聖書の言葉 ガラテヤの信徒への手紙 2章15節~21節 メッセージ 2025年8月3日(月)熊本伝道所朝拝説教 ガラテヤの信徒への手紙2章15節~21節「キリストがわたしの内に」 禰津省一 1、 今日、ここにお集りのおひとりおひとり上に主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように、主の名によって祈ります。アーメン。 ただいま、ガラテヤの信徒への手紙2章15節から21節までのみ言葉をご一緒にお聞きしました。新共同訳聖書のこのみ言葉には、次のような小見出しがついています。 「すべての人は信仰によって義とされる」。 小見出しは、聖書の本文ではありません。言い換えますと、わたしたちが神の言葉として読み、信仰と生活の規範とする言葉ではないと言うことです。小見出しは翻訳を担当してくださった委員会が相談して、この段落の内容を表すものとして、読む人のためにつけたものです。しかし時に、それがぴったりくるときとそうでないときとがあるような気がいたします。 この小見出しは、確かに間違ってはいないと思いますけれども、しかし、ここにはそれだけに収まりきらない大切なことが多く書かれている思いがいたします。何よりも、わたくしの心に衝撃的とさえ思うほど響いてきた言葉が20節の前半部です。お読みします。「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」 この手紙を書きましたのは初代教会の大伝道者であるパウロという使徒ですけれども、もしわたくしがパウロと会って話をする機会があったとするとどうでしょうか。目の前のパウロが、自分の中にイエス・キリストが生きて存在している、と言い、しかも彼は、「生きているのはもはやわたしではない」とも言っていることになります。つまり、わたしの前には本当はイエス様がいて、そのイエス様とわたしが会っているという話です。こんなことが本当にあるのかとさえ思います。 ある仏教の名高いお坊さんが、聖書を読んでいまして、このみ言葉に出会ったとき、驚きと恐れをもって受け止めたという話を聞きました。その高僧は、自分たちはこのような心の境地、つまり仏が自分の内におられるようになる、即身成仏というそうですが、そのことを目指して念仏を唱えたり、滝に打たれたり、座禅をしたりしているというのです。パウロという人が、一体どのようにしてこのような境地を会得したのかぜひ知りたいといわれました。 これは、神様から特別の使命を受けたパウロと言う伝道者が様々な試練をくぐり抜け、また祈りに祈ってようやく到達したものですと答えたならば、その高僧は「やはりそうか、自分たちも頑張ります」といって納得したかもしれません。 しかしパウロは、そういうある種、神秘的な特別な体験や心の状態を通って、祈りに祈ってようやく到達できるようなこととして、この言葉を語ったのでしょうか。決してそうではないと思うのです。聖書を丁寧に読みますと、決してそんなことではないと言うことが分かります。 パウロがここで書いておりますことは、パウロだけの特別なことではなくて、この手紙を受け取ったガラテヤ教会の全員が、本来あるべき姿なのです。 わたしたちが、主イエス様を自分たちの救い主であると信じ受け入れるとき、わたしたちにも必ず起こる、いやすでに起きている出来事として、わたしたちは、このことを受け取ることが出来ます。「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」 パウロはここでは「わたしは」と言って、これは自分自身の証しであるように書いています。しかし、そもそも15節では「わたしたちは」と書き始めています。このわたしたちというのは、第一には、彼の第三回伝道旅行の途中のどこかの街にいて手紙を書いているパウロと彼と一緒にいる兄弟一同のことでしょう。それが17節からは「わたしは」という一人称にかわります。けれども、これはパウロ一人だけのことではなく、手紙の受け取り手であるガラテヤの信徒たちに向かって、あなたたちも同じなのですよと語りかけるようにして書いていることなのです。だいぶ後の方ですが、4章12節には、はっきりと「あなた方もわたしようになって下さい」と書かれています。 2 さて、今朝の御言葉でパウロが向き合っていますのは、ガラテヤ教会に入り込んできたユダヤ主義キリスト教と呼ばれる危険な教えでありました。どんな教えかと言いますと、人は誰でも主イエス様を信じることで確かに救われるとしても、それと同時に旧約聖書にしるされ、そして神を信じる代々のユダヤ人が守り行ってきた律法の教えを守るべきだ。特に割礼や食事にかかわる戒律を、異邦人であっても行わなければならないと主張する教えでした。そうでなければ救いはないと言うのです。 今日のみ言葉につけられている小見出しをもう一度思い出してください。「すべての人は信仰によって義とされる」 この小見出しは、15節と16節を要約した言葉です。これは手紙を書いているパウロや一緒に伝道している兄弟たちだけでなく、福音を聞いて信じたガラテヤ教会の全員が、ユダヤ人も異邦人も受け入れているはずの真理なのです。人が義とされる、t正しいと認められるのはイエス・キリストへの信仰による、つまり行いにはよらないと言うことです。 主イエス様は、律法に固執するファリサイハユダヤ人たちと厳しく対決なさいました。当時のユダヤ教ファリサイ派は、人間がどれだけ忠実に律法を守るかどうかを神が見てくださり、きちんと守っているものだけが救われる、言い換えると神様から正しいと認められる、義とされる、合格と言って祝福を受けると考えました。そして自分たちは合格している、取税人や罪びとはそうではない、まして異邦人などはとんでもないと考えました。 しかし、主イエス様が教えてくださったように、人は本当に神の戒めを守ることができるのか言うことを考えなければなりません。安息日の礼拝を守るとか、割礼を受けているとか、豚肉を決して食べないといった外面的なことなら可能でしょう。それも大変な努力がいることだとは思います。しかし主イエス様は、もっと人間にとって根源的な戒め、神を愛することと隣人を愛すこと、口から出る言葉や心の思いを含めて、盗むな・殺すな・姦淫するなといった神様の教えを本当に守っているかと問いかけたのです。 隠れた行いはもちろん、心の中の思いさえも見ておられる神様の目には実は義人はいない、一人いないのです。これが、主イエス様がわたしたちに教えてくださり、また弟子たちやパウロが人々に訴えてきたことでした。すべての人が救いを必要としているのです。この罪はどうすれば解決していただけるのでしょうか。どうすれば、わたしたちは赦しをいただけるのでしょうか。 それを解決してくださるもの、それこそが神様の愛であり神の憐みです。私たちのもとにおいでになった神の子がイエス・キリストがわたしたちのために命を与えてくださいました。罪のない尊い清い神の御子の命が十字架にささげられて、信じる人すべての罪のあがないとなってくださり、私たちが受けるべき神様の怒りや呪い、さばきを一身に受けてくださいました。だからこそ、わたしたち罪あるものと神様との関係が回復され、わたしたちは義とされたのです。 死んでお蘇りなった主イエス。キリスト、今天において生きておられる主イエス様を信じる人は救われる、義とされます。これはガラテヤ教会でも、わたしたちの現代日本の教会でも信じられなければならない福音の真理なのです。 3 しかし、この信仰の中心的な教えにやはり人間の行いを付け加えたいという思いが教会に起こってきたのです。教会の中で、保守的なユダヤ人を中心に、キリスト者もユダヤ教の戒律を守らなければならないというのです。イエス様を信じても、旧約の律法である割礼が必要なのではないか。割礼に限らず、何らかの良い業を救いの条件としなければ救われない、教会に入り込んできたユダヤ主義者はこう主張しました。これは何も当時のガラテヤ教会だけの問題ではありません。主イエス様の恵みだけでなく、何らかの人間の側の行いが必要なのではないかと、これは私たちもまた考えてしまうことがあるのではないでしょうか。 そもそも、この世の多くの宗教は、人間の側の良い行い、あるいは修行を通して救われようとするものです。わたしたちも軽い気持ちで「日頃の行いが良かったので、良い天気になった」と言ったりします。ユダヤ人にとっては、旧約聖書の様々な律法の戒めは神様が喜ばれる良い行いでした。割礼や、安息日、食物規定、定期的な断食とか捧げものが救いの条件なのです。 イエス・キリストを信じるようになった異邦人も同様に割礼を受けなければ救われないという主張は、パウロの第一次伝道旅行の後で開かれたエルサレム使徒会議で明確に否定されました。けれども、この頃にはまた息を吹き返してきました。どうやらガラテヤ教会にも入り込み、それが大きく根を張ってしまったようなのです。そのため教会が混乱し分裂状態になっていることを聞いたパウロは、急いでこの手紙を書き送ったのです。 この手紙の最初のほうになりますが、1章の6節7節にこう書かれています。「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなた方がこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけでなく、ある人々があなた方を惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです」 2章15節と16節をまとめる言葉が、16節の最後の言葉です。少し言い直しますとこういうことです。 「律法の実行によっては誰一人義とされない。そうではなく、キリストへの信仰によって義としていただくために」「わたしたちもイエス・キリストを信じました」 4 さて次の2章17節では、パウロは異邦人も割礼を受けるべきだと主張するユダヤ主義キリスト者たちの思いにも少しは理由があると語っています。17節は、パウロが割礼主義者の思いを代弁して語っている言葉です。「もしわたしたちがキリストによって義とされると務めながら、自分自身も罪びとであるなら、キリストは罪に仕えるものということになるのでしょうか」 キリストによって救われたいと願い、救われたと告白するわたしたちが、律法と良い行いに背を向けて罪を犯し続けるなら、キリストは罪に仕えるものになる、それはおかしいとあなた方は言っているというのです。 しかし、よく考えてみるなら、主イエス様にだけ望みを置いて、もはや救いの条件としての良い業や律法を投げ捨てたはずのわたしたちが、再び律法や良い行いによって救われようとするのは成り立たないのです。つまり、一度は神の恵みにだけより頼むと言いながら、打ち壊したはずの業による救いを持ち出して、これに取り組むなら、それは自分自身が進んだ道を逆戻りすることです。自分への違反者となるのです。それゆえ、パウロは17節のようなあなたがたの主張は成り立たない、「決してそうではない」と強く打ち消すのです。 19節にこう書かれています。「わたしは神に対して生きるために律法によって死んだのです。わたしはキリストと共に十字架につけられています」。 パウロは「わたしは死んだ」、と言っています。さらに「キリストと共に十字架につけられた」と付け加えています。 律法によって、つまり人間の側の何らかの業によって救いを得ようとする自分は死んだというのです。割礼や食事など、さまざまな外面的な戒めを守ることを誇る、それによって神様から義とされていると思う、そういう自分こそが実は、あのイエス様の十字架によって死んだはずだというのです。 もっと言えば、人間の側の何らかのよい業によって救われようと努力して、でも最後にはやはりできないと失望するような自分に死ぬことしょう。あるいはまた、自分は出来ていると勘違いして他の人を裁く自分もまた、主イエス様の十字架と共に死ぬのです。 実はわたしたちが主イエス様を救い主として信じたときには、すでにそのような古い自分は間違いなく死んだのです。主イエス様の十字架と共に、古い自分は死にました。そして復活の主イエス様と共に新しい自分が生まれたのです。確かに古い自分は完全に死滅してはいませんけれども、しかし主イエス様がその古い自分の中にいて下さるのです。主イエス様は聖霊によって、わたしたちが罪に死ぬように絶えず導き、力を与えて下さるのです。わたしたちは、すでに主イエス様の下さる恵みにだけより頼む新しい人になりました。 21節の初めにこうあります。「わたしは神の恵みを無駄にしません」 わたしたちもパウロと共に、はっきりと宣言しようではありませんか。「わたしは神の恵みを無駄にしません」。もう自分の業によって救われようとはしませんと。 21節の続きはこうです。「もし人が律法のおかげで義とされるとすれば、それこそキリストの死は無意味になってしまいます。」 わたしたちは、ただ恵みによって救われたことに感謝し、恵みの神にお答えします。不満足にすぎないものであってもよい業に励みます。それは、救いを得るためではなく、救われたからこそそう思うのです。主イエス様が下さる聖霊の恵みです。 主イエス様を信じ、主イエス様とつながっているわたしたちの内にはすでに聖霊が与えられています。聖霊の神は主イエス様と一つのお方であり、そのようにして主イエス様ご自身が私たちの内にいてくださるのです。 「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」 5 先週韓国に行っていたのですが、韓国語にスルスラナダという言葉があるそうです。心細いとか、もの寂しいという意味だそうです。わたしは25歳まで教会とは無縁な人間だったのですが、しかし何か心の内に足りない物を感じてそれを解決するものを求めていました。スルスラナダという言葉の感じがぴったりくるような、心にぽっかりと空洞を抱えているような思いがありました。しかし何をしてもその空洞を埋めることが出来なかったのです。そんな時、教会に導かれて、この世界に光である神がおられることを知りました。人間の力を越える神様の愛と恵みを信じました。主イエス・キリストのご存在が、わたしの心の空洞を十分に埋めてくださったのです。 「キリストがわたしの内に生きておられる」。このパウロの告白は、すべてのクリスチャンに与えられている素晴らしい恵みであると思います。 日々の生活の中で、もうどうしようかと恐れること、絶望するようなことがあっても、試練をくぐるようなことがあっても、そのことは変わりません。この週も、この月も、この素晴らしい恵みに感謝して歩もうではありませんか。祈りをいたします。 恵み深い、主イエス・キリストの父なる神、父子御霊の三つにして一人の神、御名を賛美します。恵みによりあなたを信じ,御名の内に加えられながらも罪を犯す私たちであっても、あなたは決して捨てることなく、いつも私たちを愛し、十字架と復活の恵みに生かしてくださることを感謝します。 生きているのはもはや私なのではなく、イエス様御自身が私たちの内におられます。あなたによってわたしたちは絶えず守られ、また新しくされています。ありがとうございます。あなたへの感謝の応答として、あなたが喜んでくださる良い思いを抱き、良い言葉を語り、良い行いをすることができますように。また多くの人々にこの恵みを伝えてゆくことができますように私たち自身と教会を導いてください。主の名によって祈ります。アーメン。
2025年8月3日(月)熊本伝道所朝拝説教
ガラテヤの信徒への手紙2章15節~21節「キリストがわたしの内に」
禰津省一
1、
今日、ここにお集りのおひとりおひとり上に主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように、主の名によって祈ります。アーメン。
ただいま、ガラテヤの信徒への手紙2章15節から21節までのみ言葉をご一緒にお聞きしました。新共同訳聖書のこのみ言葉には、次のような小見出しがついています。
「すべての人は信仰によって義とされる」。
小見出しは、聖書の本文ではありません。言い換えますと、わたしたちが神の言葉として読み、信仰と生活の規範とする言葉ではないと言うことです。小見出しは翻訳を担当してくださった委員会が相談して、この段落の内容を表すものとして、読む人のためにつけたものです。しかし時に、それがぴったりくるときとそうでないときとがあるような気がいたします。
この小見出しは、確かに間違ってはいないと思いますけれども、しかし、ここにはそれだけに収まりきらない大切なことが多く書かれている思いがいたします。何よりも、わたくしの心に衝撃的とさえ思うほど響いてきた言葉が20節の前半部です。お読みします。「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」
この手紙を書きましたのは初代教会の大伝道者であるパウロという使徒ですけれども、もしわたくしがパウロと会って話をする機会があったとするとどうでしょうか。目の前のパウロが、自分の中にイエス・キリストが生きて存在している、と言い、しかも彼は、「生きているのはもはやわたしではない」とも言っていることになります。つまり、わたしの前には本当はイエス様がいて、そのイエス様とわたしが会っているという話です。こんなことが本当にあるのかとさえ思います。
ある仏教の名高いお坊さんが、聖書を読んでいまして、このみ言葉に出会ったとき、驚きと恐れをもって受け止めたという話を聞きました。その高僧は、自分たちはこのような心の境地、つまり仏が自分の内におられるようになる、即身成仏というそうですが、そのことを目指して念仏を唱えたり、滝に打たれたり、座禅をしたりしているというのです。パウロという人が、一体どのようにしてこのような境地を会得したのかぜひ知りたいといわれました。
これは、神様から特別の使命を受けたパウロと言う伝道者が様々な試練をくぐり抜け、また祈りに祈ってようやく到達したものですと答えたならば、その高僧は「やはりそうか、自分たちも頑張ります」といって納得したかもしれません。
しかしパウロは、そういうある種、神秘的な特別な体験や心の状態を通って、祈りに祈ってようやく到達できるようなこととして、この言葉を語ったのでしょうか。決してそうではないと思うのです。聖書を丁寧に読みますと、決してそんなことではないと言うことが分かります。
パウロがここで書いておりますことは、パウロだけの特別なことではなくて、この手紙を受け取ったガラテヤ教会の全員が、本来あるべき姿なのです。
わたしたちが、主イエス様を自分たちの救い主であると信じ受け入れるとき、わたしたちにも必ず起こる、いやすでに起きている出来事として、わたしたちは、このことを受け取ることが出来ます。「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」
パウロはここでは「わたしは」と言って、これは自分自身の証しであるように書いています。しかし、そもそも15節では「わたしたちは」と書き始めています。このわたしたちというのは、第一には、彼の第三回伝道旅行の途中のどこかの街にいて手紙を書いているパウロと彼と一緒にいる兄弟一同のことでしょう。それが17節からは「わたしは」という一人称にかわります。けれども、これはパウロ一人だけのことではなく、手紙の受け取り手であるガラテヤの信徒たちに向かって、あなたたちも同じなのですよと語りかけるようにして書いていることなのです。だいぶ後の方ですが、4章12節には、はっきりと「あなた方もわたしようになって下さい」と書かれています。
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さて、今朝の御言葉でパウロが向き合っていますのは、ガラテヤ教会に入り込んできたユダヤ主義キリスト教と呼ばれる危険な教えでありました。どんな教えかと言いますと、人は誰でも主イエス様を信じることで確かに救われるとしても、それと同時に旧約聖書にしるされ、そして神を信じる代々のユダヤ人が守り行ってきた律法の教えを守るべきだ。特に割礼や食事にかかわる戒律を、異邦人であっても行わなければならないと主張する教えでした。そうでなければ救いはないと言うのです。
今日のみ言葉につけられている小見出しをもう一度思い出してください。「すべての人は信仰によって義とされる」
この小見出しは、15節と16節を要約した言葉です。これは手紙を書いているパウロや一緒に伝道している兄弟たちだけでなく、福音を聞いて信じたガラテヤ教会の全員が、ユダヤ人も異邦人も受け入れているはずの真理なのです。人が義とされる、t正しいと認められるのはイエス・キリストへの信仰による、つまり行いにはよらないと言うことです。
主イエス様は、律法に固執するファリサイハユダヤ人たちと厳しく対決なさいました。当時のユダヤ教ファリサイ派は、人間がどれだけ忠実に律法を守るかどうかを神が見てくださり、きちんと守っているものだけが救われる、言い換えると神様から正しいと認められる、義とされる、合格と言って祝福を受けると考えました。そして自分たちは合格している、取税人や罪びとはそうではない、まして異邦人などはとんでもないと考えました。
しかし、主イエス様が教えてくださったように、人は本当に神の戒めを守ることができるのか言うことを考えなければなりません。安息日の礼拝を守るとか、割礼を受けているとか、豚肉を決して食べないといった外面的なことなら可能でしょう。それも大変な努力がいることだとは思います。しかし主イエス様は、もっと人間にとって根源的な戒め、神を愛することと隣人を愛すこと、口から出る言葉や心の思いを含めて、盗むな・殺すな・姦淫するなといった神様の教えを本当に守っているかと問いかけたのです。
隠れた行いはもちろん、心の中の思いさえも見ておられる神様の目には実は義人はいない、一人いないのです。これが、主イエス様がわたしたちに教えてくださり、また弟子たちやパウロが人々に訴えてきたことでした。すべての人が救いを必要としているのです。この罪はどうすれば解決していただけるのでしょうか。どうすれば、わたしたちは赦しをいただけるのでしょうか。
それを解決してくださるもの、それこそが神様の愛であり神の憐みです。私たちのもとにおいでになった神の子がイエス・キリストがわたしたちのために命を与えてくださいました。罪のない尊い清い神の御子の命が十字架にささげられて、信じる人すべての罪のあがないとなってくださり、私たちが受けるべき神様の怒りや呪い、さばきを一身に受けてくださいました。だからこそ、わたしたち罪あるものと神様との関係が回復され、わたしたちは義とされたのです。
死んでお蘇りなった主イエス。キリスト、今天において生きておられる主イエス様を信じる人は救われる、義とされます。これはガラテヤ教会でも、わたしたちの現代日本の教会でも信じられなければならない福音の真理なのです。
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しかし、この信仰の中心的な教えにやはり人間の行いを付け加えたいという思いが教会に起こってきたのです。教会の中で、保守的なユダヤ人を中心に、キリスト者もユダヤ教の戒律を守らなければならないというのです。イエス様を信じても、旧約の律法である割礼が必要なのではないか。割礼に限らず、何らかの良い業を救いの条件としなければ救われない、教会に入り込んできたユダヤ主義者はこう主張しました。これは何も当時のガラテヤ教会だけの問題ではありません。主イエス様の恵みだけでなく、何らかの人間の側の行いが必要なのではないかと、これは私たちもまた考えてしまうことがあるのではないでしょうか。
そもそも、この世の多くの宗教は、人間の側の良い行い、あるいは修行を通して救われようとするものです。わたしたちも軽い気持ちで「日頃の行いが良かったので、良い天気になった」と言ったりします。ユダヤ人にとっては、旧約聖書の様々な律法の戒めは神様が喜ばれる良い行いでした。割礼や、安息日、食物規定、定期的な断食とか捧げものが救いの条件なのです。
イエス・キリストを信じるようになった異邦人も同様に割礼を受けなければ救われないという主張は、パウロの第一次伝道旅行の後で開かれたエルサレム使徒会議で明確に否定されました。けれども、この頃にはまた息を吹き返してきました。どうやらガラテヤ教会にも入り込み、それが大きく根を張ってしまったようなのです。そのため教会が混乱し分裂状態になっていることを聞いたパウロは、急いでこの手紙を書き送ったのです。
この手紙の最初のほうになりますが、1章の6節7節にこう書かれています。「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなた方がこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけでなく、ある人々があなた方を惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです」
2章15節と16節をまとめる言葉が、16節の最後の言葉です。少し言い直しますとこういうことです。
「律法の実行によっては誰一人義とされない。そうではなく、キリストへの信仰によって義としていただくために」「わたしたちもイエス・キリストを信じました」
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さて次の2章17節では、パウロは異邦人も割礼を受けるべきだと主張するユダヤ主義キリスト者たちの思いにも少しは理由があると語っています。17節は、パウロが割礼主義者の思いを代弁して語っている言葉です。「もしわたしたちがキリストによって義とされると務めながら、自分自身も罪びとであるなら、キリストは罪に仕えるものということになるのでしょうか」
キリストによって救われたいと願い、救われたと告白するわたしたちが、律法と良い行いに背を向けて罪を犯し続けるなら、キリストは罪に仕えるものになる、それはおかしいとあなた方は言っているというのです。
しかし、よく考えてみるなら、主イエス様にだけ望みを置いて、もはや救いの条件としての良い業や律法を投げ捨てたはずのわたしたちが、再び律法や良い行いによって救われようとするのは成り立たないのです。つまり、一度は神の恵みにだけより頼むと言いながら、打ち壊したはずの業による救いを持ち出して、これに取り組むなら、それは自分自身が進んだ道を逆戻りすることです。自分への違反者となるのです。それゆえ、パウロは17節のようなあなたがたの主張は成り立たない、「決してそうではない」と強く打ち消すのです。
19節にこう書かれています。「わたしは神に対して生きるために律法によって死んだのです。わたしはキリストと共に十字架につけられています」。
パウロは「わたしは死んだ」、と言っています。さらに「キリストと共に十字架につけられた」と付け加えています。
律法によって、つまり人間の側の何らかの業によって救いを得ようとする自分は死んだというのです。割礼や食事など、さまざまな外面的な戒めを守ることを誇る、それによって神様から義とされていると思う、そういう自分こそが実は、あのイエス様の十字架によって死んだはずだというのです。
もっと言えば、人間の側の何らかのよい業によって救われようと努力して、でも最後にはやはりできないと失望するような自分に死ぬことしょう。あるいはまた、自分は出来ていると勘違いして他の人を裁く自分もまた、主イエス様の十字架と共に死ぬのです。
実はわたしたちが主イエス様を救い主として信じたときには、すでにそのような古い自分は間違いなく死んだのです。主イエス様の十字架と共に、古い自分は死にました。そして復活の主イエス様と共に新しい自分が生まれたのです。確かに古い自分は完全に死滅してはいませんけれども、しかし主イエス様がその古い自分の中にいて下さるのです。主イエス様は聖霊によって、わたしたちが罪に死ぬように絶えず導き、力を与えて下さるのです。わたしたちは、すでに主イエス様の下さる恵みにだけより頼む新しい人になりました。
21節の初めにこうあります。「わたしは神の恵みを無駄にしません」
わたしたちもパウロと共に、はっきりと宣言しようではありませんか。「わたしは神の恵みを無駄にしません」。もう自分の業によって救われようとはしませんと。
21節の続きはこうです。「もし人が律法のおかげで義とされるとすれば、それこそキリストの死は無意味になってしまいます。」
わたしたちは、ただ恵みによって救われたことに感謝し、恵みの神にお答えします。不満足にすぎないものであってもよい業に励みます。それは、救いを得るためではなく、救われたからこそそう思うのです。主イエス様が下さる聖霊の恵みです。
主イエス様を信じ、主イエス様とつながっているわたしたちの内にはすでに聖霊が与えられています。聖霊の神は主イエス様と一つのお方であり、そのようにして主イエス様ご自身が私たちの内にいてくださるのです。
「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」
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先週韓国に行っていたのですが、韓国語にスルスラナダという言葉があるそうです。心細いとか、もの寂しいという意味だそうです。わたしは25歳まで教会とは無縁な人間だったのですが、しかし何か心の内に足りない物を感じてそれを解決するものを求めていました。スルスラナダという言葉の感じがぴったりくるような、心にぽっかりと空洞を抱えているような思いがありました。しかし何をしてもその空洞を埋めることが出来なかったのです。そんな時、教会に導かれて、この世界に光である神がおられることを知りました。人間の力を越える神様の愛と恵みを信じました。主イエス・キリストのご存在が、わたしの心の空洞を十分に埋めてくださったのです。
「キリストがわたしの内に生きておられる」。このパウロの告白は、すべてのクリスチャンに与えられている素晴らしい恵みであると思います。
日々の生活の中で、もうどうしようかと恐れること、絶望するようなことがあっても、試練をくぐるようなことがあっても、そのことは変わりません。この週も、この月も、この素晴らしい恵みに感謝して歩もうではありませんか。祈りをいたします。
恵み深い、主イエス・キリストの父なる神、父子御霊の三つにして一人の神、御名を賛美します。恵みによりあなたを信じ,御名の内に加えられながらも罪を犯す私たちであっても、あなたは決して捨てることなく、いつも私たちを愛し、十字架と復活の恵みに生かしてくださることを感謝します。
生きているのはもはや私なのではなく、イエス様御自身が私たちの内におられます。あなたによってわたしたちは絶えず守られ、また新しくされています。ありがとうございます。あなたへの感謝の応答として、あなたが喜んでくださる良い思いを抱き、良い言葉を語り、良い行いをすることができますように。また多くの人々にこの恵みを伝えてゆくことができますように私たち自身と教会を導いてください。主の名によって祈ります。アーメン。