聖書の言葉 ガラテヤの信徒への手紙 5章16節~26節 メッセージ 2025年6月8日(日)熊本伝道所礼拝説教(ペンテコステ) ガラテヤの信徒への手紙5章16節~26節「聖霊に導かれる生活」 1、 御子イエス・キリストの恵みと平和とが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。 今朝、わたしたちはペンテコステを記念する礼拝を捧げています。ペンテコステは、クリスマスやイースターと並ぶ教会の大切な記念日です。けれども、世の中ではクリスマスやイースターほど、知られていないように思われます。以前奉仕していた教会で、前の通路を掃除していた時のことです。ペンテコステ礼拝の前の時でした。教会の看板に、説教題の横にペンテコステ礼拝と書いてあったのですが、通りかかった方が近寄ってきまして、尋ねられました。「このペンテコステっていうのは何ですか」 わたしは少しとまぢしたが、すぐに、こう答えました。 「これは日本語では聖霊降臨日といまして、教会に神様の霊、霊である神様が来てくださった日です」。その方は、ああそうですかと言って去って行かれましたが、おそらく何のことか全くわからなかったと思います。 まずペンテコステと言う言葉の響きが、日本語離れしていて、まったく訳が分からないということがあるでしょう。五十の祭りと直訳しても、同じことです。聖霊が教会に来てくださった日だと教えられても、これは理解しにくいと思います。ペンコステを知るには、やはり聖書を読まなければなりません。 熊本教会では、昨年6月から使徒言行録を読み始めて、ちょうど一年間が経ちました。最初のほうの使徒言行録2章にペンテコステの出来事が記されています。 主イエス様がイースターの日に復活し、40日間弟子たちと過ごし、そして天に帰って行かれます。主イエス様の昇天の後、弟子たちは主イエス様の命令通りにエルサレムを離れないで祈って待っていたのです。エルサレムの近くにあるいつもの家の二階です。9日間祈って、10日目、ユダヤ教の五旬祭、ペンテコステの祭りの日に、聖霊降臨と言う恵みの出来事が教会に与えられたのです。 突然の風のような音が部屋中に響いてきて、弟子たち一人ひとりの上に炎のような舌が分かれ分かれに、とどまり、そして、彼らが神の恵みの言葉を、語りだしたのです。彼らは家から出てエルサレムの市内に繰り出し、人々に向かって諸国の言葉で語ったというのです。そしてペトロが立って主イエス様こそ救い主であること、我々ユダヤ人は今こそ悔い改めて主イエス様を信じ神に立ちかえるようにと説教したのです。3000人の人びとが洗礼を受け、現在にまでつながるキリスト教会が活動を始めた、これがペンテコステの出来事です。 ペンテコステは、一般の人にとっては、クリスマスやイースターに比べるとやはり教会の内部のお祭り、記念日と言う印象が大きいことは確かです。けれども、この日は教会に取って大切な日であります。 クリスマに主イエス様がお生まれになり、そして十字架の上で死なれた主イエス様がイースターにお蘇りになり天に帰って行かれました。この転移おられる蘇りの主イエス様と天の父なる神様が、聖霊を送ってくださった日なのです。この時から聖霊は休みなく世界と教会とに注がれています。まずは、この世界の人々が主イエス様を信じて救われるようにしてくださる、この大切な救いの最後の段階を担ってくださるお方が聖霊の神様です。もちろん、この世界に光が存在するように聖霊の神様は、すべてのことに働いておられますが、集中的に、光がレンズで集められるようにして、救いの御業を行ってくださいます。その出来事がペンテコステから始まったのであります。ペンテコステが教会の誕生日と呼ばれる理由もそこにあります。 聖霊の神様が働かれるからこそ、神様を知らずに生きている人が悔い改めて神を信じます。イエス・キリストの救いを信じるようになります。そして信じた人の生活もまた、聖霊の神様によって導かれるのであります。 ハイデルベルク信仰問答には使徒信条の解説があります。使徒信条には「我は聖霊を信ず」という文言があります。そしてこの「我は聖霊を信じる」について次のように問答します。ハイデルベルク信仰問答問53、「聖霊についてあなたは何を信じますか」、答「第一にこの方が御父や御子と同様に永遠の神であられるということ、第二にこの方はわたしにあたえられたお方であり、真の信仰によって、キリストとそのすべての恵みにわたしたちを与からせ、わたしを慰め、永遠に私と共にいてくださるということです」 また、こどもと大人のカテキズムの第35問にはこうあります。 「聖霊なる神様は、どのようにしてわたしたちに救いをあたえてくださいますか」、答「聖霊なる神様は、わたしたちのうちに働いて、罪びとと認めさせ、悔い改めて、イエス様を信じるようにしてくださいます。その信仰を通してわたしたちを主イエス様に結び合わせて救いを与えてくださいます」 ペンテコステの日に、教会に聖霊の神様が与えられましたから、教会が伝道して人々が主イエス様を信じるようになるということが起こります。そして教会に連なっている人は聖霊によって主イエス様と結ばれているからこそ、その生活も主イエス様が期待しておられるように歩むようになる、そのすべてにおいて聖霊の神様のお働きがあるのです。 2 今朝のみ言葉は、ペンテコステの日の出来事を記したものではありません、そうではなくてペンテコステに降った聖霊が今も私たちを導かれることを告げている、そういうみ言葉です。救いを起こしてくださる聖霊が続いて働かれる、聖霊に導かれて歩むわたしたちの人生、信仰の生活を語るものです。5章16節にこう記されています。 「わたしが言いたいのはこういうことです。霊の導きによって歩みなさい。そうすれば決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」 ガラテヤの信徒への手紙と言いますのは、初代教会のリーダーでありまた伝道者であったパウロ、使徒パウロが、ガラテヤという町にある教会に宛てて書いた手紙です。パウロがこの手紙を書いたのには理由がありました。ガラテヤの教会は、当時、異邦人が主イエス様を信じて信仰に入ったならば、ユダヤ人と同じように、割礼をはじめとする旧約聖書の律法の定めを重んじるべきである。そう主張するユダヤ主義キリスト者と呼ばれる人が入り込んで教理的な混乱が生じていたのです。パウロが繰り返し告げている信仰義認、イエスキリストの恵みによる救いと言う教えが脅かされそうになっていたのです。特に、エルサレムからやってきたと思われるユダヤ主義たちがこだわったのが割礼でした。信者は旧約聖書の律法を守るべきである、洗礼を受ける人は割礼をも授けられるべきであると要求したのです。しかし、パウロはこれに断固反対しました。5章2節3節で、こう書きます。 「ここでわたしパウロはこう断言します。もし割礼を受けるならあなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」3節「割礼を受ける人すべてにもう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです」 割礼は、確かに神様がアブラハム、またモーセを通して神の民のしるしとして命じたものです。けれども、それは救いを受けるための条件ではなかったのです。契約の民、選びの民とされたことのしるしであります。割礼は、神の恵みに対する人間の側の応答でありました。十戒の序文に、あなた方を救い出した神であるわたしがこう命じる、そのように書かれている通りなのです。 主イエス・キリストがおいでになって、神の選びの民は、ユダヤ人だけでなく、すべての民へと門、間口が広げられました。しかし、そこでも神の民、救いの民となるのは、誰でも良いというのではなく、イエス・キリストを信じるものだけです。そのしるしとして割礼ではなく、洗礼が授けられます。 人間の側の良い行い、律法の厳守が先にあって、そのことを条件に救いが与えられのではないのです。もしもそうであるなら、その救いは神様の恵みではなく、人間の側の努力や修行に対する報酬となってしまいます。そうではなく、罪の赦しは、主イエス様の十字架の贖いによります。主イエス様がご自分の命によって買い取ってくださった恵みの出来事なのです。 なぜわたしたちには罪の赦しが必要なのでしょうか。それは人間の罪がそれほど深いからです。そもそも生まれながらの人間は、その心の底から神様に喜ばれる生き方ができるのでしょうか。できないのです。聖書が示すのは、神様から見た人間の姿、その人間の罪深さです。人間の側には、生まれながらの清さと言うものは、観念、願いとしてはあるでしょう。しかし、現実としての人間に備わっているものではありません。かえって、生まれながらの人間、ここでは肉と言う言葉で起きかえられていますが、心も体も含めて生まれながらの人間前提を指しています。そこにあるのは、自分を絶対的なものとして、あるいは神として、他の人を蔑み、あたかも人ではなく道具や手段のように考える罪の姿なのです。神を愛することも人を愛することも本当にはできない、そういう人間の厳しい現実は神様の前には明らかなのです。 それに対して、わたしたちが神様の恵みを受けて聖霊をいただきますと、その生き方の方向性は一変します。わたしたちの霊が聖霊によって導かれるときには、神様を神様として崇め、愛し、また他の人を愛し、高ぶるのではなくかえって仕える、愛するという姿になります。 3 わたしは、20歳代の半ばごろに初めて教会の門をくぐりました。そのときわたしは、自分自身の人生の行き先、あるいは今この時の瞬間の自分が、いったい何を頼りにしてよいのかわからない、そういった不安を抱えていました。ちょうど、船が海原を航海しながら進んで行くのですが、燈台もなく磁石もない、どこをどう進んでいったらよいかわからないのです。真っ暗で行く道が見えなかったのです。確かであったのは、自分自身のうちにある欲望でした。名誉欲、自己顕示欲、性的な欲望、生存欲、これらのものだけは確かにあるということはわかりました。自信をもって言えました。では人生の目的がそれらを満足させることにあるのかといえば、それは違う、どうもそうではないということも感じていました。もしそうならば、人間と動物の違いはなくなると思いました。もっと他に大切なことがあるのではないかとも思いました。しかし疑問を持ちながらも、それが最も確かな現実である限り、わたしはそれを成し遂げるべきだとも思ったのです。すべての欲望の満足、充足を求めないわけにはいかない、そして、そのためにはいわゆる人生の勝ち組にならねばならないと思いました。けれども、それらを現実に満足させるためのハードルはとてつもなく高いように思えたのです。知能や運動神経、能力、そういった自分の能力はそんなに高くないのです。性的な欲望のためには異性を振り向かせることが出来なければなりません。ああ自分は何もできない、人生をうまく進んで行くことが出来ない、と思い悩みました。そのときに、学生時代の友人がクリスチャンであったことを思い出し、教会を紹介してもらったのです。 実は、そのときにはじめて聞いたみ言葉が、このガラテヤの5章でありました。 「御霊によって歩みなさい」この言葉を聞いたとき、よくわからないながらも、ここには、わたしの不安や悩みを解決するものがあると確信しました。 パウロは言います。 「御霊の結ぶ実は、愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、柔和、節制、です。」この言葉を聞いて、わたしの心は、とてつもない安心感につつまれました。自分の欲望をただ満足させることによっては決して得られないもの、それが聖霊の働きによって与えられるというのです。 わたしは、今までおぼろげに感じていたものが、はっきりした気がしました。わたしが本当に求めていたものはこれだった。罪にまみれて覆われてしまっていた、本来の目標を示された気がしました。今朝は読みませんでしたが、このみ言葉の前にある5章1節でパウロはこう言っています。 「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。二度と奴隷のくびきにつながれてはなりません。」 生まれながらの自分に主イエス様によって注がれている聖霊、神の霊と生まれながらの自分の欲望とが対立しあっていては、本当にしたいことが出来ない、そうではなく霊に導かれて、神様にゆだねて歩みなさい、そこに本当の自由があるとパウロは勧めるのです。 主イエス様の十字架は、わたしたちには罪の赦しを与えます。それだけではなく、わたしたちが主イエス様と結ばれているならば、わたしたちの古い自分がそこで死んだこと、新しい自分が生まれたことを表しています。主イエス様は、死んでお蘇りになりました。わたしたちも主イエス様の復活において命を与えられて新しくされたのです。わたしたちに聖霊が注がれた、わたしたちが聖霊の働きに与かったということは、そういうことではないでしょうか。 パウロは、言います。19節です。 「肉の業は明らかです。それは姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不破、仲間争い、妬み、泥酔、酒宴、その他この類のものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行うものは、神の国を受け継ぐことはできません。」 もし、わたしたちの心が、ここで並べられたような悪徳に少しでも傾く時、わたしたちはパウロの言葉を思い起こさなければなりません、パウロ言います。「このようなことを行うものは、神の国を受け継ぐことはできません。」悪しき業に生きているなら救いから落ちてしまうよ、だから警戒しなさいと弱い私たちを励ますのです。このようなことを一回でも一瞬でも行ったらもう駄目だというのではなくて、これらのことを悔い改めずに行い続けるなら救いは与えられないという意味です。 19節のこれでもかと続いている悪のリストに共通していることは、そこには神と人への愛がないということです。もっと言えば自分をも愛していません。自分を大切にしていないし人をも大切にしていません。 聖霊に導かれる人は、神を愛し、隣人を愛する人です、そして本当の意味で自分をも大切にする人なのです。 ガラテヤの教会に向かって、パウロは言います。「霊の導きに従ってまた前進しましょう。」「うぬぼれて、互いに挑みあったり、妬みあったりするのはやめましょう」 律法主義は、人を傲慢にします。また人を裁きます。神様の恵みにより頼む人、聖霊に導かれる人は、謙遜になり互いに仕え合います。教会にこそ、聖霊がわたしたちに与えてくださる愛の実りが満ち溢れるべきなのです。ペンテコステの日にこのことを改めて思い起こしたいと思います。お祈りを致します。 わたしたちの愛する神、主イエス・キリストの父なる神、とうとい御名を崇めます。ペンテコステの恵みを記念するこの日に、改めて。わたしたちに注がれている恵みを思い起こし、与えられた御霊によって導かれて、神さまの喜ばれる道を歩んで行くことが出来ますよう導いてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
2025年6月8日(日)熊本伝道所礼拝説教(ペンテコステ)
ガラテヤの信徒への手紙5章16節~26節「聖霊に導かれる生活」
1、
御子イエス・キリストの恵みと平和とが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。
今朝、わたしたちはペンテコステを記念する礼拝を捧げています。ペンテコステは、クリスマスやイースターと並ぶ教会の大切な記念日です。けれども、世の中ではクリスマスやイースターほど、知られていないように思われます。以前奉仕していた教会で、前の通路を掃除していた時のことです。ペンテコステ礼拝の前の時でした。教会の看板に、説教題の横にペンテコステ礼拝と書いてあったのですが、通りかかった方が近寄ってきまして、尋ねられました。「このペンテコステっていうのは何ですか」
わたしは少しとまぢしたが、すぐに、こう答えました。
「これは日本語では聖霊降臨日といまして、教会に神様の霊、霊である神様が来てくださった日です」。その方は、ああそうですかと言って去って行かれましたが、おそらく何のことか全くわからなかったと思います。
まずペンテコステと言う言葉の響きが、日本語離れしていて、まったく訳が分からないということがあるでしょう。五十の祭りと直訳しても、同じことです。聖霊が教会に来てくださった日だと教えられても、これは理解しにくいと思います。ペンコステを知るには、やはり聖書を読まなければなりません。
熊本教会では、昨年6月から使徒言行録を読み始めて、ちょうど一年間が経ちました。最初のほうの使徒言行録2章にペンテコステの出来事が記されています。
主イエス様がイースターの日に復活し、40日間弟子たちと過ごし、そして天に帰って行かれます。主イエス様の昇天の後、弟子たちは主イエス様の命令通りにエルサレムを離れないで祈って待っていたのです。エルサレムの近くにあるいつもの家の二階です。9日間祈って、10日目、ユダヤ教の五旬祭、ペンテコステの祭りの日に、聖霊降臨と言う恵みの出来事が教会に与えられたのです。
突然の風のような音が部屋中に響いてきて、弟子たち一人ひとりの上に炎のような舌が分かれ分かれに、とどまり、そして、彼らが神の恵みの言葉を、語りだしたのです。彼らは家から出てエルサレムの市内に繰り出し、人々に向かって諸国の言葉で語ったというのです。そしてペトロが立って主イエス様こそ救い主であること、我々ユダヤ人は今こそ悔い改めて主イエス様を信じ神に立ちかえるようにと説教したのです。3000人の人びとが洗礼を受け、現在にまでつながるキリスト教会が活動を始めた、これがペンテコステの出来事です。
ペンテコステは、一般の人にとっては、クリスマスやイースターに比べるとやはり教会の内部のお祭り、記念日と言う印象が大きいことは確かです。けれども、この日は教会に取って大切な日であります。
クリスマに主イエス様がお生まれになり、そして十字架の上で死なれた主イエス様がイースターにお蘇りになり天に帰って行かれました。この転移おられる蘇りの主イエス様と天の父なる神様が、聖霊を送ってくださった日なのです。この時から聖霊は休みなく世界と教会とに注がれています。まずは、この世界の人々が主イエス様を信じて救われるようにしてくださる、この大切な救いの最後の段階を担ってくださるお方が聖霊の神様です。もちろん、この世界に光が存在するように聖霊の神様は、すべてのことに働いておられますが、集中的に、光がレンズで集められるようにして、救いの御業を行ってくださいます。その出来事がペンテコステから始まったのであります。ペンテコステが教会の誕生日と呼ばれる理由もそこにあります。
聖霊の神様が働かれるからこそ、神様を知らずに生きている人が悔い改めて神を信じます。イエス・キリストの救いを信じるようになります。そして信じた人の生活もまた、聖霊の神様によって導かれるのであります。
ハイデルベルク信仰問答には使徒信条の解説があります。使徒信条には「我は聖霊を信ず」という文言があります。そしてこの「我は聖霊を信じる」について次のように問答します。ハイデルベルク信仰問答問53、「聖霊についてあなたは何を信じますか」、答「第一にこの方が御父や御子と同様に永遠の神であられるということ、第二にこの方はわたしにあたえられたお方であり、真の信仰によって、キリストとそのすべての恵みにわたしたちを与からせ、わたしを慰め、永遠に私と共にいてくださるということです」
また、こどもと大人のカテキズムの第35問にはこうあります。
「聖霊なる神様は、どのようにしてわたしたちに救いをあたえてくださいますか」、答「聖霊なる神様は、わたしたちのうちに働いて、罪びとと認めさせ、悔い改めて、イエス様を信じるようにしてくださいます。その信仰を通してわたしたちを主イエス様に結び合わせて救いを与えてくださいます」
ペンテコステの日に、教会に聖霊の神様が与えられましたから、教会が伝道して人々が主イエス様を信じるようになるということが起こります。そして教会に連なっている人は聖霊によって主イエス様と結ばれているからこそ、その生活も主イエス様が期待しておられるように歩むようになる、そのすべてにおいて聖霊の神様のお働きがあるのです。
2
今朝のみ言葉は、ペンテコステの日の出来事を記したものではありません、そうではなくてペンテコステに降った聖霊が今も私たちを導かれることを告げている、そういうみ言葉です。救いを起こしてくださる聖霊が続いて働かれる、聖霊に導かれて歩むわたしたちの人生、信仰の生活を語るものです。5章16節にこう記されています。
「わたしが言いたいのはこういうことです。霊の導きによって歩みなさい。そうすれば決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」
ガラテヤの信徒への手紙と言いますのは、初代教会のリーダーでありまた伝道者であったパウロ、使徒パウロが、ガラテヤという町にある教会に宛てて書いた手紙です。パウロがこの手紙を書いたのには理由がありました。ガラテヤの教会は、当時、異邦人が主イエス様を信じて信仰に入ったならば、ユダヤ人と同じように、割礼をはじめとする旧約聖書の律法の定めを重んじるべきである。そう主張するユダヤ主義キリスト者と呼ばれる人が入り込んで教理的な混乱が生じていたのです。パウロが繰り返し告げている信仰義認、イエスキリストの恵みによる救いと言う教えが脅かされそうになっていたのです。特に、エルサレムからやってきたと思われるユダヤ主義たちがこだわったのが割礼でした。信者は旧約聖書の律法を守るべきである、洗礼を受ける人は割礼をも授けられるべきであると要求したのです。しかし、パウロはこれに断固反対しました。5章2節3節で、こう書きます。
「ここでわたしパウロはこう断言します。もし割礼を受けるならあなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」3節「割礼を受ける人すべてにもう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです」
割礼は、確かに神様がアブラハム、またモーセを通して神の民のしるしとして命じたものです。けれども、それは救いを受けるための条件ではなかったのです。契約の民、選びの民とされたことのしるしであります。割礼は、神の恵みに対する人間の側の応答でありました。十戒の序文に、あなた方を救い出した神であるわたしがこう命じる、そのように書かれている通りなのです。
主イエス・キリストがおいでになって、神の選びの民は、ユダヤ人だけでなく、すべての民へと門、間口が広げられました。しかし、そこでも神の民、救いの民となるのは、誰でも良いというのではなく、イエス・キリストを信じるものだけです。そのしるしとして割礼ではなく、洗礼が授けられます。
人間の側の良い行い、律法の厳守が先にあって、そのことを条件に救いが与えられのではないのです。もしもそうであるなら、その救いは神様の恵みではなく、人間の側の努力や修行に対する報酬となってしまいます。そうではなく、罪の赦しは、主イエス様の十字架の贖いによります。主イエス様がご自分の命によって買い取ってくださった恵みの出来事なのです。
なぜわたしたちには罪の赦しが必要なのでしょうか。それは人間の罪がそれほど深いからです。そもそも生まれながらの人間は、その心の底から神様に喜ばれる生き方ができるのでしょうか。できないのです。聖書が示すのは、神様から見た人間の姿、その人間の罪深さです。人間の側には、生まれながらの清さと言うものは、観念、願いとしてはあるでしょう。しかし、現実としての人間に備わっているものではありません。かえって、生まれながらの人間、ここでは肉と言う言葉で起きかえられていますが、心も体も含めて生まれながらの人間前提を指しています。そこにあるのは、自分を絶対的なものとして、あるいは神として、他の人を蔑み、あたかも人ではなく道具や手段のように考える罪の姿なのです。神を愛することも人を愛することも本当にはできない、そういう人間の厳しい現実は神様の前には明らかなのです。
それに対して、わたしたちが神様の恵みを受けて聖霊をいただきますと、その生き方の方向性は一変します。わたしたちの霊が聖霊によって導かれるときには、神様を神様として崇め、愛し、また他の人を愛し、高ぶるのではなくかえって仕える、愛するという姿になります。
3
わたしは、20歳代の半ばごろに初めて教会の門をくぐりました。そのときわたしは、自分自身の人生の行き先、あるいは今この時の瞬間の自分が、いったい何を頼りにしてよいのかわからない、そういった不安を抱えていました。ちょうど、船が海原を航海しながら進んで行くのですが、燈台もなく磁石もない、どこをどう進んでいったらよいかわからないのです。真っ暗で行く道が見えなかったのです。確かであったのは、自分自身のうちにある欲望でした。名誉欲、自己顕示欲、性的な欲望、生存欲、これらのものだけは確かにあるということはわかりました。自信をもって言えました。では人生の目的がそれらを満足させることにあるのかといえば、それは違う、どうもそうではないということも感じていました。もしそうならば、人間と動物の違いはなくなると思いました。もっと他に大切なことがあるのではないかとも思いました。しかし疑問を持ちながらも、それが最も確かな現実である限り、わたしはそれを成し遂げるべきだとも思ったのです。すべての欲望の満足、充足を求めないわけにはいかない、そして、そのためにはいわゆる人生の勝ち組にならねばならないと思いました。けれども、それらを現実に満足させるためのハードルはとてつもなく高いように思えたのです。知能や運動神経、能力、そういった自分の能力はそんなに高くないのです。性的な欲望のためには異性を振り向かせることが出来なければなりません。ああ自分は何もできない、人生をうまく進んで行くことが出来ない、と思い悩みました。そのときに、学生時代の友人がクリスチャンであったことを思い出し、教会を紹介してもらったのです。
実は、そのときにはじめて聞いたみ言葉が、このガラテヤの5章でありました。
「御霊によって歩みなさい」この言葉を聞いたとき、よくわからないながらも、ここには、わたしの不安や悩みを解決するものがあると確信しました。
パウロは言います。
「御霊の結ぶ実は、愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、柔和、節制、です。」この言葉を聞いて、わたしの心は、とてつもない安心感につつまれました。自分の欲望をただ満足させることによっては決して得られないもの、それが聖霊の働きによって与えられるというのです。
わたしは、今までおぼろげに感じていたものが、はっきりした気がしました。わたしが本当に求めていたものはこれだった。罪にまみれて覆われてしまっていた、本来の目標を示された気がしました。今朝は読みませんでしたが、このみ言葉の前にある5章1節でパウロはこう言っています。
「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。二度と奴隷のくびきにつながれてはなりません。」
生まれながらの自分に主イエス様によって注がれている聖霊、神の霊と生まれながらの自分の欲望とが対立しあっていては、本当にしたいことが出来ない、そうではなく霊に導かれて、神様にゆだねて歩みなさい、そこに本当の自由があるとパウロは勧めるのです。
主イエス様の十字架は、わたしたちには罪の赦しを与えます。それだけではなく、わたしたちが主イエス様と結ばれているならば、わたしたちの古い自分がそこで死んだこと、新しい自分が生まれたことを表しています。主イエス様は、死んでお蘇りになりました。わたしたちも主イエス様の復活において命を与えられて新しくされたのです。わたしたちに聖霊が注がれた、わたしたちが聖霊の働きに与かったということは、そういうことではないでしょうか。
パウロは、言います。19節です。
「肉の業は明らかです。それは姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不破、仲間争い、妬み、泥酔、酒宴、その他この類のものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行うものは、神の国を受け継ぐことはできません。」
もし、わたしたちの心が、ここで並べられたような悪徳に少しでも傾く時、わたしたちはパウロの言葉を思い起こさなければなりません、パウロ言います。「このようなことを行うものは、神の国を受け継ぐことはできません。」悪しき業に生きているなら救いから落ちてしまうよ、だから警戒しなさいと弱い私たちを励ますのです。このようなことを一回でも一瞬でも行ったらもう駄目だというのではなくて、これらのことを悔い改めずに行い続けるなら救いは与えられないという意味です。
19節のこれでもかと続いている悪のリストに共通していることは、そこには神と人への愛がないということです。もっと言えば自分をも愛していません。自分を大切にしていないし人をも大切にしていません。
聖霊に導かれる人は、神を愛し、隣人を愛する人です、そして本当の意味で自分をも大切にする人なのです。
ガラテヤの教会に向かって、パウロは言います。「霊の導きに従ってまた前進しましょう。」「うぬぼれて、互いに挑みあったり、妬みあったりするのはやめましょう」
律法主義は、人を傲慢にします。また人を裁きます。神様の恵みにより頼む人、聖霊に導かれる人は、謙遜になり互いに仕え合います。教会にこそ、聖霊がわたしたちに与えてくださる愛の実りが満ち溢れるべきなのです。ペンテコステの日にこのことを改めて思い起こしたいと思います。お祈りを致します。
わたしたちの愛する神、主イエス・キリストの父なる神、とうとい御名を崇めます。ペンテコステの恵みを記念するこの日に、改めて。わたしたちに注がれている恵みを思い起こし、与えられた御霊によって導かれて、神さまの喜ばれる道を歩んで行くことが出来ますよう導いてください。主の御名によって祈ります、アーメン。