきて焼き捨てたときに「皆の前で」それをしたということです。皆と言いますのは、教会員だけでなく、エフェソの町の人々皆の前でと言うことでしょう。場所は、町はずれの荒れ野であったのか、あるいは畑の一角、ひょっとすると町の広場であったかもしれません。たくさんの魔術の本が積み上げられ、町の人々が見ている前でそれが焼かれています。現代日本でも行われているどんど焼きのように炎と煙が巻き上がる光景が目に浮かびます。どんど焼きは日本古来の神に無病息災と繁栄を祈るものだそうですが、魔術本を焼き払うこの炎はあらゆる人間の作った神と決別する炎です。もう魔術や呪文を唱えるような見せかけの祈祷に頼る必要はない、私たちは真実のまことの神である主イエス・キリストの神の恵みを信じます。主イエス様の恵みの力は、どんなこの世的な力よりも強いということを人々の前で証しして、魔術師たちは、その本を焼き捨てたのではないでしょうか。だからこそ、このあとの20節にありますように、主の言葉、イエス・キリストの福音がいよいよ勢いよく広まり、力を増していったのです。 このことは、現代においても、わたしたちが公に信仰を告白することは、そのことを通して、実は福音伝道が進んで行くと言うことを示しているのです。 2、 使徒言行録19章の二回目の説教になります。初代教会の指導者、主イエス様の12人の直弟子と共に、使徒と呼ばれるパウロが、アジア州の都であるエフェソの町で伝道した記録であります。パウロはこの町で長く伝道しています。 少し振り返ってみたいと思います。8節には、最初、パウロがユダヤ教の会堂、シナゴーグに入って三か月間、神の国について語ったことが記されます。しかし、始めは好意的であったユダヤ人たちはパウロの語るみ言葉に反抗するようになります。 神の国とは「神様のご支配」という言葉です。パウロの説教は、主イエス・キリストの周りには神の国が実現しており、誰もがそこに入ることができると語って、主イエス様を宣べ伝えるものでした。神の国の恵みの中心には主イエス様の十字架と復活があります。神様の恵みのご支配に与かるということは、主イエス様による罪の赦しと新しい命に生きることです。 けれども、ユダヤ教の会堂に集っている人々の中の一部の人がこの福音を強く拒絶しましたので、パウロはそこを退きました。そして10節にありますが、ティラノの講堂と言う町の学校の教室を借りてそこで二年間の長きにわたって伝道しました。さらに、22節を見ますと、そのあともしばらくエフェソにいたようですので、合わせて3年間弱、パウロはエフェソで働いたということが出来ます。エフェソの教会はパウロにとって大切な教会になりました。18章の23節あたりから、言ってみれば、いつのまにか始められたように見えますパウロの第三次伝道旅行です。けれども、その大部分はエフェソでの伝道でありました。三年近く継続されたことは特別なことでありました。パウロは、アジア州中心的な大都市、また総督府の置かれている都エフェソで福音のために働きながら、各地に伝道者を送り出し、あるいは手紙を書き、時にはそこに自ら足を運んで、この三年の間に、聖書の中に記されている10を数えるアジア州の諸教会が建設されていったのです。 今朝の19章11節から始まって、その終わりの20章1節までに、その三年間に起きた二つあるいは三つのトピックス、特別に記すべきことが紹介されます。第一番目は、今朝のみ言葉にありますユダヤ人の祈祷師、魔術師たちに関わる物語です。 それは「各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たち」がパウロの真似をしたことから始まりました。それに先立って、パウロを通して神様がなされた様々な奇跡のことが紹介されています。それは目覚ましい奇跡と訳されています。驚くべき力ある業、並々ならぬ力ある業と訳している聖書もありますが、元の言葉は、元来は「普通ではない、めったにない」という意味の言葉です。使徒パウロが、人間であるにも関わらず、神の御業として悪霊を追い出したこと、病をいやしたことをそういっているのです。しかも、彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると病が癒されたと書かれています。マタイによる福音書9章で、主イエス様が、12年間も婦人病を患っていた女性をいやされた奇跡を思い起こさせます。このときは、女性は後ろから近寄って主イエス様の来ている衣の房に触れたのですが、女性の病は癒されたのです。マルコによる福音書とルカによる福音書には、主イエス様は、このときご自分の力が出て行ったと感じたと記されています。このような奇跡は、古代であっても現代であってもめったに起こりえないことです。けれども、神様がそれをなそうとされるなら、それは起こされるのです。今朝のみ言葉にも、神がパウロの手を通して奇跡を行われたと書かれています。神が行われた。この奇跡は、パウロの語るイエス・キリストの福音が真実であることを証しするものです。主イエス・キリストの救いの恵み、救いの力が確かであることを神が示してくださったのです。 さて、問題はこれを見ていたエフェソの町の巡回祈祷師たちでした。いわゆる拝みやさんたちですけれども、当時のユダヤ教の中では、そういった悪魔祓いや病の癒しをする巡回祈祷師が大勢たようです。その人たちの中で祭司長スケワの息子であると名乗るものたち7人がいました。当時のユダヤ教の大祭司のリストにはそのような名は見られません。おそらく勝手にそう名乗っていた悪魔払いのグループだったと思われます。パウロが、主イエス様の名を唱え、主イエスの名によって癒しが起こるように祈るとそれがなしとげられたのを見て、その言葉そのものを霊験あらたかな呪文のように思ってしまったのでしょう。 「試み」にと書かれていますので、効果があるかどうかわからないけれども、一度やってみようということです。「パウロが宣べ伝えているイエスによってお前たちに命ずる」こう言って、悪霊を追い出そうとしました。ところが、このとき思いがけなく、悪霊の方がその祈祷師たちに言い返したというのです。 「イエスのことは知っている」「パウロのことも知っている」「だがお前たちは何者だ」言い換えると「お前たちを認めることはできない」というのです。そして、悪霊は、悪霊に取りつかれている男を用いて祈祷師たちをひどい目に遭わせました。 7人の祈祷師たちはほうほうの体で、悪霊につかれている人の家から逃亡したのです。このことは、エフェソの町の人々の間で知らないものがないほどまでに広まったといます。 主イエスの名をみだりに用いたものが罰せられ、一方、パウロは主イエス様に用いられて癒しを行い、同時に主イエス様の名を宣べ伝えているのです。そして多くの人が主イエス様をあがめるようになったのでした。 注目しなければならないことは、このとき、人々が皆「恐れ」を抱いたということです。神様は生きておられる。主イエス・キリストもまた生きておられることが、自分たちの魔術に頼る生き方が罪深いものであることを悟ったと言い換えても良いと思います。パウロの語る福音とパウロが行う神の御業が、人々の心に悔い改めを起こさせたのです。 3、 エフェソの町に住むユダヤ人やギリシャ人の中から主イエス様を信じる人々が起こされるのと同時に、すでに信者になっていた人々にも変化が起きました。信仰に入った人とは、この時に新しく信仰に入った人という意味ではなくすでに信じていた人々のことです。完了形というギリシャ語のかたちが使われているのでそのことがわかります。「すでに」と言う言葉を補って訳している聖書もあります。大勢の信者がパウロとその同労の伝道者のところに、あるいは教会に来て、自分たちの悪行を告白しました。その中には魔術師まがいの行為をしていた者や、まず魔術師や魔術に頼っていた者もいたのです。そのことを悔い改めてたのです。それもあいまいなオブラートに包んだような言葉ではなく、はっきりと明確にそれを言い表して悔い改めたというのです。 主イエス様の名を悪用し、自分たちの利益を計ろうとしたものが罰せられたことが、教会に今一度神への畏れをもたらし、霊的なリバイバルが起きたのです。 わたしたちは、このときのエフェソのキリスト者たちのように、神様の前でもう一度、わたしたち自身の思いや言葉を点検したいと思うのです。カトリック教会には告解という制度があります。今は赦しの秘跡と呼ぶそうです。信者は、年に一度、あるいは「特別の罪の赦しを要するとき」、司祭の前で、しかし、壁を隔てて自分が犯した罪を告白し神様の赦しを得るという儀式です。司祭は、顔を見せず壁を隔てて告白を聞き、主イエス様に成り代わるようにして罪の赦しを与えると言います。 ルターは、このような告解の儀式を教会の礼典とすることはしなかったのです。しかし、教会にとって必要な礼典、サクラメントに準じるものとして大切にしたと言われます。カルヴァンは、罪の赦しはそのような属人的なものではなく、一人一人の信仰と主イエス・キリストの贖罪によってすべての信仰者はすでに赦されており、これから先に犯す罪もすべて神の赦しを受けていることを明確にしました。現代において、告解はカトリックの言うような聖職者だけが行う霊的な儀式ではなく、むしろ、この中世以来の教会の意味のある伝統の一つとして、牧師と信徒、あるいは信徒同士の悔い改めの分かち合い、霊的なカウンセリングとして、意味のあるものとなる可能性があると思います。もちろんそこには守秘義務がなければなりません。 自分自身の罪、神様を軽んじる思い、そこから出てくる自己中心的な思いや言葉をもう一度しっかりと見つめ、その罪を主イエス様の前で意識することがなければ、悔い改めもまた言葉だけのものになります。 エフェソ教会の会員たちは、神への畏れをもう一度覚えて、罪を言い表し、悔い改めをしたのです。 19節から先には、そのような信者たちとは別に、魔術を行っていたものたちの回心が記されています。説教者の中には、この魔術を行っていたものと言う言葉を広くとって、心の中で魔術的なものに心惹かれていた一般信者のことをも指すと説明している方もおられます。お守りのようなものを密かに身に着けていたのでそれを焼き捨てた人も含まれると言っています。けれども、当時としては高価な魔術の本を持ってきて焼いたというのですから、これは職業的な魔術師たちが集団で回心した、そう理解すべきだと思います。 現在のような印刷術がない時代です。紙の代わりになるパピルスや羊皮紙は高価なものであり、そこに一文字一文字、ペンで手書きするのですから、当時書物は高価でした。彼らはその書物を持ってきて、皆の前で焼き捨てました。自分たちは、主イエス・キリストの福音を聞いた。パウロの目覚ましい奇跡を見た、まさに神様は生きておられる、そのことを信じたのです。自分の利益のために神の名を利用していたことを悔い改めて、主イエス様により頼む人生へと立ち返ったのです。 わたしたちは、魔術を行うことはないと思います。しかし、自分の利己的な願いを得体のしれない何かにゆだねて、いわゆるパワースポットや占いや聖霊ではない別の霊の力に心を向ける深層心理はないでしょうか。主イエス様を信じて正しい道を歩むのではなく、目に見える利益に振り回され、占いや魔術的なものによって人生の幸福を得ようとするなら、それは神様が喜ばれる道とは違うのです。 魔術の本を焼く炎は高く舞い上がりました。これまでその人たちの人生を支えてきた高価な魔術の本はもはやいらない。それどころか、これらは自分たちを罪へと誘う恐ろしい悪への入り口とだと断定して、魔術師たちは、主イエス様を信じより頼んで、正しい道を歩もうと決心して、高価な本を炎に投げ込みました。それも多くの人の前で、皆の前でこのことを致しました。信仰を証ししたのです。 主イエス・キリストは何よりも力あるお方です。このお方にこそ、本当の幸いがあります。祈りを致します。 祈り 天にいます、主イエス・キリストの父なる神さま、御名を崇めます。現代においても、何か神秘的なものに頼り、唯一のまことの神ではなく、人間の文化が造り出したような様々な 神・仏、あるいは祈祷師やお守りなどに頼る思いは手ごわい仕方でわたしたちを捕らえようとします。その中で悔い改めと感謝をもって、本当に生きておられる聖書の神、イエス・キリストの神のみに心を向けることが出来ますようわたしたちを導いてください、またこの世界の中の多くの人々にも恵みをもってそのことを示してください、そのために教会を用いてください。主の名によって祈ります。アーメン。
2026年2月8日(日)熊本教会 朝拝説教
使徒言行録19章11節~20節「魔術師たちの回心」
1、
父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。
今朝のみ言葉には、悪霊を追い出す祈祷師や魔術を使う人々のことが多く出てきています。現代においても、わたしたちを取り巻いているこの世界がすべてにおいて科学や理論で説明可能であると信じている人はそれ程多くはないと思います。理屈では解き切れないものがあるとどこかで思っているのではないでしょうか。その証拠に、人々は毎日乗る車に交通安全のお守りを取り付け、そして年が明けると大挙して初詣に出かけるのです。悪いことが続くとお祓いをしなければなどと考えるのですし、実際にお祓いをしてもらったと言うも少なくないのです。わたくしが京都伝道しています時に、キリスト教にゆかりのある先祖の霊が働いて悪さをしているので、納めてもらうことは出来ますかと真剣に電話がかかってきました。お話を聞いてお祈りすることは出来ますと返事をしましたら、早速おいでになっていろいろな悲しい出来事について語ってくださいました。最後に主わたくしが主イエス様の御名でお祈りをしましたが、それでよかったのかどうか、今でも考えています。
ましてや使徒言行録の時代です。病気や事故の原因の一つとして、そこに何か悪いもの、悪魔や悪霊が働いたと考えるのは普通のことであったと思います。今日のような上下水道や電気といった設備が全く未整備であり、衛生状態は悪く、医療もなきに等しい古代のことです。人々は、困ったことが起きると、今の時代以上に、まじないや占い、あるいは魔術師や祈祷師に頼っていたものと思います。
先ほど、お聞きしました聖書のみ言葉の終わりの方ですが、19節にこのように記されています。
「また魔術を行っていた多くのものも、その書物を持ってきて、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると銀貨5万枚にもなった。」
今日の説教題は「祈祷師たちとの闘い」としましたが、18節には、信仰に入った魔術師、祈祷師たちが自分たちの悪行を告白し書物を焼き捨てたとありますので「祈祷師たちの回心」とした方が良かったかも知れません。今朝の御言葉の11節から17節には、主イエス様とパウロの名を利用する魔術師たちとそれに対する神様の怒りと裁きが記されています。その意味では、パウロの宣教を悪用した魔術師たちと神様に守られているパウロたちとの闘いと言って良いのだと思います。
魔術師たちが焼き捨てた書物の代金は銀貨5万枚であったと書かれています。銀貨5万枚といいますのは、この銀貨がローマのデナリオン銀貨だとすれば、一枚4.3グラム、今の銀相場で換算するとなら、一枚が200円以上ですから5万枚は一億円を超える莫大な金額です。
わたくしが心に留まりましたことは、金額の大きさもそうですけれども、人々が魔術の本をもってきて焼き捨てたときに「皆の前で」それをしたということです。皆と言いますのは、教会員だけでなく、エフェソの町の人々皆の前でと言うことでしょう。場所は、町はずれの荒れ野であったのか、あるいは畑の一角、ひょっとすると町の広場であったかもしれません。たくさんの魔術の本が積み上げられ、町の人々が見ている前でそれが焼かれています。現代日本でも行われているどんど焼きのように炎と煙が巻き上がる光景が目に浮かびます。どんど焼きは日本古来の神に無病息災と繁栄を祈るものだそうですが、魔術本を焼き払うこの炎はあらゆる人間の作った神と決別する炎です。もう魔術や呪文を唱えるような見せかけの祈祷に頼る必要はない、私たちは真実のまことの神である主イエス・キリストの神の恵みを信じます。主イエス様の恵みの力は、どんなこの世的な力よりも強いということを人々の前で証しして、魔術師たちは、その本を焼き捨てたのではないでしょうか。だからこそ、このあとの20節にありますように、主の言葉、イエス・キリストの福音がいよいよ勢いよく広まり、力を増していったのです。
このことは、現代においても、わたしたちが公に信仰を告白することは、そのことを通して、実は福音伝道が進んで行くと言うことを示しているのです。
2、
使徒言行録19章の二回目の説教になります。初代教会の指導者、主イエス様の12人の直弟子と共に、使徒と呼ばれるパウロが、アジア州の都であるエフェソの町で伝道した記録であります。パウロはこの町で長く伝道しています。
少し振り返ってみたいと思います。8節には、最初、パウロがユダヤ教の会堂、シナゴーグに入って三か月間、神の国について語ったことが記されます。しかし、始めは好意的であったユダヤ人たちはパウロの語るみ言葉に反抗するようになります。
神の国とは「神様のご支配」という言葉です。パウロの説教は、主イエス・キリストの周りには神の国が実現しており、誰もがそこに入ることができると語って、主イエス様を宣べ伝えるものでした。神の国の恵みの中心には主イエス様の十字架と復活があります。神様の恵みのご支配に与かるということは、主イエス様による罪の赦しと新しい命に生きることです。
けれども、ユダヤ教の会堂に集っている人々の中の一部の人がこの福音を強く拒絶しましたので、パウロはそこを退きました。そして10節にありますが、ティラノの講堂と言う町の学校の教室を借りてそこで二年間の長きにわたって伝道しました。さらに、22節を見ますと、そのあともしばらくエフェソにいたようですので、合わせて3年間弱、パウロはエフェソで働いたということが出来ます。エフェソの教会はパウロにとって大切な教会になりました。18章の23節あたりから、言ってみれば、いつのまにか始められたように見えますパウロの第三次伝道旅行です。けれども、その大部分はエフェソでの伝道でありました。三年近く継続されたことは特別なことでありました。パウロは、アジア州中心的な大都市、また総督府の置かれている都エフェソで福音のために働きながら、各地に伝道者を送り出し、あるいは手紙を書き、時にはそこに自ら足を運んで、この三年の間に、聖書の中に記されている10を数えるアジア州の諸教会が建設されていったのです。
今朝の19章11節から始まって、その終わりの20章1節までに、その三年間に起きた二つあるいは三つのトピックス、特別に記すべきことが紹介されます。第一番目は、今朝のみ言葉にありますユダヤ人の祈祷師、魔術師たちに関わる物語です。
それは「各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たち」がパウロの真似をしたことから始まりました。それに先立って、パウロを通して神様がなされた様々な奇跡のことが紹介されています。それは目覚ましい奇跡と訳されています。驚くべき力ある業、並々ならぬ力ある業と訳している聖書もありますが、元の言葉は、元来は「普通ではない、めったにない」という意味の言葉です。使徒パウロが、人間であるにも関わらず、神の御業として悪霊を追い出したこと、病をいやしたことをそういっているのです。しかも、彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると病が癒されたと書かれています。マタイによる福音書9章で、主イエス様が、12年間も婦人病を患っていた女性をいやされた奇跡を思い起こさせます。このときは、女性は後ろから近寄って主イエス様の来ている衣の房に触れたのですが、女性の病は癒されたのです。マルコによる福音書とルカによる福音書には、主イエス様は、このときご自分の力が出て行ったと感じたと記されています。このような奇跡は、古代であっても現代であってもめったに起こりえないことです。けれども、神様がそれをなそうとされるなら、それは起こされるのです。今朝のみ言葉にも、神がパウロの手を通して奇跡を行われたと書かれています。神が行われた。この奇跡は、パウロの語るイエス・キリストの福音が真実であることを証しするものです。主イエス・キリストの救いの恵み、救いの力が確かであることを神が示してくださったのです。
さて、問題はこれを見ていたエフェソの町の巡回祈祷師たちでした。いわゆる拝みやさんたちですけれども、当時のユダヤ教の中では、そういった悪魔祓いや病の癒しをする巡回祈祷師が大勢たようです。その人たちの中で祭司長スケワの息子であると名乗るものたち7人がいました。当時のユダヤ教の大祭司のリストにはそのような名は見られません。おそらく勝手にそう名乗っていた悪魔払いのグループだったと思われます。パウロが、主イエス様の名を唱え、主イエスの名によって癒しが起こるように祈るとそれがなしとげられたのを見て、その言葉そのものを霊験あらたかな呪文のように思ってしまったのでしょう。
「試み」にと書かれていますので、効果があるかどうかわからないけれども、一度やってみようということです。「パウロが宣べ伝えているイエスによってお前たちに命ずる」こう言って、悪霊を追い出そうとしました。ところが、このとき思いがけなく、悪霊の方がその祈祷師たちに言い返したというのです。
「イエスのことは知っている」「パウロのことも知っている」「だがお前たちは何者だ」言い換えると「お前たちを認めることはできない」というのです。そして、悪霊は、悪霊に取りつかれている男を用いて祈祷師たちをひどい目に遭わせました。
7人の祈祷師たちはほうほうの体で、悪霊につかれている人の家から逃亡したのです。このことは、エフェソの町の人々の間で知らないものがないほどまでに広まったといます。
主イエスの名をみだりに用いたものが罰せられ、一方、パウロは主イエス様に用いられて癒しを行い、同時に主イエス様の名を宣べ伝えているのです。そして多くの人が主イエス様をあがめるようになったのでした。
注目しなければならないことは、このとき、人々が皆「恐れ」を抱いたということです。神様は生きておられる。主イエス・キリストもまた生きておられることが、自分たちの魔術に頼る生き方が罪深いものであることを悟ったと言い換えても良いと思います。パウロの語る福音とパウロが行う神の御業が、人々の心に悔い改めを起こさせたのです。
3、
エフェソの町に住むユダヤ人やギリシャ人の中から主イエス様を信じる人々が起こされるのと同時に、すでに信者になっていた人々にも変化が起きました。信仰に入った人とは、この時に新しく信仰に入った人という意味ではなくすでに信じていた人々のことです。完了形というギリシャ語のかたちが使われているのでそのことがわかります。「すでに」と言う言葉を補って訳している聖書もあります。大勢の信者がパウロとその同労の伝道者のところに、あるいは教会に来て、自分たちの悪行を告白しました。その中には魔術師まがいの行為をしていた者や、まず魔術師や魔術に頼っていた者もいたのです。そのことを悔い改めてたのです。それもあいまいなオブラートに包んだような言葉ではなく、はっきりと明確にそれを言い表して悔い改めたというのです。
主イエス様の名を悪用し、自分たちの利益を計ろうとしたものが罰せられたことが、教会に今一度神への畏れをもたらし、霊的なリバイバルが起きたのです。
わたしたちは、このときのエフェソのキリスト者たちのように、神様の前でもう一度、わたしたち自身の思いや言葉を点検したいと思うのです。カトリック教会には告解という制度があります。今は赦しの秘跡と呼ぶそうです。信者は、年に一度、あるいは「特別の罪の赦しを要するとき」、司祭の前で、しかし、壁を隔てて自分が犯した罪を告白し神様の赦しを得るという儀式です。司祭は、顔を見せず壁を隔てて告白を聞き、主イエス様に成り代わるようにして罪の赦しを与えると言います。
ルターは、このような告解の儀式を教会の礼典とすることはしなかったのです。しかし、教会にとって必要な礼典、サクラメントに準じるものとして大切にしたと言われます。カルヴァンは、罪の赦しはそのような属人的なものではなく、一人一人の信仰と主イエス・キリストの贖罪によってすべての信仰者はすでに赦されており、これから先に犯す罪もすべて神の赦しを受けていることを明確にしました。現代において、告解はカトリックの言うような聖職者だけが行う霊的な儀式ではなく、むしろ、この中世以来の教会の意味のある伝統の一つとして、牧師と信徒、あるいは信徒同士の悔い改めの分かち合い、霊的なカウンセリングとして、意味のあるものとなる可能性があると思います。もちろんそこには守秘義務がなければなりません。
自分自身の罪、神様を軽んじる思い、そこから出てくる自己中心的な思いや言葉をもう一度しっかりと見つめ、その罪を主イエス様の前で意識することがなければ、悔い改めもまた言葉だけのものになります。
エフェソ教会の会員たちは、神への畏れをもう一度覚えて、罪を言い表し、悔い改めをしたのです。
19節から先には、そのような信者たちとは別に、魔術を行っていたものたちの回心が記されています。説教者の中には、この魔術を行っていたものと言う言葉を広くとって、心の中で魔術的なものに心惹かれていた一般信者のことをも指すと説明している方もおられます。お守りのようなものを密かに身に着けていたのでそれを焼き捨てた人も含まれると言っています。けれども、当時としては高価な魔術の本を持ってきて焼いたというのですから、これは職業的な魔術師たちが集団で回心した、そう理解すべきだと思います。
現在のような印刷術がない時代です。紙の代わりになるパピルスや羊皮紙は高価なものであり、そこに一文字一文字、ペンで手書きするのですから、当時書物は高価でした。彼らはその書物を持ってきて、皆の前で焼き捨てました。自分たちは、主イエス・キリストの福音を聞いた。パウロの目覚ましい奇跡を見た、まさに神様は生きておられる、そのことを信じたのです。自分の利益のために神の名を利用していたことを悔い改めて、主イエス様により頼む人生へと立ち返ったのです。
わたしたちは、魔術を行うことはないと思います。しかし、自分の利己的な願いを得体のしれない何かにゆだねて、いわゆるパワースポットや占いや聖霊ではない別の霊の力に心を向ける深層心理はないでしょうか。主イエス様を信じて正しい道を歩むのではなく、目に見える利益に振り回され、占いや魔術的なものによって人生の幸福を得ようとするなら、それは神様が喜ばれる道とは違うのです。
魔術の本を焼く炎は高く舞い上がりました。これまでその人たちの人生を支えてきた高価な魔術の本はもはやいらない。それどころか、これらは自分たちを罪へと誘う恐ろしい悪への入り口とだと断定して、魔術師たちは、主イエス様を信じより頼んで、正しい道を歩もうと決心して、高価な本を炎に投げ込みました。それも多くの人の前で、皆の前でこのことを致しました。信仰を証ししたのです。
主イエス・キリストは何よりも力あるお方です。このお方にこそ、本当の幸いがあります。祈りを致します。
祈り
天にいます、主イエス・キリストの父なる神さま、御名を崇めます。現代においても、何か神秘的なものに頼り、唯一のまことの神ではなく、人間の文化が造り出したような様々な 神・仏、あるいは祈祷師やお守りなどに頼る思いは手ごわい仕方でわたしたちを捕らえようとします。その中で悔い改めと感謝をもって、本当に生きておられる聖書の神、イエス・キリストの神のみに心を向けることが出来ますようわたしたちを導いてください、またこの世界の中の多くの人々にも恵みをもってそのことを示してください、そのために教会を用いてください。主の名によって祈ります。アーメン。