聖書の言葉 コリントの信徒への手紙一 12章12節~24節 メッセージ 2026年1月25日(日)熊本伝道所礼拝説教 コリントの信徒への手紙12章12節~27節「キリストの体、教会」 1、 御子イエス・キリストの恵みと平和とが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。 先々週から続けて教会の公式のお知らせ、公告という形で週報に掲載していますけれども、本日礼拝後に2026年度の定期会員総会を開催します。そこで、昨年もそう致したのですが、今朝は使徒言行録から離れて、今年一年間の教会標語となりますコリントの信徒への手紙1,12章26節27節を中心にして説教を致します。2026年度の教会標語は、12月の伝道所委員会の協議により、昨年と同じか所になりました。すでに1月最初の週報から第一面に掲げているとおりです。 標語として掲げていますコリントの信徒への手紙1の12章27節をお読みします。「あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です」、その前に26節には「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれればすべての部分が共に喜ぶのです」と書かれています。 昨年の標語を選びました時に、2024年の標語「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」という、外に向かって働くということから、教会自身の問題、つまり宣教の土台となる教会のあり方に眼を向けると言うことを考えました。神様の求めている本来の姿に教会が建て上げられてゆく、そういう方向性の御言葉を選んだのであります。 昨年から、正確には一昨年の11月からですが、「コイノニア会」、小グループでの主にある交わりの会というものを始めました。このことも「教会はキリストの体である」と言う御言葉を形に現わしてゆく働きでもあったと思います。 今年の教会標語は、昨年の御言葉を継続して掲げることといたしました。標語の精神を形に現わす働きはまだまだ道半ばであります。もとより、弱く不十分なわたしたちにとって、もうこれで良い、完成だということは、この世ではありえないことですから、道半ばであるという、それだけが理由ではありません。 背景にあることとして考えましたのは、少しずつわたくしの熊本での働きの終わりが近づいているということです。これは神様の御心次第ですけれども、なるべく早く、わたくしの後任牧師が与えられるよう願っているのです。そのことを考えながら、今年は何か新しいことを始めるよりも、今目指していることをそのまま続けるべきではないかいと導かれたのであります。伝道所委員の兄弟姉妹もそのことを理解して下さっていると思っています。 そういうわけで、今年もまた「あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です」。この御言葉を、神様がわたしたち一人一人に語ってくださっている、そのようなみ言葉として受け止めたいと思います。 2, さて、先ほど第一コリント書12章12節から27節までを一気にお読みしました。教会標語としていますのは27節です。けれども、聖書を良く見ますとあることに気が付きます。12節から始まった段落が26節でいったん切れていることです。27節からは新しい段落に入っていることが分かります。27節からの新しい段落は、その前の12節から26節までの、キリストの教会は一人の人間の体のようであるという段落を受けたものです。27節からは新たな主張が始まっているところです。27節から始まるこの段落は、最終的に13章の愛の賛歌、「最高の道としての愛を追い求めなさいと」いう勧めに流れ込んでいます。 12章1節から12節までは、聖霊がわたしたちに与えてくださる様々な賜物についての教えでした。これを受けて13節から26節まで、教会に集う一人一人には、異なった賜物が与えられており、それらが十分に生かされ組み合わされて教会が立て上げられてゆくと結論付けられています。結びのようにして26節で「教会はキリストの体です。あなたがたはその部分です」と言うのです。 聖書の中には、教会についての比喩、たとえはいろいろあります。その中で、キリストの体という喩えは、一人一人の横の関係と神様、主イエス様との縦の関係を表現します。日と対つながっている、ひとつであるけれども違いがあると言うことを示しています。 そして27節からは、もう一度、それらの賜物が用いられる具体例、つまり使徒・預言者・教師・奇跡・癒し・援助・管理・異言など賜物の役割分担が列挙されます。そしてそれに続いている最後の31節が大変大切なものです。それらのたとえば八つの働きに奉仕する人々が、神様から与えられている違った賜物がある。そういう素晴らしい賜物があるとしても、教会にはさらに求めるべきもっと大きな賜物があると言い、そして最高の道、最も大いなる賜物を求めなさいと命じるのです。それは「愛」と言う賜物である。最高の賜物としての愛を追い求めなさいというのです。そして次の13章から聖書の中でも、ひときわ名高い、また美しい愛の教えが明らかにされてゆくことになります。 わたしたちの2025年と2026年の標語は、パウロがこの個所で語りたかった愛の道を歩みなさいという結論部分ではなく、その途中の議論に出てくるみ言葉であると言うことを意識する必要があります。「愛の賜物を追い求めなさい」という勧めの文脈の途中で、教会はキリストの体であり一人一人はその部分であると語られていることを覚えなければならないと思います。 その具体的な在り方として、人間の体のたとえが示されています。教会はイエス・キリストの体であると言うときに、もちろん、その頭は牧師でのなければ信徒でもなく、イエス・キリストです。頭だけが存在していても、現実世界で働くことが出来ませんから、やはり体がなければならない、それが教会であると言うのです。 12節から26節までに繰り返し語られている言葉がいくつもありますが、今は、9回出てくる「一つ」という言葉と5回出てくる「皆」あるいは「すべての」という言葉に注目したいと思います。 以前奉仕しておりました教会で、そこは無牧の間、月に一回出かける代務の働きだったのですが、2~3カ月休んでおられた一人の姉妹が、同じ市内の別の教会に転会したいと申し出られたことがあります。その理由は定住の牧師がいないと言うことではなくて、御自分の弟の方が60歳代で急死なさった時に、そのことを教会の誰にも話す機会がなかったことだと言うのです。近くの他教派の別の教会に友達が行っていて、その友達を通して、その教会に行ったところ皆が自分の悲しみに共感してくれた、つまり、ひとつの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しむというみ言葉通りのことが起こったというのです。わたしたちの教会もまた、互いに悲しみや喜びを分ちあう、そのような教会になろうではありませんか。教会は、キリストの愛の中を歩んで行くのです。 3 どの教会も同じだと思いますが、そこには、実に色々な人が集います。男性女性、大人こども、老人、乳幼児、もいるでしょう。実は、主イエス様に結ばれている、あるいは主イエス様が招いてくださったと言う理由だけで皆が結びつけられているのです。一つの体のように結びついているのです。 日本には神道や仏教など多くの宗教があり神社やお寺があります。初詣には藤崎宮や健軍神社に何万という人が集まります。でもそこには横のつながりは基本的にないと言わねばならないでしょう。またお葬式に集まる人は、故人の家族や親せき、友人たちですが、そこでなされることは故人を葬り、また偲ぶことです。またそのことを通して、あらためて家族親族の絆が確認されます。しかし、そこには横の関係があっても縦の関係、一人一人と神様なり仏様との関係はとても薄いものです。しかし、教会がキリストの体であると言うことは、横の関係と縦の関係が両方存在していると言うことです。キリストが頭であり、しかも一人一人が体であると言うことは、いろいろな種類の人がいるのですが、それが一人の人間の体のように密接に結びついているということなのです。 この手紙を書いています初代教会の伝道者指導者の使徒パウロは、コリントの教会の様々な課題を良く知っています。欠点や弱さを十分に知っている中で、それでもなお、教会はキリストの体であると言いました。キリストの体になりなさいと言うのではなく、すでにあなたがたはキリストの体であるといいました。それゆえ、ひとつの部分の悲しみ、苦しみは全体の痛みであり、喜びは皆の喜びだと言ったのです。 さて、この世の常識では、優れていること、能力が高いことが尊ばれます。衆議院選挙が始まりますが、そこでは自分がいかに優れ、能力があり、役にたつかどうかが競われています。もちろん、その力をどう用いるのか、その人の思想や生き方が問われなければなりませんけれども、しかし、能力の高さや強さが大切であることは間違いありません。 ところが、教会という存在においては全く違った原理がそこにあります。この世的な能力、強さではなく、存在していると言いうこと自体に価値がある、神様が、愛しておられると言う点に土台があるのです。 12節から13節には、当時のコリントの教会に集まっていたいろいろな種類の人々が、記されています。「ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと」とあります。コリントという町はエーゲ海に突き出しているアカイア州と当時のギリシャの首都アテネの間にある商業都市でした。そこには多くのユダヤ人も住んでいましたし、そうではない異邦人、ここではギリシャ人とひとまとめにされていますが、ギリシャ人も住んでいます。そして教会には主イエス様を信じるようになったユダヤ人と、やはり主イエス様を信じるようになったギリシャ人である現地の人の両方が集まっていました。両者は文化的、宗教的な背景が全く違う人々です。また、奴隷であろうと自由人であろうと、と書かれているように違った身分や職業の人もいます。11章には、頭にかぶり物、ベールを被る女性のことが書かれているので、男性も女性も集っています。そういう違った境遇の人たちでありながら、一人の主、救い主イエス・キリストを信じる信仰を頂いた。それは一つの霊の働き、つまり聖霊の恵みでありました。それらの人々は、もともとは全く知る由もない他人の関係であったのに、今や家族のように、いやそれ以上に近い関係、一つの体になったというのです。それは、趣味が一緒とか境遇が似ているからというのではなく、ただ神によって招かれてイエス・キリストを知るものとされ教会の一員になりました。 熊本教会は小さな教会かも知れませんけれども、同じ原理のもとに成り立っています。教会が大きい、小さいに関わりなく、教会とはそのような場所であります。隣で讃美歌を歌っている人、後ろで使徒信条を告白している人、御言葉に耳を傾けている人、皆がそれぞれ違った場所から神様によってここに集められたのです。 14節に、「体は、一つの部分ではなく多くの部分から成っています」とあります。みなが違った人であり、違った賜物をもつ多様な人でありますが、一つの体、キリストの体を作っているのです。 4、 実は、教会の姿とはいかなるものなのか、聖書がいろいろな喩えを用います。教会は「キリストの花嫁」である。あるいは「神の家」、「神の家族」、「祈りの家」であるなどと言われています。どれも聖書自体が言っていることです。その中で、最も重要なものをあげるとすれば二つのことだと思います。一つは、今朝のみ言葉が語る「キリストの体」ということです。そしてもう一つのことは「神の民」であるという言葉です。今朝お読みしました詩編23編では、羊飼いに守られ導かれ満ち足りている羊の群れのことが語られました。羊たちは羊飼いと共に旅をしてゆきます。キリストの体という喩えは、歴史の中のどんな場面でも変わらない教会の姿です。一方、神の民という言い方は、歴史と結びついています。建物ではなく群れであり、しかも歴史の中で神様のご計画という歴史の軸の中で動いてゆく、旅をするのです。これもまた教会の姿です 教会は、そこに集う仲間がただ一人のキリストにつながりながら、皆で力を合わせ、助け合い励まし合う一つの体として、世の終わりまで、ひとつのキリストの体として一緒に旅をしてゆく仲間ではないでしょうか。 15節から25節には、まるで教会学校で語られるような仕方で、体の各部分が互いに配慮する様子が語られています。全体が目であるような、あるいは、全体が手や足だけであるような体は存在することが出来ません。不要な部分は一つもないということ、そして目立たない部分が互いに補い合って役割を果たす、そのことによって体全体の働きが支えられるのです。 教会においては、一人一人の個性や自由が重んじられます。何かお互いの事情に踏み込んで来られることに抵抗を覚える方がおられると思います。そういう方も含めて教会はキリストの体なのです。その方のあり方を尊重する、大切にすることもまた、愛の奉仕のかたちであり、交わりの一つのかたちであると思います。 互いが違っていても、様々な部分があっても、弱いところ、見栄えの良い所、そうでないところがあっても体は一つの体として働きます。むしろ、そのような弱い部分こそが必要なのです。キリストの体、それが教会なのです。祈りを致します。 愛する主、天の父なる神の御子イエス・キリストの御名を崇めます、あなたは、不思議な仕方で教会にわたしあっち一人一人を招いてくださいました。それぞれは違った境遇、個性を持つおmのですが、一人の主、イエス・キリストのゆえに互いに結ばれて売ることを感謝します。キリストの体として教会が立て上げられていきますよう、どうか導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
2026年1月25日(日)熊本伝道所礼拝説教
コリントの信徒への手紙12章12節~27節「キリストの体、教会」
1、
御子イエス・キリストの恵みと平和とが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。
先々週から続けて教会の公式のお知らせ、公告という形で週報に掲載していますけれども、本日礼拝後に2026年度の定期会員総会を開催します。そこで、昨年もそう致したのですが、今朝は使徒言行録から離れて、今年一年間の教会標語となりますコリントの信徒への手紙1,12章26節27節を中心にして説教を致します。2026年度の教会標語は、12月の伝道所委員会の協議により、昨年と同じか所になりました。すでに1月最初の週報から第一面に掲げているとおりです。
標語として掲げていますコリントの信徒への手紙1の12章27節をお読みします。「あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です」、その前に26節には「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれればすべての部分が共に喜ぶのです」と書かれています。
昨年の標語を選びました時に、2024年の標語「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」という、外に向かって働くということから、教会自身の問題、つまり宣教の土台となる教会のあり方に眼を向けると言うことを考えました。神様の求めている本来の姿に教会が建て上げられてゆく、そういう方向性の御言葉を選んだのであります。
昨年から、正確には一昨年の11月からですが、「コイノニア会」、小グループでの主にある交わりの会というものを始めました。このことも「教会はキリストの体である」と言う御言葉を形に現わしてゆく働きでもあったと思います。
今年の教会標語は、昨年の御言葉を継続して掲げることといたしました。標語の精神を形に現わす働きはまだまだ道半ばであります。もとより、弱く不十分なわたしたちにとって、もうこれで良い、完成だということは、この世ではありえないことですから、道半ばであるという、それだけが理由ではありません。
背景にあることとして考えましたのは、少しずつわたくしの熊本での働きの終わりが近づいているということです。これは神様の御心次第ですけれども、なるべく早く、わたくしの後任牧師が与えられるよう願っているのです。そのことを考えながら、今年は何か新しいことを始めるよりも、今目指していることをそのまま続けるべきではないかいと導かれたのであります。伝道所委員の兄弟姉妹もそのことを理解して下さっていると思っています。
そういうわけで、今年もまた「あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です」。この御言葉を、神様がわたしたち一人一人に語ってくださっている、そのようなみ言葉として受け止めたいと思います。
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さて、先ほど第一コリント書12章12節から27節までを一気にお読みしました。教会標語としていますのは27節です。けれども、聖書を良く見ますとあることに気が付きます。12節から始まった段落が26節でいったん切れていることです。27節からは新しい段落に入っていることが分かります。27節からの新しい段落は、その前の12節から26節までの、キリストの教会は一人の人間の体のようであるという段落を受けたものです。27節からは新たな主張が始まっているところです。27節から始まるこの段落は、最終的に13章の愛の賛歌、「最高の道としての愛を追い求めなさいと」いう勧めに流れ込んでいます。
12章1節から12節までは、聖霊がわたしたちに与えてくださる様々な賜物についての教えでした。これを受けて13節から26節まで、教会に集う一人一人には、異なった賜物が与えられており、それらが十分に生かされ組み合わされて教会が立て上げられてゆくと結論付けられています。結びのようにして26節で「教会はキリストの体です。あなたがたはその部分です」と言うのです。
聖書の中には、教会についての比喩、たとえはいろいろあります。その中で、キリストの体という喩えは、一人一人の横の関係と神様、主イエス様との縦の関係を表現します。日と対つながっている、ひとつであるけれども違いがあると言うことを示しています。
そして27節からは、もう一度、それらの賜物が用いられる具体例、つまり使徒・預言者・教師・奇跡・癒し・援助・管理・異言など賜物の役割分担が列挙されます。そしてそれに続いている最後の31節が大変大切なものです。それらのたとえば八つの働きに奉仕する人々が、神様から与えられている違った賜物がある。そういう素晴らしい賜物があるとしても、教会にはさらに求めるべきもっと大きな賜物があると言い、そして最高の道、最も大いなる賜物を求めなさいと命じるのです。それは「愛」と言う賜物である。最高の賜物としての愛を追い求めなさいというのです。そして次の13章から聖書の中でも、ひときわ名高い、また美しい愛の教えが明らかにされてゆくことになります。
わたしたちの2025年と2026年の標語は、パウロがこの個所で語りたかった愛の道を歩みなさいという結論部分ではなく、その途中の議論に出てくるみ言葉であると言うことを意識する必要があります。「愛の賜物を追い求めなさい」という勧めの文脈の途中で、教会はキリストの体であり一人一人はその部分であると語られていることを覚えなければならないと思います。
その具体的な在り方として、人間の体のたとえが示されています。教会はイエス・キリストの体であると言うときに、もちろん、その頭は牧師でのなければ信徒でもなく、イエス・キリストです。頭だけが存在していても、現実世界で働くことが出来ませんから、やはり体がなければならない、それが教会であると言うのです。
12節から26節までに繰り返し語られている言葉がいくつもありますが、今は、9回出てくる「一つ」という言葉と5回出てくる「皆」あるいは「すべての」という言葉に注目したいと思います。
以前奉仕しておりました教会で、そこは無牧の間、月に一回出かける代務の働きだったのですが、2~3カ月休んでおられた一人の姉妹が、同じ市内の別の教会に転会したいと申し出られたことがあります。その理由は定住の牧師がいないと言うことではなくて、御自分の弟の方が60歳代で急死なさった時に、そのことを教会の誰にも話す機会がなかったことだと言うのです。近くの他教派の別の教会に友達が行っていて、その友達を通して、その教会に行ったところ皆が自分の悲しみに共感してくれた、つまり、ひとつの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しむというみ言葉通りのことが起こったというのです。わたしたちの教会もまた、互いに悲しみや喜びを分ちあう、そのような教会になろうではありませんか。教会は、キリストの愛の中を歩んで行くのです。
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どの教会も同じだと思いますが、そこには、実に色々な人が集います。男性女性、大人こども、老人、乳幼児、もいるでしょう。実は、主イエス様に結ばれている、あるいは主イエス様が招いてくださったと言う理由だけで皆が結びつけられているのです。一つの体のように結びついているのです。
日本には神道や仏教など多くの宗教があり神社やお寺があります。初詣には藤崎宮や健軍神社に何万という人が集まります。でもそこには横のつながりは基本的にないと言わねばならないでしょう。またお葬式に集まる人は、故人の家族や親せき、友人たちですが、そこでなされることは故人を葬り、また偲ぶことです。またそのことを通して、あらためて家族親族の絆が確認されます。しかし、そこには横の関係があっても縦の関係、一人一人と神様なり仏様との関係はとても薄いものです。しかし、教会がキリストの体であると言うことは、横の関係と縦の関係が両方存在していると言うことです。キリストが頭であり、しかも一人一人が体であると言うことは、いろいろな種類の人がいるのですが、それが一人の人間の体のように密接に結びついているということなのです。
この手紙を書いています初代教会の伝道者指導者の使徒パウロは、コリントの教会の様々な課題を良く知っています。欠点や弱さを十分に知っている中で、それでもなお、教会はキリストの体であると言いました。キリストの体になりなさいと言うのではなく、すでにあなたがたはキリストの体であるといいました。それゆえ、ひとつの部分の悲しみ、苦しみは全体の痛みであり、喜びは皆の喜びだと言ったのです。
さて、この世の常識では、優れていること、能力が高いことが尊ばれます。衆議院選挙が始まりますが、そこでは自分がいかに優れ、能力があり、役にたつかどうかが競われています。もちろん、その力をどう用いるのか、その人の思想や生き方が問われなければなりませんけれども、しかし、能力の高さや強さが大切であることは間違いありません。
ところが、教会という存在においては全く違った原理がそこにあります。この世的な能力、強さではなく、存在していると言いうこと自体に価値がある、神様が、愛しておられると言う点に土台があるのです。
12節から13節には、当時のコリントの教会に集まっていたいろいろな種類の人々が、記されています。「ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと」とあります。コリントという町はエーゲ海に突き出しているアカイア州と当時のギリシャの首都アテネの間にある商業都市でした。そこには多くのユダヤ人も住んでいましたし、そうではない異邦人、ここではギリシャ人とひとまとめにされていますが、ギリシャ人も住んでいます。そして教会には主イエス様を信じるようになったユダヤ人と、やはり主イエス様を信じるようになったギリシャ人である現地の人の両方が集まっていました。両者は文化的、宗教的な背景が全く違う人々です。また、奴隷であろうと自由人であろうと、と書かれているように違った身分や職業の人もいます。11章には、頭にかぶり物、ベールを被る女性のことが書かれているので、男性も女性も集っています。そういう違った境遇の人たちでありながら、一人の主、救い主イエス・キリストを信じる信仰を頂いた。それは一つの霊の働き、つまり聖霊の恵みでありました。それらの人々は、もともとは全く知る由もない他人の関係であったのに、今や家族のように、いやそれ以上に近い関係、一つの体になったというのです。それは、趣味が一緒とか境遇が似ているからというのではなく、ただ神によって招かれてイエス・キリストを知るものとされ教会の一員になりました。
熊本教会は小さな教会かも知れませんけれども、同じ原理のもとに成り立っています。教会が大きい、小さいに関わりなく、教会とはそのような場所であります。隣で讃美歌を歌っている人、後ろで使徒信条を告白している人、御言葉に耳を傾けている人、皆がそれぞれ違った場所から神様によってここに集められたのです。
14節に、「体は、一つの部分ではなく多くの部分から成っています」とあります。みなが違った人であり、違った賜物をもつ多様な人でありますが、一つの体、キリストの体を作っているのです。
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実は、教会の姿とはいかなるものなのか、聖書がいろいろな喩えを用います。教会は「キリストの花嫁」である。あるいは「神の家」、「神の家族」、「祈りの家」であるなどと言われています。どれも聖書自体が言っていることです。その中で、最も重要なものをあげるとすれば二つのことだと思います。一つは、今朝のみ言葉が語る「キリストの体」ということです。そしてもう一つのことは「神の民」であるという言葉です。今朝お読みしました詩編23編では、羊飼いに守られ導かれ満ち足りている羊の群れのことが語られました。羊たちは羊飼いと共に旅をしてゆきます。キリストの体という喩えは、歴史の中のどんな場面でも変わらない教会の姿です。一方、神の民という言い方は、歴史と結びついています。建物ではなく群れであり、しかも歴史の中で神様のご計画という歴史の軸の中で動いてゆく、旅をするのです。これもまた教会の姿です
教会は、そこに集う仲間がただ一人のキリストにつながりながら、皆で力を合わせ、助け合い励まし合う一つの体として、世の終わりまで、ひとつのキリストの体として一緒に旅をしてゆく仲間ではないでしょうか。
15節から25節には、まるで教会学校で語られるような仕方で、体の各部分が互いに配慮する様子が語られています。全体が目であるような、あるいは、全体が手や足だけであるような体は存在することが出来ません。不要な部分は一つもないということ、そして目立たない部分が互いに補い合って役割を果たす、そのことによって体全体の働きが支えられるのです。
教会においては、一人一人の個性や自由が重んじられます。何かお互いの事情に踏み込んで来られることに抵抗を覚える方がおられると思います。そういう方も含めて教会はキリストの体なのです。その方のあり方を尊重する、大切にすることもまた、愛の奉仕のかたちであり、交わりの一つのかたちであると思います。
互いが違っていても、様々な部分があっても、弱いところ、見栄えの良い所、そうでないところがあっても体は一つの体として働きます。むしろ、そのような弱い部分こそが必要なのです。キリストの体、それが教会なのです。祈りを致します。
愛する主、天の父なる神の御子イエス・キリストの御名を崇めます、あなたは、不思議な仕方で教会にわたしあっち一人一人を招いてくださいました。それぞれは違った境遇、個性を持つおmのですが、一人の主、イエス・キリストのゆえに互いに結ばれて売ることを感謝します。キリストの体として教会が立て上げられていきますよう、どうか導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン。