聖書の言葉 使徒言行録 13章42節~52節 メッセージ 2025年7月6日(日)熊本伝道所礼拝説教 使徒言行録13章42節~52節「異邦人の光キリスト」 1、 御子イエス・キリストの恵みと平和とが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。 わたくしがこの熊本教会に牧師として赴任しましたのは2022年3月末でした。はじめはヨハネによる福音書1章1節から続けて御言葉を語り、2年3カ月かけて終えました。そして今から約1年前になりますが、昨年の6月16日から使徒言行録の御言葉を説教しています。今朝は13章42節から51節までの御言葉に心を向けます。使徒言行録は28章までありますので、今朝は、ちょうどその半分、14章の直前までのところをご一緒に読み終えることになります。 使徒言行録は、復活した主イエス様が天に帰って行かれる昇天、天に昇って行く場面から始まります。そして主イエス様と入れ替わるように降られた聖霊の神様を語るペンテコステ、そして、この時から弟子たちは、「復活の主イエス様こそが旧約聖書が預言していたメシア、救い主だ」と宣べ伝え始めます。多くのユダヤ人たちが主イエス・キリストの名による洗礼を受けて教会が立てられます。前半は主としてユダヤ人伝道のことが語られています。教会は、熱心に主の業を行い伝道しますが、それにつれて従来のユダヤ教とそれに同調するヘロデ王の側から激しい迫害を受けるようになります。8章のステファノの殉教が、その象徴的な出来事と言えるでしょう。このことをきっかけに、これまではエルサレムを中心にユダヤ人に向けて福音宣教の働きをしてきた12使徒と仲間たちは、主のお導きの中で、いよいよ異邦人伝道へと乗り出しています。 使徒言行録の後半は、問いますと、それは迫害によって散らされていった兄弟たちによって始まる世界伝道の物語です。まず伏線として、9章で教会迫害者のサウロ、後のパウロが復活の主イエス様によって召し出されます。10章から12章ではエルサレム教会の指導者ペトロが強烈な幻とローマの100人隊長コルネリウス伝道によって異邦人伝道に目覚めます。そして、エルサレムの初代教会全体にこの経験が共有されるようになります。このような準備期間を経てようやく13章から本格的な世界宣教がスタートするのです。 さて、先週の御言葉を覚えておられるでしょうか。サウロとバルナバは、第一回宣教旅行に送り出されました。その最初の土地であるキプロス島で、彼らは偽預言者バルイエスと闘い、その島の地方総督セルギウス・パウルスを導きました。その後、島を離れ、海を越えて200キロ北側のベルゲと言う港町に上陸します。更に北上してピシディア州のアンテオキアの町に入りました。今朝の御言葉は、このアンテオキア伝道の2回目です。この街は、現在のトルコ共和国の西側半分を占めているアナトリア高原の大都市で、現在でもローマ時代の遺跡がたくさん残っているそうです。 今朝の説教題は「異邦人の光キリスト」といたしました。この街には離散ユダヤ人が多く住み、ユダヤ教の会堂シナゴーグもありました。もちろん、その土地に住む他国の人々がいます。ユダヤ教のシナゴーグにはユダヤ人だけでなく、その土地の人々、ユダヤ人以外の人々も多く集まっていたようです。イエス・キリストは、ユダヤ人以外の世界の民、異邦人の光でもあられるのです。 2, さて、先ほどお読みしましたみ言葉の中ほどのところ、パウロは説教の中で旧約聖書イザヤ書49章6節の御言葉が引用しています。47節です。「わたしはあなたを異邦人の光と定めた。あなたが地の果てまで救いをもたらすために」。この聖句の元の聖句であるイザヤ書49章6節を新共同聖書からお読みします。「わたしはあなたを国々の光とし、私の救いを地の果てまでもたらすものとする。」 少し文言が違っていますね。旧約聖書はヘブライ語で書かれていますが、一方、当時のパウロが使っていたのはギリシャ語に訳された旧約聖書、いわゆる70人訳聖書です。実はギリシャ語訳イザヤ書の「国々の光」と、使徒言行録の「異邦人の光」はエスノーンという同じ言葉です。けれども日本語訳聖書では、イザヤ書では預言者イザヤの意図を汲み、使徒言行録では、パウロの意図を汲んで「国々の光」、また「異邦人の光」と訳しました。 異邦人と言う言葉を聞いて、わたしたちがすぐに思い出すのは、今から46年前の1979年に久保田早紀が歌ったヒット曲のことでしょう。久保田早紀さんは、後にクリスチャンになり、現在は福音歌手久米小百合として活躍しておられます。あるいは、ノーベル賞作家アルベルトカミュの代表作「異邦人」を思い浮かべる方もおられると思います。ヒット曲のほうでは異国の地で戸惑いながら旅をする日本人の思い、カミュの方では、自分が周りの人々とは違うという疎外感を表現しています。 聖書において異邦人と訳されている元のギリシャ語はエスノス、です。もともとは民、民族という意味です。複数形で諸民族、転じてユダヤ人以外の人々全般をも指します。異教徒という響きがあります。 当時のユダヤ人からすると、他国の人々、あるいは異邦人は聖書の神を知らない人々であり、彼らは旧約聖書の教えにより宗教的に汚れた人々、決して交際してならない人々でありました。ところが、神は聖霊を通して、使徒たちに、その異邦人たちに福音を伝えなさいと命じられたのであります。そしてそのことは、実は旧約聖書の預言者たちが神によって告げていたことだとパウロは語ったのです。 イザヤ書49章は、預言者イザヤが、やがて来るべき救い主に対する神のお告げを語っています。「あなたは、国々の、つまり世界の諸民族すべての光となる」と告げたのです。それがパウロによって引用されると、今度は、光となるのは、わたしたちであり、あなた方、つまり主イエス様の弟子となったもの全員への言葉として告げられています。教会が、異邦人に向かって救い主イエス・キリストを宣べ伝えることは神様の命令なのです。 預言者イザヤは、来るべき救い主は国々の、つまり全世界の民の光となると告げていました。旧約聖書はユダヤ人だけが神の民だと言っているように思われている中で、これは驚くべき言葉ではないでしょうか。救い主は世界の全ての民に対しても救い主なのです。しかし、光となると告げられたお方、その光であるお方が、使徒パウロを用いて、人々に語りかけます。あなたたちも、異邦人の光となる、福音を告げ知らせるものとなると告げるのです。教会が世の人々に福音を告げる、よき知らせを宣べ伝える、それは世の人々に対する光としての働きなのです。 わたしたちは主イエス様御自身の言葉を思い起こさなければならないと思います。マタイによる福音書5章14節にこうあります。主イエス様の言葉です。「あなたがたは世の光である」。 主イエス様はまた、ヨハネによる福音書8章12節においても言っておられます。「わたしは世の光である。わたしに従う者は、暗闇の中を歩かず命の光を持つ」。さきほどのマタイによる福音書5章15節は、こう続きます。「ともし火を灯して、マスの下に置くものはいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのようにあなたがたの光を人々の前に輝かせなさい」。 わたしは世の光であると言われた、そのお方、主イエス様が、あなたがたも世の光である、そのともし火を隠しておくことなく、燭台の上において、家の中すべてを輝かせなさいとわたしたちに命じておられるのです。 3 さてピシディア州のアンティオキアでの使徒パウロの説教の続きに耳を傾けましょう。今朝の御言葉は、42節から始まっています。「バルナバとパウロが会堂を出る時、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようと頼んだ」 バルナバとパウロの話は、これまで聞いたことのない印象深い話、もっと聞いてみたいと聴き手に思わせるような話でありました。「同じこと」と言うのは、もう一度、同じ話を繰り返せと言うことでは、もちろんありません。主題についてのことです。異邦人の光である方、イエス・キリストの話をもっと聞きたいと言うことだと思うのです。彼ら自身が聴きたいと言うだけでなく、これはほかの人々にも聞いてもらいたい、聞かせたい話だと思ったからでしょう。ですから、次際に次の安息日、土曜日の礼拝のときが来ますと、ほとんど町中の人々が集まってきたのです。 わたくしは、毎週、この熊本教会で説教しますが、新しい方が来られた時に一番気になることは、また来週も来てくださるかどうかということです。実際に、次の週も来てくださって、更に、友達を誘って一緒に来られたとしたら、これはもう嬉しくなってしまいます。もちろん、教会が持っている魅力、力は、説教だけではありません。その日に集う人々の全員によって表されている教会の姿、信仰、恵み、その全体が福音説教の力になるのだと思います。わたしたちは主イエス様が、そこにおられるということが分かるような礼拝を捧げたいと思います。 43節には、興味深いことが記されています。集会が終わってからも、人々はパウロとバルナバを帰らせようとせず、一緒についてきて語り合ったというのです。パウロとバルナバは、彼らに勧めました。「神の恵みのもとに生き続けるように」。主イエス様を知った今日から、その神の恵みにとどまるようにと勧めたのです。 さて次の安息日、大勢の人がシナゴーグにやってきました。これまで一度も来たことがないような人もたくさんいます。前の週には、もう一度同じ話を聞きたいと言っていたユダヤ人に変化が起きます。この大勢の人を見た時に、彼らの心にねたみが生じたというのです。自分たちが捧げていた礼拝に見たことのないような沢山の人が集まったこと自体が妬みの原因だったということではないように思います。そうではなく、パウロとバルナバの説教が、そもそも異邦人に向けられていることが分かってきたということだと思います。 前の週の説教の38節39節の言葉が理解の鍵になります。「だから兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです」 パウロバルナバは、この日も同じように語ったことでしょう。あなた方ユダヤ人は、モーセ律法を一生懸命に守っているが、そのことでは決して救われない、義とされない、そうではなく、この方、つまり十字架に死んで3日目にお蘇りになった神の独り子である方、イエス・キリストがあなたがたを救う。パウロとバルナバが語っている言葉自体に、ねたみを覚えたということです。大勢の異邦人が集まり、異邦人が主役となったみことばが語られている、そして自分たちが大切にしてきた。自分たちは律法を守っているという誇り、プライドが打ちこわされることに耐えられなかったのです。 4, イエス様を救い主、生ける神と信じ崇めることは、これまでの自分の生き方に対する誇りやプライドを捨てることと結びついています。まじめな人ほど、このカルチャーショックは大きいと思います。自分が打ち砕かれる、そして救い主の前に心を低くして、悔い改める、そしてあなたに従いますと告白する、それが神様がわたしたちに求めておられることです。 48節に異邦人たちは喜び、神さまの御心の内に定められていた人は全員が信じたと記されています。 しかしパウロとバルナバは、追われるようにしてこの街を後にしました。ユダヤ人たち、つまりシナゴーグの主だった人々が、貴婦人たちや街の有力者と一緒になって二人を迫害したからです。 51節にこうあります。「それで二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。」 足の塵を払うことは、マタイによる福音書10章14節で、主イエス様が12弟子に向かって命じたことでした。マタイによる福音書10章12節から14節をお読みしますのでお聞きください。「その家に入ったら、平和があるようにと挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければあなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もしふさわしくなければ、その平和はあなたがたに帰ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行く時、足の塵を払い落しなさい。」 足の塵を払うことは、もはや自分はこの人たちとは関係がないと言うことを表す行為です。主イエス様は、12弟子を福音説教に送り出すときにこの言葉を語られました。 異邦人の光となること、神様を知らない全世界の人々に、全世界の人々の光であるお方、主イエス・キリストを信じるようにと招くことが教会に与えられた使命です。同時に、人々が光であるお方、主イエス様を受け入れるかどうかは、神様のお決めになることであります。無理矢理に信じさせることは出来ないのです。残念ながら、受け入れない人々もいるのですが、主イエス様は、その時には、足の塵を払うと言う仕方で、踏ん切りをつけて、また次の町へ向かう力を与えてくださるのです。 パウロとバルナバは、イコニオンへと向かいました。イコニオンは、アンティオキアから東に120キロほどの町で、現在はコンヤと呼ばれるトルコの都市です。パウロとバルナバの説教旅行は更に続きます。お祈りを致します。 祈り 天におられる父なる神、主イエス・キリストの父なる神、あなたは主イエス様を宣べ伝える使命を弟子たちに、また教会に与えてくださっています、異邦人の光であるお方を宣べ伝えることが、世の光である教会の使命でありますから、どうか、どんな時もあなたを信じて福音を宣べ伝えさせてください。主の名によって祈ります、アーメン。
2025年7月6日(日)熊本伝道所礼拝説教
使徒言行録13章42節~52節「異邦人の光キリスト」
1、
御子イエス・キリストの恵みと平和とが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。
わたくしがこの熊本教会に牧師として赴任しましたのは2022年3月末でした。はじめはヨハネによる福音書1章1節から続けて御言葉を語り、2年3カ月かけて終えました。そして今から約1年前になりますが、昨年の6月16日から使徒言行録の御言葉を説教しています。今朝は13章42節から51節までの御言葉に心を向けます。使徒言行録は28章までありますので、今朝は、ちょうどその半分、14章の直前までのところをご一緒に読み終えることになります。
使徒言行録は、復活した主イエス様が天に帰って行かれる昇天、天に昇って行く場面から始まります。そして主イエス様と入れ替わるように降られた聖霊の神様を語るペンテコステ、そして、この時から弟子たちは、「復活の主イエス様こそが旧約聖書が預言していたメシア、救い主だ」と宣べ伝え始めます。多くのユダヤ人たちが主イエス・キリストの名による洗礼を受けて教会が立てられます。前半は主としてユダヤ人伝道のことが語られています。教会は、熱心に主の業を行い伝道しますが、それにつれて従来のユダヤ教とそれに同調するヘロデ王の側から激しい迫害を受けるようになります。8章のステファノの殉教が、その象徴的な出来事と言えるでしょう。このことをきっかけに、これまではエルサレムを中心にユダヤ人に向けて福音宣教の働きをしてきた12使徒と仲間たちは、主のお導きの中で、いよいよ異邦人伝道へと乗り出しています。
使徒言行録の後半は、問いますと、それは迫害によって散らされていった兄弟たちによって始まる世界伝道の物語です。まず伏線として、9章で教会迫害者のサウロ、後のパウロが復活の主イエス様によって召し出されます。10章から12章ではエルサレム教会の指導者ペトロが強烈な幻とローマの100人隊長コルネリウス伝道によって異邦人伝道に目覚めます。そして、エルサレムの初代教会全体にこの経験が共有されるようになります。このような準備期間を経てようやく13章から本格的な世界宣教がスタートするのです。
さて、先週の御言葉を覚えておられるでしょうか。サウロとバルナバは、第一回宣教旅行に送り出されました。その最初の土地であるキプロス島で、彼らは偽預言者バルイエスと闘い、その島の地方総督セルギウス・パウルスを導きました。その後、島を離れ、海を越えて200キロ北側のベルゲと言う港町に上陸します。更に北上してピシディア州のアンテオキアの町に入りました。今朝の御言葉は、このアンテオキア伝道の2回目です。この街は、現在のトルコ共和国の西側半分を占めているアナトリア高原の大都市で、現在でもローマ時代の遺跡がたくさん残っているそうです。
今朝の説教題は「異邦人の光キリスト」といたしました。この街には離散ユダヤ人が多く住み、ユダヤ教の会堂シナゴーグもありました。もちろん、その土地に住む他国の人々がいます。ユダヤ教のシナゴーグにはユダヤ人だけでなく、その土地の人々、ユダヤ人以外の人々も多く集まっていたようです。イエス・キリストは、ユダヤ人以外の世界の民、異邦人の光でもあられるのです。
2,
さて、先ほどお読みしましたみ言葉の中ほどのところ、パウロは説教の中で旧約聖書イザヤ書49章6節の御言葉が引用しています。47節です。「わたしはあなたを異邦人の光と定めた。あなたが地の果てまで救いをもたらすために」。この聖句の元の聖句であるイザヤ書49章6節を新共同聖書からお読みします。「わたしはあなたを国々の光とし、私の救いを地の果てまでもたらすものとする。」
少し文言が違っていますね。旧約聖書はヘブライ語で書かれていますが、一方、当時のパウロが使っていたのはギリシャ語に訳された旧約聖書、いわゆる70人訳聖書です。実はギリシャ語訳イザヤ書の「国々の光」と、使徒言行録の「異邦人の光」はエスノーンという同じ言葉です。けれども日本語訳聖書では、イザヤ書では預言者イザヤの意図を汲み、使徒言行録では、パウロの意図を汲んで「国々の光」、また「異邦人の光」と訳しました。
異邦人と言う言葉を聞いて、わたしたちがすぐに思い出すのは、今から46年前の1979年に久保田早紀が歌ったヒット曲のことでしょう。久保田早紀さんは、後にクリスチャンになり、現在は福音歌手久米小百合として活躍しておられます。あるいは、ノーベル賞作家アルベルトカミュの代表作「異邦人」を思い浮かべる方もおられると思います。ヒット曲のほうでは異国の地で戸惑いながら旅をする日本人の思い、カミュの方では、自分が周りの人々とは違うという疎外感を表現しています。
聖書において異邦人と訳されている元のギリシャ語はエスノス、です。もともとは民、民族という意味です。複数形で諸民族、転じてユダヤ人以外の人々全般をも指します。異教徒という響きがあります。
当時のユダヤ人からすると、他国の人々、あるいは異邦人は聖書の神を知らない人々であり、彼らは旧約聖書の教えにより宗教的に汚れた人々、決して交際してならない人々でありました。ところが、神は聖霊を通して、使徒たちに、その異邦人たちに福音を伝えなさいと命じられたのであります。そしてそのことは、実は旧約聖書の預言者たちが神によって告げていたことだとパウロは語ったのです。
イザヤ書49章は、預言者イザヤが、やがて来るべき救い主に対する神のお告げを語っています。「あなたは、国々の、つまり世界の諸民族すべての光となる」と告げたのです。それがパウロによって引用されると、今度は、光となるのは、わたしたちであり、あなた方、つまり主イエス様の弟子となったもの全員への言葉として告げられています。教会が、異邦人に向かって救い主イエス・キリストを宣べ伝えることは神様の命令なのです。
預言者イザヤは、来るべき救い主は国々の、つまり全世界の民の光となると告げていました。旧約聖書はユダヤ人だけが神の民だと言っているように思われている中で、これは驚くべき言葉ではないでしょうか。救い主は世界の全ての民に対しても救い主なのです。しかし、光となると告げられたお方、その光であるお方が、使徒パウロを用いて、人々に語りかけます。あなたたちも、異邦人の光となる、福音を告げ知らせるものとなると告げるのです。教会が世の人々に福音を告げる、よき知らせを宣べ伝える、それは世の人々に対する光としての働きなのです。
わたしたちは主イエス様御自身の言葉を思い起こさなければならないと思います。マタイによる福音書5章14節にこうあります。主イエス様の言葉です。「あなたがたは世の光である」。
主イエス様はまた、ヨハネによる福音書8章12節においても言っておられます。「わたしは世の光である。わたしに従う者は、暗闇の中を歩かず命の光を持つ」。さきほどのマタイによる福音書5章15節は、こう続きます。「ともし火を灯して、マスの下に置くものはいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのようにあなたがたの光を人々の前に輝かせなさい」。
わたしは世の光であると言われた、そのお方、主イエス様が、あなたがたも世の光である、そのともし火を隠しておくことなく、燭台の上において、家の中すべてを輝かせなさいとわたしたちに命じておられるのです。
3
さてピシディア州のアンティオキアでの使徒パウロの説教の続きに耳を傾けましょう。今朝の御言葉は、42節から始まっています。「バルナバとパウロが会堂を出る時、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようと頼んだ」
バルナバとパウロの話は、これまで聞いたことのない印象深い話、もっと聞いてみたいと聴き手に思わせるような話でありました。「同じこと」と言うのは、もう一度、同じ話を繰り返せと言うことでは、もちろんありません。主題についてのことです。異邦人の光である方、イエス・キリストの話をもっと聞きたいと言うことだと思うのです。彼ら自身が聴きたいと言うだけでなく、これはほかの人々にも聞いてもらいたい、聞かせたい話だと思ったからでしょう。ですから、次際に次の安息日、土曜日の礼拝のときが来ますと、ほとんど町中の人々が集まってきたのです。
わたくしは、毎週、この熊本教会で説教しますが、新しい方が来られた時に一番気になることは、また来週も来てくださるかどうかということです。実際に、次の週も来てくださって、更に、友達を誘って一緒に来られたとしたら、これはもう嬉しくなってしまいます。もちろん、教会が持っている魅力、力は、説教だけではありません。その日に集う人々の全員によって表されている教会の姿、信仰、恵み、その全体が福音説教の力になるのだと思います。わたしたちは主イエス様が、そこにおられるということが分かるような礼拝を捧げたいと思います。
43節には、興味深いことが記されています。集会が終わってからも、人々はパウロとバルナバを帰らせようとせず、一緒についてきて語り合ったというのです。パウロとバルナバは、彼らに勧めました。「神の恵みのもとに生き続けるように」。主イエス様を知った今日から、その神の恵みにとどまるようにと勧めたのです。
さて次の安息日、大勢の人がシナゴーグにやってきました。これまで一度も来たことがないような人もたくさんいます。前の週には、もう一度同じ話を聞きたいと言っていたユダヤ人に変化が起きます。この大勢の人を見た時に、彼らの心にねたみが生じたというのです。自分たちが捧げていた礼拝に見たことのないような沢山の人が集まったこと自体が妬みの原因だったということではないように思います。そうではなく、パウロとバルナバの説教が、そもそも異邦人に向けられていることが分かってきたということだと思います。
前の週の説教の38節39節の言葉が理解の鍵になります。「だから兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです」
パウロバルナバは、この日も同じように語ったことでしょう。あなた方ユダヤ人は、モーセ律法を一生懸命に守っているが、そのことでは決して救われない、義とされない、そうではなく、この方、つまり十字架に死んで3日目にお蘇りになった神の独り子である方、イエス・キリストがあなたがたを救う。パウロとバルナバが語っている言葉自体に、ねたみを覚えたということです。大勢の異邦人が集まり、異邦人が主役となったみことばが語られている、そして自分たちが大切にしてきた。自分たちは律法を守っているという誇り、プライドが打ちこわされることに耐えられなかったのです。
4,
イエス様を救い主、生ける神と信じ崇めることは、これまでの自分の生き方に対する誇りやプライドを捨てることと結びついています。まじめな人ほど、このカルチャーショックは大きいと思います。自分が打ち砕かれる、そして救い主の前に心を低くして、悔い改める、そしてあなたに従いますと告白する、それが神様がわたしたちに求めておられることです。
48節に異邦人たちは喜び、神さまの御心の内に定められていた人は全員が信じたと記されています。
しかしパウロとバルナバは、追われるようにしてこの街を後にしました。ユダヤ人たち、つまりシナゴーグの主だった人々が、貴婦人たちや街の有力者と一緒になって二人を迫害したからです。
51節にこうあります。「それで二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。」
足の塵を払うことは、マタイによる福音書10章14節で、主イエス様が12弟子に向かって命じたことでした。マタイによる福音書10章12節から14節をお読みしますのでお聞きください。「その家に入ったら、平和があるようにと挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければあなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もしふさわしくなければ、その平和はあなたがたに帰ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行く時、足の塵を払い落しなさい。」
足の塵を払うことは、もはや自分はこの人たちとは関係がないと言うことを表す行為です。主イエス様は、12弟子を福音説教に送り出すときにこの言葉を語られました。
異邦人の光となること、神様を知らない全世界の人々に、全世界の人々の光であるお方、主イエス・キリストを信じるようにと招くことが教会に与えられた使命です。同時に、人々が光であるお方、主イエス様を受け入れるかどうかは、神様のお決めになることであります。無理矢理に信じさせることは出来ないのです。残念ながら、受け入れない人々もいるのですが、主イエス様は、その時には、足の塵を払うと言う仕方で、踏ん切りをつけて、また次の町へ向かう力を与えてくださるのです。
パウロとバルナバは、イコニオンへと向かいました。イコニオンは、アンティオキアから東に120キロほどの町で、現在はコンヤと呼ばれるトルコの都市です。パウロとバルナバの説教旅行は更に続きます。お祈りを致します。
祈り
天におられる父なる神、主イエス・キリストの父なる神、あなたは主イエス様を宣べ伝える使命を弟子たちに、また教会に与えてくださっています、異邦人の光であるお方を宣べ伝えることが、世の光である教会の使命でありますから、どうか、どんな時もあなたを信じて福音を宣べ伝えさせてください。主の名によって祈ります、アーメン。