2025年04月27日「神は真実な方」

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聖書の言葉

テサロニケの信徒への手紙二 3章1節~7節

メッセージ

イースターの熊本伝道所朝礼拝説教2025年4月20日(日)

マルコによる福音書16章1節~8節「あの方は復活した!」

1、

 主イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主の御名によって祈ります。今朝の礼拝はイースター礼拝として捧げています。あらためてイースターのご挨拶を致します。イースターおめでとうございます。

 ご覧の通りですが、わたくしは、今朝は特別のネクタイをしてきました。例年変わらないことですが、一年で一回、イースター礼拝のときにだけ、このような特別な祝いのネクタイをします。イースターは、主イエス様の復活を祝う日です。それは教会に取って特別な日であり、また、最も大切な日であると言っても言い過ぎではないと思います。

実は、イースターはクリスマスよりも大切な日であります。なぜならば、12弟子たちを中心とした弟子集団が解散しないで、このあと現代にまで続く教会を建てることが出来たのは、まずもって主イエス様が復活なさった、復活してくださったからであるからです。主イエス様が今も天で生きておられるのです。だからこそ、わたしたちは主イエス様から励ましと力とを頂いて信仰生活を送ることが出来ます。

そもそも、キリスト教会が、ユダヤ教の安息日である週の終わりの土曜日ではなく、週の初めの日曜日を主の日と定め、主の日ごとに礼拝を捧げるようになりましたのは、主イエス様が、週の初めの日に復活なさったからであります。

 さて、先ほどマルコによる福音書の最後の章、16章1節から8節の御言葉をお聴きしました。死んでしまった方としての主イエス様にお会いするために墓を訪れました幾人かの婦人たちが、主イエス様の復活を体験し、さらに証人として教会の一員となり主イエス様を宣べ伝えるように変えられてゆく、その第一歩の場面であります。

 復活の主イエス様は、まず墓を訪れた女性たちにその復活のお姿を現わして下さいました。次に、失望してエマオと言う村に帰ろうとしていた二人の弟子たちに現われ、ついで、エルサレムで息をひそめていたほかの弟子たちを訪れてくださるのです。

 弟子たちは、これまでも幾度も、主イエス様から復活について告げられていました。今朝のみ言葉の16章7節で、白い衣を着た若者が「かねて言われていたとおり」と語っているとおりです。しかしそのことを真剣に受け止めることが出来なかったのです。そんな弟子たちに主イエス様は、復活のお姿を現わしてくださいました。

復活が起きた後、エルサレムにいた11人の中心的な弟子たちは、最初はマグダラのマリアをはじめとする女性たちから、次にエマオに向かっていて、引き返してきた二人の弟子たちから復活のことを聞きます。しかしそれらは伝聞であってまだ彼ら自身の体験ではありませんでした。伝聞と体験とでは大きな違いがあります。コロナの災いを通して、わたしたちはオンライン礼拝や動画視聴による礼拝という大変便利な手段を学びましたけれども、それらは、やはり何らかの媒体、メディアを間に挟んだものだということが出来るでしょう。直接にリアルで味わう体験にまさるものでもなく、それと置き換え可能なものではないと思うのです。

弟子たちは、主イエス様が十字架の上で死なれ、墓に葬られてから三日後の週の初めの日に、自分自身の体験、また、共に味わう体験として、復活の主イエス様にお会いすることになるのです。

2,

 女性の弟子たちは、日曜日の朝早く、主イエス様が葬られた墓を訪ねます。その墓は、この16章の前の15章の終わりにありますように、アリマタヤのヨセフという身分の高い議員が用意したものです。隠れ弟子であったヨセフ自身が、勇気を出してポンテオ・ピラトに願い出て遺体を引きとり丁寧に葬ったのです。女性たちは、その一部始終を見ておりましたから、迷うことなく、間違いなくその墓の場所に行くことが出来ました。

 ユダヤ教の安息日は、金曜日の日没から始まり、翌日、土曜日の日没までで終わります。日が沈むや否や、女性の弟子たちは、香料を買い、翌日、日曜日の早朝に墓を訪れました。

 3名の女性の名が記されています。

 興味深いことに、記録されている女性たちの人数は福音書によって違いがあります。ヨハネはマグダラのマリア一人だけの名を記し、マタイはもう一人のマリアを加えて二人、ルカは、ヨハナという婦人を加えて3名と他の婦人たち、というように記しています。マルコは、ここにありますようにほかの福音書にはないサロメという名を記していて、マグダラのマリアと主イエス様の母マリアと合わせて三名の名を記します。いずれにせよ、「名もないものたち」ではなくて、確かな証人として明確な氏名がここには記録されているのです。

 彼女たちが、主イエス様に会うための第一の障害は、墓の入り口に置かれている大きな石でした。当時の墓は、動物や盗賊から遺体を守るために墓の入り口を大きな石でふさいでいたのです。力の強い男性が数人でようやく転がすことが出来るような大きな石です。とくにこのとき置かれていた石は、普通のものよりも大きかったようです。4節に「石は非常に大きかった」と記されています。

 しかし彼女たちの心配は、見事に裏切られました。既に石は転がされ、除かれていたのです。マタイによる福音書には、この石を転がしたのは天使であり、白い服を着ており、石の上に座って女性たちに主イエス様の復活を告げたと記されています。

 わたしたちにもいろいろな心配事があると思います。健康のことや生活のこと、家族のことが心配になりますけれども、神様は信じる者を決してお見捨てになることはありません。本当に必要なことは、必ず与えられるのです。道は開かれます。墓の入り口をふさいでいた、際立って大きな石は神様の恵みによって取り除かれました。そして彼女たちは、墓の中に入ることが出来ました。

 しかし、女性たちが目にしたものは、彼女たち自身が初めに願っていたものとは全く違うものでした。それは復活の主イエス様との出会いでした。想像していなかった大きな恵みが彼女たちには備えられていました。神様は、時としてわたしたちが願い求めていること以上のことを与えてくださいます。

 彼女たちが墓の中に見たものは、白く長い衣をまとった若者が座っている姿でした。婦人たちは驚いたと書かれています。先に紹介しました通り、それぞれの福音書は相補うようにして復活の出来事をわたしたちに告げています。マタイによる福音書では、、ファリサイ派の人々がピラトの許可を得て派遣されたユダヤ人の兵士が墓の入り口に立っていたことが記されます。その兵士たちは、天使が現れたために非常に驚き、恐ろしくなり、震えあがり、死人のように気を失ったと記されています。

 女性たちもまた、思いがけないみ使いの出現に驚き、また恐れを感じたのです。白い服の若者は、まずこう言いました。「驚くことはない」。そして、主イエス様は復活して、もはや墓の中にはおられないと告げました。

 実際、墓の中には主イエス様のなきがらは、存在していなかったのです。ルカによる福音書によれば、主イエス様のなきがらを包んでいた亜麻布だけが、そこにあったのです。

このことは、主イエス様の弟子たちへの顕現、現われが、決して夢や幻、あるいは何かの霊的な現象ではないことを裏付けするものです。遺体は、墓に葬られていたままであったけれども、主イエス様の霊が、あちらこちらに出現したということではないのです。十字架の上で死んで天に帰られた主イエス様の霊魂は、再び地上の遺体と結びあわされ、生きた体、復活した体として、起き上がり墓を出て行かれたのです。

3,

 さて、今朝の御言葉に続いています16章9節のところに、亀甲カッコと言うそうですが、カッコのマークがあります。そのカッコは、20節の終わりで閉じています。新共同訳聖書の初めに凡例というものが書かれています。その凡例を見ますと、亀甲カッコは、「新約聖書においては、後代の加筆と見られているが、年代的に古く重要である箇所を示す」ということです。

 つまり、いろいろな聖書の写本の中で古く、かつ他の写本と大半が一致している良質の写本には欠けているのだけれども、それよりも少し後の写本にはある、そのことから後代の加筆部とされるけれども、古代教会の伝統において、それらは聖書の一部とされていた個所であると言うことです。

 言い換えますと、本来のマルコによる福音書の原本は、現在のところは、この8節までしか分かっていないと言うことでもあります。これはマルコによる福音書の最大の謎とされているところです。もともと8節で終わっていたのか、あるいは、そのあとの部分が失われてしまったのかが分からないのです。この新共同訳聖書に収められている9節以下の文章は、これではいけないと考えた古代の教会が、他の福音書の記事や言い伝えによって改めて補った個所と思われています。

 仮に、原本が8節までで終わっていたとすると、それはなぜなのか、意図的なものか、それとも、ここまで筆を進めて来た聖書記者マルコの身に何かが起きたので、いわば絶筆となったのか、それはわかりません。しかし、ここで終わっているのは明らかに不自然なことです。わたくしは。このときマルコの身に何らかの出来事があって、この後の御言葉を書くことが出来なくなってしまったのだと思っています。いずれにしても今日基本とされている良質の写本の多くは8節で終わっているのは確かなことです。マルコは、このあとにほかの福音書が伝えているような出来事を記したかったと思いますがそれが出来なかったと考えるのが自然であります。それは亀甲カッコが伝えている補いの文章に頼るほかはないのであります。

 さて最後の7節と8節を改めてお読みします。「さあ行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。兼ねて言われていたとおりそこでお目にかかれる』と。」8節、「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである」

 主イエス様がガリラヤへ行かれることは、マルコによる福音書では14章27節に弟子たちに予告されています。「イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆、わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると羊は散ってしまう」と書いてあるからだ。』」28節「しかし、わたしは復活してあなたがたより先にガリラヤへゆく」

 復活された主イエス様は、十字架のときにチリジリになり、自分自身の弱さを知らされ、心傷ついた弟子たちをガリラヤで癒し励ますと言うのです。

 ガリラヤでの弟子たちが復活の主イエス様から惠みと力を頂いたことは、とりわけヨハネによる福音書において丁寧に記されています。

4,

白い服を着た若者の言葉を聞いた女性たちは、深い恐れを感じ、震え上がり、正気を失うほどでした。主イエス様が告げておられたことが本当に起きたのです。このとき彼女たちは神様の厳かな臨在を感じたのではないでしょうか。しばらくの沈黙が彼女たちを支配していたことが記されています。他の福音書は、このあと、マグダラのマリアを始め女性たちに復活の主イエス様ご自身が姿を現わされたことを書きしるしています。それから彼女たちは、ペトロを始め11人の弟子のところに走り、墓が空であること、また天使が主イエス様の復活を告げたこと、そして彼女たち自身も復活された主イエス様に出会ったことを知らせます。話は前後していますが、ペトロとヨハネが急いで墓に走り、彼らも空の墓を確認しました。

 そしてその後、主イエス様は、他のユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけて潜んでいた弟子たちを直接訪れてくださったのです。

 安息日が明けた週の初めの日十字架から三日目に当たる朝、主イエス様は復活したお姿を弟子たちに明らかにされました。最初の目撃者は、チリジリに逃げ出し、そして、部屋に鍵をかけて集まっていた男の弟子たちではなく、脇役ともいえる女性たちでした。

 そしてその事実は、その日のうちにほかの弟子たちにも明らかになりました。主イエス様は、かつて御自身が弟子たちに告げておられた通りに復活なさいました。あの方は復活し、今、生きてわたしたちと共にいて下さる、そのことを、この先、弟子たちは、ガリラヤでの出来事を含めて時間をかけて味わい知ることになります。

イースターおめでとうございます。

 

祈りを致します。

天の父なる神さま、イースターの恵みを感謝します。こののちもわたしたちと共にいて下さいますようお願いいたします。主の御名によって祈ります。アーメン。