2025年04月27日「神は真実な方」

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聖書の言葉

テサロニケの信徒への手紙二 3章1節~7節

メッセージ

熊本伝道所春の特別集会の朝礼拝説教2025年4月27日(日)

テサロニケの信徒への手紙2,3章1節~5節「神は真実な方」

1、

 主イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。

今朝の礼拝は春の特別集会として捧げています。とくに、近隣の方々や新しい方をお招きすることを覚えていますけれども、同時に、いつも出席している方々にとっても、信仰の成長や、主なる神さまへの熱心が増し加わるような機会となることを願っています。

 ただいま、アフリカのガンビアという土地に単身乗り込まれて、福音を伝えてこられた川島姉妹の証しをお聴きしました。あらためて主の御名を讃美する思いです。

 実は、わたくしがまだ20代で教会に通い始めた頃、川島姉妹は、ちょうど横浜の神学校を卒業されて、以前から召しを感じておられた海外宣教の準備をしていました。当時、所属していました千里ニュータウンの教会の牧師は、午後から京都の伝道所で奉仕をしておられ、わたくしも運転手としていつも同行していたのですが、その教会、教会といっても普通の家の集会で、そこに川島姉妹も伝道師のように住み込んでおられました。

 もちろん、お互い年を取りましたから、見た目はずいぶん変化したところがありますけれども、川島姉は、その物腰とか、話し方とかは、そのころと全く変わらないと思って感心していた次第です。

 ただいま、サロニケの信徒への手紙2,3章の初めにある祈りの言葉をご一緒に聞きました。パウロという初代教会の伝道者が語りまた、祈っています。手紙を受け取った教会を力づけ励ます言葉を語っています。「神は真実な方です。必ずあなたがたを強め、守ってくださいます。」

1節は「終わりに」とう言葉から始まります。そして祈りの要請を致します。このことを祈って欲しいと、言うのです。二つのことを書いています。この手紙の本当の最後の、といいますか、16章16節以下に祈りの言葉があります。それは、テサロニケ教会のための祈りです。「あなたがたに平和があるように」、それも「いついかなる時もそうであるように」と祈ります。それに対して、この3章1節から2節では、わたしたちのために、つまりパウロとシルワノとテモテのことを祈って欲しいと書きます。わたしたちのために祈って欲しい、祈りの要請です。そしてその内容を書いています。

 この38年間、継続して出身教会の兄弟姉妹たちが中心に立ち上げた川島姉同労会の会報、川島姉同労会ニュースには、川島姉から、ガンビアの人たちのために祈ってほしいという祈りの要請があり、また、異国の地で働く川島姉のための祈って欲しいという依頼が書かれていました。ここにあるパウロの言葉と同じ、祈りの往復、交わりがあります。

 この時、パウロたちが願っていたことは、まず、おそらくはコリントという町で伝道している彼ら自身の働きについてのことです。主の言葉が、つまりイエス・キリストの福音の言葉が速やかに宣べ伝えられるように。「速やかに」とあります。じっくりと伝道しよう、川島姉のように39年間かけてと言うのではない、今すぐに伝道が進むことです。あなたがたのところでそうであったように、つまり、あなたがたテサロニケ教会が速やかに形成されたように、パウロたちが働いている土地、おそらくコリントでも速やかに伝道が進むように祈って欲しいと言います。そして主の言葉があがめられるように、福音が、尊いものとして当地で受け入れられること願うのです。

第二のことは、この伝道の働きを妨げている攻撃や迫害があり、それらの人々から逃れることが出来るようにと言います。すべての人に信仰がある訳ではない、つまり不信仰な者たちがいるからだと言うのです。

この1節から5節の御言葉を読んで、ただちに気が付くことがあるのではないでしょうか。真ん中にある3節のはじめです。周り言葉を圧倒して立っているような、とがっている、ちょっとむつかしい言葉ですが「屹立している、そそり立っている」そんなパウロの叫びがあります。「しかし、神は真実なお方です」。

しかし、とありますから、そうではない現実があることをパウロは心に留めているのです。その直前にこうあります。「すべての人に信仰がある訳ではないのです」。

これは、パウロの周りのすべての人に信仰がないというのではありません。そうではなく、すべての人に信仰があるように見えるけれども決してそうではないと言う言葉です。パウロの周りの人々、とりわけ同じ神を信じる人々の中でそうだと言うのです。カルヴァンという17世紀の宗教改革者は、パウロは、ここでは教会の中のパウロの反対者のことを考えている、そこにおける信仰の戦いを考えていると解説します。「すべての人に信仰がある訳ではない」。元のギリシャ語を見ますと「神は真実な方です」という3節の「真実な;ピストス」という言葉の名詞の形「真実:ピスティス」という言葉がここに使われています。「すべての人に信仰があるわけではない、ピスティスがあるわけではない」。だからこそ、そこに信仰の戦いがある。「しかし神は真実なお方です」。パウロは、こう断言するのです。

ピスティスには、信仰、真実、信頼、誠実という意味があります。小さいころに、親から「みんなから信頼される人になりなさい」と言われた方は多いと思います。反対に誰からも信頼されない人になれなどとは言われなかったと思います。わたくしが25年間会社員生活を送りました会社の社是、モットーの第一は「信用を重んじ堅実をむねとする」でした。今でも覚えております。信用されない会社、真実でない会社は長続きしないのです。

多くの人が、一つも恥じるところがない人生を送りたいと願っていますが、現実はそうではありません。板挟みになって悩む、小さな裏切りとお追従を繰り返すのです。そしてわたしたちの心の根源を探れば、やはり自分にしがみついているのです。利己的な人間でない人は誰もいないというのは本当のことだと思います。神様と周りの人々に対して真実ではないのです。ですからいつも小さな痛みを抱えています。いろんな人に対して申し訳ないという思いがあります。神様の前では罪に満ちた存在なのです。わたしたちが本当に心の底から平安に幸せに生きるためには、真実なお方である神様の赦しが必要です。

先週の日曜日、キリスト教会はイースターの祝いを致しました。イースターはイエス・キリストの復活を祝う日です。十字架に架けられて、死んで、墓に葬られたイエス・キリストの復活は、わたしたちに新しい命が与えられる「しるし」でもあります。十字架はただの死刑執行ではありませんでした。わたしたちの赦しのために、イエス・キリストの命が神に捧げられたのです。本来なら神様のお怒りを受けるような私たちの代わりに罪のない神の子が死んでくださり、罪の完全な赦しがわたしたちに与えられたのです。イエス様を信じる人の全てに、新しい命、罪許された命、神の命が与えられます。わたしたちに対するイエス・キリストの完全な真実、誠実、愛がここにあるのです。

川島姉妹は宣教師として39年間、アフリカで働きを続けることが許されました。あらためて神さまは真実なお方だと思います。川島姉が身をもって伝えたことは何でしょうか。それはわたしたちを救ってくださる神様の真実、神さまの愛であったと思います。祈りを致します。

天におられる神さま、イエス・キリストの父なる神さま。御名を崇めます。春の一日、川島姉妹の宣教の働きに触れることが許され感謝をいたします。この街には多くの教会が立てられ、それぞれ福音宣教の歩みを続けています。神様の愛と真実をお伝えし、新しい人間、新しい世界が始められるためです。どうか、この世界のいたるところであなたの福音が宣べ伝えられ、教会が生きて働くことが出来ますよう導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。