2025年11月09日「看守一家の救い」

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聖書の言葉

使徒言行録 16章25節~40節

メッセージ

2025年11月9日(日)熊本伝道所朝拝説教

使徒言行録16章25節∼40節「看守一家の救い」

1、

 主イエス・キリストの恵みと平和が、今日、このおられるお一人お一人の上に豊かにありますように、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 使徒言行録のみ言葉を続け読み進めています。ただいま、お聞きしましたみ言葉の中で、31節のみ言葉を心を留めたいと思います。新約聖書のみ言葉の中でも多くの人に愛されているみ言葉のひとつではないかと思います。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」

 主イエス様を信じることによって救われるという、本当にシンプルな、そのものずばりと言った聖書の御言葉ですが、あなたも家族もと告げられていることが大切だと思います。わたしただけの救いだけではなく、愛する家族みなが救いを頂くと言うのです。妻も夫も子供たちも、孫たちも皆、救われる、何と嬉しいことでしょうか。だから今主イエス様を信じて救い主として受けれなさいと言うのです。

 これは初代教会の大伝道者であり、また教会指導者でありました使徒パウロの言葉ですけれども、何か特別な伝道集会のようなところで語られたメッセージではありませんでした。非常に珍しい、特別な場面で語られたみ言葉であります。

パウロがフィリピの町で伝道していた時に、迫害を受け、捕らえられていた牢獄の看守に向かって語ったみ言葉です。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます」

 もちろん、パウロは監獄で看守に出会うや否や、唐突にこの言葉を語ったのではありません。そうではなく、看守自身が、パウロに向かって、「救われるためにはどうすべきなのか」と真剣に尋ねたときに、確信をもって答えた、そのようなみ言葉です。

 今朝は16章のおわりにあるみ言葉を聞いていますが、ちょうどこの16章の初めのところでパウロは、アジア州の西の先端にあるトロアスの港で、マケドニア人が立ってパウロをマケドニアに招くという幻を神様から見せられました。そして、これを神様からの確かな召しであると確信してすぐに船に乗ってマケドニアの大都市フィリピにわたりました。こうしてヨーロッパ伝道の最初の一歩が踏みだされました。そのパウロが、どうしてフィリピの町の監獄に閉じ込められてしまったのでしょうか。先週ご一緒にお聞きしました同じ16章の16節から24節に、そのいきさつのすべてが語られていました。

 パウロたちは、町はずれの川のほとりで、紫布の商人リディアを主イエス様のもとへと導きました。そして伝道のために、そのリディアの家から川岸へ向かう途中の町の中で一人の女奴隷に出会いました。その女はピュソーンの霊、ギリシャのデルフォイ神殿にいた大蛇の霊に取りつかれていましたので、その霊を彼女から追い出したのですが、そのことをきっかけに牢に入れられてしまったのです。ローマ帝国から派遣されているフィリピの町の代官は、女奴隷の主人たちや町の人々の訴えにより、まともな裁判を行うことなく、パウロたち迫害しました。パウロとシラスを鞭で打ち、監獄の一番奥の部屋に監禁したのです。

 今朝のみ言葉はそこから始まっています。牢獄でパウロとシラスは、祈っています。鞭打たれ、心も肉体も弱り果てていたと思いますが、自らを励ますように、真夜中になるまで讃美の歌を歌い、神に祈りをささげました。ほかの囚人たちは、これに聞き入っていたとありますから、その賛美と祈りは継続的なものであり、また人目をはばかるひそやかなものではなく、獄舎全体に響くようにしてなされていたことがわかります。

 わたしたちが神様に祈りをささげる時、いろいろな祈りの仕方があります。宗教改革者のカルヴァンは、この個所を注解しながら、読者の中には、パウロとシラスは、なぜ周りの人々に見せるかのような、自分の敬虔さを誇るファリサイ派のような祈りをしたのかと疑問に思う人もいるかもしれないと書いています。しかしカルヴァンは、二人は、決して自分を見せびらかすためでなく、ほかの囚人たちのために励ましの思いを込めて祈ったのだと書いています。

主イエス様も、一人静かに離れた場所で祈ることを繰り返しました。けれども、ときには、弟子たちの前で天を仰いで大きな声で祈られることもありました。神様が導かれる時、私たちはどんな祈りをしてよいのです。このとき、パウロとシラスはまさしく聖霊に導かれて、自らを励ますようにして、また、ほかの囚人たちにも聞こえるよう大きな声で神様を讃美し、また祈っていたのだと思います。そしてその祈りが、このあとにはっきりしますが、看守の心をも変えたのであります。

わたしたちは、賛美をします時に、神様を恨みながら不平不満が一杯の心ですることはできないと思います。パウロたちの祈りは、当然、神様への感謝と希望にあふれた祈りであったと思います。パウロは、テサロニケの信徒への手紙2の5章でこう記しました。「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」

 使徒言行録5章の終わりに、同じように獄につながれ、また鞭打ちを受けた12弟子たちのことが書かれています。彼らもまた、喜んでいたと書かれています。「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどのものにされたことを喜んだ」

 パウロとシラスは、鞭打ちの傷に苦しみ、暗い牢獄につながれながら、神に感謝し、賛美をしたのです。もちろん迫害されることはつらいことでしょう。むち打ちの傷も痛んだことでしょう。しかし、その迫害の理由が、わたしたちが主イエス様を信じ、福音を世に現わしたためであるなら、少しも恥じることはないということなのです。むしろ、主イエス様に倣うものとされたことを喜び、感謝するのです。

 神様を知らない人々が、そのようなキリスト者の生き方を見たときに、どう思うのでしょうか。信仰を持って生きることは、どんなに素晴らしいことかをその目で見ることになるのではないでしょうか。後に、救われたいとパウロに願った看守もまた、合間、合間に仮眠を取りながらも、夜通し、賛美し祈るパウロたちの姿を見ていたのに違いないのです。言葉や教えによる伝道ではなく、獄中の彼らの生き方、有様が態度や行いによる伝道になったのです。

3、

 神様は、不思議な仕方でパウロとシラスの祈りと讃美に応えて下さいました。突然大地震が起き、それだけでなく、牢の土台は揺れ動き、堅く閉ざされて鍵をかけられていた牢の扉が皆開いたのです。牢獄は神によって破壊されました。神様は、普通には決して起こりえない天変地異と言う奇跡を起こしてご自身のご臨在をあらわしてくださいました。そして囚人たちを獄屋につないでいたすべての鎖が外れてしまったのです。このことは、単なる自然現象では決してありません。神様が、天のみ使の、その見えない手を用いて、恵みをあらわしてくださったのです。

 地震が起きたとき、看守は寝ておりましたが、目を覚まし、事態をはっきりと見ました。牢獄の戸は解放されてしまい、すべての囚人が自由に逃げられる状態でした。看守は、すでに囚人たちは逃げ出してしまったと思い途方にくれました。なぜなら、当時の規定では看守が囚人を逃がしてしまたったときには、その囚人が受けるべき刑罰を看守自身が受けなければならなかったからです。看守は絶望し、自害しようとしました。死刑になるくらいならいっそう自分から死のうと思ったのです。

 このとき、パウロシラスは叫びました。「自害してはいけない。わたしたちは皆、ここにいる」

この時、看守は、一舜にして、我に帰りました。ああ、大丈夫だった、そうだったのか、安堵の思いと共に、先ほど、パウロとシラスの讃美し祈る姿を見たときに感じた思いが、もう一度湧き上がってきました。どうすれば、あのように、どんな時にも希望をもって生きられるのか、最悪の時でさえ、感謝の讃美を神様に捧げることが出来るのか。そして、目の前で起きた地震と奇跡的な出来事は彼らが信じ、祈りを捧げているお方が真に生きている方であり、力ある方であることを証しするものでありました。そして聖霊によって導かれ、看守はパウロとシラスの前に出て尋ねたのです。

「先生方、救われるためにどうすればよいのでしょうか」パウロは直ちに答えます。

「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます」

パウロとシラスを支えていたものは、主イエス様以外にありません。ほかの誰でもなく、神の子であり、メシアであるお方、主イエス・キリストにこそ救いがあるのです。弟子たち自身が確かその目で見たもの、直接耳で聞いたこと、そしてわたしたが繰り返し告げ知らせられているお方、十字架にかかって死なれ、三日目に蘇られた方、復活して天におられるイエス・キリストがわたしたちを救われるお方です。

主イエス様は、わたしたちがいろいろな苦難や困難、苦しみの中にいるときでも希望をくださるお方です。主イエス様を信じること、そして、このお方に救われたという感謝があるならば、どんな時でも、いかなる場合にも、悲しみを上回るその感謝の中で生きることが出来るのです。

 パウロとシラスの言葉を受け入れた看守は、家の者たちをその場所に呼び寄せました。そして、パウロとシラスがその人たち全員に福音を伝えました。主の言葉、つまりイエス・キリストの言葉を語ったと書かれています。イエス・キリストを伝える言葉、イエス・キリストご自身を語る言葉です。

3、

 さて、「主イエスを信じなさい。そうすれば救われる」ということが分かったとしても、その家族もまた救われるというのはどういうことでしょうか。一家の代表者が信じたときに、その家のもの全員も、信仰が全くなくとも自動的に救われるということではありません。もとの言葉を直訳しますと「主イエスを信じなさい。そうすれば救われます、あなたもあなたの家族も」という言葉の並びです。信じるなら救われる、信じないならば救われないという原則は、看守自身にも、また看守の家族にも同じように適応されるべきものだということです。信者の家族であっても、信じないなら救われないことに変わりはありません。

しかし、同時に、あえてパウロとシラスが口をそろえて、「あなたが信じるなら」という言葉に加えて、「あなたの家族も」と言ったのには、やはり大きな意味があると言わなければなりません。

ルカによる福音書の19章にザアカイと言う徴税人、ローマ帝国の税金取立人の回心の物語があります。ザアカイは主イエス様から、その名を呼ばれて、今日あなたの家に泊りたい、神様がそう決めておられる、とおっしゃいました。ザアカイはこれまでの罪に満ちた生活を悔い改めて主イエス様に従う決心をしました。その時に、主イエス様はこうおっしゃったのですね。「今日救いがこの家に訪れた。」

この家と訳されている言葉が、今朝のあなたの家族も救われますという家族と言う言葉です。神様の救いが、人間から出るものではなく、ただただ神様の恵みによって与えられるものであるならば、救いは、ただ個人的に与えられるだけでなく、その家庭、家、家族にも与えられると言わなければならないと思います。

家庭の中で一人の人が信仰をいただいたときに、その家の者たちにも恵みとして救いを与えて下さるということは、大いにあり得ることです。その人は、家庭の中に一人も信仰者がいない人よりも、福音に接する機会がはるかに多いのです。さらに、そのキリスト者が主イエス様の救いを受けることによって、どれほどその生活が変化したのかを一番身近で見ているのが家族なのです。もちろん生身の人間で欠点も多くあることでしょう。人間的にみると決して模範的とは言えないかもしれませんが、しかし、その中で神様の赦しと命を知ることが出来た、また苦難の中で祈ることが出来るという生活を間近に見るわけです。

わたくしが牧師として奉仕しました教会でも、妻が信仰者であって、夫の方は当初は未信者で教会に足を踏み入れたこともないという方が何人もおられました。しかし、その中で、ご主人がクリスマスや特別の集会には顔を見せて下さるようになり、やがて、奥様と一緒に礼拝に集われる。そして、もう抵抗できないと言って、ついに洗礼をお受けになるということも決して少なくなかったのです。20年30年かけて、神様は家族を導いてくださるのです。

あるご婦人は、家の中でただ一人の信者でありましたが、絶えず家族の救いを祈り求め、ついに同居なさっている姑さん、ご主人のお母さまが病床で洗礼を受けられました。そのお母さまのキリスト教式の葬儀をきっかけに、ご主人も礼拝に通われるようになりました。あるとき、その女性に重い病が発見されたとき、ご主人はこうしてはいられないと言って、洗礼を受けられるということもありました。

「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます」この約束は、真実です。

パウロは、コリントの町の教会から届いた様々な質問に答える形でコリントの信徒への手紙1、を書きました。その7章13節14節に、このようなみ言葉があります。

「またある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない。なぜなら信者でない夫は信者である妻のゆえに聖なるものとされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なるものとされているからです」

聖なるものとされるという言葉の正しい意味は、神様のために取り分けられているということです。家庭の中に、一人の信者がいる時、その家庭全体がこの世的な意味において祝福されることになるという意味であります。それだけでなく、やはり、結婚生活によって一つのものとされている夫婦において、妻や夫の信仰と言うものが、その相手の側の霊的な生活に影響を与えるということです。

わたくしは、妻の願いにも関わらず、生きている時に目に見える形では信仰をあらわすことがなく召されたご主人の葬儀のときに、この第一コリント7章13節14節を語りました。亡くなられた方、故人がそのいまわの時に、神様の前で、どのように神様と対話をしたのか、だれにもわかりません。しかし、生きている時に、妻が教会生活をしていて、それを意図的に妨げず、むしろ援助しておられたとするなら、間際の時にその魂が、妻の信じている神様、助けて下さいと主イエス様に向かって祈っていないとはだれも言えませんと、こう語りました。なにしろ、神様は、妻や夫の一方が信者であるとき、その夫や妻である未信者に対して特別な思いとご計画を持っていらっしゃる、特別に取り分けて信じる可能性を誰よりも与えて下さるとわたくしは信じているのです。

鞭打たれ、投獄され、手足を鎖につながれながらも神様を賛美し、祈りをささげるパウロとシラスのその声を聞き、その姿を間近に見た看守は、ここにはとんでもない神様の恵みがあると驚きました。そして大地震と牢獄の解放と言う神様の奇跡を見せられて、ついに道を求めるに至りました。もうそこには囚人と看守の関係は全くありません。看守は真剣に問いました。「先生方、救われるためには、どうすべきでしょうか。」

「主イエスを信じなさい、そうすればあなたも家族も救われます」

今週は、この神様のお約束を信じて、特に家族の救いのために祈り続けてまいりましょう。

祈り

天におられる救い主、主イエス・キリストの父なる神、あなたは今も生きておられます。み言葉と聖霊を用いて、また喜びの中で信じ祈り、賛美する兄弟姉妹の存在自信を通して、救い恵みを表してくださることを感謝いたします。わたしたちも、また家族の者たちも、あなたの恵みにあずかることが出来ますように。主の御名によって祈ります。アーメン。