聖書の言葉 使徒言行録 18章12節~18節 メッセージ 2025年12月28日(日)熊本教会 朝拝説教 使徒言行録18章12節~18節a「パウロ、コリントを去る」 1、 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。 今朝の説教題は「パウロ、コリントを去る」であります。これまでの使徒パウロの伝道旅行の中では、1年半以上と言う最も長い期間一つの町にとどまって伝道した、そういう意味では大変珍しいパウロのコリント伝道がこの個所で終わりまして、パウロがコリントの町を去って行くからであります。先週の週報では、17節までと予告していましたが、17節は、パウロがコリントを去って行く直前のところでしたので、今朝は、少し変更して18節の前半までお読みしました。 さて、新約聖書にコリントの信徒への手紙1と2がありますけれど、これらは、パウロがこの後、コリントの群れを励まし、また、指導するために書いた手紙であります。パウロはコリントの町を去って行きましても、自分がかかわった教会としてこの後も引き続きコリントの群れのために祈り、また実際的な働きをしたことを覚えておきたいと思います。 わたしたちが、このコリントでの伝道と言うことを思い返し見ますと、18章9節と10節に記されています、パウロに対する主イエス様の特別な励ましと約束のみ言葉が心に残るのではないでしょうか。 「ある夜のこと、主は幻の中でこう言われた。恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加えるものはない。この町にはわたしの民が大勢いるからだ」 とりわけ、今朝のみ言葉とかかわりがあるみ言葉が、10節の初めの「わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加えるものはない。」という主イエス様の約束であります。 これまでのパウロの伝道旅行は、ある町で伝道が進展してゆきますと、たいていその町のユダヤ人の反対に会うようになります。パウロ自身が、まずは、その町のユダヤ教の会堂、シナゴーグに入って伝道したということもあると思いますけれども、パウロの伝道によってシナゴーグに集まるユダヤ人や神を敬う異邦人がイエス様を信じるようになる、そうすると、その会堂で指導的地位にあるユダヤ人がパウロを嫌いまして、パウロを町から追い出そうとします。町の当局者に対してパウロのことを、騒動を起こす人物、町の治安を乱す人物だと訴え出て対策を求め、その中で騒動が起きたり、石を投げたりする、パウロに危害を加えるようになってゆくのです。その結果、最後にはパウロが去って行く、もっと正確に言えば、群れを守るため、あるいは自分自身に降りかかる難を逃れて町を出て行くということが多いのであります。 第一次伝道旅行のピシディア州のアンティオキア、その次のイコニオンでもリストラでもそうでありました。第二次伝道旅行のヨーロッパの最初の町、フィリピでは投獄体験を伴う激しい迫害がありましたが、これは珍しくユダヤ人によるものではなく、占いの霊に取りつかれた女奴隷によって利益を得ていた主人の策略でした。しかしテサロニケに入りますと、そこではまたしてもユダヤ人と町の当局者がタッグを組んでパウロを迫害しています。次の町、べレアでは、伝道そのものは順調だったのですが遠くテサロニケからユダヤ人たちが追ってきまして、やはりそして彼らは人々を扇動したので、パウロは、その町の兄弟たちに付き添われてアテネまで逃げて行ったのです。 ところが、このコリントの町ではそうではなかったのですね。パウロは彼自身の計画に従って、コリントで長く伝道し、そして平和の内にコリントの町を去って行くことが出来ました。 2 18節の前半にはこう記されています。「パウロはなおしばらくの間ここに滞在したが、やがて兄弟たちに別れを告げて、船でシリア州へ旅立った。プリスキラとアキラも一緒だった」これまでのいくつかの都市に比べると実に平和であります。つまりここには主イエス様の特別のお計らいがあったtt負いうことが出来ると思います。大きな騒動はありましてけれども、見の危険を感じると言うことではなかったのです。パウロは自分自身の意志でこの町を去って行きました。 コリントの信徒への手紙1の3章9節と10節でパウロはこう書いています。 「わたしたちは神のために力を合わせて働くものであり、あなた方は神の畑、神の建物なのです。わたしは神からいただいた恵みによって熟練した建築家のように土台を据えました。」 そういう意味で、コリントの場合は、成長してきた群れをパウロ自身がよく見て、自分は十分に教会の土台を据えたと判断したのではないかと思います。そして別の伝道者に後を委ねて、自分は、ひとまず他の地域へと旅立ったのであります。 使徒言行録を読んでいますと、伝道者たちは、現代の教会の牧師たちと全く違って、町から町へと目まぐるしく移動しています。わたしが熊本に着任して3年9カ月がすでに経っています。使徒言行録の時代には、これは特別に長いということになります。使徒言行録の時代にどうしてこのように使徒たちが次々と移動していったのには三つの理由があると考えられます。 第一に、使徒という存在の特別さです。使徒は、普通は12使徒とパウロです。彼らは主イエス様から特別に世に遣わされた伝道者です。彼らには担当の教会とか、教区と言うものはないのです。全世界が彼らの担当地域でありました。 第二に、この頃は、教会の草創期、キリスト教会がまさに生まれ出ようという時代です。枝から葉や花となる芽が萌え出るときです。あるいは堅いつぼみが膨らんで見る見るうちに花が咲く、そういう時期であります。教会が非常にダイナミックに生まれようとしている時なのです。まさに聖霊の激しい働きがあり、一日一日が、現在の何年にも相当する、そういう時期であったと思います。そいう中で、パウロがコリントで1年半以上とどまって伝道したのは特別なことでありました。 そして、第三には、第二のこととも関わりますが、至るところで迫害や騒動が起きたために、使徒たちはその町を去ってゆかなければならなかったということです。 3、 では、なぜパウロがコリントの町で、このように長く伝道することが出来たのか、そして平和の内にその地を去ることができたのでしょうか。それは神様のご計画でありました。パウロとコリントの群れは、ユダヤ人や町の当局者から危害を加えられず、平和の内に伝道することが許されました。この神様のご計画、御心がどのようにして成し遂げられたのかを見ることも大切だと思います。それはパウロ自身の計画、願いと共に、この町の最高権力者がガリオンと言う人物であったことが大きな要因でありました。ほかの町では、町の権力者はユダヤ人の訴えにすぐに反応して、パウロを激しく迫害しているのです。しかし、このコリントでは、そうではありませんでした。 今朝のみ言葉の重要な登場人物はガリオンという地方総督です。彼は、パウロと教会に危害を加えることを致しませんでした。アカイア州の州都であるコリントは、ローマの元老院直轄の都市で、ローマ皇帝が直々に派遣する地方総督によって治められていました。パウロが1年半にわたって、伝道していた時の総督がガリオンです。 このガリオンと言う人の名が、ギリシャのデルファイ遺跡から20世紀になって発掘された碑文に刻まれていることが確認されました。それによりますとガリオンは紀元51年7月に、アカイア州の地方総督としてコリントに派遣されています。また別の古代の文献では、ガリオは、哲学者で皇帝ネロの教師でもあったセネカと言う有名な人の兄でありました。裕福な学者の養子となって名前を変えてローマ帝国の高級官僚になりました。 実は、このデルファイの碑文は、新約聖書のみ言葉の年代決定にとって決定的な証拠となっています。これを起点としてパウロの生涯の年代記や教会の歴史を紀元何年と言うように確定することが可能となりました。デルファイのガリオン碑文ということを覚えておいてください。 地方総督の任期は原則一年で、一年ごとに別の総督が派遣されました。ガリオンが任期を終える前にパウロはコリントを去って行ったようですから、逆算するとパウロがコリントに来て半年後、あるいはその後にガリオンが着任したと思われます。 ユダヤ人たちが、総督に訴え出た時期は明確ではありませんが、多くの注解者は、彼が着任して早々のことだったと推定しています。新しい総督に代わった、そのタイミングで彼らはパウロの活動を禁止してほしい、あるいは町から追放してほしいとガリオンに訴え出ました。12節に、「ユダヤ人が一団となって」という表現があります。もとの言葉は「ユダヤ人が心を一つにして」と言う言葉です。 パウロは、最初はユダヤ教の会堂シナゴーグでみ言葉を語りましたが、彼らは信じません。パウロは服を振り払って、もうわたしには、あなた方の血の責任はないと言って、ティティオ・ユストという異邦人の家に移って伝道します。その場所は興味深いことですが、シナゴーグの隣であったと書かれています。そうしますと、今度は一転して多くのユダヤ人がパウロの話を聞くようになりました。会堂長のクリスポまでが一家を上げて信じるようになりました。また、コリントの町の多くの人々が洗礼を受けるようになったと書かれています。そこで、隣のシナゴーグに残ったユダヤ人が、一致団結してガリオンのところに訴え出たのです。この時の会堂長はソステネと言うユダヤ人でした。 4 彼らは総督ガリオンにこう訴えました。「この男は、律法に違反するような仕方で神をあがめるようにと人々をそそのかしています。」 当時ユダヤ教は、ローマ帝国から公認宗教として認められておりました。ただ騒動を起こしたり、ローマ帝国の秩序を乱したりしないことが条件でした。 ユダヤ人たちが訴えたことは、パウロが教えていることはローマ帝国が公認しているユダヤ教の外にある、それに違反する、それどころか正当なユダヤ教を混乱させるものだというのです。ローマ帝国の承認と保護とを受ける資格がない、それゆえ、この男の活動を禁止してほしい、あるいは町から追放してほしいという願いです。 これまで同じような訴えを受けてきたほかの町の当局者は、ユダヤ人たちから怨みを買いたくないという政治的な配慮によって彼らの訴えを聞いて来ました。ところがガリオンは、こういったのです。 14節と15節です。「ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理するが、問題が教えとか、名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい。わたしはそんなことの審判者になるつもりはない」 「教え」と訳されている言葉は、ロゴスと言うギリシャ語で、物事の道理、教理、「名称」はパウロがメシヤはイエスであると語った、メシヤの名前のことです。そしてユダヤ人たちが訴えた理由である「律法」、つまりユダヤ教の経典や礼拝方法については、町当局は干渉しない、自分たちで解決せよと言うのです。 ガリオンが、このように中立的な立場をとったおかげでパウロは町から追放されたり、牢獄に入れられたりということにはならなかったのです。まさに、その直前にパウロに現れた主イエス様の励ましと約束である「あなたを襲って危害を加えるものはいない」が実現していることになります。 そしてガリオンは、この訴えを却下し、全員を法廷から追い出してしまいました。こうしてユダヤ教の会堂の隣と言う目障りな場所で伝道しているパウロを町から追い出すユダヤ人の作戦は失敗に終わったのです。 わたしたちから見ますと、このガリオンの判断は実に正しいものです。現代の国家もまた、それが民主的な国家である限りは、特定の宗教の教義が正であるか邪であるか、あるいはその中の争いに国家は判断を下しません。もしもそれが社会に害を与えるもの、あるいは、犯罪に結びつく場合は別ですが、そうでない限り介入しません。宗教団体の側も、教えの判定を世俗の国家に求めたりしないのが正しいあり方です。古代ギリシャは、民主主義発祥の地であるとされますが、ガリオンのような冷静で知恵のある国家指導者がいたことは、注目すべきことだと思います。 こんな風に考えていましたところ、宗教改革者のカルヴァンの注解書を読んで見て驚きました。カルヴァンは、ただしい国家の指導者はイエス・キリストが救い主であることをきちんと認めて、ユダヤ人たちを正しく導くべきであったと書いてあったからです。カルヴァンの時代は、ヨーロッパは中世のキリスト教国家体制からやっと抜け出したばかりで、国家はこの世の目に見える世界に責任を持つものであって、宗教界には干渉しないという現代の世俗国家とはまだ遠い時代であったのです。 もしも、わたしたちが、カルヴァンにならうならば、例えば日本の国会や文部科学省は、三位一体が真理であることを他の宗教に対してしっかり指導して、イエス・キリストをあがめるように国民を指導すべしということになってしまいます。そして国会の開会式では議員は皆、聖書を読み、讃美歌を歌って、主イエス様の名によって国の平和と繁栄を祈るということになるでしょう。わたしたちは、日本の国がそうでないことを感謝すべきなのであります。ながらくキリスト教国家の時代を経験しているヨーロッパの国、あるいは南アフリカの場合にはどうなのでしょうか。 さて、今朝のみ言葉の最後の方ですが、会堂長ソステネと言う人が出てきます。この人は、パウロがティティオ・ユストの家で伝道しているときに主イエス様を信じた隣のユダヤ会堂の会堂長クリスポの後任の会堂長であると思われます。 群衆は、彼を捕まえて殴りつけたとありますが、元の言葉は、「皆は、ソステネを捕まえて殴りつけた」、皆はという言葉です。ほかの聖書は、群衆とは訳さないで「皆は」、と正しく訳しています。問題は、この「みな」は誰かと言うことです。新共同訳は意訳して、ガリオンのいた、法廷の前にいたすべての人々、つまり群衆と訳したわけです。しかし、その前の16節は、パウロ訴えたユダヤ人たちが法廷から追い出されているのですから、皆と言いますのは、このユダヤ人たちを指すのではないでしょうか。この訴訟の指揮を執った会堂責任者、会堂長のソステネが、ユダヤ人たちから、敗訴の責任を問われている、それで捕まえられ、殴られたということではないかと思います。ちなみに新共同訳の改訳である新しい共同訳は、他の聖書に合わせて「皆は」と訳し変えています。 ソステネのことは、ここで終わりません。実は、この後でパウロがコリント教会に宛てて書いてコリントの信徒への手紙1章1節にソステネの名が出てくるのです。 「神の御心によって召されて使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ」 このソステネと、今朝のみ言葉のおわりで危害を加えられている会堂長ソステネとが同一人物であるという説があるのです。つまり、前任者の会堂長クリスポがユダヤ教から回心して、パウロから洗礼を受けたのだから、その後任の会堂長もそうなってもおかしくないというのです。とりわけ、会堂長のソステネは、このとき同じユダヤ人から怒りをぶつけられ、苦難に会ったのですから、このことをきっかけにして、パウロの教えに耳を傾けるようになったことは大いにあり得ることでしょう。しかし教会に伝わる伝説では、このソステネは、主イエス様がガリラヤやユダヤで伝道していたころからの兄弟だとされていますので真偽のほどはわかりません。 パウロたちは危害を加えられませんでしたが、ユダヤ人のソステネが危害を加えられました。そして推定ですが、このソステネは、コリント教会の伝道によって主イエス様を信じるようになったのです。そしてこのあとコリントの信徒への手紙をパウロが書いているとき、ソステネも一緒にいますと、コリントの信徒たちに伝えられているのということになります。 パウロは、コリントでは伝道を妨げられることなく働き、一年半が過ぎ、その後もしばらく滞在しのち、コリントを出発しました。彼はこのあとエフェソに行き、カイザリアからエルサレムに上っています。そしてアンティオキアに帰りました。パウロは、このコリントでアキラとプリスキラと言う助け手と出会いました。そして彼らもパウロと一緒に伝道するために共にコリントを出発しています。 「恐れるな語り続けよ、黙っているな、わたしがあなたと共にいる。この町であなたに危害を加えるものはいない、」この主イエス様の言葉を心に抱きながら、パウロの第二次伝道旅行は終わりを告げるのです。 わたしたちもまた、この時の主イエス様の励ましと約束を心に留めて、忍耐をもって伝道したいと思います。 祈りを致します。 神様は、パウロのコリ恩と開拓伝道はひとまず区切りを迎えましたが、この後もパウロは二度三度とコリントを訪れて伝道牧会したことがコリントの信徒への手紙から明らかです。「恐れるな語り続けよ、黙っているな、わたしがあなたと共にいる。この町であなたに危害を加えるものはいない、」、わたしたちに与えられた主イエス様のみ言葉として覚えさせてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
2025年12月28日(日)熊本教会 朝拝説教
使徒言行録18章12節~18節a「パウロ、コリントを去る」
1、
父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。
今朝の説教題は「パウロ、コリントを去る」であります。これまでの使徒パウロの伝道旅行の中では、1年半以上と言う最も長い期間一つの町にとどまって伝道した、そういう意味では大変珍しいパウロのコリント伝道がこの個所で終わりまして、パウロがコリントの町を去って行くからであります。先週の週報では、17節までと予告していましたが、17節は、パウロがコリントを去って行く直前のところでしたので、今朝は、少し変更して18節の前半までお読みしました。
さて、新約聖書にコリントの信徒への手紙1と2がありますけれど、これらは、パウロがこの後、コリントの群れを励まし、また、指導するために書いた手紙であります。パウロはコリントの町を去って行きましても、自分がかかわった教会としてこの後も引き続きコリントの群れのために祈り、また実際的な働きをしたことを覚えておきたいと思います。
わたしたちが、このコリントでの伝道と言うことを思い返し見ますと、18章9節と10節に記されています、パウロに対する主イエス様の特別な励ましと約束のみ言葉が心に残るのではないでしょうか。
「ある夜のこと、主は幻の中でこう言われた。恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加えるものはない。この町にはわたしの民が大勢いるからだ」
とりわけ、今朝のみ言葉とかかわりがあるみ言葉が、10節の初めの「わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加えるものはない。」という主イエス様の約束であります。
これまでのパウロの伝道旅行は、ある町で伝道が進展してゆきますと、たいていその町のユダヤ人の反対に会うようになります。パウロ自身が、まずは、その町のユダヤ教の会堂、シナゴーグに入って伝道したということもあると思いますけれども、パウロの伝道によってシナゴーグに集まるユダヤ人や神を敬う異邦人がイエス様を信じるようになる、そうすると、その会堂で指導的地位にあるユダヤ人がパウロを嫌いまして、パウロを町から追い出そうとします。町の当局者に対してパウロのことを、騒動を起こす人物、町の治安を乱す人物だと訴え出て対策を求め、その中で騒動が起きたり、石を投げたりする、パウロに危害を加えるようになってゆくのです。その結果、最後にはパウロが去って行く、もっと正確に言えば、群れを守るため、あるいは自分自身に降りかかる難を逃れて町を出て行くということが多いのであります。
第一次伝道旅行のピシディア州のアンティオキア、その次のイコニオンでもリストラでもそうでありました。第二次伝道旅行のヨーロッパの最初の町、フィリピでは投獄体験を伴う激しい迫害がありましたが、これは珍しくユダヤ人によるものではなく、占いの霊に取りつかれた女奴隷によって利益を得ていた主人の策略でした。しかしテサロニケに入りますと、そこではまたしてもユダヤ人と町の当局者がタッグを組んでパウロを迫害しています。次の町、べレアでは、伝道そのものは順調だったのですが遠くテサロニケからユダヤ人たちが追ってきまして、やはりそして彼らは人々を扇動したので、パウロは、その町の兄弟たちに付き添われてアテネまで逃げて行ったのです。
ところが、このコリントの町ではそうではなかったのですね。パウロは彼自身の計画に従って、コリントで長く伝道し、そして平和の内にコリントの町を去って行くことが出来ました。
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18節の前半にはこう記されています。「パウロはなおしばらくの間ここに滞在したが、やがて兄弟たちに別れを告げて、船でシリア州へ旅立った。プリスキラとアキラも一緒だった」これまでのいくつかの都市に比べると実に平和であります。つまりここには主イエス様の特別のお計らいがあったtt負いうことが出来ると思います。大きな騒動はありましてけれども、見の危険を感じると言うことではなかったのです。パウロは自分自身の意志でこの町を去って行きました。
コリントの信徒への手紙1の3章9節と10節でパウロはこう書いています。
「わたしたちは神のために力を合わせて働くものであり、あなた方は神の畑、神の建物なのです。わたしは神からいただいた恵みによって熟練した建築家のように土台を据えました。」
そういう意味で、コリントの場合は、成長してきた群れをパウロ自身がよく見て、自分は十分に教会の土台を据えたと判断したのではないかと思います。そして別の伝道者に後を委ねて、自分は、ひとまず他の地域へと旅立ったのであります。
使徒言行録を読んでいますと、伝道者たちは、現代の教会の牧師たちと全く違って、町から町へと目まぐるしく移動しています。わたしが熊本に着任して3年9カ月がすでに経っています。使徒言行録の時代には、これは特別に長いということになります。使徒言行録の時代にどうしてこのように使徒たちが次々と移動していったのには三つの理由があると考えられます。
第一に、使徒という存在の特別さです。使徒は、普通は12使徒とパウロです。彼らは主イエス様から特別に世に遣わされた伝道者です。彼らには担当の教会とか、教区と言うものはないのです。全世界が彼らの担当地域でありました。
第二に、この頃は、教会の草創期、キリスト教会がまさに生まれ出ようという時代です。枝から葉や花となる芽が萌え出るときです。あるいは堅いつぼみが膨らんで見る見るうちに花が咲く、そういう時期であります。教会が非常にダイナミックに生まれようとしている時なのです。まさに聖霊の激しい働きがあり、一日一日が、現在の何年にも相当する、そういう時期であったと思います。そいう中で、パウロがコリントで1年半以上とどまって伝道したのは特別なことでありました。
そして、第三には、第二のこととも関わりますが、至るところで迫害や騒動が起きたために、使徒たちはその町を去ってゆかなければならなかったということです。
3、
では、なぜパウロがコリントの町で、このように長く伝道することが出来たのか、そして平和の内にその地を去ることができたのでしょうか。それは神様のご計画でありました。パウロとコリントの群れは、ユダヤ人や町の当局者から危害を加えられず、平和の内に伝道することが許されました。この神様のご計画、御心がどのようにして成し遂げられたのかを見ることも大切だと思います。それはパウロ自身の計画、願いと共に、この町の最高権力者がガリオンと言う人物であったことが大きな要因でありました。ほかの町では、町の権力者はユダヤ人の訴えにすぐに反応して、パウロを激しく迫害しているのです。しかし、このコリントでは、そうではありませんでした。
今朝のみ言葉の重要な登場人物はガリオンという地方総督です。彼は、パウロと教会に危害を加えることを致しませんでした。アカイア州の州都であるコリントは、ローマの元老院直轄の都市で、ローマ皇帝が直々に派遣する地方総督によって治められていました。パウロが1年半にわたって、伝道していた時の総督がガリオンです。
このガリオンと言う人の名が、ギリシャのデルファイ遺跡から20世紀になって発掘された碑文に刻まれていることが確認されました。それによりますとガリオンは紀元51年7月に、アカイア州の地方総督としてコリントに派遣されています。また別の古代の文献では、ガリオは、哲学者で皇帝ネロの教師でもあったセネカと言う有名な人の兄でありました。裕福な学者の養子となって名前を変えてローマ帝国の高級官僚になりました。
実は、このデルファイの碑文は、新約聖書のみ言葉の年代決定にとって決定的な証拠となっています。これを起点としてパウロの生涯の年代記や教会の歴史を紀元何年と言うように確定することが可能となりました。デルファイのガリオン碑文ということを覚えておいてください。
地方総督の任期は原則一年で、一年ごとに別の総督が派遣されました。ガリオンが任期を終える前にパウロはコリントを去って行ったようですから、逆算するとパウロがコリントに来て半年後、あるいはその後にガリオンが着任したと思われます。
ユダヤ人たちが、総督に訴え出た時期は明確ではありませんが、多くの注解者は、彼が着任して早々のことだったと推定しています。新しい総督に代わった、そのタイミングで彼らはパウロの活動を禁止してほしい、あるいは町から追放してほしいとガリオンに訴え出ました。12節に、「ユダヤ人が一団となって」という表現があります。もとの言葉は「ユダヤ人が心を一つにして」と言う言葉です。
パウロは、最初はユダヤ教の会堂シナゴーグでみ言葉を語りましたが、彼らは信じません。パウロは服を振り払って、もうわたしには、あなた方の血の責任はないと言って、ティティオ・ユストという異邦人の家に移って伝道します。その場所は興味深いことですが、シナゴーグの隣であったと書かれています。そうしますと、今度は一転して多くのユダヤ人がパウロの話を聞くようになりました。会堂長のクリスポまでが一家を上げて信じるようになりました。また、コリントの町の多くの人々が洗礼を受けるようになったと書かれています。そこで、隣のシナゴーグに残ったユダヤ人が、一致団結してガリオンのところに訴え出たのです。この時の会堂長はソステネと言うユダヤ人でした。
4
彼らは総督ガリオンにこう訴えました。「この男は、律法に違反するような仕方で神をあがめるようにと人々をそそのかしています。」
当時ユダヤ教は、ローマ帝国から公認宗教として認められておりました。ただ騒動を起こしたり、ローマ帝国の秩序を乱したりしないことが条件でした。
ユダヤ人たちが訴えたことは、パウロが教えていることはローマ帝国が公認しているユダヤ教の外にある、それに違反する、それどころか正当なユダヤ教を混乱させるものだというのです。ローマ帝国の承認と保護とを受ける資格がない、それゆえ、この男の活動を禁止してほしい、あるいは町から追放してほしいという願いです。
これまで同じような訴えを受けてきたほかの町の当局者は、ユダヤ人たちから怨みを買いたくないという政治的な配慮によって彼らの訴えを聞いて来ました。ところがガリオンは、こういったのです。
14節と15節です。「ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理するが、問題が教えとか、名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい。わたしはそんなことの審判者になるつもりはない」
「教え」と訳されている言葉は、ロゴスと言うギリシャ語で、物事の道理、教理、「名称」はパウロがメシヤはイエスであると語った、メシヤの名前のことです。そしてユダヤ人たちが訴えた理由である「律法」、つまりユダヤ教の経典や礼拝方法については、町当局は干渉しない、自分たちで解決せよと言うのです。
ガリオンが、このように中立的な立場をとったおかげでパウロは町から追放されたり、牢獄に入れられたりということにはならなかったのです。まさに、その直前にパウロに現れた主イエス様の励ましと約束である「あなたを襲って危害を加えるものはいない」が実現していることになります。
そしてガリオンは、この訴えを却下し、全員を法廷から追い出してしまいました。こうしてユダヤ教の会堂の隣と言う目障りな場所で伝道しているパウロを町から追い出すユダヤ人の作戦は失敗に終わったのです。
わたしたちから見ますと、このガリオンの判断は実に正しいものです。現代の国家もまた、それが民主的な国家である限りは、特定の宗教の教義が正であるか邪であるか、あるいはその中の争いに国家は判断を下しません。もしもそれが社会に害を与えるもの、あるいは、犯罪に結びつく場合は別ですが、そうでない限り介入しません。宗教団体の側も、教えの判定を世俗の国家に求めたりしないのが正しいあり方です。古代ギリシャは、民主主義発祥の地であるとされますが、ガリオンのような冷静で知恵のある国家指導者がいたことは、注目すべきことだと思います。
こんな風に考えていましたところ、宗教改革者のカルヴァンの注解書を読んで見て驚きました。カルヴァンは、ただしい国家の指導者はイエス・キリストが救い主であることをきちんと認めて、ユダヤ人たちを正しく導くべきであったと書いてあったからです。カルヴァンの時代は、ヨーロッパは中世のキリスト教国家体制からやっと抜け出したばかりで、国家はこの世の目に見える世界に責任を持つものであって、宗教界には干渉しないという現代の世俗国家とはまだ遠い時代であったのです。
もしも、わたしたちが、カルヴァンにならうならば、例えば日本の国会や文部科学省は、三位一体が真理であることを他の宗教に対してしっかり指導して、イエス・キリストをあがめるように国民を指導すべしということになってしまいます。そして国会の開会式では議員は皆、聖書を読み、讃美歌を歌って、主イエス様の名によって国の平和と繁栄を祈るということになるでしょう。わたしたちは、日本の国がそうでないことを感謝すべきなのであります。ながらくキリスト教国家の時代を経験しているヨーロッパの国、あるいは南アフリカの場合にはどうなのでしょうか。
さて、今朝のみ言葉の最後の方ですが、会堂長ソステネと言う人が出てきます。この人は、パウロがティティオ・ユストの家で伝道しているときに主イエス様を信じた隣のユダヤ会堂の会堂長クリスポの後任の会堂長であると思われます。
群衆は、彼を捕まえて殴りつけたとありますが、元の言葉は、「皆は、ソステネを捕まえて殴りつけた」、皆はという言葉です。ほかの聖書は、群衆とは訳さないで「皆は」、と正しく訳しています。問題は、この「みな」は誰かと言うことです。新共同訳は意訳して、ガリオンのいた、法廷の前にいたすべての人々、つまり群衆と訳したわけです。しかし、その前の16節は、パウロ訴えたユダヤ人たちが法廷から追い出されているのですから、皆と言いますのは、このユダヤ人たちを指すのではないでしょうか。この訴訟の指揮を執った会堂責任者、会堂長のソステネが、ユダヤ人たちから、敗訴の責任を問われている、それで捕まえられ、殴られたということではないかと思います。ちなみに新共同訳の改訳である新しい共同訳は、他の聖書に合わせて「皆は」と訳し変えています。
ソステネのことは、ここで終わりません。実は、この後でパウロがコリント教会に宛てて書いてコリントの信徒への手紙1章1節にソステネの名が出てくるのです。
「神の御心によって召されて使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ」
このソステネと、今朝のみ言葉のおわりで危害を加えられている会堂長ソステネとが同一人物であるという説があるのです。つまり、前任者の会堂長クリスポがユダヤ教から回心して、パウロから洗礼を受けたのだから、その後任の会堂長もそうなってもおかしくないというのです。とりわけ、会堂長のソステネは、このとき同じユダヤ人から怒りをぶつけられ、苦難に会ったのですから、このことをきっかけにして、パウロの教えに耳を傾けるようになったことは大いにあり得ることでしょう。しかし教会に伝わる伝説では、このソステネは、主イエス様がガリラヤやユダヤで伝道していたころからの兄弟だとされていますので真偽のほどはわかりません。
パウロたちは危害を加えられませんでしたが、ユダヤ人のソステネが危害を加えられました。そして推定ですが、このソステネは、コリント教会の伝道によって主イエス様を信じるようになったのです。そしてこのあとコリントの信徒への手紙をパウロが書いているとき、ソステネも一緒にいますと、コリントの信徒たちに伝えられているのということになります。
パウロは、コリントでは伝道を妨げられることなく働き、一年半が過ぎ、その後もしばらく滞在しのち、コリントを出発しました。彼はこのあとエフェソに行き、カイザリアからエルサレムに上っています。そしてアンティオキアに帰りました。パウロは、このコリントでアキラとプリスキラと言う助け手と出会いました。そして彼らもパウロと一緒に伝道するために共にコリントを出発しています。
「恐れるな語り続けよ、黙っているな、わたしがあなたと共にいる。この町であなたに危害を加えるものはいない、」この主イエス様の言葉を心に抱きながら、パウロの第二次伝道旅行は終わりを告げるのです。
わたしたちもまた、この時の主イエス様の励ましと約束を心に留めて、忍耐をもって伝道したいと思います。
祈りを致します。
神様は、パウロのコリ恩と開拓伝道はひとまず区切りを迎えましたが、この後もパウロは二度三度とコリントを訪れて伝道牧会したことがコリントの信徒への手紙から明らかです。「恐れるな語り続けよ、黙っているな、わたしがあなたと共にいる。この町であなたに危害を加えるものはいない、」、わたしたちに与えられた主イエス様のみ言葉として覚えさせてください。主の御名によって祈ります。アーメン。