2024年02月25日「主イエスの死」

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聖書の言葉

ヨハネによる福音書 19章28節~37節

メッセージ

2024年2月25日(日)熊本伝道所朝拝説教

ヨハネによる福音書19章28節~37節「主イエスの死」

1、

主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。

今朝は受難節第二主日の礼拝を捧げています。受難節は、イースターまでの40日間、主イエス様が受けられた十字架の苦難を特別に覚えるための伝統的な教会暦に基づく期間です。受難節は別名、四旬節、つまり40日とも言われます。英語ではレントと呼びます。レントの語源は「長くなる」という言葉だそうです。春を控えて次第に日が長くなってくることに由来するということです。中世以来、このレントの期間は、主イエス様の受難を覚えるために、派手なお祭りや行事は控え、肉を食べることも禁止されました。そこでレントの直前に思い切り肉を食べ派手にお祭りをするカーニバルが定着したと言うわけです。

 宗教改革者たちは、これまでのたくさんの聖人の記念日や教会暦で埋め尽くされていた儀式的、習慣的な信仰生活を本来の福音に立ち帰らせるために、教会暦を思い切って簡素化しました。わたしたちは、レントに肉食を禁じたり、あるいはその直前にカーニバルを祝ったりするということも致しません。

教派や教会によって違いがあってよいのですけれども、少なくともアドベント、クリスマス、そして受難節とイースターはたいていの教会で守られているようです。何よりも、わたしたちは、期せずしてこの受難節の季節に主イエス様の十字架のみ言葉を続けて聞くことが出来ることは幸いなことであると思います。今朝与えられましたみ言葉は、まさしく主イエス様が十字架の上で命を落とされた場面です。

 熊本教会の玄関前の小さな花壇でクリスマスローズの花が咲いているのに気が付かれたでしょうか。クリスマローズは、その名の通り本来はクリスマスに咲く花ですけれども、もう少し遅く春の初めに花を咲かせる品種が多くなりました。レントの花、レンテンフラワーの別名があるそうです。少しずつ日が長くなっていく季節の花、春を待ち望む花です。薄紫の花がうつむき加減で咲いているのを見ますと、ああ、受難節、レントがやって来たという思いが新たにされるのです。

今朝は19章28節から37節まで、主イエス様が十字架の上で息を引き取られる、命をささげて下さる、そして兵士たちによってダメ出しをするかのようにとどめを刺される、まさにその場面になりました。

 前回、この前後の箇所では、福音書記者ヨハネは「聖書の言葉が実現する」あるいは「実現した」という言葉を、くどいほどに繰り返していると申し上げました。今朝の聖書個所でもさっそく28節に「こうして聖書の言葉が実現した」と記されています。

このことは、単に旧約聖書にかかれていた通りになった、不思議だなあということではなくて、旧約聖書に記されている神様の救いの計画が今ここで実現したという、そのような神様の救いのご計画が実現するという恵みの真理をここに集中的に示しているのです。

28節に、主イエス様の「渇く」というお言葉が、旧約聖書の御言葉の実現であると宣言されています。これは「わが神わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか」と嘆くみ言葉から始まる詩編22編の16節が主イエス様において実現したというのです。

「口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎に張り付く、あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる」、あるいは詩編42編の2節3節にも、「涸れた谷に鹿が水を求めるようにわたしの魂は神を求める」と記されています。これはまさしく霊的な渇きのみ言葉にほかなりません。主イエス様が十字架の上で経験なさったことです。

 さらに、36節では主イエス様の足の骨が砕かれなかったことが証しされます。これは出エジプト記12章46節の出エジプトの過ぎ越しの小羊の規定です。出エジプト記12章はイスラエルの命が子羊の血の犠牲によって救われた贖いの出来事が記されています。

 そして37節を見ますと、兵士たちが主イエス様を槍で突き刺したことが、ゼカリヤ書12章10節の実現であったと証しされます。

 旧約聖書に預言された救い主、メシア、それも苦難を受けるメシアのみ言葉が次々と主イエス様においてみ言葉通りに実現してゆくのです。

さて、主イエス様は、今朝の30節でこのように言われました。「成し遂げられた」。

キリスト教会の伝統の中で、主イエス様が十字架の上でお語りになった言葉をマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書から抜き出して、「十字架上の七つの言葉」として並べてゆくということがあります。

 この7つの言葉の順序は、あくまでも教会が後になって構成したものです。今朝の主イエス様の「成し遂げられた」というお言葉は、7つの言葉の最後から二つ目、6番目の言葉に位置付けられています。ちなみに最後の言葉とされているのは、ルカによる福音書23章46節の御言葉「イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」こう言って息を引き取られた」」、この「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」であります。

 ルカによる福音書は、ヨハネによる福音書が記している「成し遂げられた」という言葉については触れていません。一方、ヨハネによる福音書の方は、ルカが記録した「わたしの霊を御手に委ねます」という主イエス様の言葉を記しません。そこでどちらが先でどちらが後なのかはわかりませんが、ヨハネによる福音書は、主イエス様は、この「成し遂げられた」というお言葉をもって息を引き取られたとしているのであります。

 ここで新共同訳聖書は「息を引き取られた」と訳しています。実は、元の言葉では反対でありまして「霊を、あるいは息を、引き渡された」という言葉が使われています。人間が死ぬときに息を吐きだすのか、それとも息を吸い込むのか、それは分かりませんけれども、息をするという行為が終わるときこそわたしたちが、死ぬ時でもあるでしょう。

主イエス様は、一体誰に霊、あるいは息を引き渡されたのかといえば、当然これは「天の父なる神様に」あります。つまりルカによる福音書が記しましたように、主イエス様の十字架上の七つの言葉の最後のお言葉「わたしの霊を御手に委ねます」、ヨハネの「息を引き渡された」といいますのは、まさしくこのことであります。ただ体がだんだん弱ってきて、ついに呼吸をすることが出来なくなり、もう息をすることが出来なくなった、ついに息を引き取ったというのではないのです。主イエス様ご自身の最後の意志によって、自ら進んでご自身の命を霊魂を父なる神に渡された、お返しになられた、私たちのために死んでくださったということであります。

 主イエス様が命を、あるいは霊を「引き渡された」という言葉は、新約聖書の別の箇所では、ご自身の身を「捧げられた」という言葉に置き換えられて翻訳されています。

ガラテヤの信徒への手紙2章20節「わたしはキリストと共に十字架につけられています。生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きているのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を捧げられた神の子に対する信仰によるものです」この捧げられたと訳されている言葉が、引き渡されたという言葉です。

 もう一つ挙げます。エフェソの信徒への手紙5章2節「キリストが私たちを愛して、ご自分を香りのよい供え物、つまりいけにえとしてわたしたちのために神に捧げて下さったように、あなた方も愛によって歩みなさい」ここにも引き渡されたという言葉が用いられています。ご自身の命を、霊を神に引き渡されたのです。

 主イエスを愛し信じておりますわたしたちの生活は、主イエス様が私たちの救いのために、ご自分から進んで、神様にご自身の命を捧げて下さった、そのことによって成り立っています。そして、救いを受けたわたしたちもまた、全身全霊をもって神様を崇め礼拝する、神様に自分自身を引き渡す、与えることによって神様に感謝し、神様の栄光を現わしてゆく生活なのではないでしょうか。

 「成し遂げられた」という言葉の元の言葉をよく見ますと「終わり」「テロス」という言葉がその中に入っています。終りに達した、そして今もその状態にある、そういう言葉です。主イエス様は、十字架にお架かりになる前の晩、17章のゲッセマネの祈りの中で既に先取りして、この言葉によって祈っておられました。

その主イエス様の祈りの17章3節と4節をお読みします。主イエス様はこう祈られました。「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。わたしは、行うようにとあなたが与えて下さった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。父よ、今御前で私に栄光を与えて下さい。」

これはこののちの十字架の御業が御心通りになりますようにという祈りになっています。主イエス様は、お亡くなりになるときに、酸いぶどう酒を含ませた海綿、スポンジ状の海草をヒソプという植物の枝の先につけたものを口元にあてがわれます。この酸っぱいぶどう酒というのは、当時は、水代わりに飲まれていたぶどう酒の中でも日時が経って悪くなったもので、一種の辱めとして囚人にあてがうものでした。一方マルコ福音書には、没薬を入れたぶどう酒を主イエス様は拒否されたことが記されています。これは一種の麻酔薬で十字架の苦痛を軽減するものでした。主イエス様は、苦痛を和らげる没薬入りのぶどう酒は拒否されましたが、囚人を辱めるすっぱいぶどう酒をお受けになりました。そのことによって、十字架の屈辱と苦痛を余すところなく味わわれたのであります。

 主イエス様は、信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためにこの世界においでなりました。そして、父なる神様によって定められた御業をすべて行い、そして最後の最後に十字架の上で命を捧げられました。わたしたちに永遠の命を与える根源的な御業を成し遂げられました。それゆえに、十字架の上で「成し遂げられた」と言われたのであります。聖なる神の御子が、本来は、わたしたち罪びとである人間が受けるべき神様の刑罰、呪いと辱めのすべてをわたしたちに代わって受けて下さいました。主イエス様の救いの使命は成し遂げられました。私たちに対する神様の愛の御業、罪の赦しと永遠の命を与える神様の御業が、ここに成し遂げられました。私たちの救いが成し遂げられたのであります。

4、

 31節をお読みします。「その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。」

 準備の日と言いますのは、過ぎ越し祭の準備の日という意味で、家族と一緒に食べる過ぎ越しの子羊を屠る日でありました。同時に、安息日が過ぎ越し祭と重なるということで特別な安息日、ヘブライ語では大きな安息日であり、どうしてもこの日のうちに死刑囚の遺体を十字架から降ろしておく必要がありました。

 十字架刑は、一日で終わるものではありません。人によりますが、長い時間をかけて苦しみながら死んでゆく、そのような刑罰です。二日三日はかかると言われます。しかし、この日の翌日は安息日、しかも祭りと重なる特別な安息日でしたので、囚人たちは大きな木づちで足を砕かれたと書かれています。十字架というのは決して釘で打たれた手首だけで体を支えるのではありません。腰のところと足首のあたりに、小さな台があり、さらに足首にも釘が打たれました。それによって、上半身が少し自由になるので、肺による呼吸がかろうじて出来るのです。ところが足を折られてしますともう足で体を支えることが出来なくなりますので死んでしまうのです。これは囚人にとってはこれ以上の苦痛をなくしてもらえるという意味でむしろ良いことでした。ところが、主イエス様は、すでに死んでおられたので、足を打たなかったのです。そしてそのことによって、人々の命を救う過ぎ越しのこひつじの足を折ってはならないという旧約聖書の言葉が実現しました。

 ところが、兵士の中の一人が何かとどめを刺さなければと思ったのでしょうか、槍で主イエス様の脇腹を突き刺しました。そうしますと、すぐに血と水が流れ出たのです。これについて、確かな目撃があり、真実であると聖書は念を押しています。証人である人物、その人物は、この福音書を書いている使徒ヨハネ以外にはありえません。ヨハネにとって、主イエス様の脇腹から血が出たこと、あるいは体液が出たことは、決して捨て去られてはならない大切なことでありました。つまりそのことは、十字架の上の主イエス様が確かに人間の体をもって生きておられたお方であるということのしるしなのです。

ヨハネによる福音書が完成したのは1世紀の終わりごろではないかと推定されています。その頃すでにユダヤ的な思想に対立するギリシャ的な文化、霊肉二元論、霊は清いが体、肉体は汚れているという思想が教会に影響を与えようとしていたのです。そのために、主イエス様は、本当は肉体をお持ちではなく、清い霊だけのお方であったと当時の異端は主張していたようです。しかし、使徒ヨハネはそれに反論するのです。決してそうではない、主イエス様は確かに体を持ったお方であり、切れば血の出るお方であったということの証しなのです。そのことによって、主イエス様は本当にわたしたちが受ける体の死を代わりに死んでくださったという証しになるのです。

 しかしそれだけではありません。もっと大切なことをわたしたちは知ることができます。つまりこういうことです。主イエス様の十字架についてこれまで起きた様々なことは、一つ一つが旧約聖書が預言していた救い主、メシアのしるしを現わすものでした。過去の預言、救いの約束がここに成し遂げられた、その証です。ところが、この主イエス様から水と血が出たということについては、過去の預言の成就、実現ではないのです。そうではなく、むしろこののちに起こることのしるしなのであります。ヨハネによる福音書8章14節に次のような主イエス様の御言葉がありました。サマリヤに住む一人の女性に向かって井戸のほとりで主イエス様が言われた言葉です。

「私が与える水を飲むものは決して渇かない。わたしが与える水はその人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」

水は命のしるしです。そして、これは主イエス様から出る聖霊の働きを現わします。聖霊の導きによってわたしたちは死から命に移されます。また主イエス様から出る血は、罪の赦しと新しい命のしるしです。血を流すことには決して許されることのなかった私たちの罪が、主イエス様の十字架の血によって覆われ、贖われ、きよめられるのです。

主イエス様は「成し遂げられた」とおっしゃられて、ご自身の命をわたしたちの救いのために捧げられました。しかし、それは決して終わりではなく、私たちにとっては新しい命の始まりです。

 洗礼を受け、聖餐に与り続けるわたしたちは、主イエス様から出る神の命の水を受け、十字架の恵みである主イエス様の裂かれた肉と流された血を受け続けるのです。主イエス様は、十字架の上で言われました。「成し遂げられた」。そして主イエス様から水と血とが流れ出しました。そのことによって、私たちは新しい命を与えられます。この救いの出来事が新しく始まったのです。世の終わりまで続けられる教会の伝道、福音説教とは、この主イエス様の救いへと人々をお招きすることです。成し遂げられた救いを伝えてゆくのです。主イエス様の水と血によって始まるものがあるのです。生かされ続けるものがあるのです。それは新しい命であります。わたしたちはこれをすでに受け、そして世に伝え続けてゆくのです。一言祈ります。

祈り

天の父なる神様、レンテンフラワー、レントの花が咲くこの季節、主イエス様がわたしが生きるためにこそ死んで下さったこと、そして三日後におよみがえりになられたことを感謝いたします。この一週間も主イエス様の命、神の命によって生きて行くことが出来ますようお願いいたします。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。