2024年01月07日「こうして光があった」

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聖書の言葉

創世記 1章1節~5節

メッセージ

2024年1月7日(日)熊本伝道所朝拝説教 新年礼拝

創世記1章1節~5節「こうして光があった」

1、

明けましておめでとうございます。新しい年が明けてすでに七日間が経とうとしておりますので、この挨拶は遅きに失した気もいたします。けれども、新年最初の礼拝でありますので、まずこのようにご挨拶を致しました。新しい年もお一人お一人の上に神様の恵みがゆたかにありますように、主の御名によってお祈ります。アーメン。

新年早々に能登半島、北陸地方で大きな地震が起きました。また羽田空港では飛行機の事故が起きたニュースもあり、驚きや痛みを覚えたり、また心がざわつく年の初めであったと思います。地震や津波の被害を受けて避難生活を送っておられる方は3万人以上にのぼるということです。救援活動についている方も大勢おられると思います。神様の守りがと支えがありますようお祈りします。

今朝の礼拝では、続けて聞き続けていますヨハネによる福音書を離れまして、特別に旧約聖書の最初のところ、創世記1章1節から5節のみ言葉に聴きたいと思います。昨年の新年礼拝は一月一日でしたが、この日は恵みによって日曜日でもあったのですけれども、わたしたちは旧約聖書、詩編第1篇の御言葉に耳を傾けました。今年は創世記の1章1節から5節の御言葉を選びました。

一年のはじめに、聖書の最初の御言葉を聞くことは意義深いことであると思います。わたしたちもまた新しい年を始めようとしているからです。先ほどお読みしました創世記1章1節の冒頭の言葉は「はじめに」であります。元のヘブライ語では「ベレーシート」です。実は、旧約聖書の原典のヘブライ語の言葉も、この御言葉から始まっています。「はじめに」!。実は、この「ベレーシート」という言葉は、旧約聖書の最初の巻、日本語では創世記と呼びますが、その書物の名前ともなっています。

英語では、創世記を「ジェネシス」と呼びます。これは古代カトリックのラテン語訳聖書が70人訳ギリシャ語旧約聖書を参考にしたことに由来します。70人訳の創世記の書名は、ギリシャ語のゲネシス、起源、始まりです。その言葉をそのまま英語読みしたものです。

さて、わたしたちは、年の初めの挨拶に、「明けましておめでとう」あるいは「ハッピー・ニュー・イヤー」と挨拶を交わします。これには新しい年が良い一年となるようにという願いが込められています。人によって実に色々な願いが込められていると思います。ある人は、世界の平和のことや災害にあった地域のことを考えているかも知れません。ある人は、今年一年間のご自分の生活、暮らしのことを心に覚えているかも知れません。別の人は、すでに始まっている職場で仕事のこと、あのこと、このこと、その成り行きのことを考えているでしょう。またある方は、これから始まる家族の新しい経験を案じているかも知れません。それが良いものであるようにということです。この世界のあらゆる好ましくないことやその予感に取り囲まれているからこそ、わたしたちは年の初めにこう言うのだと思います。「あけましておめでとう」、「ハッピー・ニュー・イヤー」。それらが良いものであるように。

今朝の御言葉の4節にこう書かれています。「神は光を見て良しとされた」、この「良しとされた」あるいは、別の翻訳では「良しと見られた」という言葉ですが、このあと10節と12節、18節、21節、25節と天地創造の一日ごとに繰り返されています。そして最後の第6の日では「見よ、それは極めて良かった」と言う言葉で閉じられるのです。

神さまが「良しとされた」、それは、神様が、年の初めに、わたしたが案じている様々なことについて良しとされたというのではありません。それはただ一つのことで、神さまが天地万物、この世界をおつくりなり、それを始めくださったこと、その世界についてです。神様は、この世界を良いものとしてお造りになり、始めてくださった、それを祝福なさったのです。

2,

 「はじめに」と書かれています。それは本当に「はじめ」のことでした。ここから世界は存在するようになりました。元来神様というご存在には、初めというものはありません。また終わりということもありません。世界が存在しようと、あるいはこの世界が存在しないとしても神さまはおられるのです。永遠から永遠におられます。

そしてこの「はじめに」の以前には、神様以外のものはありません。誰もいないし、何もなかったのです。神様の上にも下に、隣りにも何もない、ただお一人の神様がおられました。その神様が、言葉を発せられました。そして世界が始まりました。

ヘブライ人への手紙11章3節にこう書かれています。「信仰によって、わたしたちはこの世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものから出来たのではないことが分かるのです」。

また、ヨハネによる福音書1章1節から3節には、こうあります。

「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この言葉は、初めに神と共にあった。万物は言葉によって成った。成ったもので言葉によらずになったものは何一つなかった。」

天地の創られる前、神のみ許には、永遠の神の御子、イエス・キリストだけがおられました。コロサイの信徒への手紙1章16節にはこう記されています。

「万物は御子によって、御子のために造られました」

父と子である神様が、世界をお造りになろうと決心され、そして実際に天地は創造されました。そのとき、最初に発せられた言葉は、「光あれ」、という言葉でした。そして、光があり、また昼と夜が出来、空と大地が生まれました。さらにあらゆる生き物、植物や魚や獣、そして最後に人間が造られる、それは全て、神の言葉によっています。

神の言葉、すなわち神様のご意思を示し、現わしているもの、それがここでは、言葉と呼ばれています。それは御子、イエス・キリストであることは旧新約聖書全体を読むことによって明確になるのです。

さらに1節の後半には「神の霊」がそこにあったと記されています。神の霊、聖霊が水のおもてを動いていたのです。父、子、聖霊の「三つであるけれども一人のお方」によって世界は造られました。

 天地という言葉は、当時の使い方では、ただ、空と地面を意味しているのではありませんでした。そうではなくて、あらゆるもの、神羅万象、天体、その奥にあるもの、ミクロの世界の微生物や、さらに大きな生物、そして人間、それらのすべてを含むものです。

三位一体の神が、この目に見える世界をお造りになり、始めてくださった。それは極めて良いものであった。新しい年の初めに、わたしたちはこのことを確認したいのです。今朝わたしたちはその意味で、おめでとうございます。ハッピー・ニュー・イヤー、と挨拶を交わしたいのです。

3,

 ずいぶん前になりますけれども、ある会議がありそこでパネルディスカッションがありました。パネラーの方は皆、キリスト者であったのですが、ひとりの方が、自分は、創世記1章1節の御言葉を聞いたときに、神さまを信じるようになったと言われました。「はじめに神は天地を創造された。」この言葉を聞いたとき電流が走るように心に突き刺さったというのです。

ああ、そうだったのか。この世界の成り立ち、意味が初めて分かったのだ、自分は神様を信じてきて行こうと思ったと言われました。けれどもその後、こう言われました。「でもそれだけではまだ半分でした。」

つまり、キリスト教の信仰が、ユダヤ教やイスラム教と決定的に違うところがあるということです。ただ神様による天地の創造を受け入れるということならば、ユダヤ教やイスラム教と「変わりがなくなってしまいます。聖書が現わにしていることは、その良い世界に罪が入り込み、人は堕落し、世界はうめきと嘆きに覆われるようなったことの認識です。その失望と悲惨とを解決し、人と世界を救ってくださるお方として、イエス・キリストとその御業を知ることなのです。

今わたしたちは創世記の1章のみ言葉を聴いています。ここからすべてが始まるのですけれども、創世記には2章があり3章があるということです。人間は、神様に従順に従い、神を神とし、人が神様のもとで人として生きることから、外れてしまったのです。神様が祝福された世界に暗黒が入り込み、人は愛を失い、罪の贖いを求められているのに罪を認識しない、人は神を認めないものとなり、自分で勝手に作った神を拝みだしました。その世界を救い主によって神様もう一度、良いものとしてくださったのです。

天地創造の一日目に神様は、光をお造りになりました。その光をご自身に従わせて、この世界に昼があり、夜があるようにされました。この光は太陽から発せられる光ではなく、ただ神から出る光、神の光です。この光によって闇を制御してくださいました。

太陽と月と星が造られるのは第四日目のことです。水の生き物と空に生き物は5日目、そして6日目に地上の生き物と人間がつくられました。そのいきさつを辿るなら、まず光と闇、次に空と海と地、そして、そこに生え出る植物という舞台がまず造られたのちに、空には天体と鳥、海には魚、そして地上に動物と人間とを置いてくださったのです。

注目しなければならないことは、四日目の14節に「定められた時々のために、太陽と月とを日と年を」とあることです。つまりそれらは時間を司るために造られたことです。そこから時間が動き始め、歴史が刻まれるようになりました。

空間を超えておられる方が空間を創り、時間を超えて存在される方が、この世界に時間をつくってくださいました。進化論と創造論の対立であるとか、科学と宗教の戦いといったことが良く言われますけれども、両者の関係をそのように理解することは18世紀、19世紀の問題の捉え方であると言わなければならにと思います。現代の科学、特に天文学あるいは宇宙物理学、また量子力学をふくめて、科学が取りあつかっているのは、時間と空間、そしてそれらと物質との関係です。あるいはそれらと人間を含む生物との関係です。神は、はじめに時間と空間、そして物質をつくってくださいました。そしてそこに人間を存在させてくださいました。およそ科学は、あらゆる存在の現象、それが一体何かということを対象とし、それを追求します。

一方で、聖書の啓示が対象とすることは、あらゆる存在の根源的な意味と目的であり、それを明らかにすることです。さらに言えば、人と世界が初めに造られた時の神の祝福を回復する道、救いの道、イエス・キリストの救済を示すことなのです。どちらもなくてはならないものなのです。

4,

 創造された、と訳されている言葉には、特別なヘブライ語が用いられています。バーラーという動詞ですけれども、造るという意味です。この言葉は、聖書では神様を主語としてのみ使われています。そしてそれは、新しいものを造る、創造するという意味で用いられます。何かすでにある材料を組み合わせて作るのではなく、ない所から物事を生じさせるという意味があります。無からの創造です。

 そうだとすると、2節の原初の状況の描かれている個所に「混沌」と「深淵」という言葉があることが気になって来るかも知れません。神様が、光あれと言葉を発せられる前に、混沌であると深淵とかいうものが存在したかのように読めるからです。実は、ここの翻訳には長年の議論が神学者たちによって続けられています。特に前半部の「トーフー」うつろな荒れ地、「バー」接続詞そして、「ボーフー」何もない、というヘブライ語の解釈です。

新改訳聖書は、「地は茫漠として何もなく、闇が大水のおもての面にあり」と訳しています。英語聖書のニューインターナショナルバイブルNIVは、「formless and empty, darkness was over the surface of the deep」です。フランシスコ会訳聖書は「地はむなしく何もなかった。闇が深淵の上にあり」と訳します。この新共同訳だけが、混沌と訳していることが分かります。「形がない」という意味では混沌は、当てはまりますけれども、やはりここでは、何もないということが正しい解釈ではないかと思います。

神様の天地創造は、その始まりはよく分からないけれども、既に存在している混沌、無秩序に形を与え秩序を回復するといったものではなくて、全くの無からの創造、ただ神様の愛とご意志によってこの世界を良いものとして造ってくださったものです。わたしたちは、そこに力ある全能の神、無から有を生み出してくださる方、愛である神の姿を見ることが出来ます。

よきものとして造られた世界は、罪を犯す可能性もある自由な意思を与えられた最初の人アダムとその伴侶のエバの背きによって暗転してしまうことになります。その後、あまりに罪が増大しまん延したことをご覧になり、神様はノアの洪水によってそれを滅ぼしてしまわれようとなさいますが、信仰者であるノアとその家族を箱舟によって残し、再び世界を回復させてくださいました。それは創世記の6章から9章に記されていることです。洪水の水は引きましたが、罪の問題はまだ解決されていません。罪の解決は、時満ちて遣わされた神の御子、救い主によってなされました。クリスマスにイエス・キリストがお生まれになり、そしてイエス・キリストはポンテオピラトのもとで十字架にお架かりになりました。

 主イエス様は、イースターにおよみがえりになります。聖書はおよみがえりになった主イエス様を新しい命、永遠の命の初穂、と呼びます。初めて出る穂であり、その後次々と穂が出てくる存在と語ります。そして復活の主イエス様と聖霊によって新約の教会が生まれ出てくるのです。

トーランスというスコットランドの神学者は、主イエス様の復活こそ、最初の天地創造に匹敵する新しい創造のはじまりだと言っています。あの天地創造の時の神様の力、エネルギー、新しいことのはじまりが、復活した主イエス様に再び現れているというのです。そう考えますと、イエス・キリストを頭としているキリストの教会には、いつも新しい創造がある、新しい天と地、世界がそこから始まると言って良いのだと思います。

新しい年、お一人お一人の歩み、この困難に満ちた世界の歩みの上に、新しいことが起こされる、そのことを覚えます。主の豊かな恵みがありますように、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。