2025年08月17日「神の時の美しさ」

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聖書の言葉

コヘレトの言葉 3章1節~17節

メッセージ

熊本教会 朝拝説教                       2025年8月17日

説教者:牧野有仕

「神の時の美しさ」

コヘレトの言葉3章1~17節

序 人生の空しさ

 今朝は皆さんとご一緒に、旧約聖書にあります『コヘレトの言葉』から御言葉を聴いていきたいと思います。この『コヘレトの言葉』は、聖書の中でも一風変わった、不思議な御言葉の一つであると思います。コヘレトの言葉は全部で12章ありますが、コヘレトはその最初から最後まで全体を通して、「空しい」と叫び続けるんですね。1章2節では「コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい」と言いますし、12章の8節でも「なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい、と」と言われています。原文を見ると、『コヘレトの言葉』の中で、この「空しい」という言葉は計38回も使われています。コヘレトはこの書全体を通して、「いかに人生というものは空しいものなのか」ということを訴えようとしています。

 なぜこんなに悲観的な言葉が聖書に書かれているのだろうかと思いますが、コヘレトの言葉の一つ一つには、世界の現実に本当に向き合った者としての鋭さがあります。そして、その言葉は、コヘレトが生きた時代にとどまらず、私たちが生きている時代にもそのまま当てはまるようなリアリティがあります。「人生の空しさ」という問題は、この世界に生きている人であれば誰しもが向き合っている問題であると思います。「今自分がやっていることには何の意味があるのだろうか」、「どうせ自分が死んだら自分が今持っているお金や名誉や地位もすべて意味を失うではないか」、「自分は何のために生きているのだろうか」、このような問いと向き合って答えが出ないとき、私たちはある「空しさ」を覚えるということがあると思います。

また、わたしの友人がわたしにその「空しさ」を訴えてきたこともありました。「最近のニュースは暗いニュースばかりで、もうこのまま日本は滅びてしまうのではないか、世界も滅びてしまうのではないか、自分ができることもないし、どうすればいいか分からない空しさがある」と真剣に私に訴えてきました。でも、彼には彼なりの解決方法があって、彼は旅行が好きなんですね。溜めたお金のほとんどを旅行に使うような人で、友人と一緒に、あるいは自分一人で、よく色々な国に旅行に行っています。なぜ、旅行に行くのかと言うと、彼によれば、暗いニュースができるだけ耳に入って来ないように、あるいは世界の暗い側面を忘れることができるように、少しでも人生を楽しんで生きたい、そういう思いで旅行に行っているということなんだそうです。このように、「空しい人生の中でどのように生きるのか」ということは、時代を超えて、国を超えて、私たち人間に共通の、普遍的な問いであり続けているのだと思います。

コヘレトはこの問いに対して真剣にぶつかっていった人物です。世界に起こるさまざまな出来事に対して正面からぶつかっていくわけですが、同時にコヘレトは神にもぶつかっていくんですね。「空しい人生」というものをどのように捉えたら良いのか、このことを神に問うていくわけです。そのような葛藤の中で、コヘレトに与えられた気づきが、今日のところの、「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある」ということでした。今日お読みした17節の最後のところでも「すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある」と繰り返していますので、このところでコヘレトが訴えたい中心的なことは「定められた時がある」、このことだと思います。そして、それがさらに展開して、コヘレトの最大の気づきとなるのが来週の説教でともに聴く予定になっています12章13節です。「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ』。これこそ、人間のすべて」。この結論については来週詳しく見て行きたいと思いますが、今日の御言葉のテーマとも深いつながりがありますので、覚えておいていただければと思います。

本論① 美しくない現実の時

 「定められた時がある」、これは一体どういうことでしょうか。運命的にすでに決められている通りに時が進んで行くということでしょうか。決してそのような意味ではありません。細かいことですが、原文を見ると「定められた」という言葉は付いていませんので、他の日本語訳聖書では単に「時がある」と、このように訳されています。新共同訳聖書は、単に「時がある」というだけでは意味が分かりにくいから、それが「神が定められた時である」ということを明らかにしようとして、意訳をしたのだと思います。確かに、ここでコヘレトが言いたいことは、神が時を支配しておられ、時を導いておられるということだと思います。しかし、神様は時というものを、このときはこう、あのときはこうというように、機械的に、時計仕掛けのように動かしておられるわけでは決してありません。もしそうであれば、私たち人間は、神様によって操られている操り人形のようなものになってしまいます。神様はそうではなくて、私たち人間に自由な意志を与えて、私たちが自発的に神様を喜ぶことができるように創造してくださいました。また同時に「時」というものも愛と自由に満ちた仕方で神様は導いておられるわけです。

 しかし、人間はその自由な意志を神様のためではなくて、自分自身のために使ってしまった。それが創世記3章のアダムとエバの堕落の出来事ですが、それによって人間の内には罪というものが入り込み、その罪の影響で世界には悲惨な出来事が満ちるようになってしまったわけです。その結果、神様が愛と自由に満ちた仕方で導いておられた「時」というものの中にも、罪の「時」が入り込んでしまったわけです。それが2節~8節のところで二つで一組になってあらわされている「時」の、一方の側の「時」を生むことになってしまったわけです。ですから、「死ぬ時」や「殺す時」、「憎む時」や「戦いの時」を神様がそうなるように定められていたわけでは決してありません。それは100%、人間の罪によって引き起こされる「時」であります。

 コヘレトはそのような人間の罪によって引き起こされている「悲しい時」というものをしっかりと見つめているのです。2~8節のところであらわされている「時」は、コヘレトにとって非常に身近な経験として与えられていた「時」であったと思います。当時は、今のようにテレビやSNSなどによって世界各地で起きている戦争や悲しい事件などのニュースが入ってくるわけではなくて、身近な人たちから聞いたり、あるいは自分の目で直接見たりしたことがここに記されているのだと思います。殺す時、破壊する時、泣く時、嘆く時、石を放つ時(これははっきりとした意味が分からないのですが、おそらく戦闘行為として当時よく行われていた石を放って敵の畑を使えなくするというものだと思われます。反対に石を集めると畑が整えられてまた使えるようになるということですね)、抱擁を遠ざける時(これも敵意を表す言葉です)、失う時、放つ時(これは保っていたもの、持っていたものが捨てられた時という意味だと思われます)、裂く時(これは喪に服する時の行為です)、黙する時、憎む時、戦いの時、これらの「時」をコヘレトは身近なところで経験したのだと思います。そして究極的には、人間は死ぬということ、植物も抜かれて命を失うということ、それもまた現実として受け止めていました。しかし、そのような「悲しい時」の中でも、生まれる時、植える時、癒す時、建てる時、笑う時、踊る時、石を集める時、抱擁の時、求める時、保つ時、縫う時、語る時、愛する時、そして平和の時があるということをも、コヘレトは見て取っていました。

本論② 神の時の美しさ

 その一つ一つの時が何を意味しているのか、コヘレトは分からなかったと思います。コヘレトは、現実に起きている良い「時」も悪い「時」もそのまま受け取るなかで、「人が労苦してみたところで何になろう」と、これまで繰り返していた言葉を述べます。罪の世の中にあって、良い時もあれば、悪い時もある。人が何か一生懸命労苦したところでこの状況は何も変わることがない。人はただ生まれる時、死ぬ時、戦いの時、平和の時を時の流れに身を任せて生きるだけなんだ。そういう空しさを一方では感じていたと思います。

しかし、もう一方では、そこに空しさ以外のものをも見出していました。それは「美しさ」です。9節の後、コヘレトは「すべては空しい」という言葉の代わりに、「美しい」という言葉を使いました。3章の11節は非常に有名な箇所で、愛唱聖句にしておられる方も多い御言葉だと思いますが、新共同訳聖書では「神はすべてを時宜にかなうように造り」と訳しています。もちろん、このようにも訳すことができるんできますが、良く知られている訳としては口語訳聖書の「神のなされることは皆その時にかなって美しい」、この訳だと思います。新しい新改訳2017という聖書も「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」、また聖書協会共同訳という聖書は「神はすべてを時に適って麗しく造り」と、このように訳しています。

では、コヘレトが見出した「美しさ」はどういう美しさだったのでしょうか。空しい現実のどこに美しさを見いだしたのでしょうか。限りのある世界の中に、罪と悲惨に溢れた世界の中に、コヘレトは美しさを見いだすことはできませんでした。コヘレトの肉の目に映るものは空しさだけでした。しかし、コヘレトに与えられていたのは肉の目だけではなかったんですね。11節で続けてあるように、人には「永遠を思う心」が与えられているのです。コヘレトは、神様から与えられたこの「永遠を思う心」によって、肉の目では見ることのできない美しさを見ることができたのです。それが「神のなさる美しさ」です。「神のなさることはすべて時にかなっているという美しさ」です。

神様は世界のすべてのものを創造され、6日目にそのお造りになったすべてのものを御覧になって、「見よ、それは極めて良かった」(創1:31)と言われました。人間の罪がその世界の美しさを汚してしまい、そして今も汚し続けているわけですが、しかしそれでもなお、神様はこの世界を愛し、また私たち人間を愛し、私たちが引き起こしてしまう悪い「時」でさえも、神様の御計画の中で時にかなうように導かれている。それが神の時の美しさです。

私の短い人生を振り返ってみても、神様の美しい時があったことをいくつも見出すことができます。私は高校受験、大学受験とどちらも失敗し、希望した学校に行くことができませんでした。受験勉強に費やした時間はいったい何だったのだろうかと、当時は心が空しさでいっぱいになっていました。しかし、私の高校生時代・大学生時代には、私の人生を変えるような出会いが多く与えられ、それが積み重なって献身へと導かれたので、受験の失敗ということも神様が時にかなって用いられたことだったのだと思っています。他にもたくさんありますが、きっと皆さんにも思い当たることが多くあると思います。先ほど、子ども説教でも言いましたように、ぜひ家庭や教会、その他さまざまなところで、神様のなさる美しい時に触れた体験を分かち合っていただければと思います。そのようにして、私たちは空しい世の中でも希望を持って生きることができるのだと思います。

本論③ わたしたちは現実の時をどう生きるか

 こうしてコヘレトは、「天の下の出来事にはすべて時がある」ということ、そしてその「時」というのは「神のなさる美しい時」であるということを見いだすことができました。しかし、神が時にかなってすべてを美しくなさるのだから、もう何があったとしても心安らかにいられる、もう空しいなんて言わない、こうなったかというと、そうではなかったんですね。最初に申し上げましたように、コヘレトはこの書の最初から最後まで「空しい」と叫び続けるんですね。なぜ、「神のなさる美しい時」というものを知ったにもかかわらず、「空しい」と叫び続けるのか、この問いの中にもう一つの人間の限界というものが表されています。一つは人間の罪によって引き起こされた「悲しい時」というものは、人間にはどうすることもできないという限界でしたが、ここでもう一つ示されていることは、11節の後半にあるように、「神のなさる業を始めから終わりまで見極めることが許されていない」という人間の限界です。人間には「永遠を思う心」が与えられているけれども、そのすべてを見極めることができないという限界です。

 例えば、私たちが泣いている時、あるいは嘆いている時に、「ああ今この時は、神様が御計画を進められるために自分に与えてくださっている時なんだ」というふうに思って、すぐに気持ちを切り替えていくことができるかと言えば必ずしもそうではないと思います。また逆に私たちが笑っている時、あるいは踊っている時に、「ああ今この時は、神様が祝福として与えてくださっている時なんだ、泣いている時、嘆いている時もあったけれども、神様が涙を笑いに、嘆きを踊りに変えてくださったんだ」というふうに神様にその喜びを帰していくことができるか言えば、それも必ずしもそうではないと思います。私たちは、自分が置かれているある一つの時に固執してしまう、時というものを断片的に捉えてしまうという傾向があります。それで「悲しみの時」には「空しさ」を覚え、「喜びの時」には自己満足に陥ってしまう、そういうことがあると思います。

 2~8節のような時の移り変わりのなかで、ぐらぐらと心が揺れ動いて、心が定まらない、そのような人生に空しさを感じるというのが現実だと思います。そのような現実の中で、私たちはどのように生きて行けば良いのかということが最後に問われてくるのですけれども、コヘレトは最後に12節「わたしは知った」、14節「わたしは知った」、そして16節「更にわたしは見た」と言って、私たちに三つのことを教えてくれています。

結論① 神を畏れる生き方

 一つは、喜び楽しんで生きるということです。神様は私たちが食べること、飲むこと、そして労苦によって満足すること(これは私たちの日々の働きによって得られる満足のことであると言って良いと思います)、つまり私たちの人生に欠かすことのできないもの、人生の中心とも言ってよいこれらのことを、賜物として与えてくださっているというのですね。食べること、飲むこと、そして私たちの働きのすべてを、神様からの賜物として受け取るとき、私たちはそれを喜び楽しむことが許されているんですね。ですから、私たちの生活というものは決して禁欲主義でもなければ、快楽主義でもありません。喜び楽しむことを神様からの賜物として受け取る、そして日々の生活の中で神様の働きに感謝し、賛美することができる、このことは空しさを感じてしまう日々の中にあって、本当に感謝なことであると思います。

 そして二つ目は、神を畏れ敬って生きるということです。私たちは人生に空しさを感じる時、どうしたらもっと良い人生になるだろうか、どうしたらもっと良い世界になるだろうか、というふうに考えます。しかし、そのときに必ずぶつかるのは、自分にはどうすることもできない、人間にはどうすることもできないということだと思うのですね。「今あること、これからあること」というのは、私たちの目から見ると、見たこともないような、どう手をつけていけばいいか分からないようなこととして起こってきます。しかし、神様の目から見れば、それは「既にあったこと」だと、つまり、神様がそれらの出来事を見てうろたえることなど決してなく、むしろ神様の方がそれらを支配しておられるんだと言うんですね。そして、目の前のことにうろたえ、追いやられていく私たちを、神様の方から尋ね求めてくださる。そのとき、私たちは神を畏れ敬うように向かわされていくのですね。そのとき、私たちは「すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない」ということを知らされて、自分の力ではなくて、神様の永遠に変わることのない御業に委ねていけばいいんだというふうに私たちの方がむしろ変えられていきます。

 そして三つ目は、神の裁き、神の義に生きるということです。私たちは、悪が正しく裁かれていないことを目にする時、本当に空しい思いになります。なぜそんなことがゆるされているのだろうか、なぜそんなことが放っておかれているのかと思うことは世界中に満ちていると思います。殺す時、破壊する時、泣く時、嘆く時、石を放つ時、抱擁を遠ざける時、憎む時、戦いの時という言葉からは、コヘレトが戦争や争いに巻き込まれて不義を被っている大勢の人を目にしていたのではないかということが想像できます。そのような不義を被っている人たちの中には、食べたり飲んだりして喜び楽しんで生活することができないという人も多くいたと思いますし、そしてそれは現在においても同じことが言えると思います。そうであるならば、そのような人たちは、空しく人生を送っていくことしかできないのかと言えば、そうではないと、「正義を行う人も悪人も神は裁かれる」とコヘレトはつぶやきます。神様はすべてのことを正しく裁かれ、神様の義をそこで示してくださいます。ですから、私たちはたとえこの世で不義を被っていたとしても、決して空しく人生を終えることはない、神様からの報いが必ずあるということを信じて、生きていくことができるのです。

結論② イエス・キリストの時

 このようにして、私たちが人生の空しさの中にあっても、喜び楽しんで生きることがゆるされ、神を畏れ敬って生きるように導かれ、そして神の義によって生きることができるようにされているのも、神様がすべてを時にかなって美しく導いておられるからです。私たちはその神様の時の美しさを始めから終わりまですべてを見極めることは許されていません。しかし、神様の時の最も美しい部分、神様の時の中心と言いましょうか、その核心部分は私たちにはっきりと示されています。それは、旧約聖書全体が指し示していた救い主イエス・キリストが来られたということです。神様は、綿密なご計画に基づいて、旧約聖書の歴史の中で、主イエス・キリストが来られるための道備えをしておられました。そして、時満ちて、約2000年前のクリスマスに私たちが生きるこの地上に私たちと同じ人間として生まれてきてくださったのです。そして、主イエス御自身が2~8節にあるような、人間の罪によって引き起こされた「時」をすべて身に受けてくださいました。そうして主イエスは、人々から憎まれ、十字架の上で殺され、死を経験されたわけですが、三日目に死から復活されたことによって、罪と死とそれに伴うすべての悲しい「時」を打ち破ってくださったのです。そこに神様の時の真の美しさがあります。ですから、私たちの人生の中で空しさを感じるような時があったとしても、それが決して空しいままで終わることはありません。主イエスがすべてその空しさを引き受けて下さったわけですから、これから神様が私たちのために、また神様の栄光のために用意して下さっている美しい時を期待して、与えられた一つ一つの時を生きていきたいと思います。

お祈り

 すべての時を支配しておられる天の父なる神様、その大いなる御名を心から賛美致します。イエス様を私たちの罪のために地上に遣わしてくださるという大きなご計画を成し遂げて下さり、すべてを時にかなって美しく導いてくださっていることを心から感謝致します。私たちの日々の歩みのなかには、なお、空しさを覚える時があり、生きる意味を見失ってしまうこともあります。どうか、そのような私たちにイエス様が私たちのために成し遂げてくださった過去・現在・未来の救いの時を私たちに示してください。今週一週間の歩みも、神様の美しい時の中を歩ませていただいていることを覚えさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。