2024年01月14日「イエスの言葉「わたしである」」

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聖書の言葉

ヨハネによる福音書 18章1節~11節

メッセージ

2024年1月14日(日)熊本伝道所朝拝説教

ヨハネによる福音書18章1節~11節「イエスの言葉『わたしはある』」

1、

今朝、このところで礼拝を捧げています、お一人お一人に主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。

先ほどお聞きした18章1節、これは今朝のみ言葉の最初のところですが、「裏切られ、逮捕される」という小見出しに続いて、次のように書かれています。

「こう話し終えるとイエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。」

「こう話し終えると」と言いますのは、その前の13章から続いていた最後の晩餐の場面、主イエス様の説教の後ということです。主イエス様は弟子たちの足を洗い、そして別れの説教、決別説教のすべての言葉をお語りになり、17章全体におよぶ「執り成しの祈り」、「大祭司の祈り」を祈られました。そして、いよいよ十字架への道を歩み始めるのです。今朝の場面はオリーブ山であります。

実は、このキドロンの谷の向こう側にあるオリーブ山のゲツセマネの園というところで、主イエス様は、ペトロとヨハネと共に徹夜の祈りなさるのです。しかしこのヨハネによる福音書は、その祈りのすべてを省いています。ほかの三つの福音書を見ますと、このゲツセマネの祈りの様子が詳しく書かれています。その徹夜祈祷会のさなかに、ローマ軍の兵士たちとユダヤ人の神殿警備隊が、突然姿を現わしたのが今朝の場面です。

「一隊の兵士」という言葉は、ローマ軍の編成では数千人から大隊と呼ばれる大きな軍隊の下にある500人以上の部隊を指す言葉だということです。12節には、千人隊長がその場にいたと記されていますから、これは間違いなく500人以上のローマ軍の部隊がここにやってきたと考えることが出来ます。ローマ軍は、ユダの国と都エルサレムの治安を守るために本国から派遣されています。ユダヤの最高法院を構成する祭司長やファリサイ派のユダヤ人たちは、このとき彼らの助けを求めたようであります。それほどに、主イエス様の力を恐れていたことが分かります。

「祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たち」といいますのは、ユダヤの律法評議会サンヘドリンの配下にある兵士たちのことです。主イエスを捕らえて裁判にかけるというサンヘドリンの決定を受けてやってきたのです。また他の福音書には多くの群衆もいたと書かれています。

このヨハネによる福音書18章の場面は、ヨハネによる福音書の中で最も劇的な場面だと思います。時は夜です。夜明け前の暗闇の中、手に手に松明を掲げ、ランプをもった大勢の一団がゲツセマネの園の中を進み、主イエス様と弟子たちの前に現われました。その一団は、大変物々しい様子であります。彼らは剣や棍棒で武装していたとほかの福音書には書かれています。しかし主イエス様は少しもひるむことなく堂々としておられます。

2節をお読みします。「イエスはご自分の身に起こることを何かも知っておられ、進み出て、「誰を捜しているのか」と言われた。」

このあと、ご自分が捕らえられ、裁判があり、そして十字架にかけられる、しかし死んでおよみがえりになる、そして神の子の救いが多くの人々に及び、教会が立てられる、ここまで主イエス様は知っておられたということではないでしょうか。主イエス様は、それらのことがすべて成し遂げられるためにご自分を捕らえに来た者たちの前に自ら進み出られます。他の福音書では、その間にイスカリオテのユダが主イエス様に近づき、「こんにちわ」と挨拶し接吻したとされますが、ヨハネはこのことを記しません。

今日のところで主イエス様がお語りなられた言葉は、多くありません。最初に、自ら前に進み出られて「誰を捜しているのか」と言われます。それに対して彼らが「ナザレのイエスだ」と答えるとこう短く答えられました。「わたしである」。

この問答は、再び繰り返されたことが7節に記録されています。「誰を捜しているのか」、これに対し兵士たちもう一度答えます。「ナザレのイエスだ」。

二回目の主イエス様のお答えが、8節に記されています。「わたしであると言ったではないか。わたしを捜しているなら、この人々は去らせなさい」

ここで主イエス様は、ご自分だけが捕らえられることをお望みになり、弟子たちを逃すようにと言われました。福音書記者ヨハネは、これは17章12節にある、主イエス様が父なる神に向かって祈られた言葉がその通りに実現するためであったと説明しています。これまで聖書は、旧約聖書の様々な預言書や詩編の言葉が、主イエス様において実現した、そのためにすべてが整えられたと記してきました。ここで初めて、それらの旧約聖書の神の言葉と同じように「主イエス様の言葉が実現するためであった」と記します。主イエス様の御言葉もまた、権威ある神の言葉、必ず実現する言葉であるのです。

しかし、ここで弟子たちの中で最も血気盛んなペトロが、持っていた剣を抜いて大祭司の手下を切りつけました。そこにいたのはマルコスという人で彼は耳を失ったと書かれています。ルカによる福音書によれば、主イエス様は直ちに彼の耳に触れてをその耳を癒してくださいました。

 マタイ26章56節、マルコ14章50節には、主イエス様が捕らえられた後、弟子たちは主イエス様を置いて自ら逃げ出したと書かれています。この人々を去らせよという主イエス様の言葉があったので、兵士たちはそれ以上弟子たちを追わなかったと考えられます。

 主イエス様は、弟子たちの自由と安全を求めると同時に、十字架にお架かりなるのはご自分お一人で十分であり、それがふさわしいことだと決めておられたからです。弟子たちの命は誰の命も身代わりにもなり得ないし、また弟子たちが守られなければ教会は立てられず、福音は宣べ伝えられることはないからです。

3、

 今朝の主イエス様の堂々としたお姿から、わたくしが思い浮かべますのは、1995年の3月、いまから29年近く前に行われたオウム真理教上九一色村の施設の強制捜査のことです。ここにおられる方の中には、テレビで教祖麻原逮捕に至る実際の有様を見られた方も多いと思います。あるいはそんなことは全く知らないという方もおられるでしょう。30年近く前のことです。あのとき、機動隊1000人、捜査員600名が一斉に施設に押し寄せました。そして大きな仏像の背後に隠されていたサリン製造設備が暴かれ、意識不明で寝かされていた何十人もの人々が助け出されました。そのとき教祖と呼ばれ、信者たちから神のように思われていた麻原という人は、屋根裏の隠し部屋の中でじっとうずくまっていたと言われます。危機が迫った時にこそ、その人の本当の姿が現れてしまいます。

 今朝のみ言葉の中はに、主イエス様の語られた「わたしである」という言葉が、ヨハネ自身の解説も含めて3度繰り返されています。ここでは「わたしである」という言葉が、特別に強調されていると考えなければなりません。

 6節には、この時、追ってのものたちは後ずさりして地に倒れたとあります。

 主イエス様が発せられました『わたしである』という一言を聞いて、この世の権力のしるしであるローマの兵隊たちやユダヤ人たちが地に倒れたのです。このことは何を表しているのでしょうか。それは神の御子が発せられた気迫に満ちた神の言葉、その権威、その力が、この世の力に打ち勝たれたことを示しています。

「わたしである」という主イエス様の言葉をそのまま発音しますと「エゴー・エイミー」という有名なギリシャ語であります。この言葉は、「わたしである、わたしだ」という意味だけでなく、実は「わたしはある」という意味でもあります。この「わたしはある」という訳がその通り出ている個所は、ヨハネによる福音書の8章であります。

 主イエス様が、かつてエルサレム神殿の中で大勢の人々を前に説教しているところにファリサイハ派の人々がやってきて、それを妨害しようとしたときのことです。主イエス様は彼らにこう言われました。

「「わたしはある」ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪の内に死ぬことになる」

これを聞いた彼らが「あなたは一体だれか」と尋ねますと、更にこうお答えになりました。「あなたたちは人の子をあげたときに、初めて「わたしはある」ということ、またわたしが自分勝手には何もせず、ただ父に教えられた通りに話していることが分かるだろう」

 このあといくつかの問答があって、最終的にユダヤ人たちは主イエス様を石打の刑にしようとしますが、主イエス様は、このとき素早く身を隠されて神殿から出てゆかれたと書かれています。

「わたしはある」、「エゴー・エイミー」という言葉をこのような場面で主イエス様から聞いたときに、ファリサイ派の人々がすぐに思い浮かべたことは、旧約聖書出エジプト記3章です。モーセが神様からイスラエル解放の召しを受けたときの聖書の御言葉です。「燃える柴」と言われる有名な場面です。

神様はモーセに現れて下さり、あなたはエジプトの奴隷状態からイスラエル民族を救うために行きなさいと命じられました。そのときモーセは、神様に願い求めるんですね。「あなたの名前を教えて下さい。」そのとき神様は、モーセにこうお答えになりました。「わたしはある、わたしはあるというものだ」

 この「わたしはある」というヘブライ語の発音から「ヤワウェー」という神様の名を示す神聖四文字が生まれたと言われています。神様がモーセに与えて下さった、この「わたしはある」という御言葉が70人訳ギリシャ語聖書では「エゴー・エイミー」と訳されているのです。

 レオン・モリスという聖書注解者は、数百人の兵士たちを従えてじりじりと主イエス様と弟子たちに迫っていた人々が、主イエス様が近寄りがたい威厳をもって、急に前に進み出て、そして「わたしである」と名乗りを上げられたので、彼らは驚き、とっさに退いて後ろに転んだのではないかと書いています。

 しかし、それ以上のことがここでは起きているに違いないのです。それは神の御言葉、それも主イエス様の口から出た神のご存在を表す御言葉の力です。

 「わたしはある」「エゴー・エイミー」「ヤワウェー」という、この神聖な聖なる神の御名が、主イエス様の口から発せられたとき、神の霊の力が確かに働き、世の権力者たちは地に打ち倒されたのです。

4,

このとき主イエス様は、「わたしは逃げも隠れもしない、だから弟子たちをここから去らせなさい、彼らを捕らえてはならない」と言われました。それはかつて主イエス様が、17章の大祭司の祈りの中で告白された神様のご計画が実現するためだとヨハネは言います。「あなたが与えて下さった人を、わたしは誰一人失いませんでした」

主イエス様は大祭司の祈りの中で、11人の弟子たちについては「わたしが保護したので、滅びの子のほかは誰も滅びませんでした」と告白し、また後の世の信者たちについては「父よ、わたしに与えて下さった人々をわたしと共におらせてください。」あるいは、別の訳では「わたしと共にいるように必ずいたします」と祈っています。

 主イエス様は、剣を振り回して、一人敵たちに立ち向かったペトロを叱るようにしてこう制止します。「剣をさやに収めなさい。」そして、他の福音書では必ず記されていたゲツセマネの祈りの言葉を重ねるようにして、こう続けられます。「父がお与えになった杯は飲むべきではないか」

主イエスは、敵が来るまでの間、ゲツセマネの園で、徹夜の祈りをなさいました。「できることならこの盃を取りのけてください」と初めに祈り、しかしついには「しかしわたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈りを閉じておられました。

 父の与える杯とは、ここでは十字架の苦難のことです。主イエス様は、神の子だから十字架にかかっても少しも苦しくないということは決してありません。主イエス様は人間として世にお生まれになり、わたしたちと同じ肉体、感覚をもっておられますので、同じように苦しいのです。しかし、その神が用意されている杯は飲むべきである、飲まなければならないと、すでに心に定め、すべてを父なる神におゆだねして平安を得ておられたのです。

 主イエス様は、ここでは心も体も、堂々としたお姿で、ローマ軍とユダヤ人たちに自らをゆだねられました。神の御言葉の力により、あるいは聖なる神の御子が持つ神の力によって、兵士たちを一度に地に倒れさすほどのお方が、ここでは、みずからすすんで十字架へと向かわれたのです。

 このような力あるお方、そしてわたしたちのことを心配し心にかけて救って下さり守ってくださるお方が、わたしたちの救い主であり、わたしたちの主であることは何と心強いことでしょうか。

 新しい年が始まり二週目の時を歩もうとしています。今朝、もう一度、主イエス様の恵みと力を覚えたいと願います。祈りを致します。

祈り

天におられる父なる神、御名を崇めます。主イエス様は、キドロンの谷の向こうの園、ゲツセマネにおいて祭司長たちファリサイ派の配下の兵士や群衆、そしてローマ軍の一個大隊に取り囲まれる中、堂々とご自分を差し出されました。わたしたちを愛し、ご自身が世界の救いの源、となるために初めから約束されていたすべてのことが実現するためでありました。主イエス様を頭とする教会が、今年一年、すべての民の福福の源となるために、主イエス・キリストの福音に生き、神を愛し、隣人を愛して福音を宣べ伝えて行くことが出来ますよう、どうか導いてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。