2026年01月11日「あなたを捜し求める神」

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聖書の言葉

ルカによる福音書 15章1節~10節

メッセージ

20260111熊本伝道所礼拝説教(改)

「あなたを捜し求める神」(エゼキエル書34章11-16節、ルカによる福音書15章

1-10節)

黒川豪

序.

 今朝わたしたちに与えられているテキストを含むルカによる福音書15章は、三つの

たとえ話からなっております。すなわち、見失った羊のたとえ、無くした銀貨のたと

え、そして、放蕩息子のたとえです。今朝は、最初の二つのたとえ話を含む御言葉に

耳を傾けます。

 皆さんの中には、道に迷ってしまい、心細い思いをしていたら、だれかに助けても

らって目的地まで連れて行ってもらい、ホッとした経験があるという方がいらっしゃ

ると思います。わたし自身、そのような経験があります。

 そのような日常生活の中での具体的な迷子、道迷いだけではなく、人生において道

に迷ってしまう、あるいは、信仰生活において神様が分からなくなってしまうという

ことも、わたしたちは時に経験するのです。

 神はまさに、失われて迷子になってしまったわたしたちを見つかるまで捜し求めて

くださり、見つけたわたしたちのことを大喜びしてくださる方なのです。イエスは、

今日の箇所でそのことをわたしたちに教えようとしておられるのです。

 そこで今朝は、第1に、イエスがたとえをお語りになるきっかけの出来事に注目し

、第2に、見失った羊のたとえと無くした銀貨のたとえに注目し、最後に、二つのた

とえから見えて来る大切なことに注目します。

1. イエスがたとえを語るきっかけとなった出来事(1-3節)

1 「徴税人や罪人」(1節a)

 「徴税人や罪人」とあります。「徴税人」とは、読んで字のごとく、税金を徴収す

る人のことです。当時のユダヤでは、ユダヤを支配していたローマ帝国の手先になっ

てしまっており、強欲の塊であるがゆえに、人々から嫌われ、罪人と同等とされてい

た人々のことでした。また、「罪人」とは、安息日の神殿礼拝をはじめとする律法を

守り得ない職業の人たちや遊女等を指す言葉でした。

 要するに、「徴税人」も「罪人」も、律法を熱心に守る「ファリサイ派の人々や律

法学者たち」が差別して、決して一緒に食事をしない人々だったのです。

2 「話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」(1節b)

そのように差別されていた「徴税人や罪人」が皆、「話を聞こうとしてイエスに近

寄って来た」わけです。「話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」という言葉を直

訳しますと、「イエスに聞こうとしてイエスに近づきつつあった」となります。

 今日の箇所の直前の14章35節で、「聞く耳のある者は聞きなさい」とイエスはお語

りになっていました。イエスのその御言葉に応えるようにして、「徴税人と罪人が皆

」、イエスに聞こうとしてイエスに近づきつつあったのです。

 「近寄って来た」とありますが、「近づきつつあった」と直訳したように、原文で

は繰り返しを表す言葉が使われているのです。ですから、彼らの行動は、珍しい話を

聞いてみようじゃないか、と一回だけイエスに近寄って来たというのではないのです

。そうではなく彼らは、何度も何度もイエスの話を聞くために近づいて来ていたので

す。

3 ファリサイ派の人々や律法学者たちの反応(2節)

それに対するファリサイ派の人々や律法学者たちの反応がどうであったかと申しま

すと、「不平を言い出した」のでした。ここの「不平を言い出す」という言葉も、一

度限り、ついつい言ってしまったという意味ではなく、繰り返し、繰り返し、不平を

言い続けていたという意味なのです。

そして、彼らの不平がどのようなものであったかと申しますと、「この人は罪人た

ちを迎えて食事まで一緒にしている」というものなのでした。

 ここの「迎えて」とは、単にお客さんを儀礼的に家に入れてあげるという意味では

なく、交わりの中にしっかりと受け入れるという意味なのです。そして、「食事まで

一緒にしている」とは、単に一緒に食べるという意味ではなく、弟子として受け入れ

るという意味なのです。

 皆さん、イエスの行動と、ファリサイ派や律法学者たちの行動が全く違っているこ

とにお気づきでしょうか? ファリサイ派や律法学者たちは、徴税人や罪人たちを差

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別して、彼らと一緒に食事もしないのです。それに対して、イエスの場合、徴税人や

罪人たちと一緒に食事をすることはもちろん、交わりの中にしっかりと受け入れて、

弟子として受け入れるわけです。実際に、イエスの弟子たちの中に元徴税人が何人も

いたのでした。

 ですから、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、自分たちとは異質な行動をする

イエスが気に入らず、繰り返し不満を口にしていたのです。そのような彼らに対して

、イエスがお語りになったのが15章の3つのたとえ話なのです。

2. 見失った羊のたとえと無くした銀貨のたとえ(4-10節)

それでは次に、見失った羊のたとえと無くした銀貨のたとえに注目しましょう。

1 見失った羊のたとえ

まず、見失った羊のたとえです。この見失った羊のたとえは、マタイによる福音書

18章12-14節に並行記事がありますから、皆さんの中にはどのようなあらすじである

か、大体思い出せるという方が何人もいらっしゃるのではないかと思います。百匹の

羊を持っていた人が一匹の羊をなくして、その一匹を捜し求め、見つかったら大喜び

するという話です。

a) あきらめない羊飼い

 まずイエスは、「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて」とお語りに

なります。イエスが「あなたがたの中に」とお語りになるように、当時のユダヤにお

いて、百匹の羊を持っているということは、特に裕福ということではありませんでし

た。その一方で、イエスが「あなたがた」と呼びかけた直接の聴衆であるファリサイ

派の人々や律法学者たちは、少なくとも後期ユダヤ教においては、羊を飼ったりはし

ませんでした。羊を飼ったりしていたら、安息日の礼拝を守れなくなってしまうから

です。兎に角、イエスは彼らに対して、「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている

人がいる」と想像してごらんなさい、と語りかけておられるのです。

 今朝、礼拝をささげているわたしたちの中にも、「百匹の羊を持っている人」はい

ないかもしれません。けれども、わたしたちの仲間のだれかが「百匹の羊を持ってい

る」と想像してみればよいのです。皆さんが今、心の中で友達のだれかが百匹の羊を

飼っている場面を想像してみていただきたいのです。想像することはできたでしょう

か。

 その百匹の羊を持っている人が、「その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原

に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」とイエスはお語り

になるのです。

 ここの「見失った」の元の言葉には、「無くなる、行方不明になる、滅びる」とい

う意味があります。そしてその言葉は、無くした銀貨のたとえでも、8節と9節に、「

無くした」という言葉で登場し、放蕩息子のたとえでも、24節と32節で、「いなくな

っていた」という言葉で登場するのです。ですから、今日の箇所の「見失った」とい

う言葉は、3つのたとえ全体を結びつけるような重要なキーワードとなっているので

す。

 百匹の羊を持っている人は、その一匹を見失ったとすれば、「見失った一匹を見つ

け出すまで捜し回る」のです。「見つけ出すまで」という言葉は、マタイの方の並行

記事にはありません。それはどういうことなのかと申しますと、マタイの方は、群れ

から迷い出て迷子になった教会員を大切にしなさいということを教えるたとえなので

す。それに対して、今日の箇所では神とキリストがわたしたち一人一人のことを、あ

なたのことを「見つけるまで」捜してくださることを教えるたとえだからです。

 わたしたち人間は、時間的にも体力的にも有限ですから、限度がありますから、見

つけるまで捜し続けるということはできないのですね。先ほど皆さんに想像していた

だいたお友達の羊飼いの場合、人間なので、「見つけるまで」捜し回ることはできな

いわけです。

 それに対して、神とキリストは無限ですから、文字通り、「見つけるまで」捜し回

るのです。旧約聖書のエゼキエル書34章16節にも、「わたしは失われたものを尋ね求

め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」とある

通りです。ここの「わたし」は主なる神を表しています。

 このことからも分かるように、ここの羊飼いは、神とキリストを表し、失われた羊

は、わたしたち一人一人を、あなたを指しているのです。神とキリストは、わたした

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ち一人一人のことを絶対にあきらめません。見つけるまで捜し求めます。それほどに

、わたしたち一人一人は、あなたは、神とキリストから変わらぬ愛で愛されているの

です。

 b)羊飼いの喜び

 さて、5-6節には、羊を見つけた羊飼いの喜びが描かれています。

 まず羊飼いは、羊を見つけたら、「喜んでその羊を担ぐ」のです。「どれだけ心配

させるんだ、さっさと歩け」などと言いません。迷子になった羊は、疲れきってしま

っています。狼の遠吠えを聞いて、恐怖で足がすくんでいるかもしれませんし、方向

感覚もありません。そのような羊を、羊飼いは喜んで自分の肩に担ぐのです。

 皆さん、迷子になった羊であるわたしたち一人一人のことを、あなたのことを、羊

飼いである主イエスが大喜びで肩に担いでくださっているところを想像してみていた

だきたいのです。その肩の温もりを、背中の温かさを感じていただきたいのです。

 皆さんが御自分の人生を振り返った時に、あれは本当に試練であった、辛かった、

うずくまってしまうような経験であったということが何度かあったのではないかと思

います。わたしにもあります。そのようなときに、真の羊飼いである主イエスは、わ

たしたちを喜んで肩に担いでくださっていたのですね。あるいは、背中に負ぶってく

ださっていたのですね。

 そして羊飼いは、家に帰って、羊を元の群れに戻し、「友達や近所の人々を呼び集

めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」。

 羊飼いの喜びは、友達や近所の人々を呼び集めて、「一緒に喜んでください」と言

うほどの喜びなのです。とても自分だけの心に納めておけるような喜びではない。

 c)悔い改める一人の罪人(7節)

 そうしてイエスは、7節にあるように、「言っておくが、このように、悔い改める

一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大

きな喜びが天にある」とお語りになります。

 「悔い改める」とありますが、何か唐突な印象を受けた方が皆さんの中にはいらっ

しゃるかも知れません。羊は、いつ罪を認めて反省したのだろうか、と。「悔い改め

る」の意味が、「罪を認めて反省する」という意味であるなら、唐突に感じるのも当

然です。

 ただ、聖書の言う「悔い改め」とは、単なる反省という意味ではなく、心の向きを

変えて、神に立ち帰ることを言うのです。具体的には、神に背を向けていた生き方か

ら180度向きを変えて神の方に立ち帰ること、これが聖書の言う悔い改めです。わた

したち罪ある人間は、生まれながらの状態では霊的に死んでおり、失われてしまって

いるのです。そのようなわたしたちを神とキリストがあきらめずに捜してくださり、

見つけてくださり、喜んで肩に担いでくださるので、その愛の中で神に立ち帰ること

ができるのですね。

 イエスはここで、「立ち帰る一人の罪人については、立ち帰る必要のない」、つま

り、全然迷い出ておらず、ずっと主人の許にいる「九十九人」よりも、「大きな喜び

が天に」湧き上がるとお語りになっているのです。

2 無くした銀貨のたとえ

それでは次に、無くした銀貨のたとえです。「ドラクメ銀貨」という貨幣は、聖書

の中ではこのたとえにしか登場しません。「ドラクメ銀貨」は、一日分の労働賃金に

相当します。

「ドラクメ銀貨を十枚持っている女」は、決して裕福とは言えないと思います。「

ドラクメ銀貨」が今の日本で仮に1万円の価値を持つとしたら、このたとえに登場す

る女の全財産は10万円ほどということになります。裕福どころか、苦しい中で生活費

を切り詰めて何とか生活していた女性ではないかと思います。

その、「ドラクメ銀貨を十枚持っている女」が、「その一枚」、今で言うなら一万

円相当の銀貨を無くしたのです。ドラクメ銀貨十枚で何とかギリギリで自分を含めて

家族を養っていたとしたら、無くした「その一枚」はあきらめきれない損失であった

に違いありません。

あるいは、その「ドラクメ銀貨」十枚は、銀の鎖で結びつけられて首飾りにして既

婚女性のしるしにしていたという説もあるのです。その場合、無くした銀貨一枚は、

大きな損失という以上に、決して失われてはならない一枚ということになるのです。

そのようなわけで、彼女は「ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて

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捜す」わけです。

 2000年ほど前のユダヤの庶民の部屋は、窓が一つあるかないかの暗い部屋でした。

ですから、ともし火をつけて部屋を明るく照らし、銀貨が光を反射してキラリと光る

ことを期待して、家を念入りに掃くことによって「チャリン」と音がすることを期待

して、見つけるまで念入りに捜すわけです。

皆さんに注意していただきたいことがあります。それは、無くした銀貨というもの

は、全く動かないということです。自分の力で主人の許に戻ることなどできません。

振り返って、見失った羊の場合も、メエメエと鳴くには鳴くでしょうが、自分の力で

戻って来ることなど全くできません。見つけ出すことができるかどうかは、ひとえに

持ち主の熱心さにかかっているのです。

そして、「見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つ

けましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう」。

この9節の御言葉は、見失った羊のたとえの中の6節の御言葉そっくりです。そうし

てイエスは、このたとえの結論として、「言っておくが、このように、一人の罪人が

悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」とお語りになるのです。

3 二つのたとえの共通点

 イエスはこのように、見失った羊のたとえと無くした銀貨のたとえをお語りになり

ましたが、2つのたとえにはいくつかの共通点があります。

 それは第1に、「見失ったもの」「無くしたもの」があるということです。第2に、

それを取り戻すために、執拗に、熱心に「捜す」ということです。第3に、それを取

り戻すと、友人や近所の人を誘わずにはいられないような「大きな喜び」を感じると

いうことです。そして第4に、二つのたとえが共に、一人の罪人が立ち帰れば、天に

おいて、神の御許に「大きな喜び」があるという結論になっていることです。

3. 二つのたとえから見えて来る大切なこと

 それでは最後に、二つのたとえから見えて来る大切なことに注目しましょう。イエ

スが二つのたとえの中で繰り返し強調なさることから、重要な御教えが明らかになっ

て参ります。

1 イエスが今日の箇所で教えようとしているのではないこと

 まず、そうではないとうことから申し上げます。イエスは、今日のたとえで、天に

大きな喜びがあるのだから、罪人は悔い改めて立ち帰るべきだと勧めておられるわけ

ではありません。今日の箇所のたとえで、失われた羊にしても、無くした銀貨にして

も、悔い改めて懺悔しているわけではありません。羊はトボトボと群れの所に帰って

、土下座をして謝ったりしていません。そうではなくて、喜んだ羊飼いの肩に担がれ

て群れの許に帰ったのでした。失われた羊にしても、無くした銀貨にしても、全くの

受け身です。自分から動けていません。もっぱら、持ち主の方が捜すのです。

 イエスは逆に、神とキリストがこんなに熱心に捜しているのだから、教会としても

、失った羊を熱心に捜すべきだ、ということを教えておられるわけでもないのです。

 実は、マタイの方の並行記事では、たとえ話の結論である18章14節に次のようにあ

るのです。すなわち、「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あ

なたがたの天の父の御心ではない」。

 ですから、マタイの方では、「これらの小さな者」すなわち、迷い出た羊が一人で

も滅びることは、「あなたがたの天の父の御心ではない」のだから、教会が迷った羊

を捜すべきである、と勧めているようにも読めるのです。

 けれども、今日の箇所では、そういう結論ではありませんから、イエスは決して

、「あなたがたも真似をして、一所懸命に捜しに行きなさい、見つかるまで捜しなさ

い」ということをおっしゃりたいのではないのです。

2 イエスが今日の箇所で教えようとしておられること

それでは、イエスが今日の箇所で教えようとしておられる大切な教訓は何かと申し

ますと、失われた者を取り戻したときに、天に大きな喜びがあるということです。そ

れは、イエスが今日の箇所のたとえの結論として、7節でも10節でも繰り返しお語り

になっていることです。

 改革派教会が大切にしている教え、教理に、聖徒の堅忍、すなわち、イエスに真の

信仰によって結びつけられた信者がいろいろな試練の中を通されても最後まで信仰を

全うするという教理があります。神が支えてくださるから、信者は最後まで信仰生活

を全うすることができるわけで、そういう意味では、聖徒の保持と言われる教理です

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 実は、今日の箇所のイエスのたとえは、聖徒の堅忍、あるいは聖徒の保持という教

理に基礎を与える御言葉になっているのです。

 神が罪によって迷い出たわたしたちをどこまでも捜してくださり、取り戻してくだ

さることを喜びとしてくださっているのです。ですから、わたしたちは失われないの

です。神の許に最後までとどまることができるのです。

 皆さん、御自分がどのようにしてイエス・キリストを信じるに至ったか、または、

どのようにして、真剣にイエス・キリストを求めるようになったかを少し振り返って

見ていただきたいのです。ポイント、ポイントで、あれは神の御業ではなかったか、

不思議な神の導きではなかったかということに思いあたるのではないかと思うのです

 わたしたちは、自分から神を求め、神を信じたつもりでも、背後には、わたしたち

一人一人を捜してくださっている神の導きが必ずあるのです。そして神は、喜びをも

ってわたしたち一人一人を、あなたを、救ってくださるお方です。

 信じて救われて、信仰生活を送っているときに、一時的に迷うようなことがあった

としても、そんなあなたのことを、神とキリストは見つけるまで捜してくださり、神

に立ち帰ったあなたを大喜びしてくださるのです。ですからわたしたちは、果たして

自分は信仰生活を全うすることができるだろうかなどと心配することなく、安心して

信仰生活を送ることができるのであります。

 つまり、神とキリストにとって、わたしたち一人一人は喜びの的なのです。本当に

大切な存在なのです。そのことを忘れないようにしましょう。

祈り.

 神様、あなたは罪によって失われ、行方不明になってしまっているわたしたち一人

一人を捜し求め、見つけ出し、救うことを喜びとしておられるお方です。

 だからこそ、わたしたちは救われてあなたの御許に立ち帰ることができますし、信

仰生活の中で大きな試練に遭い、誘惑され、迷うことがあっても、あなたが捜してく

ださり、見つけてくださいますから、失われることがありません。

 どうか、そのことを覚えつつ、安心してあなたを求め、また、魂の大牧者であるイ

エス・キリストよ、あなたに従うわたしたち一人一人とさせてください。

 イエス・キリストの尊き御名によってお祈りいたします。アーメン。