2025年07月20日「心に喜びを」

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聖書の言葉

使徒言行録 14章8節~20節

メッセージ

2025年7月20日(日)熊本伝道所礼拝説教

使徒言行録14章8節~20節「心に喜びを」

1、

御子イエス・キリストの恵みと平和とが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。

今朝のみ言葉は、使徒言行録第14章8節から20節です。13章から始まった使徒パウロの第一次宣教旅行の5回目の説教となります。パウロとバルナバの二人は、キプロス島からピシディア州のアンティオキア、そしてその東のイコニオンと伝道を進め、前回はイコニオンと言う町に入りました。キプロス島は別にして、アンティオキアとイコニオンでは、主イエス様を信じる人々が多く起こされると同時に、パウロたちに対するユダヤ人からの迫害は激しいものがありました。前回の御言葉では、二人は石を投げられそうになる、つまり石打の刑に処せられそうになって、南に40キロのリストラの町に難を逃れたのです。しかしこのリストラにおいても、アンティオキアとイコニオンのユダヤ人たちがパウロを遥々(はるばる)と追いかけてきて、石を投げつけ、パウロは意識を失って死んだようになったと19節に記されています。

使徒パウロと言う人は、もともとユダヤ教パリサイ派に属するユダヤ人であります。主イエス様の十字架と復活を体験した弟子たちが力強く福音を伝え、初代教会の働きを始めたころに、これを迫害する側の急先鋒でありました。そのパウロが、不思議な仕方で復活の主イエス様から召しを受け、主イエス様を信じるようになり、それだけでなく急転直下、今度は福音の伝道者として働くようになります。

それだけにユダヤ教の側からパウロに対して向けられる眼差しは特別に厳しいものでした。パウロが福音伝道に活躍すればするほど、ユダヤ人から特別に憎まれ、命を奪われるような迫害を受けることになりました。かつてのパウロが、パリサイ派のいわば青年将校としてキリスト教会迫害をしたのは、主として初代教会の活動地域であるエルサレムとその周辺のユダヤ地方でした。エルサレムから離れたアジア州は、パウロのことがまだ知られていない地方であったのでしょう。それゆえ彼は人々の前に堂々と出ることが出来たのだと思います。

けれども、パウロの経歴はどこに行ってもその地域のユダヤ人たちに次第に知られてゆくことになったと思われます。パウロは特にユダヤ人からひどい迫害を受けているような気がいたします。

今朝の説教題を「心を喜びで」としました。15節から18節のパウロの説教の中の言葉です。このリストラ伝道の記事の特色は、シナゴーグ、ユダヤ教の会堂ではなく、おそらく町の広場での説教が残されていることです。それはユダや人ではなく、旧約聖書を全く読んだことのない異邦人に向けられた説教です。日本で伝道する日本の教会が学ぶところの多い説教なのです。この説教については、後ほど詳しく学びます。

2,

パウロとバルナバは、キプロス島、ピシディア州のアンティオキア、イコニオンと伝道の旅を続けてリストラにやってきました。このリストラの町でパウロがユダヤ人から受けた迫害はパウロの生涯の中で最も厳しいものです。終わりのほうですが19節をお読みしますのでお聞きください。

「ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやってきて群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。」

ユダヤ人の死刑の方法である石打の刑に処せられ、意識を失い、倒れ、死んだようになり、人々から死んだと思われて、葬りのために町の外に引きずり出されたと言うのです。ですから、パウロはここで一度死んだといってよいような状況です。しかし、20節では、主イエス様を信じる仲間たちが周りを取り囲む中で、パウロは起き上がり、奇跡的に生き延びることが出来たのです。

石打の刑は、最大、人の頭ほどの石を次々と投げつけるという刑ですから、この刑を受けて生き延びるということはほとんどないのです。しかし、神様は、パウロを助け、「あなたはまだ働かなくてはならない」と言わんばかりに特別な仕方で助けて下さいました。

パウロはこの迫害を振り返ってテモテへの手紙2、3章11節でこう書いています。「しかしあなたは、わたしの教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐に倣い、アンティオキア、イコニオン、リストラでわたしに降りかかったような迫害と苦難をいといませんでした。そのような迫害にわたしは耐えました。そして主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです。」

「主がわたしを救い出してくださった」「主がわたしを救い出してくださった」

まさしくそう言うほかはないという仕方で、パウロは主から恵みを受け、助けられたのです。

神様を信じない、まさに日本がそうですが、神様の御存在とイエス・キリストの福音を伝えてゆくということは決して容易なことではありません。困難や苦難を伴うものであります。しかし私たちは、その中でもなお主イエス様の恵みと力を味わうのです。

リストラ伝道の成果について言えば、迫害ばかりであったのではありません。おそらく伝道は数週間におよぶ期間であったと思われますが、やはり主イエス様を信じる人が与えられたのです。20節に、石打の刑にあったパウロを弟子たちが助け出したことが書かれています。この20節の「弟子たち」という言葉には「彼の」という小さな言葉が加えられています。もちろん、すべてのキリスト者は主イエス様の弟子ですけれども、ここでは特にパウロの伝道によって主イエスの弟子になったという意味で彼の弟子たちと呼ばれているのだと思います。パウロたちは、最後はさらに東のデルべで伝道し、その後、母教会のシリア州のアンティオキア教会に戻るのですが、そのときに、もう一度リストラを訪ねて信徒たちを励ましています。

パウロの第二次伝道旅行に同行したテモテは、「テモテへの手紙2の1章5節」に、リストラ出身であり、その信仰はまず祖母ロイスと母ユニケに宿ったと記されています。テモテがパウロから洗礼を受けたというのではなく、おそらくエルサレムに関わりがあった母ユニケ、祖母ロイスを通したものであったかもしれませんが、しかし今朝のみ言葉に書かれているリストラ伝道の実りの一人であるということが出来るでしょう。どこよりもひどい迫害の中で神が与えて下さった貴重な伝道の成果であります。

3、

さてすさまじい迫害で幕を閉じることになる第一次リストラ伝道ですが、彼らがリストラで伝道を始めた時からすぐに迫害にあったというわけではありませんでした。それどころか、パウロとバルナバは、はじめは、誰にはばかることなく福音を語ることが出来ました。特に長くとどまったと3節に記されているイコニオンほど長い期間ではなかったと思いますが、おそらく数日間にわたって、シナゴーグや町の広場、あるいは支援者の家で伝道集会を行ったと思います。

先ほどお読みした今朝の聖書のみ言葉には、その中で起きた特別なことが記されています。生まれつき足の不自由な人が主イエス様を信じ、その結果、立ち上がることも歩くこともできなかった人が、パウロの言葉によって完全に癒されたのです。その人は、リストラの町のどこであったかは分かりませんけれども、いつも座っていました。このような人の常として町の門の側の人通りの多いところで物乞いをしていたのかもしれません。そのとき、その場所でパウロが福音を告げるのを聞いてイエス・キリストを信じたのであります。パウロは、彼に気が付き、彼をじっとも見つめました。そしてふさわしい信仰があるということを認めて、立ち上がるように命じたというのです。パウロは大声で言いました。「自分の足でまっすぐに立ちなさい」

わたしたちは、使徒言行録を続けて読んできましたので、この奇跡は、使徒言行録3章に記されていた12弟子の一人、12弟子の中のリーダーである、使徒ペトロの癒しの奇跡に似ていることを思い起こします。

それはエルサレム神殿の中で人通りの多い場所、美しの門でなされました。ペトロとヨハネが通りかかり、二人は聖霊に促されて彼を見つめ、そして「イエス・キリストの名によって立ち上がり歩きなさい」と命じたのです。そしてペトロとヨハネは右手を取って彼を助け起こし、彼はたちまち足が強くなって躍るように歩き始めました。順序としては、まず主イエス様の名による癒しがあり、そののちに信仰を持つようになったのです。

ところが、このリストラの町の男性の癒しの場合には、まずパウロが語る福音を聞いて信じ、そののちに癒しが起こされました。パウロが、単に「立ちなさい」とだけ命じ、イエス・キリストの名によってと加えていないのはそのためだと思われます。つまり彼はすでに主イエス様を信じているのです。パウロは、この人の信仰を見て、聖霊に促されて癒しの業を行いました。

しかし、このことが周囲の人々にとっては、イエス様抜きで、パウロ自身が癒しの力を持っているかのように見えた可能性があります。生まれつきに立つことも歩くこともできない人として町中の人が知っていた一人の人が、パウロの言葉によって癒されたことは、この町に偉大騒動をもたらしました。

人々は驚き、ギリシャ語ではなくその地方の言葉であるリカオニア語で「神々が人間の姿を取ってわたしたちのところにお降りになった」こう言って、この町の門の外にあるゼウスの神殿の祭司に知らせに走りました。パウロたちは、この地方の言葉をわかるはずもなく、何が起きたのか全く分からなかったと思います。

ギリシャ神話の神々の中の中心的な神であるゼウスと神の言葉を語る神ヘルメスが、来てくださったといって、パウロはヘルメスの化身、パウロよりも貫禄があったとみられたバルナバはヘルメスを導く主神ゼウスの化身だとされました。ゼウス神殿の祭司が花輪で飾った雄牛数頭を引いてきて、二人にいけにえを捧げる段になって、やっと事態を飲み込むことが出来ました。

この時のパウロとバルナバの驚きと困惑は14節に明らかにされています。14節をお読みします。

「使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中に飛び込んで行き、叫んで言った。「みなさん、なぜこんなことをするのですか。わたしたちもあなた方と同じ人間にすぎません。」

服を引き裂くことは驚きや嘆きをあらわすユダヤ人の風習で、文字通り、来ている服をエリの部分から下着ごと両側に引っ張って、少なくとも30センチくらいは引き裂くのだそうです。

そして目の前にいる人々にもう一度生きた神がおられること、この神に立ち返るように説教をし始めました。神はこの世界の創造者、造り主であり、天地の美しい有様、そこに人が生きている恵みを語って、わたしたちの心を喜びで満たしてくださっているではないかと語ったのです。

聖書の神は、天地万物をおつくりになり、これを保ち、治められる方です。神は、人間を含めて、造られたものであるこの世界のすべてのものの神であります。神様ではないものを神様として拝んだり、礼拝したりすることは、人間にとって最も基本的な罪です。十戒の第一戒、「あなたはわたしをおいてほかに神があってはならない」第二戒「あなたは。それにひれ伏し拝み仕えるために、いかなる像も作ってはならない」

しかし、十戒を受けた旧約聖書のイスラエルの民が最初に犯した罪は、モーセの帰りが遅いので、自分たちで金の子牛を造って、この子牛を拝み、飲めや歌えの大宴会をしたことでした。神以外のものを神とすること、とりわけ人間を神とすることを神は嫌われこれに怒り、決してそのような礼拝を受け入れることはありません。

根っからのユダヤ人であり生きておられる神への信仰に生きてきたバルナバ、そしてパウロにとって、自分たち自らが礼拝されることなどは、身の毛もよだつほどの恐ろしいことであったと思われます。

生きておられる造り主なる方、見えない神に対して、人間が金や銀、木などを細工して形ある神として作ったものを偶像と呼びます。これを礼拝することが偶像礼拝です。そして神でないものを神としてこれに仕え、従うことのすべてを偶像礼拝と呼びます。お金や名誉やこの世的な欲望を人生の目的とすることもまた偶像礼拝と言うことが出来ます。これらを離れて、本当の神、生きておられる真の神に立ち返ること、これを回心と呼びます。生きておられる真実の神がご自身の証しとしてわたしたちに与えて下さったお方こそ、イエス・キリストにほかなりません。パウロとバルナバは、このイエス・キリストを生きておられる神のお働き、その愛の証しとして宣べ伝えているのです。わたしたちの目が罪によって曇らされていなければ、だれでもこの世界の美しさや秩序、人間がその中で生きていることを見れば、これを通して神を知ることが出来るのです。この世界に季節があり、雨が降り、美しい木々や花、そして作物の実りが与えられ、心に喜びを与えて下さることを神に感謝できるはずです。

しかし、このリストラの人々のように、生きている神ではなく、人間を神とすることは、人が霊的に盲目であり、罪の内に生きていることを証明しています。パウロとバルナバが、福音、つまりイエス・キリストによる赦しと命を伝えても、リストラの人々は、これを受け入れず、かえって、耳をふさぐのでした。

そこに、かつてパウロを迫害したアンティオキアやイコニオンのユダヤ人が百キロ以上の道のりを追跡してきて、町の人々を抱き込み、味方につけ、そして彼らの計画通り、石打ちによって殺そうとしたのです。

礼拝の対象にして頂点まで祭り上げたすぐあと、真っ逆さまに突き落として、今度は、迫害の対象として石を投げつける、それは、変わることのない神様を知らない悲劇出ると思います。宗教改革者のカルヴァンは、これは人間の愚かさ、はかなさを示していると言いました。およそ人間ほど信用できないものはないのです。

しかし、パウロはバルナバ、決してめげることなく、翌日、隣の町デルべに向かいました。神がお赦しになる限り、イエス・キリストを宣べ伝えるためです。

日本と言う異教の地、神でない者、造られたものを神として拝む国に生きるわたしたちもまた、忍耐強く、神様に励まされて伝道を続けてゆきたいと願います。祈ります。

天の父なる神さま、あなたは全てをお造りになり、今に至るまで人間の罪にも関わらず、これを美しく保ってくださいます。本来であれば、わたしたちは神の恵みを悟り、信じるはずであるにも関わらず、罪のために、却って、被造物、あなたが作られたものを神として礼拝する愚かなものです。どうか、わたしあっちを日々に立ち帰らせてください。罪を解決される御子イエス様を信じることが出来ますように。まだあなたを信じていない人々の上に聖霊を送って、真の生ける神様を信じることが出来ように導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン。